編集・発行 和歌山寺子屋
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をおそれない人々のみが、その輝く頂上に立つ幸せをもつのです。
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経済学の部屋・和歌山寺子屋(実験中)

       
         「労働強化による剰余価値生産は絶対的?相対的?」
不破さんは、さらっとふれた

         労働強化による剰余価値生産は絶対的?相対的?
労働間題研究者 下山房雄

         下山先生から反論をいただいて恐縮(1999年6月)
         絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第一部)通説への疑問
1998年5月26日新規掲載

         絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第二部)先行する諸説の検討
1998年5月26日新規掲載

         絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第三部)頂いたご意見を参考にした自己点検
1998年5月30日新規掲載
         労働力の価値分割(牧野氏の論文への疑問)
1998年6月7日新規掲載

なんでもの部屋
寺子屋・哲学部

(98年6月15日)

中江兆民論

部落問題分室

書評と学習(1998,7,4一部追加)


リンク


 



「労働強化による剰余絶対的?相対的?」
不破さんは、さらっとふれた

  松野君が「科学的社会主義を学ぶ」(不破哲三)をもってきた。
 「不破さんも、労働強化を絶対的剰余価値の生産に入れてますよ。論争決着といきます
か?」
  「バカ言え。不破さんが一言いったら論争決着なんて、ぼくは嫌いだ」といいながら、
多少、わくわくしてお金を払って、不破さんの本を読んだ。(P102)
  山下先生までまきこんだ論争に「不破さんが決着」などいわれては、不破さんも迷惑だ
ろう。不破さんの記述は、そういう論争にまで立ち入ったものではない。ただ、不破さん
が解説しているのは、労働組合運動にたずさわる者にとってきわめて分かりやすいことで
ある。わたしの労働学校での解説とまったく一致している。
  資本論の解釈学者の論争にまで、不破さんも踏み込む気はなかろう。ただ、学習協の教
科書などは、不破さんの解説を採用したらいいと思った。
                                                                雑賀光夫
(2001年3月24日)

経済原論論争六題
労働強化による剰余価値生産は絶対的?相対的?
当研究所理事・労働間題研究者下山房雄

 資本論1巻3篇のタイトルは「絶対的剰余価値の生産」であるが、この3篇の中では
どこにも絶対的剰余価値とは?といった定義的規定は与えられていない。それは4篇
「相対的剰価値の生産」の最初の章、「第10章相対的剰余価値の概念」の中で与え
られる。こうである(は私のもの)−「労働日の延長によって生産される剰余価値
を、私は絶対的剰金価値と名づける。これにたいして、剰余価値が、必要労働時間
の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分の大きさの割合における変化から
生じる場合、これを、私は相対的剰価価値と名づける。」この「私は〜と名づけ
る」という表現が面白い。事実、利潤のもとの形ともいうべき剰余価値の増大方法
にはいくつかの形があり、それらをどう類型化するかについては別の名づけ方もあ
り得る。基礎的定義を変えることで幾通りもの数学の体系が構築されるように、マ
ルクスとは違った定義に拠って経済学の体系を構築してはならないといきなり決つ
けるのはまずい。しかし「まあ、好きにすれば」と流してしまってもいけないと思
う。どちらの体系が歴史的存在としての資本主義の解剖に適切であり、その展開の
描写に相応しいかということについて、立場を確定する必要がある。サービス労働
が価値を生むかの議論もこういう形で決着したいと私は考えているが、余命幾ばく
も無い私にそれができるかどうか。ここでは剰余価値生産にかかわるもっと簡単な
問題を取り上げたい。
 本稿で問題にしたいのは、マルクスとは違って、労働強化を絶対的剰余価値と定
義する見解あるいは学説である。つまり、労働強化は労働時間延長と同じく、労働
支出量の増大であるから、絶対的剰余価値生産だというのである。この学説には、
一般的に労働強化は絶対的剰余価値生産と主張するものと、個別的な労働強化は絶
対的剰余生産であり、その労働強化が社会的に普及し高い労働強度が標準化すると
相対的剰余価値生産だとするものがある。後者は、時間延長の場合、個別的であれ
社会的であれ絶対的剰余価値生産であることを考えると、論理不整合であるが、こ
の異説の方が前者のそれよりも強く存在している感じだ(宮川実記『学習版資本
論』12巻147頁参照。因みに私の持つこの本は宮川先生に頂いた物)。
 さて、まず労働強化を絶対的の方に入れる学説がマルクスと違うことを確認しお
こう。
 労働日一定、必要労働時間短縮という上掲の定義からすれば、賃金相当の価値を
生産する必要労働時間が短縮される労働強化が、個別的であれ、社会的であれ、相
対的剰余価値生産の‘方に属づ‐るのは明白である。ただ言えるのは、他の相対剰
余価値生産の場合(個別的・社合的生産力増大、賃金切り下げ)と比べて、労働支
出量の増大という点で、絶対的剰余価値生産と共通の性格を持つという独自性があ
ることのみである。
加えて、3鴛ではなくて4篇相対的剰余価値生産の中にある「労働の強化」の項を参
照すべきである。そこでは、時間延長と労働強化が相互に排除しあう「結節点」の
発生との関連で労働目の強制的短縮が労働強化の強制をもたらすことを論じ、それ
を「相対的剰余価値生産の性格に一つの変化が現われる」と表現しているのである。
相対的剰余価値生産の別類型として労働強化を位置づけていることは、明らかでは
ないか。
 ところで科学としては『資本論』の文言との一致・不一致よりも、事実照応性と
論理整合性それ自体による吟味が勝負ところだ。すると例えば、労働強化を絶対的
剰余価値生産として、3篇の中で展開することが果たして適切なのか。「結節点」に
おける時間延長と労働強化の対立という事実を解剖するのに、両者を同じ概念のも
とに含めてよいのか。そして、資本主義の長期的歴史傾向として、時短つまり自由
時間の拡大と時間当たりでの労働凝縮度の高まり、別言すれば人間の生活が労働と
余暇の2次元において人格実現度を高めていく、こういう「文明化」がジグザグの闘
争あるいは曲折を経ながら進んできていることを考慮すれば、両者は別の概念のも
とに置くのが、歴史科学あるいは経験科学の方法に合っている。
 ところで、私が横浜国大経営学部夜間教員の職にあった1970年代前後の20年のあ
らかたは、神奈川労働者学習協会会長の任にあった年々でもあった。当時同協会事
務局長の新谷さんは今も事務局長として奮闘だが、昨年令ごろ彼から「(和歌山学
習協・月刊機関誌)和歌山学習新聞で先生が批判されてますよ」と渡されたのが、
雑賀光夫氏の論文「「絶対的および相対的剰余価値の生産」と「労働強化」」
(『和歌山学習新聞』170号98年l月刊)であった。
 この論文は、相対的剰余価値生産を社会的生産力増大による労働力商品価値低下
にのみ限定し個別的労働強化を絶対的剰余価値とするものだ。そこでは、私の「現
代資本主義と剰余価値論」(新日本出版社1991年刊『現代資本主義と「資本論」』
所収)が他の6文献と並べてとりあげられ「アット息を飲まされる思いがする」「メ
チヤメチヤだと言いたい」と言われている。『わかやま学習新聞173号』掲載の雑賀
論文・続では「一番ボロクソにけなした所説」とも言われている。私が「賃金切り
下げ一実質賃金の低下」を相対的剰余価値の第一に挙げたことを「「賃金の価値以
下への切り下げ」という具体的な賃金レベルの論議が持ち込まれる」として激しく
批判するのだ。だが私は、賃金下方硬直性といったケインズ的命題が無効化した現
代の問題として、さらには労働力価格低下→生活水準低下・多就業化→労働力価値
低下・分割といった因果を原理論レベルで重視する私の持論かららしても、「賃下
げを相対的剰余価値の一類型に明示的に挙げたのである。賃下げによる剰余価値生
産をいかなる概念でとらえるのか、第三のカテゴリーを作るのか、雑賀さんに逆に
間きたい。
 「肝心な点は何か一理論の核心」として、雑賀さんが説くことを聞こう一「「絶
対的および相対的剰余価値の生産」の理解で、肝心な点は、「絶対的剰余価値の生
産」は、労働者と個々の資本家との間での関係であるのに対して、「相対的剰余価
値生産」は、社会全体の生産力にかかわった問題だという事である。」一おかしな
「理論の核心」だ。裁量制が国法で容認され、女性を含むホワイトカラーのもとで
社会的一般的に時間延長がみられようとする今日において、絶対的剰余価値生産は
個々の労資関係の問題に限るとするのか。また、前掲『資本論l巻』10章が「この場
合でさえも、剰余価値の生産の増大は、必要労働時間の短縮とこれに対応する剰余
労働の延長から生ずる」「彼は、資本が相対的剰余価値生産にさいして一般的に行
う事を、個別的に行う」と論じている特別剰余価値生産を、相対的剰余価値から外
していかなる剰余価値概念のもとに置くのだろうか。因みに、私の上掲論文でこれ
を相対的剰余価値の第4の類型としているのに、雑賀論文での私の展開紹介では無視。
 雑賀さんのいう「理論の核心」は、どうも故宮川先生の個別的労働強化一絶対的
剰余価値、一般的労働強化一相対的剰余価値との学説(一雑賀さんは「明快」「異
論はない」と高く評価)をさらに不当に拡大して、個別的時間延長一絶対的剰余価
値、個別的生産力革新一無視と定式化したように思えるのだがどうだろう。雑賀さ
んは、宮川先生の理解と同じなので、論争は宮川先生とやってくれと結論的に述べ
るのだが、故人と論争はできない1(99103131)

下山先生から反論をいただいて恐縮

  最近、多少ストレスもたまっていたので、いくつかの「言いたい放題」を書いた。
松野君にみつかって「学習新聞」の刺身のツマにつかっていただいたものもあるし、
フロッピーにはいっているものも、自分のホームページに載せたものもある。

一、不破さんが、「唯物論と経験批判論」に「もやもや」をもっていて、エンゲル
スと突き合わせながら、レーニンのその時点での限界を論じた論文が雑誌「経済」
にのった。そのとき山口某氏が、不破さんと「赤旗」紙上で対談して、不破さんの
到達点を絶賛した。私も、「唯物論と経験批判論」に一定の「もやもや」をもって
いる人間である。もっていた「もやもや」は「真理論」をめぐってのものなので、
不破さんとはちがった。しかし、不破さんの提起は、説得的なものだと評価してい
る。

 ところで、「山口某さんのような理論活動でメシをくっている人間が、不破さん
の提起を手放しで絶賛していいのか」という疑問を私は持った。山口さんも「唯物
論と経験批判論」の講義をしたこともあっただろう。山口さんなりの「もやもや」
があったのかなかったのか。自己点検を抜きにして、不破さんを絶賛してもらって
は困ると私は思った。
  この論題は、私を、「全般的危機論」についての私の個人的思い出にまで引き戻
す。あの問題(日本共産党としては「全般的危機」という規定を採用しない)をめ
ぐっての不破さんの説得的な論文を読んだとき、私は自分が恥ずかしかった。私は、
大学で「世界経済論」の松井清先生のゼミにいて、「全般的危機の第三段階という
規定は正当か」という論議をしていた。岡倉古史郎先生を「河上祭」の講演にお呼
びした際、実行委員長であったのでお二人になる機会があり、先生のご意見をお聞
きしたことさえある。「第二段階のなかの区分というべきだ」というのが、岡倉先
生、松井先生やそのゼミ生をふくめて共通の認識になっていた。ところが、不破さ
んの「全般的危機」という規定そのものを否定する論文である。しかも、その論文
が、反論の余地がないほど説得的なのであった。

 私は、上田耕一郎が絶版にした「戦後革命論争史」の「はしがき」で、フルシチ
ョフのスターリン批判の「秘密報告」を「読み通すのに苦痛を覚えた」と語ったこ
とを思い起こしながら、大学ではこの問題をテーマにしながら根本的な疑問をもて
なかった自分を責めたのであった。


*  「この書は、ある意味ではフルシチョフのいわゆる『秘密報告』によるスター
リン批判からうけた大きな衝撃の結果として生まれたものである。ほとんど読み通
すのに困難を覚えたほどのあの文章によって与えられた苦痛を、私は一生忘れるこ
とができないであろう。その苦痛は、私たちが過去を見直すことを強いる。すべて
のマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、全くまちがっていることがあ
り得ることを苦渋とともに悟らされた以上、………」(「戦後革命論争史」上P
1)

* おなじような思いをもったのが、「宮本顕治文芸評論選集・第一巻あとがき」
である。学生時代に「第二巻」が出版され、むさぼるように読んだ「統一戦線とイ
ンテリゲンチャ」などに続く「選集」は、三、四巻の出版から大きく遅れて、「第
一巻」が出された。宮本氏自身が、「自分で読んでも苦痛である」という弱点を持
った論文もふくめ、しかも、その弱点が「組織の方針に心ならずも拘束されたとい
うようなことでなく、私自身がそれを正しいと考え、それに忠実であろうとしての
努力の結果だった。」(「あとがき」)とまで書いているのは、きわめて真摯な態
度である。
  ところで、この「あとがき」をうけて佐藤静夫、津田孝など民主文学の第一線の
人たちが、「民主文学」だったか「文化評論」だったかで絶賛したものを読んだと
き、へそまがりの私は「まてよ。この人たちは、画期的だと絶賛するが、文芸評論
で飯を食っているものが、政治活動でいそがしい宮本顕治に先を越されてはずかし
くないのだろうか」という疑問を持った。

 「宮本さんも佐藤さんにでもサゼッションをして、佐藤さんに花を持たせる論文
を書かせてあげればいいのに」とまで思ったが、それはどうでもいい。私がいいた
いのは、宮本さんや不破さんがいかに立派でも、取り巻く人たちが「そうだ、そう
だ」と言っているのでは困ると思うのである。

  だから私は、間違った問題提起はしてもいいが、通説に疑問を持たずに通説がひ
っくり返されてから「そうだ、そうだ」というのは、恥だとおもっている。へたを
すれば、民主主義の蹂躙をおこしかねない無責任な態度だと思っている。そういう
意味で福沢諭吉の「文明論の概略」から「焚書」について紹介しておいた。(「学
習新聞」にのせたっけ?私のホームページには入っている)

 ただし、その程度での問題提起だから、批判された場合は、自説に固執しない。
「私は運動家であって、原理的な理論問題は余技なのだから」という弁解まで用意
している。

二、山口某さんへの批判は、めだったところではしていないので反響はない。牧野
某さんという、労働組合運動で売れっ子の方への批判を「学習新聞」に書いた。
「労働力の価値分割」をめぐっての批判だった。私の論考につねに厳しい批判をい
ただく打田町のご隠居は、めずらしくこの問題で電話で話したとき、ご理解いただ
けそうな論評をいただいた。牧野某氏には伝わっていないのか、反応はない。

 今一つの「言いたい放題」が「絶対的および相対的剰余価値」の問題だった。
「前衛」紙上での「不破・吉井対談」の吉井さんの「学習協通説」(「労働強化」
を「相対的剰余価値の生産」とみる見解)に、私は自分の感想を書いておいた。そ
れを松野くんに見せたところ、おだてられて「学習新聞」にのせられてしまった。


1 私の見解として、個々の企業での労働強化は「絶対的剰余価値の生産」と理解
すべきであると述べた。
2 自分が持っている本や松野さんが紹介してくれたさまざまな見解を、私なりの
観点から切りまくった。そのなかで「賃金の価値以下への切り下げ」を「相対的剰
余価値の生産」として論じる下山先生の所説を批判した。(宮川実先生と松野さん
が探してくれた「講座」の海道先生の所説は、私の意見と同じ)
3 ただ、打田町のご隠居さんの出してきた論点のうち、一つの論点については私
の資本論理解の再検討をせまる論点を含んでいたので、「私もマルクスが矛盾した
ことを言っていると言い放つ自信はありません」といって自己点検をすることを表
明した。(山下さんは、その「表明」が目に入らなかったのか、その箇所を示して、
私に反論しておられる。)
4 最後に、理論活動は私にとって余技にすぎないから
  「私の「理解」は、宮川実先生の理解と何の違いもありません。雑賀という物好
きがなにかほざいているということでなく、宮川先生の解説と学習協教科書が同じ
なのか違うのかという論争として発展させていただければ、私は論争の当事者でな
く、高見の見物を出来ることになるので大変うれしいという無責任なことを考える
今日このごろです。
  子どもの中に、知らない家の「呼び鈴」をおして逃げるというイタズラがはやっ
たことがあります。宮川先生と海道さんに責任を押しつけて逃げ出すなんて、イタ
ズラ小僧みたいですねえ。」という無責任なことを書いておいた。


四、このたび、私の余技のような論考に、まじめなご返事をいただけたことを心か
ら感謝したい。相手が子どものようなものであろうとも、批判には真剣こたえると
いうのが、多少とも理論に携わるものにとってはまじめな態度だからである。その
相手の下山房雄先生というのは、最近、下関市立大学に学長としてお移りになり、
大学としてはめずらしく「日の丸」「君が代」で卒業式をすることに疑問を呈され、
「赤旗」に紹介された先生である。このまじめな姿勢が、私へのお答えを下さるま
じめさとかさなっているとみて、重ねて敬意を表したい。


五、肝心な点が抜けている。下山先生の反批判にどう応えるのかということだ。そ
れは少し待ってほしい。相手が大物すぎる。下山先生も、わたしのHPをゆっくり
お読みいただいて、私が何をいいたいのか、読みとって頂きたいということもある。
 ただ、私の反批判ができないから下山先生の私への反論を「和歌山学習新聞」に
掲載するのは待って欲しいというのは、フェアーでないので、大先生が私を批判し
た文が、「和歌山学習新聞」の読者の目にとまるようにしていただいたらいいと思
う。
                           1999年6月 記

研究と討論
絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第一部)
学習協通説への疑問
1998年8月14日
雑賀光夫・和歌山県学習協副会長



1、吉井さんと不破さんの「エンゲルスと『資本論』」をめぐる座談会を楽しく読ませて
いただいた。むずかしくてわからないところは斜め読みにしながらである。読んでいてひ
っかったのは、「絶対的剰余価値と相対的剰余価値」に吉井さんがふれた部分である。

(1)労働時間の延長…………絶対的剰余価植の生産
(2)生産性向上による必要労働部分の価値の低下…………相対的剰余価値の生産
(3)労働強化…………これも柏対的剰余価値の生産

2、私は、労働時間を「必要労働時間4時間、剰余労働時間4時間」の線分で表現しなが
ら、「8時間を超えて労働時間が延長されるのが絶対的剰余価値の生産」・「生産力の発展
で生活資料の価値が半分に低下すれば労働力の再生産に必要な労働時間は2時間に低下す
るから、剰余労働時間が4時問から6時問にふえる、これが相対的剰奈価値の生産」・「労
働強化というのは、線分で表せぱ相対的剰余価値の生産と同じに見えるが、同じ八時間か
ら多くの労働を引き出しているのだから、実質的には絶対的剰余価値の生産だ。」と説明
してきていた。

 │              │              │
 ├───┼───┼───┼───┼
 │ 必要労働4   │ 剰余労働4   │

@労働時間の延長…………絶対的剰余価値の生産
 │              │                              │
 ├───┼───┼───┼───┼───┼───┤
 │ 必要労働4   │   剰余労働4 プラス 4     │



A生産力の発展…………相対的剰余価値の生産
 │      │                      │
 ├───┼───┼───┼───┼
 │ 必要 │     剰余労働6       │
    労働2
B労働強化…………実質的には絶対的剰余価値の生産
 │      │                      │
 ├───┼───┼───┼───┼
 │ 必要 │     剰余労働6       │
    労働2

3、吉井さんが、私の理解と違った説明をするところをみると、吉井さんのその見解が「学
習協」の統一見解なのだろうか。
 「基礎コース95」(P238)にていねいな説明がある。
「(労働強化を)絶対的剰余価値の生産だと主張する人々は、労働強度をつよめることは
労働時間を延長したことと同じ結果だというわけです。しかし、労働強度の増大は、単に
剰余労働時間だけを延長するのでなく、まえにあきらかにしているように、必要労働時間
が2時間から1時間に短縮されることになり、それだけ剰余労働時間が増大することにな
ります。このように、この方法は柏対的剰余価値の生産に柏当し、そのための特殊な方法
だというべきでしょう。」
 はじめの2行で、私と同じ見解が紹介されていることはよくわかる。まともにその疑間
を取り上げてくれているので「ていねいな」と敬意を表しておいた。だが、その後の4行
は、何をいっているのだろうか? よくわからない。

4,マルクスのいうところを聞こう。
 「労働者がその労働の価値の等価だけを生産する点を超えて労働目が延長されること、
そして資本によってこの剰余労働の取得が行われること……これは絶対的剰余価値の生産
である」「福対的剰余価値の生産の場合には、労働日はあらかじめ二つの部分に、すなわ
ち必要労働と剰余労働とに分かれている。剰余労働を延長するためには、労賃の等価がよ
り短時間で生産される諸方法によって、必要労働時間が短縮される。」
 「絶対的剰余価値の生産では労働日の長さだけが間題である。相対的剰余価値の生産は、
労働の技術的諸過程および社会的諸編成を徹底的に変革する。」(「資木論」第14章新日本
出版社版・P873)
 ベルトコンベアのスピードを二倍にして、労働者の労賃の等価は半分になる(労働力の
価値が半減する)のか? 労働力の価値・労賃の等価・労働力の再生産費に何の変化もな
いのではないか。(労働強化によって、労働力が再生産不能なほどいためつけられるとい
うことは度外視しての話である)労賃の等価を、これまでは4時間の労働で生みだしてい
たものを2時間の圧縮された労働で生み出すことを強いられているだけではないか。

5、ここで「4時間の労働」と「圧縮された2時間の労働」という二つの労働が登場する
ことが、読者を混乱させるかもしれないから、少し説明しておこう。
 これまでの「4時間の労働」というものが、その時代の「平均的社会的労働強度」であ
ったと想定する。そうすれば、「圧縮された2時間の労働」は、それが一部の資本の下で
のみ採用されている限りは、「4時間の社会的労働」として評価される(価値を生む)。「特
別剰余価値」が特定の資本家が進んだ生産力を手にしたときに生まれるのと同じ論理であ
る。
 個々の労働者が、2時間の労働で自分の賃金部分を補填したからといって、この労働者
の一日の労働力は、4時間の社会的労働の生産物で補填されるということを妨げないので
ある。

6、「絶対的および相対的剰余価値の生産」の理解で、肝心な点は、「絶対的剰余価値の
生産」は、個々の資本家との間での関係であるのに対して、「相対的剰余価値の生産」は、
社会全体の生産カにかかわった問題だという事である。ある産業分野では全く生産方法も
労働強度も不変であったとしても、社会全体の生産カ(機械の導入であろうと、協業や分
業の発展であろうと、あるいは社会的労働強度の増大であろうと)の発展の結果として、
その分野でも相対的剰余価値の増大はおこる。逆にいえば、社会全体では全く生産方法も
労働強度も不変なもとでは、特定の資本家のもとでの生産力(機械の導入であろうと、協
業や分業の発展であろうと、あるいは労働強度の増大であろうと)の発展があったからと
いって、相対的剰余価値の増大はおこらない。
 その場合、新しい生産方法を導入した資本家が手にするものは、「特別剰余価値」であ
り、それが労働強化のみによって得られた分は、絶対的剰余価値の生産とよぶのが適当で
あろう。「労働強化が相対的剰余価値の生産につながる」というとすれば、その「労働強
化」というのは、「社会一般の労働強度の増大」をいうのであって、個々の資本の下での
労働強化は、あくまでも絶対的剰余価値生産と理解した方がいいと思うが、どうだろうか。





研究と討論
絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第二部)
先行する諸説の検討
1997年8月14日
雑賀光夫・和歌山県学習協副会長


  以上の論考を発表する前に、身近な友人に見ていただいた。
(1) 真田寿雄さんは、「結論として通説(学習協95年基礎コース)を支持する」として、
エンゲルスの「資本論要項」の該当個所を送って下さった。
(2)学習協松野理事長は、諸文献の関係箇所をコピーして、お届け下さった。松野さんに
よると、最近の教科書では「絶対的剰余価値の生産」「相対的剰余価値の生産」という言
葉が出てこないのだそうである。
  お二人の方に心から感謝します。
  さて、私も、お送りいただいたものを含めて関係文献の検討をしたい。

(1)金子ハルオ「経済学(上)」(新日本新書)1970第7版(p89より)
  「六  労働強度の増大……相対的剰余価値の特殊な生産」という見出しがある。ここに
私の書き込みがはいっている。【これはまちがいではないのか?】
 これを読んだのは、おそらく1970年代だから、20年前の疑問の書き込みに立ち戻
ったわけである。
  金子先生の所説を聞こう。
 「労働強度の増大によって搾取が強められ、剰余価値が増大するのは、労働日の長さは
変わらないが、必要労働と剰余労働の相対的な比率が変わるからです。この場合の剰余価
値は、基本的には絶対的剰余価値です。」
  「…………ちょうど労働日が二倍にのびた場合に絶対的剰余価値が生産されるのと、同
じような性格をもつものとして、あつかわれます。」
  《基本的には相対的剰余価値だが、絶対的剰余価値が生産されるのと同じような性格を
持つ》という奇妙な折衷が金子氏の特徴をなしている。この所説の特徴は、絶対的剰余価
値、相対的剰余価値の区別の基本を線分で表した形の違いによるという点にある。しかし、
その絶対的剰余価値としての特徴は否定しきれずに、「性格をもつものとして、あつかわ
れます。」とする。私が、「肝心な点」とした「6」の項目を基本においていたら、こう
いう苦労はしなくてもよかったのだろうに。

(2)岡本博之監修「科学的社会主義」(上)P312
  「労働強化によって増大する剰余価値は、形の上では相対的剰余価値です。………労働
強化による剰余価値は、実質上は、むしろ絶対的剰余価値に似ています。」
  この説も、金子説と同様である。ただ、相対的剰余価値だとは断言していない。

(3)ソ連邦科学院経済学研究所「経済学教科書」
  「労働時間を10時間から11時間に延長することと、労働の強度を10分の1だけ高
めることは、資本家にとっては同じ結果になる。他方、労働の強化は、資本家にとって、
労働生産性の向上と類似した意義をもっている。すなわち、労働の強化によって剰余労働
はふえるようになり、そのことによって必要労働と剰余労働の比率はかわってくる。」

  わたしの「(6)肝心な点」を明確にしない折衷主義である。

(4)林直道「経済学入門」(汐文社・解放新書22)P68
  「労働強化による剰余価値の生産は、労働時間を延長したのと同じ効果をもたらすこと
がわかる。と同時に…………比率がかわるという意味で、相対的剰余価値と類似した効果
をもっている。」
  この見解も、現象を折衷的に並列したものといえよう。

(4)戸木田嘉久「マルクス『資本論』の研究」(岡本博之ほか監修)の「剰余価値論」
  ここには、「労働強化は、絶対的剰余価値の生産か相対的剰余価値の生産か」という論
議はない。ただ、「相対的剰余価値の概念」として「労働力の価値の低下……個別資本家
がそれを直接意識したり、また目的として行動するわけではない。」(私が「6」で述べ
たこと)としている点が重要である。

(5)山下房雄「現代資本主義と『資本論』」(上)新日本出版社(1991年)P161より
  山下氏の所説は、「相対的剰余価値の生産というのは、必要労働時間の低下」だとして、
@賃金切り下げ(実質賃金の低下)A労働強化  B生産力増大の結果(本来的な相対的剰
余価値の生産)という展開をする。
 アット息を呑まされる思いがする。「相対的剰余価値の生産」の説明で、「賃金の価値
以下への切り下げ」という抽象的な剰余価値論レベルでなく、具体的な賃金論レベルの論
議が持ち込まれるからである。これなら、私が、「肝心な点」とした「6」の項目は頭か
ら無視しても、理屈は通るわけだが、論理構成のレベルをこんなに大胆に無視していいの
だろうか。

(6)宮川実「経済学講義」(AP268)の説明は、明快である。
  「個々の企業で労働強化をする場合には、絶対的剰余価値の生産の生産でる」
  「高い労働強度が一般化する場合には、相対的剰余価値の生産の生産となる」
  この所説には、私は異論はない。

(7)エンゲルス「資本論要綱」
  「労働日の延長によって生産される剰余価値は絶対的剰余価値であり、必要労働時間の
短縮によって生産されるのが相対的剰余価値である。」(青木文庫P101)

  この規定によれば、労働強化による必要労働時間の短縮も、相対的剰余価値とみなされ
ているように見える。だが、エンゲルスは、その前で次のように述べている。「この短縮
は…………必要な生活資料の価格の引き下げによってのみ、可能である。」と。エンゲル
スは、「必要労働時間の短縮」をこのように限定してここで述べているのであって、この
後の私が引用した文言から、学習協「基礎コース」の叙述を擁護することは、無理であろ
う。                     おわり

研究と討論
絶対的および相対的剰余価植の生産と労働強化(第三部)
頂いたご意見を参考にした自己点検
1998年3月
雑賀光夫・和歌山県学習協副会長



一、夏の盆休みに書き殴ったものを松野君の甘言につられてフロッピーで渡したら「学習
新聞・新年号」の半分のページをしめることになってしまいました。文章を書いた責任は
筆者にありますが、バランスを書いた紙面を占有した責任は、筆者にはないことだけは言
明しておきます。
  雑談ですが、最近、福沢諭吉の「文明論の概略」を少しばかり読みました。秦の始皇帝
の焚書について、諭吉は「始皇帝が怖かったのは、個々の学説ではなくて、百家が自由に
論争するということだ。自由な論争が民主主義の基礎だから」というようなことを書いて
いました。検定教科書であろうと、学習協教科書であろうと、自由な批判と討論の対象に
ならなくてはなりません。もちろん、その討論は、最近はやりのディベートのような、真
理をそっちのけにした討論のための討論であってはなりませんけれど。

二、一月十五日の学習協総会に辻岡靖仁さんがおいでになるから、私の論考へのご意見を
聞かせていただけるのを楽しみにしていました。
  辻岡さんは、「労働運動」四月号に「『同一価値労働同一賃金』の問題点」という論文
をお書きになっています。私が「学習新聞」で半年ほど前に批判した牧野某氏の「労働力
の価値分割」論に近接した(一部重なり合った)理論領域なのですが、牧野氏を批判した
私にも、辻岡氏の論文は説得的に思われました。だから辻岡さんにお会いするのを楽しみ
にして、松野君には「僕の書いたのを辻岡さんに送っておいてよ。講演ではふれられない
だろうから、短時間でも個人的にご意見をお聞きしたいから」とお願いしておいたのです。
  松野さんから、辻岡さんからの伝言として「お会いする前に、資本論(新日本出版社版)
の第三分冊八七六ページを読んでおいて下さい。」というメッセージを頂きました。
(「学習新聞」一七一号に紹介されているもの)
 ここには(相対的剰余価値生産の要因として)「労働の生産性または強度における変動」
と述べています。私は、半ばがっかり、半ばほっとした。学習協や金子ハルオ大先生の説
に私を納得させてくれる説明を期待(?)していたのですが、ここに書かれている内容は、
私の「通説」への批判に答えるものではないと思うのです。「強度」というのは、この文
脈では「社会的な労働強度」として理解できるからです。
  この日、辻岡さんは雪のために飛行機が欠航し、おいでになれず、お聞きできなかった
のが残念です。

三、私の論考に精力的にコメント頂いたのは、明野進氏でした。
 明野氏の私の所説への「疑問」という、氏にしては温厚な批判文を「学習新聞」で読ま
せて頂きました。以下の文は、明野さんの文章とつきあわせてでないと意味不明になるの
で、読みづらくてすみません。私の論考にコメントしていただいた明野さんへの感謝をこ
めて、紙面を埋めることをお許し願いたいと思います。
1、「三つの疑問」について
  疑問@「絶対的剰余価値と相対的剰余価値の区別を、どこで「6 肝心な点何か」で言
っているように規定しているのか」について…………
  こう問われて、私はもう一度、この問題の原点に立ち戻って考えさせて頂きました。
  「労働日の延長によって生産される剰余価値を、私は絶対的剰余価値の生産と名づける。
これに対して、剰余価値が必要労働時間の短縮およびそれに対応する労働日の両構成部分
の大きさの役割における変化から生じる場合、これを、私は相対的剰余価値と名づける。」
(新日本出版社版BP550)
 これが「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」の概念規定をした箇所ですね。その前
の段落で、「労働の生産力を増大させ……るためには、資本は労働過程の技術的および社
会的諸条件を、したがって生産方法そのものを変革しなくてはならない。」と述べていま
す。さらに、その同じ段落の少し前で「労働の生産力の増大というのは、一般に、ある商
品を生産するために社会的な必要な労働時間が短縮され……」とあります。
 最初の論考でも、私は「4,マルクスのいうところを聞こう。」として次の部分を紹介
しました。
 「絶対的剰余価値の生産では労働日の長さだけが間題である。相対的剰余価値の生産は、
労働の技術的諸過程および社会的諸編成を徹底的に変革する。」(「資木論j第14章・新目
本出版社版・P873)また、戸木田先生は「相対的剰余価値の概念」として「労働力の価
値の低下……個別資本家がそれを直接意識したり、また目的として行動するわけではな
い。」としています。こうしたことから
┌──────────────────────────────────────┐
│ 「絶対的剰余価値の生産」は、個々の資本家との間での関係であるのに対して、   │
│ 「相対的剰余価値の生産」は、社会全体の生産カにかかわった問題だという事であ │
│ る。                                                                       │
└──────────────────────────────────────┘
と理解することは、マルクスの文脈から逸脱しているでしょうか ?

 疑問A「社会的な労働強度の増大は、相対的剰余価値の増大を生むが、個々の資本の下
での労働強度の増大が絶対的剰余価値の生産であるということの整合性」「労働強化は絶
対的剰余価値の生産か、相対的剰余価値の生産かの設問それ自体に無理があったのではな
いか」について…………
  明確に区別して、それぞれについて絶対的、相対的と述べたことについて「整合性は?」
と問われたことにとまどっています。こんなことを問われたら、これ以上何を述べたらい
いのでしょうか?
  この点で言えば、私は、宮川実先生の解釈に賛同して紹介しています。宮川先生の説明
はきわめて明快です。
  疑問Bについて(ここからは、提出されている論点を紹介することは省略しますが)…
………
(1)この点が、今回の解明にそれほど関係があるように思えません。
(2)について、反問させていただきます。明野さんは「労働の強度の増大と生産力の増大
とが相対的剰余価値の生産におよぼす影響の相違についての規定」といっておられます。
この部分で、マルクスは、明野さんがその後で引用しておられるように「労働力の価値の
大きさ、それゆえに剰余価値の大きさに変動を及ぼすのは…………」(新日本出版社版・
ページ八九八)と書き出しています。明野さんが、そこに「相対的」という言葉をはさみ
こまれたのは、どういうことなのでしょうか。

2、「あらためて勉強させてもらったこと」について
  さらに、明野さんが「新たに勉強させてもらったこと」と言われていることを読みすす
みました。明野さんの指摘を、「資本論」の該当ページを探しながら検討しました。
 そこで私の主張を再検討しなくてはならない箇所にぶつかりました。明野さん「(4)も
うひとつ」書き出して引用している部分です。
 「相対的剰余価値の性格に一つの変化があらわれる。」(新日本新書B七〇八)
 ここではマルクスが、「労働強化」を「相対的剰余価値」として捕らえているようにも
読みとれます。私が他の箇所でマルクスの主張と理解していたものと、この箇所でのマル
クスの記述との関係がどうなのか、もう一度勉強させていただきたいと思います。
向こう見ずな私でも、十分な検討もせずに「マルクスは矛盾したことを言っている」と言
い放つほどの勇気はありません。

四、松野理事長が、県立図書館で、文献を探してきて下さいました。

  「マルクス経済学大系」(宇佐美・宇高・島編、有斐閣)です。ここに掲載されている
海道勝稔論文は、同じ書物に同時に収録されている金子ハルオ論文とちがって、私の理解
と同じだといううれしい知らせです。
 そのことは、明野さんのコメントの中で紹介されていたものです。明野さんがそのこと
を知ったのは、「経済学ゼミナール・現代資本主義と『資本論』」によってだとのことで
した。私もこの本は持っていたので、その箇所を開いてみました。松野さんは、そのこと
に言及している下山房雄さんの論文が、私の理解と学習協通説との論点を整理することに
なるのではないかというアドバイスもしてくれました。
  ところで、下山房雄さんの所説というのは、さきの私の「学習新聞論文」の「先行する
所説の検討」のなかで
┌──────────────────────────────────────┐
│  アット息を呑まされる思いがする。「相対的剰余価値の生産」の説明で、「賃金  │
│  の価値以下への切り下げ」という抽象的な剰余価値論レベルでなく、具体的な賃  │
│  金論レベルの論議が持ち込まれるからである。これなら、私が、「肝心な点」と  │
│  した「6」の項目は頭から無視しても、理屈は通るわけだが、論理構成のレベル  │
│  をこんなに大胆に無視していいのだろうか。メチャメチャだと言いたい。        │
│                                                                            │
└──────────────────────────────────────┘
と一番ボロクソにけなした所説なのです。
  下山氏は「相対的剰余価値」の定義として「必要労働時間の短縮およびそれに対応する
労働日の両構成部分(注・必要労働と剰余労働のこと)の大きさの割合の大きさの変化か
ら生じる場合」をあげています。「賃下げ」も「労働強化」も「必要労働時間の短縮」だ
と信じ込んでいらっしゃるように見えます。しかし、「賃下げ=労働力の価値以下への賃
金の引き下げ」というのは、剰余価値論レベル(価値どおりの商品交換を前提にして剰余
価値の発生を論証する、価値論レベルといってもいい)の問題でなく、より現実的な賃金
論レベル(需要・供給をふくんだ商品交換論レベルと言い換えてもいい)の問題だとは考
えられないのでしょうか。
  また氏が主張する、「労働強化は心身の損傷という犠牲を払いながらも、同時にある範
囲のもとでは労働能力の発達を促すのである」という箇所は、新鮮な印象を持って読みま
したが、十分な吟味と討論を要するように思うのです。
  松野さんは、下山氏がいう「絶対的剰余価値の定義(労働日の延長によって生産される
剰余価値を、私は絶対的剰余価値の生産と名づける……のことでしょうね?《雑賀》)を
変更して『必要労働時間一定』ではなくて『必要労働量』一定とすれば、絶対的剰余価値
の生産となる。だから、論争は定義の選択の問題で、あまり生産的でないといえよう。」
という箇所を紹介して下さいました。『必要労働時間一定』というのは、どの箇所に出て
くるのでしょうか?
 もう一度ゆっくり検討してみたいのですが、まだ私は、松野さんのアドバイスを受け入
れる気にはなりません。

五、私の疑問の性格(研究史上の位置)について

  私の「研究と討論」にもちだした「疑問」は、最初、明野さんが「ユニークな問題提起」
という印象をもたれたようなものではありません。明野さんも論究する中で気づかれたよ
うに、古くからある論争の蒸し返しにすぎません。(このことについては、私も今になっ
てわかったのですが、そして私にとって名誉なことではないのですが)
  私の「理解」は、宮川実先生の理解と何の違いもありません。雑賀という物好きがなに
かほざいているということでなく、宮川先生の解説と学習協教科書が同じなのか違うのか
という論争として発展させていただければ、私は論争の当事者でなく、高見の見物を出来
ることになるので大変うれしいという無責任なことを考える今日このごろです。
  子どもの中に、知らない家の「呼び鈴」をおして逃げるというイタズラがはやったこと
があります。宮川先生と海道さんに責任を押しつけて逃げ出すなんて、イタズラ小僧みた
いですねえ。

                  1998年2月11日
                  雑賀光夫・和歌山県学習協副会長

研究と討論
研究と討論 「労働力の価値分割」をめぐって 1997年2月
雑賀光夫・和歌山県学習協副会長


1、賃金論の問題の一つに、「労働力の価値分割」という問題がある。
 「シリーズ労働運動@人間らしい生活と賃金」で牧野富夫氏はいう。
  「つまり一家の生計費を働いて得るのが、夫一人ではなく、夫と妻と二人という時代に
なれば、労働者一家の再生産費を担うのが夫と妻の二人ということになる。…………これ
を”労働力の価値分割”という。ただし、わが国の「主婦パート」ような中途半端な労働
者化がどれだけすすんでも、とうてい妻が労働力の価値の約二分の一を担うことはできず、
「価値分割」とは言えない。(それは「疑似価値分割」である。)…………

  意図がどうであれ、このような状況の下で、一家の再生産費を前提とする「家族賃金」
論を否定したり、”個人を前提”とした事実上の「個人賃金」論を”女性の自立のあかし
”であるかのように主張することは、資本の賃金抑制策に荷担することになる」(シリー
ズ労働運動@P五一〜五二)

2、この問題で、マルクスが資本論で説くところを聞こう。
 「労働力の価値は、個々の成年男子労働者の生活維持に必要な労働時間によって規定さ
れただけでなく、労働者家族の生活維持に必要な労働時間によっても規定された。機械設
備は、労働者家族の全成員を労働市場に投げこむことによって、夫の労働力の価値を彼の
全家族が分担するようにする。したがって機械設備は、彼の労働力の価値を減少させる。
たとえば四つの労働力に分割された家族を買い入れることは、以前に家長の労働力を買い
入れた場合よりもおそらく多くの費用がかかるであろうが、しかしその代わり、四労働日
が一労働日に取って代わるのであって、それら労働力の価格は、四労働日の剰余労働が一
労働日の剰余労働を超過するのに比例して下がる。一家族が生活するためには、今や四人
が、資本のために、労働だけでなく剰余労働をも提供しなければならない。こうして機械
設備は、はじめから、人間的搾取材料すなわち資本の最も独自な搾取分野と同時に、搾取
度をも拡大するのである。」

          (「資本論」新日本出版社BP六八三〜六八四)
  * この長文の引用は、ニフティサーブの「現代社会フォーラム」に入れられている「資
本論」によった。パソコン通信のおかげで、私のパソコンには「資本論第一巻」は全文は
いっている。

3、私は、牧野氏のマルクス理解に疑問を持っている。牧野氏は、「労働力の 価値分割」
ということが、日経連の主張を合理化しないかと懸念するあまり、経済法則に労働組合幹
部的観点(団体交渉的論理)を持ち込んだのではないか。

  マルクスは、共働きばかりでなくて、「児童労働」までふくめて「労働力の価値分割」
を論じている。当時の婦人・児童労働が、きわめて差別的・劣悪な賃金であったことは、
論を待たない。今日の日本の女性労働者以下だっただろう。そうであったとしても、経済
法則としては「労働力の価値分割」という法則は、つらぬかれるのではないか。

  私は、戦前の「女工哀史」に見られる「口減らしのための単身流出」や戦後の「共働き」
をふくめて、マルクスが言う「労働力の価値分割」として理解した方がいいとおもう。そ
して、許せないような「労働力の価値分割」という法則の裏で、「女性の自立」が進行す
るという弁証法をみてとる必要がある。
 歴史の弁証法は、牧野氏が期待するような「理想的な女性労働(@社会保障の整備A男
女間の雇用・賃金などの差別の縮小)」を前提としてではなく、「髪の毛から爪先まで」
搾取と収奪の固まりとしての資本の運動を通じて貫徹されるのではないだろうか。

                                    1997年2月2日
                               和歌山県学習協副会長  雑賀光夫

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