田辺聖子展と司馬遼太郎記念館日帰り紀行

2006.8.27(日)
勤務先で,ある先生と話が盛り上がり,急に大阪へ行くことになった。「ひとつきだけの田辺聖子文学館」について朝日新聞で連載していた。私は若い頃,田辺聖子の小説をよく読んでいた。実は最近も1冊久しぶりに読んだ。その先生と,「夏休み,どこへも行ってない。もうすぐ夏休み終わってしまう。」とか話していて何となくその展覧会の話をしたら,その先生は「司馬遼太郎記念館に前から行きたいと思っている。」と言うので一緒に両方行こうということになった。それで昼食はホテルランチバイキングということで計画した。インターネットでランチの予約もしておいた。しかし,行く日の前夜,電話で家族が風邪を引いたので行けないと断りの電話があり,一人で行くこととした。

JR伊丹駅から歩いて5分くらいで柿衛(かきもり)文庫に着いた。ひとつきだけの展覧会,それも最終日である。都心から離れているにも関わらず,予想以上に人が入っていた。女学校時代の作文はすべて「A」がついていた。作文は万年筆で書かれていた。字は綺麗で,毛筆も上手だった。

展示物で特に惹かれたのは,ジュモーのアンティークドール。20世紀初頭のものでトランク付き,着せ替えの服が10着くらいついていた。日本のデパートで2百何十万円で購入されたそうだ。経年の汚れはあったが,それもアンティークらしさ。青い目とバラ色の頬。レースの洋服。

ガラスの靴,ビーズバッグ,水差し,ちりめん細工,万華鏡,立体絵本,ドールハウス,ドレス等聖子さん好みの夢のある品々。ちびた4Bの鉛筆の山。宝塚スターの榛名百合と一緒に写真を撮ってらっしゃたが,榛名百合がトップだったのは私が中学生,ベルばら人気の頃である。

隣の酒蔵で展示していた田辺聖子の子供の頃の写真を見た。お父様は写真館を経営され,ハイカラな感じがした。私は約20年前,伊丹に住んでいた。友人がJR伊丹に近いアパートに住んでおり,時々寄った。その頃と風景が大分変わっていた。駅前が綺麗に整備されていた。彼女が住んでいたアパートはもう残っていないかもしれない。

大阪に戻り,予約していたヒルトン35階のレストラン「ウィンドーズ」へ行った。入口で一人キャンセルを伝え,希望していた窓際の席へ案内された。もっと客は多いのかと思っていたが,ランチとしては値段が高いためか(ネットから予約すると10%引きで3327円),埋まっていたのは窓際の席だけだった。日曜なので,バイキングは2部制。私は11:30〜12:50の部。11:40から12:40まで食べ続けた。西洋料理,ナシゴレン,寿司,デザートを食べ終わったら,苦しかった。中之島の美術館へ行く予定だったが,ヒルトンプラザ,ハービスENTへ入ったら,そんなことはどうでもよくなり,エルメス,グッチ,ヴィトンというようなブランド店で目を肥やす。スワロフスキーで白鳥のガラス製置物を買った。冬にコハクチョウに魅せられたので,2006年の記念ということで買った。

司馬遼太郎記念館は近鉄沿線の八戸ノ里から歩いて8分。雑木林風の庭と書斎の間を通って行くとモダンな建物が現れた。安藤忠雄設計。2階分の壁一面の本棚。天井を見上げると,龍馬の影が見えた。2カ所での上映。喫茶があり,ゆずジュースを飲んだ。司馬が描いたアイルランドの挿絵が入ったクリアファイルと記念館限定の「21世紀の君たちへ」を買った。

記念館の庭

御自宅。今は住んでいらっしゃいません。

司馬は30代で初めて小説「龍馬がゆく」を書くために神田古本屋街から龍馬関係の本3000冊を集めた。そのため,一時,神田から龍馬の本がなくなった。司馬は趣味がなく,常に歴史の世界にいたという。趣味が仕事になったということか。羨ましい。

遺品である万年筆はどこのメーカーのものかわからなかった。前に松本清張記念館で見た万年筆はすべてモンブランだった。田辺聖子の原稿用紙は,左側に「田辺聖子」と印刷されていたが,司馬は同じ場所に「司馬」とだけ印刷されていた。

書斎は亡くなった当時のままにしており,書斎の前に直径1mくらいの丸い高めの花壇が作られており,ツユクサが植わっていた。菜の花とツユクサが好きだったそうだ。

門のところにいた係の人にきくと,この家には誰も住んでおらず,一軒隣の家に奥様が住んでいらっしゃるそうだ。

自筆だそうです。

難波に行き,カメラのキタムラで銀塩一眼レフカメラの査定をしてもらったが,2000円と思ったより安くがっかり。これを下取りにして一眼デジカメを買おうと思っていたが止めた。キタムラでは壊れたコンパクトカメラでも私が思っているデジカメを買う場合,3000円で下取りしてくれる。つまり充分撮れる私が持って行った一眼と,下取り価格は一緒なのだ。馬鹿らしくなって,そのまま持ち帰った。高島屋の自由区で,初秋の服を買った。