さいか光夫のとびある記(第二集)

2003年5月

なつかし・船尾・黒江 黒江・つつてん踊り  沖縄の太鼓  
別所と扱沢を訪問して 生石の山びらき      
吉井英勝議員、漆器業界のみなさんと懇談  デザインセンターを考える  未来を開く電子工業     
 いのしし防護壁三キロ 南海地震と核燃料貯蔵      
くも池道路と阪井交差点 阪井バイパスを 地域医療をどうするんだ    
河野議員との連携で市営住宅家賃軽減   お年寄りをはげます南野上の婦人会
河野議員との連携で市営住宅家賃軽減   お年寄りをはげます南野上の婦人会  拉致問題をどうかんがえる?
イラク問題、どう考えたらいいの  テロと有事法制と憲法と
対話支持集約はじまる・退職教職員後援会  県議選が終わってから知った激戦  県議会からの第一報
 メーデーと海南市制施行記念特別表彰   中山ファンの絆 さいか光夫さんをぜひ(岡田英子さん)
この人をぜひ県政に(南村長治さん) PTAとの交流を開いた雑賀さん(高木歓恒さん)  生物学者としての井上光雄さん@A  
 井上光雄さんの性教育   井上光雄さんと和歌浦の干潟

「とびある記」第二集目次

はじめに
一 わがふるさと
  なつかし・船尾・黒江
  黒江・つつてん踊り
 沖縄の太鼓
  別所と扱沢を訪問して
  生石の山びらき
  *生石ススキ原復元を(中山県議の九月議会質問)

二 元気で住みよい海南を
  吉井英勝議員、漆器業界のみなさんと懇談
 デザインセンターを考える
 未来を開く電子工業
 いのしし防護壁三キロ
  南海地震と核燃料貯蔵

三 子どもと教育
 不登校・親の会のみなさんと

四 生活道路の整備
  くも池道路と阪井交差点
  阪井バイパスを

五 くらし・福祉・医療をまもって
  地域医療をどうするんだ
  河野議員との連携で市営住宅家賃軽減
  お年寄りをはげます南野上の婦人会

六 平和と民主主義をまもる
 拉致問題をどうかんがえる?
 イラク問題、どう考えたらいいの
 テロと有事法制と憲法と

七 選挙戦から県会議員へ
  対話支持集約はじまる・退職教職員後援会
 県議選が終わってから知った激戦
 県議会からの第一報
 メーデーと海南市制施行記念特別表彰

八 人との出会い・いただいた言葉
  中山ファンの絆
  この人をぜひ県政に(南村長治さん)
  PTAとの交流を開いた雑賀さん(高木歓恒さん)
 さいか光夫さんをぜひ(岡田英子さん)

九 井上光雄さんを語る
 生物学者としての井上光雄さん@A
 井上光雄さんの性教育
 井上光雄さんと和歌浦の干潟


  

はじめに

先に「さいか光夫とびある記」を冊子にした。  その後、パソコンに入っている原稿をチェックしてみると、捨てがたいものがいくつか ある。「増補版」を作ろうかとも思ったが、けっこう分量も多いので、「第二集」とした。  先に出したもの(「第一集」と呼んでおく)を県議会議員団事務局の若い女性に読んでいただいた。  「よかったです。私、雑賀さんをエリートだと思ってたんです。でも、こんなに地域を歩いて、お年寄りの声をこんなに聞いてこれるなんて。『格子から渡されたビラ』なんかうるうるしてしまいました。」  私は最良の読み手にお会いして、しかも相手が若く知性あふれる女性だったので、幸せな気分になった。  「第一集」は、ほとんどが私が見たこと、聞いたことで埋められている。「自分の主張」という押し出しをしていない。それでいて雑賀光夫という人間の押し出しになっていると思っている。「見たこと、聞いたこと」を「雑賀光夫」という鏡がどう映し出したのかを示すことによって、「雑賀光夫という鏡」を皆さんに見ていただいているわけである。  まもなく「資本論講座」がはじまる。受講しようかどうしようか迷っている。  マルクスによれば、商品は自分の価値を、他の商品体に映し出すことによってあらわす。私は、自分の人間性・感性を、「石段の上の家」のおばあちゃん(第一集・十二ページ)に映し出して、みなさんに見ていただいているわけである。  「第二集」は、「第一集」と同じようなものもあるが、雑賀の主張や解説そのままのものもある。また、無理に原稿を集めたので、「第一集」にくらべると、多少レベルの落ちる原稿もあることは否めない。玉石混交である。この「はじめに」などは、レベルの落ちる「石」の見本であろう。候補者活動前の理屈っぽい雑賀にもどってしまっている。            二〇〇三年五月 雑賀 光夫

なつかし・船尾・黒江

年明けから、黒江・船尾をまわっています。  まず、荒浜通りから黒江小学校までの間。山野さん、野原さんなど以前から漆器の重鎮 であった方のお宅がある。現漆器組合の理事長・花光さんのお宅もある。奈手の元自転車 屋さんもある。  ある家にはいったら「雑賀君、ポスターを見て家内と応援せんといかんねといってたん だ」。元英語塾の先生である。私に英語の基礎を教えていただき、私の上の息子もお世話 になった先生。ものさしの前三分の一ぐらいのところを握って、その前が「主語」、握っ ているところが「動詞(述語)、その後が、「補語」や「目的語」と英語の構造を「科学 的に教える」というのが口癖であった。ひさしぶりにお会いしてうれしかった。そのお隣 が小学校時代の同窓生、その隣が絵をお描きになる光彩会のかたでよく知っている先生の 親戚、そのまた隣が同窓生……。伝統工芸士の方のお宅もある。   さらに「雑賀さんだね。和歌山の小雑賀にお墓があるでしょう。親戚だよ。あんたのお ばあちゃんがいたころは、うちのおばあちゃんがよく行き来してたよ」 実は、私は雑賀一族である母方の親戚をほとんど知らない。それだけにうれしかった。 川端通りのお宅で、昔の川端通りを描いた紀光の絵を見せていただいたのもうれしかった。

黒江つつてん踊り  あが家(あがえ)訪問

十九日あさ、川端通りの「あが家」を訪問して、つつてん踊り保存会の方のお話を聞きました。 「雑賀が訪問する」と聞いて、小学校時代の恩師で保存会の顧問格の先生がわざわざきてくださ ったのには感激。  つつてん踊りは、享和三年飢饉の際、黒江の人たちを救おうと直訴した重根屋伊七の法要とし て盛んになったという。  重根屋伊七のことは、「海南郷土史」に久世正富先生が紹介しておられるのを、たまたま数日 前に読んでいたが、説明の途中で、やっと思い出したような次第。

沖縄の太鼓

河野議員と沖野々での集会の案内にまわっていたとき、めずらしい光景に出会いました。 タンバリンみたいなものをつくっている。  聞いてみると沖縄でつかう太鼓。木のふちはこちらで作ったものに黒江で塗って、そこ に牛の皮を伸ばして張って、くぎで止めていく作業。 この地域の地場産業の多様さに目を開かされる思いをしました。

別所と扱沢を訪問して

 五月四日。別所・扱沢(ぐみざわ)を訪問した。いつもは中山県議や河野市議と一緒だ ったりしたが、今日はひとりである。車の運転が嫌いな私は、無理にでも一人で出かける ことをしないと、こうした地域にご無沙汰してしまうことになりかねないとの自戒がある。 願成寺に車をとめる。いつも宣伝カーをとめさせていただいた場所だ。  その周辺の何人かを訪問。お留守が多いが、Tさんにはお会いして喜んでいただいた。 すこし戻ってMさん宅に車を止める。車を止めやすいこともある。最初訪問して、紀光の 教え子だといって懐かしがってくださり、道路問題など聞かせてくださった方だ。サイダ ーをよばれながら、手持ちの地図をひろげて別所・扱沢それぞれの区長さんのお宅を教え ていただいた。  別所の区長さんはお留守だった。そりゃそうだ。こんな天気のいい日に、農家の方がお うちに引っ込んでいるはずがない。でも今日は、おうちを確認しただけでいいと割り切っ て、扱沢にむかう。  扱沢は高いところにある。途中の道は、自分が高所恐怖症なのかとおもうほど見晴らし がいい。Mさんに教えてもらったとおり自動販売機がならんでいる後ろに、藤坂区長さん のお宅があった。娘さんが「いま出かけたんです」といっているところに区長さんがもど ってこられて、お話を聞くことができた。  「ここの道も狭くて、お葬式で車を止めると渋滞してしかられたのです。側溝にふたを して広げるのを中山県議がお世話してくださったのですが、お礼を言う機会がなくて気に なっていました。」(帰ってすぐに中山さんに電話で報告しました)  「農業が中心で、農閑期には一般家庭の庭木の選定にもでます。いい野菜ができます。 普通は五〇倍にうすめる農薬を一〇〇倍にうすめてもできます。涼しいからですね。夏も 扇風機もほとんど使いませんから」  「願成寺は大変格式のたかいお寺です。このへんは、むかし(室町時代か?)僧兵がい くさに敗れて住み着いたこともあるそうです。扱沢の寺にも文化財があったのですが、火 事で焼けてしまって残念なことです」  願成寺について、「海南郷土史(続編)」(昭和三四年発行・海南市教育委員会)には三 ページをさいて紹介する。そのページ数は、正続2巻を通じて最高級の扱いだから、区長 さんがおっしゃるのは身びいきではない。扱沢の歴史まで勉強したくなった区長さんのお 話だった。

生石の山びらき

 一斉地方選挙もおわった四月二九日、中山豊県議にさそわれて生石山やまびらきに参加 しました。 雑賀紀光「海南風土記」八九ページに「第五四話 高原のすすき」という項がある。 「海抜三千尺の生石高原にどうしてあんなにすすきが生えているのであろう。これは等し くハイカー達の不思議がるところである。日本中どこを探してもこんな美しいすすきの高 原は見当らない。又、すすき原がなかったら生石山もこんなに有名にならなかったであろ う。往時は早春の頃になると生石の山焼きが遠く海南からも見られた。八十才を超える古 老であればこれを知っている。」 「海南風土記」が海南新聞に連載された一九五〇年代に、「八〇歳を超える古老であれば」 と紀光がかいた生石山の山焼きを、中山県議が尽力して実現にこぎつけたのだった。会う 人会う人が、中山先生の尽力に感謝をのべる。  有田でみごと当選した松坂県議夫妻も上ってきていて、山頂で固い握手を交わしました。 「海南風土記」(雑賀紀光)については、県議選挙中、中山県議が再々紹介された。「できれば再刊したい」ということばもあったが、1997年に再刊されたものの残部少々、 黒江ぬりもの舘にあります。ご希望の方はお早めにお問いあわ せてください。
* 生石ススキ原復元を(中山県議の九月議会質問)

 県は九月議会にススキ原復元にむけて山焼きをするとの予算をつけることについて、中山議員は評価して、これの完成と取り組みの体制を質しました。  このとりくみを求めて今まで何回か要求と質問をしてきたことが実ったものと評価しながら、ススキ原復元が完成されたら、観光客の増加が大きく見込まれ、地域の活性化に貢献できるところから、山に観光客を迎えるに充分な道路事情にないとして、道路整備を急げと強く求めました。  生石山のススキ原の山焼きは江戸時代からこの方二〇〇年から三〇〇年間、途絶えていたことをやろうとすることであるだけに、まかり間違えば大きな山火事になるおそれもあるだけに、当局の決断と勇気を高く評価て強く求めた。  これについては、有田郡側の反響も大きく、県政上、大きな関心事になることは間違いなさそうです。  九月議会で取り上げた海南駅への阪和線快速電車増便は、海南市当局が企画した、九・十・十一月「ぶらり海南あるき旅」に呼応してJRは一便増にしたと垣平企画部長の返答があった。  中山県会議員が地元海南の活性化のため、かねてよりJR阪和線海南駅への増便は、海南市が大阪方面への通勤圏域にするために欠かせないとして取り上げてきた。神出市長もかねてより課題とされ、県・市一体であたればJRを動かすことができると、いっそう励みがつくとの声が挙がっている。

吉井英勝衆議院議員  漆器業界のみなさんと懇談

二月一日(土)日本共産党吉井英勝衆議院議員が海南にこられた。吉井議員は、原子力 問題の専門家であり、国会で財政金融委員会にかかわり、不況の中で中小地場産業をまも るために奮闘しています。私・さいかとは、ほぼ同じ時期に大学で学んだ先輩になります。  吉井議員は、海南一番街の役員さんを訪問、そのあと伝統産業会館で、漆器業界の有志 のみなさんと懇談しました。 吉井議員からは、「不良債権処理」の名の下に、「貸ししぶり・貸しはがし・金利引き 上げ」をすすめる大手銀行の問題、中小業者に密着した信用金庫がつぶされている実態、 仏壇・家具などの漆器に類似した産地の状況など話されました。 漆器関係者からは「漆器は手間賃のかたまりのようなもの。中国からの安い製品に押し まくられている」「伝統技術の後継者がいない。せめてカルチャーセンターででもとやっ ている。」「漆器専門学校がない漆器産地は紀州だけ」などの声が「出されました。  最後に「県のデザインセンターを引き上げる計画があるが、残してほしい」という要望 が出されました。

デザインセンターを考える

吉井英勝衆議院議員が海南に見え、漆器業界有志のみなさんと懇談した折です。懇談の 最後に「インテリジェントパークにあるデザインセンターを県の工業試験所に引き上げる 計画があるが、センターを残してほしい」という要望が出されました。  私は、その話は前からも聞いていましたので、まずデザインセンターを見学しておこう と、インテリジェントパークに出かけました。来意を告げると、職員の方が丁寧に説明し てくれました。  コンピュータがたくさん並んでいます。コンピュータ画面で設計したものを立体模型と してつくる機械があります。こうしたものは個別の企業ではそろえられないものでしょう。  日本共産党演説会が開かれた3月2日の朝のことです。食卓の上に前日の朝日新聞の 「Be on Saturday」が目に入りました。「工業デザイナー」という言葉に引かれて読み始め たのは、デザインセンターが気になっていたからです。  アメリカの政府高官が愛用するめがねから、自分の車椅子、人工心臓まで名古屋市立大 学教授の方の話です。研究室でのその先生の写真は、コンピュータが並んでいて、デザイ ンセンターの光景と一緒です。  裏面をひっくり返してみると「和歌山のたわしもかっこよく」という見出しがついてい るではありませんか。  そこでその日の演説の最後に「トップランナーの方がこういう注目をしているときに、 デザインセンター撤収でいいのか」ということを付け加えたのでした。  最初の原稿になかったものを付け加えたので「その部分が早口になった。もっとゆっく り話したらよかったのに」と妻にしかられました。

未来を開く電子工業

 亀川に電子工業の会社がある。そこの娘さん(現社長のお姉さん)を三〇年前に中学校 で教えたという関係もあり、そんなことを先代社長の奥さんとお話した。庭に正体不明の 木造のたてものがある。ドラエモンが、ノビタたちを連れてタイムとラベルにでもでかけ る機械というようなイメージのものだ。「これ、なんですか」と聞いたら、「熊野博のと き、中に入って星を見るようにつくったのを、終わってから持ち帰って庭にすえたのです」 とおっしゃる。ちなみに、先代にひきつづいて現社長も海南の発明クラブの会長をしてお られるともお聞きした。  選挙がおわってご挨拶に伺ったおり、会社の仕事についてお聞きした。「いろいろあり ますが、家庭用エレベータの自動制御装置などもやってますし、自動車関係、介護、自治 体関係の仕事もします。」これでは、なにやら分からない。まずイメージするのは、エレ ベータや自動車会社の部品の下請け生産である。  「八〇人の職員で、一四〇台のコンピュータをつかって仕事をします」といわれるので、 「ソフトの開発の仕事なのですか?」とお聞きすると、「ソフトの比重も大きくなってき ていますが、機械の組み立てもしています。会社の中をご案内しましょうか」ということ になった。  東洋精米機から委託されて組み立てまでやっている、お米に混じった石をとりのぞく機 械がある。米を一列にして落下させる。その色をセンサーが識別して、黒いものがあれば、 数センチ落下したところで空気の力で吹き飛ばすのだという。  「南部の梅の傷を識別する機械を依頼されて開発しましたが、青梅は色が変わっていく こと、傷とゴミとの識別がつかないことでうまくいきませんでした」ともいう。  「出来合いの機械でなく、こんなことをできる機械ができないか」と相談を持ちかけら れる会社にしていきたいのです」とも言われた。

いのしし防護柵三キロ

高津で、いのしし防護柵をつける作業が行われました。針金の柵で、延々とイノシシの 住む山を囲むというものです。県市三分の一づづの材料費補助、あとは地元負担で、作業 も地元でやるというものです。ごくろうさまでした。  「いのししは、飛び越えないだろうか」という心配のこえもありますが、できることか らやってみるほかはありません。 作業に出られたみなさんご苦労様でした。

南海地震と核燃料貯蔵

船尾をまわっていたときです。ある自治会長さんが言われました。「南海地震の津波で は、この近くは軒まで水をかぶったのです。それを知っている人はもう少ない。でも今後 五〇年の間には南海地震があるといわれている。埋め立てやマリーナシティで条件は変わ っているが、どうなのか。私は、自主防災ということを言っています。その第一は、万一 の場合には逃げることですね。  おっしゃりたいのは、自主防災もやるが、県行政としても真剣に防災対策を考えるべき だということだ。  そのお昼に、日方の行きつけの食堂に入って産経新聞を見た。「御坊市沖に核燃料貯蔵」 という内容の報道である。食堂のご主人が言われた。「五〇年間の間に南海地震があると いうのに。埋立地なんて地盤が弱いんでしょう。事故になったら和歌山県なんて住めなく なってしまう。」  「南海地震と核燃料事故が重なったら、自主防災で逃げる場もない」と思いました。た またまお二人の方から南海地震への心配を語られ、市民の中に県政への深い洞察があると 感じ入ったしだいです。  それにしても核燃料貯蔵庫問題、県会議員候補者は態度を表明しなければならない課題 です。

不登校・親の会のみなさんと

 県会議員選挙がおわるのを待つかのように、「親の会」のお母さんからメールや電話が とびこむ。「当選おめでとうございます。相談にのってほしいのです」 五月二日、エル シティオ(引きこもりなどのとりくみのセンター)で数人のお母さんとお会いしました。 最近、文部科学省の「不登校問題に関する調査研究協力者会議」が十一年ぶりに報告を表 しました。十一年前の報告は、不登校は「どの子にもおこりうる」として「特別な子ども の非行」という従来の見方をあらためたものでした。 こんどの「報告」のポイントとして文部科学省は「早期の適切な対応」を押し出していま すが、お母さんたちは「多くの父母の声もうけてねりあげられたこんどの報告を、教育委 員会も学校の先生も全面的にうけとめてほしい」とおっしゃるのです。六月には、県教育 委員会との懇談会ももちたいということでした。  わたしは「これまでも県教育委員会はみなさんとの懇談に応じていたのだから、私が県 会議員になったからといって、急に取り持ち役に出て行かないほうがいいでしょう。懇談 会のおりには、私も一緒に参加させていただいて、お話を聞かせていただきましょう」と 申し上げました。 * その後、以下のようなメールをいただきました。  私の信頼を裏切らなかった県教委の担当者に感謝します。  先日はお忙しいところ、相談にのっていただきありがとうございました。あのあと、さ っそく県教委のほうへ申し入れたところ、下記のようなかたちで実現することができまし た。  土曜日という日程にもかかわらず、応じていただけることになりました。また、チラシ 等出来次第お届けしますので、ご都合がつくようでしたら、ご参加いただけたらうれしい です。今後ともよろしくお願いします。・・・・杉田美江 ************************ 登校拒否の子を持つ和歌山県親の会第八二回学習会 「今後の不登校の対応の在り方について」        −県教育委員会との懇談会   日時:6月14日(土)2時〜4時   (1時〜2時:県親の会第12回総会を行います。)   会場:和歌山市勤労者総合センター2階会議室        (和歌山市西汀丁34番地)

くも池道路と阪井交差点

海南市の生活道路の懸案のひとつが、地権者の協力で拡幅完成への見通しがつきました。  この道路については、昨年秋、中山ゆたか県会議員の計らいで、県工事事務所と海南市 の担当者も参加して「地元説明会」が行われました。説明会には、さいか光夫・上田ひろ しはじめ、地元自治会長さんや住民のみなさんが参加してくれました。 道路わきにお住みの方は「十二年前に、私の前の道を拡張するのに、くも池のところま で広げるというので、それならと県の言い値で全面的に協力した。」と語っておられまし た。時間がかかったとはいえ、その約束が果たされたのはうれしいことです。 国道三七〇号線と県道沖野の森小手穂線の交差点の右折車だまりも、地権者の協力で見 通しがつきました。

阪井バイパスを・情報提供こそ

 十二月七日には、沖野々の住民センターをおかりして、懇談をひらきました。さいかさ ん・中山県議・河野市議など参加しました。 さいかさんは、阪井バイパスの問題について「県工事事務所との交渉で「海南の動脈が 動脈硬化になっているのをどうするのか」とせまり、県工事事務所から進捗状況をあきら かにさせたことを報告。 「阪井地区で住民アンケートをとってみると、九〇%の方がバイパスは必要、また七〇 %の方が、県が示したルートに賛成した。県もそのルートで都市計画審議会にかけ、国の 予算もとる方向で動き始めている。  海南市の担当者に確かめると、立ち退き戸数は三〇軒程度になりそうだという。  行政は、こうした計画の進捗状況を市民に明らかにして、市民の応援でこの大仕事をす すめるようにすべきだ」と県が示したルートの地図を見せながら述べました。 参加者から「情報を住民に示してくれることこそ大事だ」という意見がでました。

地域医療をどうするんだ

 医療後援会のみなさんと病院を回りました。 民間の大きな病院の事務長さん「あんたら、何とかしてくれ。政府は、地域の医療を 支えるわしらの病院をなんと思ってるんだ。やってられん。今朝から経営の数字を見たも のだから…」とおっしゃるのです。  別の病院の事務長さんは、すぐに医療改悪反対の署名用紙を送り返してくれました。な んとその中に教え子の名があります。  東部の老人施設では、施設の隅々まで案内してくださいました。地域医療・介護など行 政と政治への期待がひしひしと伝わります。

河野議員との連携で市営住宅家賃軽減

 東部地域の市営住宅におじゃましました。  「あがってください」と言われるのであがりこむと、ホームこたつにはいってテレビを 見ている一人ぐらしの方は、障害で歩行がむずかしいのでした。  「障害三級で年金は年六〇万円です。家賃がたかくて一万二千九百円もするんです。二 年前まで働いていたが、体を悪くして、貯金もなくなってしまった」とおっしゃいます。  さっそく河野市議に相談しました。河野市議が市役所にかけあって、十ヶ月さかのぼっ て五千円の軽減ができました。市役所としてこういう問題をキャッチしてほしいものです。

お年寄りはげます南野上の婦人会

南野上で教え子を訪問したときです。教え子の女性は、婦人会がお年寄りに集まっても らって文化行事をする話をしてくれました。参加者がふえるので、大きな会場にバスで送 り迎えするほどになっているそうです。  感動したのは、婦人会の役員さんが「独居老人は婦人会でつかむことが何よりも大事」 とおっしゃっているとの話でした。 市営住宅で障害を持った一人暮らしの方にお会いしたあとだけに、心にしみました。

拉致問題をどうかんがえる? (「あじさいだより」より)

アジサイ会員 北朝鮮の拉致問題が大きな問題になっています。そのことでお聞きしたい   のです。 さいか光夫さん 私にわかることならお話しします。 アジサイ会員 北朝鮮という国をどうみたらいいのでしょうか。 さいか光夫さん…北朝鮮は一九六〇年代半ばまでは、「ベトナム戦争反対」など国際活動   でまともな立場をとっていましたが、一九七〇年前後から、おかしくなってきました。   一九八〇年代には、それは異常な国ともいうべきものになってきたと思います。韓国   の全斗煥大統領の暗殺をはかったラングーン事件(一九八三年)大韓航空機爆破事件、   日本漁船銃撃やテポドンというミサイルの実験があります。それに金日成という指導   者の個人崇拝を強め、息子の金正日に地位をうけつぐというのも異常ですね。およそ   民主国家ではない。日本共産党がめざす将来社会とは縁もゆかりもないものです。 アジサイ会員 他の政党はどうみていましたか。 さいか光夫さん 自民党はソ連・中国・北朝鮮とは敵対していましたから別ですが、社会   党(いまは、社民党・民主党にわかれている)も公明党もかつて金日成体制を礼賛し   てきました。社民党は最近まで「拉致などデッチ上げだ」とか「大韓航空機爆破のよ   うなテロをやるはずがない」と言ってきたことを、いまになってお詫びしています。   公明党も一九七二年に竹入委員長が訪朝して金日成を天まで持ち上げるような礼賛を   し、一九九〇年代以降も「友好関係」をつづけてきました。 アジサイ会員 それじゃ、「国交正常化」なんておかしいのですか。  さいか光夫さん そうじゃありません。異常な国だからこそ、交渉の場に引き入れなくて   はなりません。テポドンのミサイル実験で大騒ぎになっていたころです。政府も「大   変だ」と軍事力強化の口実につかうだけだったとき、日本共産党の不破議長が「国交   正常化で交渉の窓口を開け」と提案したのです。テポドンでも拉致でも、交渉の窓口   がないと前に進みません。 アジサイ会員 それはそうですね。だから小泉首相が交渉に行ったことはいいことだと日   本共産党はいっているんですね。 さいか光夫さん ところで、交渉の矢先に、「八人の方は死亡している」と相手から聞か   された。それでも、小泉さんは交渉再開の「ピョンニャン宣言」に署名した。 アジサイ会員 それはよかったのですか。 さいか光夫さん 小泉首相が帰ってきて、野党各党に報告しました。すると社民党の土井   さんもふくめて「八人も死んだというのに、国交正常化交渉なんて」と小泉首相をな   じったんです。でも志位委員長は「小泉さん、ご苦労様。つらかったでしょうね。で   も正常化交渉の中で真相を解明するほかはありませんね。正常化交渉再開を強く支持   しますよ。」と言ったんだそうです。 アジサイ会員 正常化交渉の方向にむかっているから、五人の方の一時帰国もあった。  さいか光夫さん まだまだこれからだ。たくさんの課題が残されています。 アジサイ会員 ところで公明党はなぜ日本共産党での拉致問題での立場を非難するのです   か?  さいか光夫さん 七〇年代はじめに金日成を礼賛した公明党は、九八年には「北朝鮮のわ   が国に対する挑発的な外交姿勢が改められない限り、日朝国交正常化交渉は当面凍結   すべきです。」(公明党基本政策大綱)と言い出しました。金日成礼賛をやめたのは   いいのですが、「国交正常化交渉凍結」というところが、不破議長の提案とは違うの   です。 アジサイ会員 でも、いまは公明党は小泉与党だから「国交正常化賛成」なんでしょう。 さいか光夫さん そうです。公明党のいうことは、くるくる変わるのですが、正しいと   ころに落ち着いたのなら「よかったね」ですむのです。けれども公明党の困ったとこ   ろは、自分がくるくる変わったことは棚上げにして「日本共産党は朝鮮労働党と同類   だ」とか「拉致問題の解決に後ろ向きだ」と平気で言いふらすことなのです。    拉致問題をはじめて国会で取り上げたのは、日本共産党の橋本敦参議院議員(一九   八八年三月)で、政府もここで初めて「おそらくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃   厚でございます」と答えてるんですね。 アジサイ会員 私の友達にも創価学会の人がいるのよ。そんなうその共産党攻撃さえしな   ければ、「公明党も正しいところに落ち着いてよかったね」といってあげられるのに   ね。

イラク問題、どう考えたらいいの (「あじさいだより」より)

花子さん こんにちは。 光夫さん こんにちは、花子さんのつっこみは厳しいからなあ。お手柔らかに。 花子さん あら、前回の「北朝鮮と拉致問題」は好評だったんですよ。今日は、「イラク   問題」についてお聞きしたいんです。「フセインなんて奴やっつけたらいい」とい   う友だちもいるんです。 光夫さん 中東の石油資源支配をめぐって、アメリカとの関係はいろいろありますが、そ   れはさておき、今日のイラク問題の直接のはじまりは、一九九〇年のイラクによるク   ウェート侵略です。それにアメリカなど多国籍軍が武力攻撃をおこない、湾岸戦争が   おこった。その対応には大きな問題を含みながらも国連による決議で事態は収拾され   ました。 花子さん 国連の決議というのは ? 光夫さん イラクによるクウェートへの賠償や大量破壊兵器の廃棄などです。イラクは大   量破壊兵器についての国連の査察をこばむなど、国際的な約束を守っているとは言い   難いのです。 花子さん だから私の友人も「やつけちゃえ」というのよ。 光夫さん日本共産党の国会議員の緒方さんたちがイラクにいって、「イラクもアメリカの   攻撃に口実を与えるようなことをするな」といったんです。すると向こうの国会議    長という高官が「そうする。国連決議を全面的に受け入れる」と約束したんです。 花子さん それが野党外交なのね。 光夫さん 国際的な問題というのは、いろいろある。北朝鮮も「異常な国だ」と前回お話   ししたでしょう。でも、だからといってアメリカが単独判断で武力を行使するなんて   許されないんです。国連憲章の原則にもどるべきです。 花子さん 国連憲章って? 光夫さん 「武力による威嚇または武力の行使」を原則禁止している。攻撃を受けた緊急   の場合に自衛のための武力の行使でも国連安全保障理事会が対応するまでに限定して   います。 花子さん 相手から攻撃されないのに、先制攻撃することは、いけないということね。 光夫さん そうそう。花子さんはわかりが早い。その「先制攻撃」をアメリカがやりたが   っているのが問題なんだ。    今回、イラクが大量破壊兵器を準備しているのではないかと査察するわけだけど、  イラクが「査察を受け入れる」と言っているのに「信用できないからいつでも先制攻   撃する」と、とにかく攻撃したいばっかりなんだ。 花子さん 「テロとの戦争だ」ともいうでしょう。 光夫さん 昨年のニューヨークでの同時多発テロからブッシュ大統領が言い出しました   ね。そういう口実でアフガンを爆撃した。ビンラビンをかくまっているとか言って。  それも国連憲章違反だったんだけれど、今度は、イラクがテロを支援しているという   証拠も挙げられないんです。そんな「先制攻撃」を絶対に許してはなりません。だか   ら、世界の国々から批判の声が挙がっています。 花子さん 先制攻撃とともに核兵器を使うこともいっているんでしょう。許せないわ。 光夫さん そのことに被爆国日本の首相が追随するなんて悲しいね。

テロと有事法制と憲法と

 モスクワの劇場が占拠され七〇〇人が人質になっている。その前にはインドネシア・バ リ島での爆弾テロ。そこへ今日、衝撃的な民主党議員の刺殺事件。その背景は明らかでは ないが、政治的要求を通すためにテロや戦争に訴えるということは、絶対に許されないと 思う。  昨年九月十一日のニューヨークでの「同時多発テロ」とアメリカの「報復戦争」。「憎 しみの悪循環がおこる」と私も多くの人たちも心配した。いま、おこっていることは、何 だ?私が心配した以上に広がっている「政治問題をテロや暴力・戦争で解決」しようとす る風潮。絶対に断ち切らなくてならない。  政府は、国会に「有事法制」をまたも提案しようとしている。「備えあれば憂いなし」 というが、「有事法制」が「戦争するための備え」であったことは、戦前の「国家総動員 法」からも明らかだ。  日本と国民を守るために、いや、世界人類を守るために、「日本国憲法」「憲法九条」 を世界に広げていきたい。

対話支持集約はじまる・退職教職員後援会

年末に、退職教職員後援会のあつまりに呼んでいただいた。 この後援会は、かつて中山さん・野間さんなど議会におくりだした面々。選挙につよい。 「対話・支持拡大カード」の集約がはじまっている。  地域ごとに、退職者後援会員を訪問して「雑賀リーフ」「教職員後援会パンフ」「対話 支持カード」をあずけてきている。大野地域では、十日ほどたって再訪問して、十人ほど から六十数人の支持がよせられている。二五人もの支持をあつめてくださったのは、七月 に開かれた「励ます会」で「なくなった夫の分までがんばります」と言ってくださった先 生である。  「そうだ、そうだ野間選挙のころは、こんなぐあいに五票でも六票でも集めてくれる人 が教職員後援会だけで二〇〇人ぐらいになったんだ」と思い出した。  「回ってみると、だぶりがでる。地域後援会との情報交換を」という意見が出る。  「いま、子育て中の若い人は大変。長時間保育や学童保育の要求をとりあげて」という 要求が出された。

県議選がおわってから知った激戦

県議選挙が告示されてから、私・さいかは、ただただ候補車カーにのって、ハンドマイ クをもって歩いて有権者のみなさんに訴え続けた。  選挙事務所のみなさんや支持者のみなさんの心遣いが身にしみた。しかし、選対でどん な論議がされ、どんな体制が組まれているかの選挙戦の全貌(ぜんぼう)は、私には知る 由もなかった。 選挙戦が終わってから聞かされた。「さいかは人気があるから大丈夫だという声がいた るところで出た。これで緩んだら大変なことになる。党選対として、野上・下津の議員も 海南のセンターにはいって、支持者のみなさんと一緒に電話かけをして、その姿を示すこ ともふくめて、支持者の皆さんに引き締めを訴えた」とのこと。  「そこまでやってくれていたのか」と涙が出た。 「さいか当選」のために市町会議員 選挙の準備が遅れている。「さいか当選」の有利な条件を生かして、絶対に七人全員当選 をかちとらなくてはならない。

新県議会からの第一報

 四月三〇日、県議会で「初総会」があり、それに先だって議員バッチをつけていただき ました。  日本共産党県議団は、現職は村岡さんだけ。和歌山市議会からあがった藤井さん、有田 の松坂さん、そして私の四人です。村岡さんが団長兼幹事長、ごくろうさまです。  一人減ったから、部屋は少し狭くなります。席順のとりあいというのが大変らしい。古 参議員は後ろにすわる。ところが新人3人と古参の村岡さんだから、議席に飛び地ができ てしまう。ここは、村岡さんが面子を捨てて、四人が固まることになりました。  さて、常任委員会と特別委員会の配分をどうするか。常任委員会は六つに議員四人だか ら、どこにはいるかは、他党はとの関係もあります。私の所属は、よく相談して決めたい と思います。 県議会の会派の構成は、つぎのようになります。   自由民主党県議団 二〇  新生わかやま県議団 六   開政クラブ  五  日本共産党県議団 四   公明党県議団    四  県民クラブ   三   真政クラブ     二  無所属       二  46議席中20議席しか自民党がとれないということは、自民党を名乗っては県民の支 持が得られないことのあらわれでしょう。私・雑賀が日本共産党県議団に所属しているこ とはいうまでもありません。藤山さんは開政クラブです。 * 後に、真政クラブと無所属が合同して「無所属クラブ」になりました。

メーデーと海南市制施行特別表彰

 5月1日は海南市制施行の記念日だそうで、さまざまな分野で貢献されたかたが表彰さ れる。県会議員としてのはじめての公式行事に列席する。知り合いでいえば、社会福祉で の山本良章先生、先日お会いした寺久産業の寺本典彦社長(商工業)。ながく校医をなさ ったという木村正光先生は、親戚になるがご挨拶していない。いろいろな方が各分野でお 仕事しておられるのを聞いて回らなくてはならないなと考えた。  ところで、気になるのは、女性の方がだれもいないこと。海南市で女性が活躍していな いはずはあるまい。女性が遅れているのでなく、表彰する側の海南市が遅れていることを 市長に言ってやらなくてはなるまい。  行事がおわって、和歌山市の県中央メーデーにかけつけた。メーデーの行進が和歌山城 西の丸広場に帰ってくるのを迎え、広場での恒例の昼食会。一升瓶を片手に、いりいろ なグループのところを駆け巡った。夕方には海南のメーデー参加。忙しい一日だった。               

中山ファンの絆

中山ゆたか議員の後釜というのは、大変である。中山さんほど地域をよく歩いている議 員はいない。二人区の海南市では、それでないと当選などおぼつかない。 南野上の山あいを中山先生の後について歩く。農家の軒先で声をかけると、おばあちゃ んが顔を出す。「おばあちゃん、お元気?」と中山先生が声をかける。「あれー、中山先 生、いつもお世話になって………」とおばあちゃん。 「実は、わしもまだ元気なんだが、もう一期いくと八〇歳に手が届く。若い人にかわっ てもらうことにした………」 「みんな中山先生のファンやのに………。まだ元気やのに。つづけて欲しいわあ」 後継者の私の目の前で、おばあちゃんの「中山コール」が語られる。それももっともで ある。雨で水があふれたといえば、雨の中でも来てくれた中山先生。道が崩れたといえば とんできてくれた中山先生。四期の市会議員、二期の県会議員での中山ファンの絆はふと い。その信頼を受け継げるかどうかが問われている。

この人をぜひ県政に       

 初対面の時、わが郷土が誇る画家・雑賀紀光先生のご子息であると聞き、私は思わず膝 を打ちました。紀光先生にはご生前に親交をいただいていたので、二代にわたる篤実なお 人柄をしのびつつ、さらに懇談を進めているうちに、私はすっかり雑賀光夫ファンになり ました。ぜひ、この人を県政の場に押し出しましょう。            南村長治さん(和歌山詩人協会代表)

PTAとの交流を開いた雑賀さん   

未来の日本和歌山をつくるのは今の子どもたちである」とは誰しも認めるところであり ます。しかし、そうは言いながらも行政における現実は、子どもの教育に向けての関心は、 一様に低い。議員にしてもしかり、票につながらないからであろうか。対象は、一票のな い子どもたちである。  しかし今、日本の現状課題は青少年問題に顕著に現れているように、子どもたちの心の 荒廃なのです。待たれるのが、真の日本、未来の和歌山を考える意味で、教育を真剣に考 える人であります。  雑賀先生は和教組委員長時代に、過去に接点がなかったPTAと教職員組合の対話、教 育懇談会を実現されました。PTAと教職員組合、共に教育に関わる大きな団体でありな がら、過去には一度もテーブルに着くことがなかったのです。この交流のない両者に道を 開いてくれたのが雑賀先生です。  いま、教育問題を中心に子どもの未来、日本・和歌山を創造し、力づよく引っ張ってい ってくれるリーダーとして雑賀先生に期待をしたい。         元和歌山県PTA連合会会長 高木歓恒さん

夢を捨てずに選挙を楽しみましょう

いま、日本の国民で自分の国の政治について満足している人は、あまり多くないようで す。 それでは、政治的に恵まれているというのはどういう状態でしょうか。  与党も野党も立場や考え方の違いがあっても、マジメで賢い議員さんたちによって、国 民の幸せを第一に考えて公正に討議され、国の方針が決められていき、国民もその結果に ほぼ満足している状態でしょうか? この場合、私たちは多少の痛みもガマンできそうで す。  こう考えてみると、今の現状とはかなり違いがありそうです。では、どうしてこのよう な不満が多い状態が長く続いているのでしょうか? 代表を選ぶ、選挙民である私たちに 最も大きな責任がありそうです。  どうせ誰がやっても政治は変わらないといってシラケて投票にいかなかったり、また、 いっぱい不平を言いながら、なぜか不満のある政党に投票してしまう人がいるからです。 このような人々は、個人的になにか利得でもあるのでしょうか?それとも、その政党が伝 統ある最大手の政党で、そこに投票するのが何かステータスだとでも考えているのでしょ うか?  少し以前のことになりますしたが、雪印乳業の不祥事の不祥事の際には、まさに全くみ ごとに誰もがただちにあの会社の製品を買うのをやめました。それこそ、伝統ある業界最 大手のメーカーでしたが、とうとうつぶれてしまいました。あの会社でマジメに働いてお られた社員の方々には本当にお気の毒でした。私たちは、政治についても同様にもっと熱 心に反応すべきだと思うのです。くさった政治は、牛乳とは違って、単なる下痢ではすま ないからです。目に余る不祥事を起こし続ける政治にも、もっとはっきり拒否反応を示す べきだと思います。  そのことが政党にも反省してもらえて、もっとよくなってもらえるし、政治も風通しが よくなり、希望が持てるものになっていくのではないでしょうか。  私がさいか光夫さんの後援会に入ったとき、ある友人から「共産党を応援するんやった ら、「あんた嫌いやで」と言われました。どうしてでしょうか。  私の周りの共産党の方々は皆さんマジメでよい方です。雑賀先生もまっすぐで裏表がな く、人の話をよく聞いて下さる、人間として信頼できる方です。私は春には花粉のアレル ギーで困りますが、おかげさまで共産党アレルギーはありません。  その時、その時、どのような人に自分の代表となってもらいたいかをよく考えて、賢い 選挙をしていけば、世の中もっとよくなるはずです。夢を捨てず、もっと自由に選挙を楽 しみましょう。 主婦  岡田英子さん

生物学者としての井上光雄さん@

私は、先日、「和教時報」の「人」欄に「『三〇人学級』をアピールされた元県教育長 さん」という表題の短い文を書いた。紙面ではずいぶん短いものにしたが、以下のものは その切りちぢめる前の原稿である。 ……………………………………………………………… 「三〇人学級」実現をめざすアピール(一九九八年)にイーデスハンソンさんなどとと もに名前を連ねてくださった井上光雄さんは、もと和歌山県教育長。井上さんが教育長を なさったのは一九七〇年ごろである。あのころやりあった北条(勤評闘争当時の書記長・ のち県議)や田淵(元和教組委員長)が懐かしいといい「あの、ワルらとの飲もらよう」 とおっしゃる。私は、その「ワル」らとは、一世代違うのだが、可愛がっていただいてい る。  一〇数年前、まだ和教組書記長だったころ、和歌山駅のホームで「おい、元気でやって るか」と後ろから声をかけてくれた方がいた。井上さんだった。私は、よく存じ上げてい たが、井上さんが教育長の時代は、私は支部の書記長。団体交渉の席でお見かけしただけ の間柄。その後、井上さんが海南市の助役をされていたころ、何かでお伺いしたことはあ ったが………。そんな私を覚えていて、気さくに声をかけていただいたのでビックリ。 「三〇人学級」アピールの呼びかけをお願いにあがった折、お伺いすると娘さんはアメ リカでお住まい。孫の顔を見に、時々アメリカにいくという国際派。「アメリカじゃ二二 人の学級を十八人に引き下げるんだものね。」とおっしゃったので、そのことをアピール の文面にとりいれた。 健康の秘訣は、社交ダンス。最近まであちこちの公民館で社交ダンスの教室を開いてい た。「若いころやられたんですか」とお聞きしたら「いや、定年近くなってから、ダンス 教室のそばを通って、健康にいいと思ってはじめたんだよ」とおっしゃる。 …………………………………………………………… この井上光雄観を、一変するようなことになった。中山豊先生と一緒にお宅にあがった 折である。中山先生は、ビオトープの運動などをされ、自然や植物に詳しい。そこで、若 いころの井上さんが研究された貴志川水系の生物の研究と井上さんが発見された巻貝のお 話しを聞きたいということでもあった。 井上さんが中野上小学校にお勤めになっておられたという話を野上中の田尻優さんにお 聞きしていたので、そのことを申し上げると、話は師範学校を卒業後、五ヶ月の兵役のあ と、真国小学校花野原分校に赴任した話からはじまった。中山先生も振り出しは花野原分 校だという。井上さんが受け持ったのは、四年生まで七十人の単級学校。単級手当ては十 八円。当時は大金であったとか。 その後、井上さんの生物学研究に話が及んだ。学校につとめながら、京都大学の専攻科 で研究する。当時、「植物学提要」という厚い本を、そこにある図面まで全部暗記したと いうすごい勉強振りを聞かせてもらった。 その話の途中で、何か思いついたように先生はソファーをたって別室にいかれた、そこ から、ゴムバンドで止めた黒い紙の塊をもってこられた。それは、一〇〇枚もあろうかと 思われる羊歯植物のスケッチである。 「顕微鏡で見ながら描くんだ。和歌山に標本がないものがあるから、京都大学で標本を 借りた。でも標本は、押し花みたいに乾燥している。悪いけどそれをちぎって湯につける んだ。色は戻らないけれどもふっくらと生のものに戻る。それを顕微鏡で見ながら描いた んだ。一緒に論文もあって、大学の先生に手を入れてもらったんだが、戦争で出版どころ ではなくなってしまった。」 中山先生と私は、そのお話に感動しながら大笑いして「もう時効ですね」と申し上げた。 コピー機があれば、その何枚かをコピーしてみなさんに紹介したいと思ったのだが、おう ちにコピー機はない。「もっていってコピーしてくれたらいいよ」とおっしゃるので、そ の宝物をお借りして帰ってきた。 中山先生は「五十部でもいい、まえがきをつけて冊子にして配らせていただこうよ」と おっしゃるので、この「まえがき」を書いている。 二〇〇二年五月四日 雑賀光夫

生物学者としての井上光雄さんA

元和歌山県教育長の井上光雄先生は、もともと生物学者である。私の手元に、先生が若 いころ丹精こめた羊歯植物のスケッチのコピーが丁度二〇〇枚ある。それを私が手にした きっかけは、このあとの中山豊さんと私の紹介をお読み願いたい。 中山豊さんからは、「なんとかこの貴重なものをひと目にふれるようにできないか」と いう電話やハガキがとどく。どうしようかと考えた。 スケッチの現物は、黒い台紙に張られていて、白い紙のスケッチには大抵、羊歯の和名 が記されている。黒い台紙の方に、学名らしきものがアルファベットでかかれている。  その後お伺いしたおり、後に紹介する、井上さんが三省堂にもちこんだが戦争のため出 版に至らず返されてきたスケッチの説明原稿を見せていただいた。さわればぼろぼろに崩 れそうな、六〇年近く前の原稿である。これも二部コピーして、一部は井上さんのもとに、 一部は私の手元にある。スケッチと説明原稿を裏表にして、さしあたり二〇枚だけで、「井 上光雄先生の羊歯植物スケッチ」と題することにした。 ……………………………………………… スケッチの原本は、井上さんの手元にあり、原本からのコピーは、雑賀の手元にありま す。スケッチの全体をごらんになりたい方にはお見せできますし、スケッチの全体を印刷 ・出版することに協力いただける専門家の方がおられれば、ご協力いただきたいなと思っ ています。 二〇〇二年五月         雑賀 光夫

井上光雄さんの性教育

十九日、午後、下津野で「井上光雄さんを囲む会」。 中野上小学校、女学校の教え子、教育関係者があつまった。 井上先生の若い頃のシダ植物のスケッチの抜粋冊子も配られた。  教え子からは、「やさしい先生」「ピアノを弾け、初めて二部合唱をした」など生物学 者にとどまらない教育者像が語られた。女学校での先生像はと話を振られた教え子「ある 日、大事な話をするというので耳をそばだてていると、先生は黒板に男性器の図を描いて 説明なさった」  戦前の女学校での性教育。衝撃だったでしょうね。   * このお話を披露されたのは、中山県議夫人です。

井上光雄さんと和歌浦の干潟

 井上光雄さんを囲む会が教育関係者や教え子で開かれたことは、前のニュースに書き ました。その続きです。  井上さんは、元県教育長である以前に生物学者。貴志川の生物を調査して、ヤポニカ・ イノウエィ・クロダという学名を持つ貝を発見されています。そのほかにもう一つの発見、 和歌浦壺(ファイヤ・バンキャ・サカグチィ・クロダ)の発見があります。この学名にイ ノウエの名前が入らなかったのは、一緒に研究していた仲間に譲ったのだとも言われてい ます。  井上さんは当時をおもいだしながらかたられます。「発見場所は、朝日橋の橋詰めの右 のところです。最近、干潟をなくすような護岸工事の話がでていますが、貴重な生物が生 きている場所を壊してはなりませんね。」