2000/03/18 (土)  「亀山城址」

亀山城址一週間の勤務が終わり、今日は土曜日。晴れて暖かくなりどこかへ出かけたくなった。天気予報では明日の日曜は雨。せっかくの連休だが、出かけるのなら今日しかないと思った。どこへ行こうかと考えた結果、以前から行きたかったすぐ近くの亀山城址に登ることにした。ある人が湯川直春の事を調べたいとメールで言ってきたことも理由であるが。亀山城址は御坊駅北側の亀山の山頂にある。亀山は湯川町にあるが、私は小学校3年生まで湯川小学校に通った。当然、亀山の近くにクラスメートが住んでいた。小学生低学年の時、誘われて子供だけで亀山城址に登った。誰と登ったのか、どこから登ったのか、すっかり忘れてしまったが、城跡の様子だけは微かに覚えていた。何とかなるだろうと車で山の東側にある道を行った。少し坂を上った所で山畑に入る道を見つけた。そこで車を置いて蜜柑畑の中の道を歩いて登った。軽トラックが通れるように道が舗装されていた。急な坂をどんどん登って行ったが、途中で下らなければならなくなって不安になってきた。運よく農作業をしている人に出会い、聞いてみたら、この道を下がって上がってまた下がって上がった所に看板があると教えてくれた。礼を言い、安心して歩いて行った。
最後の急な坂をハアハア言いながら登った。子供の時、こんなしんどい思いをしたという記憶はなかった。私は子供の頃、痩せていたからこれくらいの山は平気だったのだろうか。やっとお坊さんの像が見えた。お坊さんは弘法大師だった。記憶にあったように上はちょっとした広場になっていた。前と違い、整備されて石碑が建ち、湯川氏の末裔達が建てたと思われる碑の前には新しい花が活けられていた。石碑の説明を読むと、湯川氏は熊野に起こり、南北朝時代から有田・日高・牟婁三郡を二百数十年に渡り治めたが、湯川直春の時代に秀吉の紀州責めに遭い滅城したということだった。私が小3まで住んでいた湯川町小松原は、湯川氏の時代、都人がよく訪れていたということも書かれていた。すぐ近くに住んでいて湯川直春の名前くらいは知っていた。多分今までにも説明は聞いたことはあったと思うが、右の耳から入って左の耳へ抜けていた。今回、自主的に登り、石碑を読んだことで湯川直春のことが少しわかった。帰りは看板をたどって下りていった。すると、山の西側の丸山という集落に出た。こちらから登るのが便利なルートなのだった。車の所まで戻った。

昨年、熊野博が開かれ、学校の遠足で行った。その際、熊野古道を歩いた。あらかじめ生徒達と共に「熊野詣で」や「九十九王子」について調べておいた。それで王子について興味がわき、近くにある八幡山中の愛徳山王子に一人で行った。今回訪れた亀山城址には及ばないが、小さな広場になっており、碑が建っていた。身近な地域の史跡めぐりも楽しいものだ。