■ ムハンマド・ナジブラ パクティア州出身・パシュトゥン人。アフガニスタン人民民主党「パルチャム(旗)」派で国家情報庁の元長官。 1986年5月,失脚したカルマルに代えて党書記長に選出され,翌年11月に大統領に就任した。後ろ盾だったソ同盟軍の撤退が進められる中,不安定な政権運営を強いられたナジブラは,反主流「ハリク(人民)」派との協調路線による政権の安定に腐心する。「パルチャム」「ハリク」は60年代に発行されていた人民民主党の機関誌/紙名で,当時からアフガニスタンの共産主義者は二つの路線に分かれて反目していた。 ソ同盟の傀儡と蔑されることが多いナジブラ大統領だが,路線対立が内在する政権を巧みに統御し,ソ同盟軍の撤退後は一党独裁を放棄して国際的な認知を得るなど決して無能な大統領ではなかった。軍事面では軍閥化した地方軍に頼るだけでなく信頼できる正規部隊を創設。ジャララバード攻防戦でムジャヒディンの攻勢を撃退し,「ハリク」派のタナイ国防相のクーデタも未然に阻止した。政権の安定と軍事的成功にナジブラは自信を深めたが,中央政府が強くなるほど地方軍閥の地位は相対的に低下する。その現実を甘受しないドスタムが寝返った時,ナジブラは自らの政権が未だ脆弱であることを思い知らされた。政権が崩壊して党幹部が次々亡命する中,首都にとどまり政権の最期を見届けることでナジブラは最後の矜持を見せる。カブールの国連事務所に匿われた4年半の後に1996年9月,ナジブラはタリバンに処刑された。 ■ ブルハヌディン・ラバニ バダフシャン州出身・タジク人。カブール大の神学教授でソ同盟軍の介入前後にパキスタンのペシャワルに結集したムジャヒディン指導者のひとり。1982年,ヘクマティアルの党派と袂を分かって「イスラム協会」を創設する。タジク人の利益を代表するラバニの許には優れたタジク人ムジャヒディンが集い,反ソ闘争を通じてラバニ派は反政府勢力を代表する党派に成長した。1992年4月,政府軍のドスタム将軍と手を組んだラバニはナジブラ政権を打倒,旧政権の後を襲った暫定政府の大統領に選出される。 だが,ヘクマティアルとの確執――というより一方的な言いがかりからムジャヒディン各派の連立政権は破綻して内戦が再燃,1996年9月のタリバンによるカブール攻略でラバニ派は北東部バダフシャン州に撤退した。 ラバニは「アフガニスタン救国イスラム統一戦線」――いわゆる「北部同盟」の中心人物であり,2001年12月に暫定行政機構が発足するまでアフガニスタンの国連代表権を持つ国家元首であった。にもかかわらず,ラバニの存在感は部下のマスード将軍ほど大きくない。資料によってはマスードを称揚するあまり,北部同盟の業績の全てをマスードに帰するものさえある。しかし,マスードやイスマイル・ハン,ファヒム(次代の北部同盟軍司令官)といった優れた指揮官を統率していたこと自体,ラバニの器量と伯楽ぶりを物語ってはいないだろうか? もっとも,カルザイ政権の国防相(副大統領を兼任)に就いたファヒムが早速,ラバニ派部隊をゲバったりしてるので,ラバニの信望が格別厚かったわけでもないらしいw ■ アフマド・シャー・マスード バダフシャン州出身・タジク人。イスラム協会隷下の最も有力な司令官。20代でジハドに身を投じ,故郷のパンジシール峡谷を拠点にゲリラ戦を展開する。兵站の防衛と北東部制圧を企図するソ同盟軍はパンジシール峡谷に対して幾度も攻勢をしかけるが,マスードはその悉くを撃退して「パンジシールの獅子」の異名を取った。盟主ラバニの政権下では国防相に任じられるもヘクマティアルの横槍で解任され,カブール陥落後は北部同盟軍の司令官として再びパンジシール峡谷でタリバン阻止の任を全うする。 9.11直前の2001年9月9日,タリバンの刺客による自爆テロルで爆死(タリバンは公式には関与を否定)。享年48歳。 「志半ばで凶弾に倒れた悲運の軍事的天才」というヒロイックな生涯に加えて,人柄は清廉で高潔,地位や名声に拘泥せず,ムジャヒディンにお定まりのアヘン売買にも手を染めず,支配地域の民衆からも兵士からも敬愛されたという。「マスード派」の忠実な部下は数多くいたがマスード本人は分派的な野心を見せることなく,アフガニスタンの解放に献身的な一生を捧げた――と,ほぼ全てのマスード評がこんな調子。そんなスーパー生命体は銀河系にゃいやしませんよ! まぁ,聖人君子かどうかはともかく内戦期のアフガニスタンで第一級の人物だったことは間違いない。ただ,マスードが存命なら新政権の首班に就いただろうかといえば微妙な気がする。結局のところ,少数派タジク人で内戦期の大物であるマスードが「国民和解」政府に馴染むとは思えない。なおかつ,合州国がそれを望むとも思えない。 ■ イスマイル・ハン ヘラート州出身・タジク人。名目的にはイスラム協会隷下のムジャヒディン西部司令官。 内戦初期にヘラートでソ同盟軍を破って以後,アフガニスタン西部でのジハドを完遂し,反ソ闘争の英雄としてマスード将軍と並び称された。イスラム協会主導の暫定政府はイスマイル・ハンをヘラート州知事に任命。ヘラートを掌握したイスマイル・ハンは「アフガニスタン西南部の首長」を自認するようになる。1995年9月,タリバンの攻勢でヘラートが陥落すると,イスマイル・ハンは亡命先のイランから反攻を企図し,下獄されては脱走を繰り返しながら山間部に拠って抵抗を続ける。そしてタリバン壊滅後にヘラート州知事に復帰。アフガニスタンを代表する商都は2004年春の今なお,イスマイル・ハンの事実上の統治下にある。 要するに内戦期のアフガニスタンに山ほどいた頭目のひとりである。ただ,その擁した兵力とヘラート統治に示した手腕において際立っている。名目上はイスラム協会の一司令官に過ぎないが,東部のラバニ派支配地域とは地勢的に離れている点や独自の外交ルートからも実際には独立した大軍閥と見なすべきだろう。もっとも,イスマイル・ハン本人はヘラートの首長の立場に満足していたので,自由に放任してくれる(せざるを得ないともいうw)ラバニ派をわざわざ割って出ようとはしなかったらしい。 2003年8月にイスマイル・ハンはヘラートの地方軍司令官を辞任。だが翌年,ヘラートに赴任したカルザイ政権の軍高官はイスマイル・ハンに追い返された。やはりカルザイに立てる義理はないらしい…そりゃそうだw ■ グリベディン・ヘクマティアル クンドゥス州(またはバルフ州)出身・パシュトゥン人。内戦前から共産主義者やイスラム過激派の活動に関わってきた筋金入りの闘士――と言えば聞こえはいいが,要するに反政府活動ができれば何でもよかったらしい。1976年に「イスラム党」を創設。アフガニスタンに介入する格好の手先としてパキスタンの全面的な支援を受け,ペシャワルのムジャヒディンの中でも特別な地位を占める。特に南東部のパシュトゥン人の利益を代表して苛烈な反ソ闘争を展開した。ナジブラ政権後の暫定政府で首相に就任。しかし,ラバニ大統領の下風に立つことを嫌ったヘクマティアルは事ある毎に政権運営を非難した挙句,政権を離脱して内戦を再燃させる。ヘクマティアル派のロケット攻撃によってカブールは廃墟と化した。1995年2月,タリバンに敗北して部隊の大半を喪失。残兵を率いて北部同盟軍に加わるもカブール陥落時にタリバンに捕らわれてイランに亡命した。 ソ同盟軍介入以降のアフガン政治史における指導者は皆,毀誉褒貶あっても何か取柄が見つかるのだが,このヘクマティアルだけは褒めるところが見当たらない。人気が高いマスードの仇役という点を割り引いても,全ての行動に虚栄心と日和見主義が透けて見える感じ。よく「狂信者」「原理主義者」と評されるが,ヘクマティアルの信仰はもっと融通無碍である。そうすることで世俗的な欲が満たされる時にのみヘクマティアルは原理主義者である――というのが正しい評価だと思う。マスードが暗殺されたと聞いた時,ヘクマティアルは小躍りしてタリバンを祝福したという。こんな下卑た愚物に白羽の矢を立ててしまったパキスタンに同情すべきか,見る目のなさを哂うべきか。 ■ アブドゥル・ラシド・ドスタム ジョーズジャン州出身・ウズベク人。ナジブラ政権下の80年代にアフガン政府軍の軍務に就き,ウズベク人主体の第53歩兵師団を指揮する。だが,その実態はウズベク人の利益を代表して北部諸州に盤拠する軍閥(後の「民族イスラム運動」)の領袖に他ならない。 ソ同盟軍の撤収後,相対的に弱体な政府軍にあってドスタム率いる精強な地方軍は貴重な戦力と見做されていた。事実,第53歩兵師団はアフガニスタン各地で戦闘に従事し,タナイ国防相のクーデタに対しても政府に忠勤を示す。しかし,ナジブラ政権下で地方軍の存在感が薄れていく状況に危機感を感じたドスタムは1992年4月,反政府勢力の誘いに乗って政府に叛旗を翻した。そんなエサで俺が釣られるクマー!(AA略) ナジブラ政権の打倒に果たした役割を正当に評価すれば,ドスタムが相応の見返りを期待したのは当然だろう。だが,結果としてラバニ政権はウズベク人に価値ある何物も与えなかった。それでも,タリバンの脅威に対してドスタムはラバニ政権と渋々ながら結束する。タリバンと通じた部下のマリク将軍にアフガニスタンを逐われた時も,どさくさに本拠地のマザリシャリフを奪ったシーア派軍閥と協力して数ヶ月で復帰を果たした。 いかにも世俗的な独裁者という風貌で実際の手腕も極めて強権的でありながら,ドスタムはおそらく狂信性とは最も無縁の現実的な功利主義者である。2004年春現在,ドスタムは今なお地方軍を解いていない。他民族の軍閥が依然として勢力を保持する一方,「敵対的」なカルザイ政権が政府軍の練成を進める状況下で,頼みの綱の軍事力を易々と手放すほど理想家でも慈善家でもないというわけだ。 ■ ムラー・ムハンマド・オマル ウルズガン州出身・パシュトゥン人。原理主義運動「タリバン」の創始者。若くして反ソ闘争に加わり片眼を失ったとされるが,極端に情報が少なく写真すらほとんど存在しない。 1994年,オマルと彼の弟子たちは南部で活動を開始。30人の弟子と16丁の小銃で決起して連戦連勝,同年11月には民間の隊商を襲ったムジャヒディンを倒す「奇蹟」を成して一躍,注目を浴びた。一連の経過にパキスタン軍部の作為と援助があったことは確実だが,ともかく南部のパシュトゥン人は熱狂的にタリバンを受け入れる。勢いに乗じたタリバンは1995年2月,ヘクマティアル派などのパシュトゥン人軍閥を相次いで撃破してカブールに迫るもマスードらの抵抗に阻まれる。 この頃までのタリバンは広範な「運動」の側面を持っていたが,拡大した運動は必然的に変質する。カブールの敗戦を機に装備の拡充と再編を行い,パシュトゥン人軍閥の残党を糾合するうちに,タリバンは軍閥化していった。それでもタリバンの勢いが衰えなかったのは,指導者オマルの特異なカリスマ性の為せる業である。オマルは初歩的な宗教教育しか受けていないが,パシュトゥン人のマイナーな習俗を(おそらく無知が故に)正統なイスラムの大義と大言壮語して厳格に実行する姿勢が,内戦に喘ぐパシュトゥン人の民衆にアピールしたのだろう。しかし,田舎出の説教師風情が「イスラム最高指導者」とはさすがに言い過ぎだってw イスマイル・ハンやシーア派軍閥を破ったタリバンは1996年9月,ついに念願のカブールを占領。2001年には全土の9割以上を支配下に置くも,その後の急転は知ってのとおり。結局,アル=カイダが躓きの石となった。 ■ バブラク・カルマル アフガニスタン人民民主党「パルチャム」派。1979年12月,ソ同盟軍に殺害された「ハリク」派のアミンに替えて大統領に据えられた。本質はソ同盟の傀儡だが,政権の全期間にわたって存外の指導力を発揮する。軍事的プレゼンスなき後にアフガン政府のコントロールを失うことを恐れたソ同盟の意向により,派遣軍の撤退開始を控えた1986年5月に失脚。同じ「パルチャム」派のナジブラが政権を引き継いだ。 ■ アブドゥル・アリ・マザリ シーア派を信仰するハザラ人の宗教指導者で「イスラム統一党」の創設者。軍閥の領袖というより集団指導体制における第一人者の色合いが強い。後に反主流派(アクバリ派)と分派する。一般にシーア派軍閥は北部同盟の戦列に加わるまでスンニ派ムジャヒディンと一線を画していた。1995年3月,タリバンとの戦闘に破れて捕虜となり搬送中に墜死(タリバンは故意の殺害を否定)。 ■ アブドゥル・カリム・ハリリ マザリの後継者。1998年にイランに亡命し,イスラム統一党の軍事指導は地方幹部のハジ・ムハンマド・ムハキックに引き継がれた。暫定行政機構発足の式次第に名前があるので,タリバン壊滅後に帰国したらしい。 ■ ハジ・アブドゥル・カディル ナンガルハル州出身・パシュトゥン人。ナンガルハル州知事で「ジャララバード・シューラ(評議会)」の指導者。特に東部のパシュトゥン人の間でカリスマ的な人気を誇る。タリバンに降ったイスラム党の一派と決別し,野戦司令官である弟のハジ・アブドゥル・ハクともども北部同盟に加わった。タリバン壊滅後,パシュトゥン人の有力者としてカルザイ政権の副大統領のひとりに任命されるが,前年10月のハクに続いてカディルもまた,2002年6月にテロルに倒れた。 ■ アブドゥル・ラスル・サイヤフ カブール州出身・パシュトゥン人。内戦初期にパキスタンのペシャワルに創設されたムジャヒディン各派の連合組織「イスラム解放同盟」の代表。非妥協的で過激な指導が組織内の反発を招くと,同調者を引き連れて分派した。過激思想はヘクマティアルと通じる部分があるが,ヘクマティアルと違ってゴリゴリの原理主義者。1995年の敗北後,残党の多くがタリバンに合流したのもうなずける。 ■ ムハンマド・ユヌス・ハレス ナンガルハル州出身・パシュトゥン人。「イスラム党」ハレス派の指導者。おそらくサイヤフ以上の原理主義者。わざわざ本家から独立したのに結局,ヘクマティアルやサイヤフの大所帯とつるんでるあたり零細起業家の悲哀を感じる。サイヤフ派同様,ハレス派も大半がタリバンに投降した。 ■ ウサマ・ビン・ラディン サウジアラビア王族出身の元アラブ・アフガン(反ソ闘争におけるアラブ人義勇兵)。豊富な財力と人的資源で国際武装組織「アル=カイダ」を結成する。スーダンの根拠地を逐われたビン・ラディンはタリバンと接近し,アフガニスタンを新たな拠点とすることに成功した。一般に原理主義者とされるビン・ラディンだが,信仰の一貫性はなく「反米」のためにする理論武装に過ぎないと思われる。 ■ ハミド・カルザイ ウルズガン州出身・パシュトゥン人。合州国に留学経験を持ち,ラバニ政権とタリバン政権に外務官僚として参与する(タリバンとは後に断絶)。2001年12月から合州国の傀儡政権の首班。