1月5日(月) パタン・カトマンズ

朝起きると,曇っていた。ヒマラヤは見えるもののエベレストは無理だった。それでも写真を撮った。

バイキングの食事をしていると,アロンさんに「昨日,ボーイに頼んでホットウォーターバッグを持っていかせたのに断ったそうですね。夜,冷えると思ったから持っていかせたのに」と言われた。私は「バッグ」を聞き漏らして,湯たんぽのことを熱い湯と勘違いしていた。しかし,それがなくてもそれほど寒い思いはせずよく眠れた。

8時半にホテルを出た。20人位の若い兵隊の行進を見た。1人しんどそうに下を向いて遅れている人がいた。そのそばに元気そうな人が1人ついていた。ナガルコット近辺の山で兵隊達は鍛えているのだそうだ。しんどそうな若者はひ弱そうな体つきをしていた。つらいだろう。

古都パタンへ行った。パタンは別名サンスクリット語の「ラリトプル」とも呼ばれ,美の都という意味。今も町中が美術館のようなたたずまいを見せているとガイドブックには書いている。ゴールデンテンプル,ダルバール広場等を観光した。







ダルバール広場で,写真を撮っていると,現地の若者に声をかけられた。
「写真はあの建物の上から撮るときれいです。私は,日本語を勉強している学生です。ただでガイドをしてあげます。」
来た来た。その手にはひっかからないよ。
「私はツアーで来ていて,ガイドはいます。」と言ったら向こうへ行った。
ダルバール広場は美しいが,バザールなど町の雰囲気はバクタプルの方が赤茶色のレンガが美しくて良いと思った。

パタン観光中は気の持ちようからか体は少し楽になっていたが,観光を終えるとしんどい思いが戻ってきた。カトマンズのホテルヴァイシャリに着くとすぐに昼食をとった。昼食はホテルのレストランで何を注文してもよいとのことだった。メニューを見てスパゲティを注文した。他は訳のわからない料理の名前が並んでいた。スパゲティはナポリタン風で2人分くらいあった。当然半分は残した。健康なKさんもOさんも残した。それで最後にボーイに美味しくなかったのかと訊かれたが,美味しいが量が多すぎると言ったら納得したようだった。

午後は自由行動だった。ツアーに含まれる観光は頑張って参加したが,自由行動で出かける気力はなかった。私はホテルで休むことにした。Kさん,Oさんは買い物に行くと言って出かけて行った。自由行動日にはネパール最大のヒンズー教寺院であるパシュパティナートとネパール最大のストゥーパがあるボダナートを観光するつもりだった。

夕方になって2人が帰って来た。どこへ行ったのかと訊くと,近所の店を見で買い物をしていたとのこと。Kさんはあれだけ買っていた紅茶をまた何袋も買っていた。本人曰く「店を開けるほど買ったよ。」

夜,アロンさん達が迎えに来て外のレストランへ連れて行ってくれた。7時頃着き,3階へ行った。その部屋は大広間,天井は屋根の三角のままで,やしみたいな植物があしらわれておりエキゾチックな感じがした。民族舞踊を見せてくれるのは7時半からということで,おつまみと地酒のロキシーを運んできた。私はしんどくて,それこそ,ほんの少しつまみを食べ,酒は飲む気がしなかったので,他の人がしゃべっているのを聞いていた。時間になり,綺麗な女性達が音楽と共に入ってきた。ほとんど食べられない私だったが,こういうときは元気が出てくる。写真を夢中になって撮った。7.8人いた女性の中で被写体として気に入った女性が2人いた。1人は顔が可愛い人,1人は大人っぽい雰囲気を持ったスタイル美人。



踊りがすんだら疲労感がまた戻ってきた。メインディッシュを食べに2階に下りた。代表的なネパール料理であるダルバート,モモ,ライス,ロキシーが運ばれてきた。ダルバートとは猪の肉,青菜,豆スープ,チキン,ジャガイモなどの料理を総称して言い,客のテーブルに置いてある大皿に,注文に応じて適量を入れる。私は食欲がないが,味見はしておきたかったので,すべての種類を少しずついれてもらった。アロンさんに「食べなくちゃ治らないよ」と言われたが食べる気がしないのだから仕方ない。それでも少し食べてみた。しかし,体調が悪いので,どれを食べても美味しく感じられなかった。ロキシーを強く勧められたので,一口なめてみた。前に日本食レストランで飲んだものとは雲泥の差のアルコール度だった。きつくて舌がピリピリした。アロンさんはこれを湯水のごとく飲んでいた。彼はロキシーに火をつけた。それに指先をひたすと指先から炎が出た。試してみないかと言われ,Kさんはやった。私は怖かったのでやらなかった。今,思えばやってみてもよかったかなと思っている。

夜,ずっと下痢が続いた。1時間ごとにトイレに入った。こういう状態はインド旅行の時以来である。

1月6日(火) カトマンズ

ツアー最終日,ヒマラヤ遊覧飛行の日である。朝5時モーニングコール,5時45分朝食。食欲は全くない。フルーツ,オレンジジュース,牛乳だけ胃に入れた。6時15分出発で空港には6時半に着く。ロビーで待つ間も下痢で何回かトイレに行った。ヒマラヤ遊覧はしたいが,この体調ではどうかとかなり不安になっていた。7時に1機,遊覧に向けて飛んだ。私達の遊覧は7時半の予定だったが,なかなか呼ばれなかった。そして8時頃,キャンセルが伝えられた。7時に飛んだ飛行機が近くまで行ったところ,風が強く,遊覧は無理ということで引き返してきたらしい。それで今日の遊覧はすべてキャンセルとなった。ロビーにため息が広がった。しかし,私は内心安堵していた。Kさん,Oさんには悪いが,このまま飛んでいたらどうなっていたかわからない。空港窓口で空港使用料を返してもらい,アロンさんから遊覧ツアー代金を返してもらった。ホテルに戻るバスの中で吐きたくなったが我慢した。

ホテルに戻ると,私はやはり部屋で休むことにした。Kさん,Oさんは出て行った。11時過ぎ,トイレで咳き込んだら胃の中のものも戻してしまった。朝食べたフルーツがそのまま消化されていなかった。昼過ぎに1回Kさん達は帰ってきた。ホテルの宝石店で物色していたそうだ。昼食はいらないかと訊いてくれたが,要らないと答えた。再び,彼女たちは出て行った。

夕方,体調が少しましになったので,1人で買い物をしにホテルの周辺を歩いた。パシュミナの無地のショールを勧められたが既に買っているので買わなかった。和紙も便せんやランプフードなと色々あって見ていて面白かった。和紙は日本にかなり輸出されているそうだ。クッションカバーを手にとってみた。安かったが使わないだろうと思えた。実用性を考えてミティラー画のペン立てを1つ買うことにした。

ホテルの宝石店で物色した。並べている宝石は中年の店主自ら造ったものらしい。途中から若い店員がやってきた。なんだかんだ言いながら,トパーズ(シトリン)の指輪,ペンダントトップを買った。ピアスとの3点セットだったのだが,ピアスの台の部分が厚すぎるのが気に入らなくてやめた。買ったあとで,その若い店員が「あなたはKさんとお友達ですか?」と訊くのでそうだと答えたら,「今,Kさんたちと私の村に行ってきました。」と言う。そこへKさん,Oさんがやってきた。本当にその若い店員と村に行ったらしい。部屋に戻り詳しく聞くと,タクシーに乗って,店員が居候させてもらっているおばさんの家に行き,お茶をよばれたらしい。彼はもっと遠くの村の出らしいが,カトマンズで働くためにおばさんの家から毎日バスに乗って通っているそうだ。タクシーで40分のところだったそうだ。Kさん達はおばさん,彼の従姉妹と友好を深めたそうだが,植物で編んだ袋を1000円で買わされていた。現地の物価から考えるとぼったくりである。おまけにOさんはその若者が気に入って,はめていた時計(関西空港で買った安い物)をプレゼントしたそうだ。そして私にヘアバンドをもらってきてくれていた。

体調はマシになったとはいうものの,食欲はわかないので夕食もとらなかった。丸1日食べなかったことになる。水だけは意識して飲んでいた。Kさん達は夕飯を食べに出て行ったが,すぐ戻ってきた。日本食を食べるつもりだったが,ハワイアン料理にしたそうだ。どんなものかと訊くとチキンがメインらしい。

夜遅く,23時45分に飛行機はカトマンズを離陸した。

1月7日(水) 日本へ

下痢は止まったが食欲はまだない。せっかく室内乗務員が運んでくれる料理もほとんど手をつけることができない。口にするのはデザートと飲み物だけだ。それでも眠れたのはましなことだった。ずっと寝ているうちに上海に着いた。現地時間7時。DFSがあった。Kさんはお父様へのお土産に酒を買っていた。私は歩き回る気力がなかったので座って待っていた。

11時5分,関西空港に着いた。ネパールからの便ということからか,麻薬犬にバッグを念入りに嗅がれた。やましいことはしていないので安心はしていた。それに前と比べてイエロー用紙の質問事項が詳しくなっていた。SARSの影響だろう。

帰宅して母に作ってもらった「おかゆ」と梅干しを食べたら元気が出てきた。やはり日本人には日本食が一番である。