アメリカ紀行・オレゴンの旅

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アメリカ紀行・オレゴンの旅    Our travel to Oregon in USA
         


アメリカ紀行・オレゴンの旅



1、ことのきっかけ

 わがつまの幼なじみがアメリカ人と結婚し、アメリカ東海岸のオレゴンにいる。
その夫君と最近、インターネットでメールを交換するようになった。インターネ
ットホームページまで開いているのだ。はじめは、つたない英語で交換していた。
そのうちに、ケンさんは、ノブコさんが日本語で書いた手紙をスキャナでとって
送ってくるようになった。さらに、日本語を読みとるソフトまで購入するとい
う力の入れようになった。
  ケンさんとノブコさんのお宅へは、20年前に妻が小学生の息子をつれておじ
ゃましている。私は、お会いしたことがない。メールをやりとりしはじめると、
「ぜひ遊びにこないか」とのお誘いである。そこで、妻と二人のアメリカ旅行と
あいなった。
  まず、旅行日程をどうとるか。書記局の閉鎖期間からいうと5日ぐらいしか
いけない。妻との間の厳しい綱引きの末、書記局閉鎖以外に三日の休暇をもら
って、10日間のアメリカ旅行が実現した。

2、霧の中のアメリカでのノブちゃんとの出会い

  シアトル国際空港は、空から見ると雲に覆われていた。着陸すると霧の中で
ある。入国手続きなどすませ、そこからポートランド(Portland)に
飛ぶわけだ。ポートランド空港まで迎えにきてもらうノブちゃんに電話する。
小銭があれば電話できるとおもったら、これが大変。日本と違って、先にダイ
ヤルする。すると「3分で3ドル70セントです」という表示がでる。一言は
なすのに450円だから高い。日本のように長距離でも10円で一瞬は通じる
という料金体系ではないわけだ。小銭が足りないので、売店で両替してもらい、
それでも足りないので、不必要な新聞まで買って小銭をつくった。
 電話が通じ”Hellow”とノブちゃんがでる。「飛行機が30分遅れる
から」というと「空港のすぐ近くだから迎えにいって、昼寝しながら待ってま
すよ」という。「昼寝しながら」というのを変に思いながら、僕はここで「ノ
ブちゃんの家が空港の近くらしい」妻に言った。それがとんでもない間違いだ
というのは、あとからわかった。
 ここで電話料金にふれておくと、ノブちゃんの家で、「1時間10ドル」の
電話カードをもらった。その電話会社に電話し、シリアルナンバーをかけてか
ら宛先に電話すればいい。一分間20円だから、市内電話に毛が生えた程度だ。
空港から450円で電話したのはなにだったのか。日本でもNTTの民営化に
つづいて様々な企業が参入すればこうなっていくのだろうか。
 ポーランド空港には、ノブちゃんが待ってくれていた。妻とは20年ぶりの
再会をよろこぶ。私は初対面の挨拶をする。車で迎えに来てくれていたのだが、
1時間40分かかるという。ハイウェイを走って1時間40分ということだっ
た。「すぐ近く」と言ったのは、車の中で無線電話を受けたのだった。これで
「昼寝しながら」という意味が分かった。
 車の中で、ノブちゃんとケンさんの出会いのことを聞く。これまでも聞いて
はいたが、本人を知らずに聞いても実感がなく、覚えていなかったから。中学
3年から高校にかけてのペンフレンドなんだそうだ。ペンフレンドのケンさん
が兵役で沖縄にきた。そして、ノブちゃんに会いに、海南・野上電車で沖野々
に降り立って初対面となったそうである。
 1964年ごろ、20才で結婚して沖縄に住み、21才で長男が生まれる。
そしてケンさんについて渡米して35年というわけ。

3、キャンピングカー・きれいな家・小野田元少尉の発見者

 ケンさんは、電話会社(GTE?)につとめていて、兼業農家みたいなことを

していた。7町歩の土地があったが、アメリカでこの程度の土地をトラクター
で耕しても実入りにならないそうだ。海辺にフィッシングのためのセカンドハ
ウスを買っていた。100坪をこす土地付きで170万ドル。200万円だっ
たという。「私のホンダの車と同じ値段よ」という。その家を自分で改装して
きれいにし、元の家と土地を売り払って生活をするようにしたところへ、私た
ちがお世話になる訳である。
 家の前に大きなキャンピングカーをおいている。ベッドが4つおけて、冷蔵
庫も手洗いもある。ビジネスホテルよりも立派だ。それを滞在中、私たちに提
供してくれることになった。この旅行中に知ったのだが、この地方では、至る
所でこうした大型のキャンピングカーを見かける。家の前に置かれているもの、
駐車場にたくさん並んでいるもの、海岸などにいくつかならんでいるものなど。
どこにでもキャンピングカーをとめて、上水・下水をつないでくれるセンター
がたくさんあるらしい。
  二日目、だいぶ気安くなったので、沖縄時代のことを聞いてみた。"Where  did 
 you  live  in  Okinawa ?  Kyanp Hansen?,  Naha?,  Tori Station ?" 思いつく基
地をあげてみる。ケンは知らない地名をあげたが、カデナのとなりのギノのと
なりだという。「ふつうの仕事はきついが、軍務は楽だ」ともいう。沖縄には
1年半いたが、その前はグアムにいたという。1962年頃だろうか。「Japanese
soldiersがいた」と話し始めた。「4人いたが、3人のこった。その兵士が、食
べ物を盗みにきたのを見つけた。話声を聞いた。Wait.と言ったが逃げてしま
った。その後、台風がきて、二人が死んだ。出てきた兵士は、その後、ブラジ
ルへ行ったときいた。」小野田さんのことに違いない。
 「これは驚いた。小野田さんは、和歌山県の海南市の出身だ」とはなした。
  ノブちゃんに話すと、 " It's  a   famous  story." という。
 ”There was a  war  in  Vietnum. Are  you  not  afraid  ?" と私は尋ねた。
”No. I  insisted  to  go  to  Vietnum." という。希望したが留められたらしい。

4、オレゴン州とポートランドの最初の観光二日間

  オレゴン州は、農村地帯である。農林業、酪農、漁業………。いたるところ
の牧草地には牛の放牧をしている。ケンが売った7町歩の土地も、買い手は馬
を飼うらしいと聞いた。

*自分でもよくわからなかったので広さの単位を整理しておく
  1町=10段=3000坪=約10000平方メートル
  1エーカー(acre)=約40アール=4000平方メートル

  一方、オレゴンはコンピュータ産業の先進地域でもある。ノブコさんの息子は、
コンピュータ企業で働いている。
 ポートランドの地名の由来は港町だろう。でも市街地は海辺から少し離れて
いる。大きな川ぞいの港町である。ポートランドという地名は、ほかにもある
らしい。(地図をみていたら東海岸のカナダよりにあった。)ジョーン・バエ
ズが歌った"I lived in  Portland  tawn.  I  loved  in poltland  town. Yes,I
 was. Yes, I  was."  という歌があったような気がする。ノブちゃんは、「それは、
東海岸のポートランドだろう。ここのことなら、ここの人たちは自慢するはずだ
が、話を聞かないから」という。
  オレゴンでの第二日目、目を覚ましたのは午前10時だった。ケンは朝の7
時から釣りに行っている。ノブちゃんが買い物に案内してくれた。途中で、ケ
ンのつり場に立ち寄ると、寒い霧雨の中、まだがんばっていたが、誰も釣れて
いる様子はない。Ocean(海)でのサーモン釣りで、釣れれば30キロもの大
物なのだが、めったにつれない。この記録を書いている第三日までに二日通っ
ているが、釣果はない。針がしっぽにかかったのはあるのだが、放さなくては
ならないというルールになっているらしい。それでもケンは、明日も釣りに行
く。つりとコンピュータが生き甲斐である。
  話はそれたが、私たちの第二日は、Lincoln市での買い物である。いつもは
妻の買い物にはついていかない私も、はぐれないようについて歩く。車で引っ
張れるスーツケースを5000円で買えたのは安かった。日本であれば1万5
000円から2万円のものだと思っておけば、幸せな気分になれる。
  第三日は、ケンが釣りから帰るのをまって、そろってポートランドのダウン
タウンにでかける。ノブちゃんと妻は、昨日と同じ買い物。妻も私を買い物に
引き回すのは気の毒になったのか、「ケンと一緒にコンピューターショップへ
いけ」という。ここで私は、日本語を話せるノブちゃんとは離されて、ほんの
片言だけ日本語をはなせるケンと一緒に買い物にいくことになった。

 ケンは、日本語を勉強したわけではないが、日本人を妻にしている関係で、
多少の日本語を知っている。コンピューターのウインドウズが立ち上がるとき、
いつも「早く、早く、早く」と声をかける。だから私の片言英語と補いあえば、
同行も可能だろうと妻は判断したわけだ。私は、妻の管理にしたがった。

 ケンがいきたい店は、釣り具の店とコンピューターショップである。ケンは、
ポートタウンの生まれだが、ポートタウンは嫌いだという。いろいろな人間が
はいってきて、金をせびられたりするし、車もとめにくい。(ポートタウンの
道路は、ほとんどが、ONE WAY一方通行である)それに、同性愛が多いと、
通行する二人ずれをさして言う。同性愛が退廃なのか人間愛の一つの形態なの
かどうかの評価は別として、ケンはそういった。
 ゴルフコースがあった。私は聞いた。
"Do  you  play   golf  ? "  He  answered"No, I  don't.  I like  computer  
better."  Then  I  said  "I'm  so  too.  Japan  is a small  country. 
But  they  make  many  golf  courses  in  that  land.  I  think  i'ts  
very  foolish. "  私は、彼が "Roads  destroy  nature."というようなことを
言ったように聞いたので「私たちは、自然を守らなくてはならない」と言った。
それをどう表現したのか、ワインを飲みながらだからでてこないのである。「守
る」をどう表現したのか。Keepとは言わなかった。そうそう"We  must  protect 
nature."  てなこと言ったのだ。
 以上、車で高速で走りながらの我らの会話のレベルを知ったら、和教組本部
のみなさんも、私を見直すに違いない。というのは、話せば長いことながら、
話さなければわからないので、事情を知らない人のために、20年近い前のエ
ピソードを紹介せざるをえない。
 1980年代に、私は和教組からヨーロッパにいかせていただいた。教職員
あり方懇の視察旅行だった。その旅行記は、わがホームページにはいっていな
いのだが、「和教時報」で活字になっているので、そのうちスキャナでとって、
「誰も読まない自己満足のホームページ」に紹介することにしよう。さて、問
題のエピソードとは……………視察旅行最後の滞在地パリのホテルでのこと。
私は、ルームキーを部屋に閉め込んでしまったと思った。あわてた私は、フロ
ントに行って、得意の英語を使った。"My  key  is  in  the  room…"ここまで
はいい。その次がでてこなかったので"バタン"といいながらドアを閉める動作
をした。私の英語は、英語嫌いの国、フランスで見事に通用した。しかも、マ
イ・キーは、イン・ザ・ルームにではなく、ちゃんとフロントに預けられてい
たというおまけ付きまであって、私は、フロントに迷惑をかけることもなく、
部屋にはいることができたのである。私は、帰国報告でこの話をした。もっと
ほかにも有益な話をしたのだが、みなさん、特に現書記長が学んだのはこのエ
ピソードだけで、その後の役員にまでかたりつがれている。
 ついでに言えば、数年前ニュージランド視察をしたときは、有益な学術的・
政治的報告とともに「馬から落ちて落馬した」という話と「カジノで大儲けを
した」という二つの追加報告をしたのだが、広まった報告は「落馬」だけであ
る。

 さて本題にもどって、ケンについてコンピュータショップにはいる。僕が買
いたいのは、デジタルカメラにつかう乾電池だけだ。ケンは、コンピュータの
組立をする部品を熱心に探している。ぼくはその間にコンピュータの値段をみ
てまわった。$1800(20万円程度か)というような納得できる値段のもの
もある。その中に、$299というようなものもある。僕は今、IBMのものを
10万円でオルファの世話で中古で買ってアメリカに持ってきている。それよ
りももっと新しそうな日本製のものが7万円ぐらいである。帰りの車の中で、
ケンに値段の表示を確かめた。「$299の後ろに小さい文字で00 とついてい
るには無視していいのか」このことを尋ねるのになんと表現していいのか迷い
ながら……………。英語でどういったのかを忘れてしまった。そのあと僕は付
け加えた。
  "Japaese makers sometims sel at  high  prise in  Japan and  sell  at  low  prise 
in America."
 最後の店は、COMPUSAという。そこでの値段を調べてきた。
(8月12日現在の価格である)
  SONY VAI 0505TR     $1999,99(23万円)
  SONY VAI0z 505SX    $2999,97(35万円)
  SONY VIOCI Pictuer Boo   $2299(27万円)
 全国のジョーシンや二宮デンキで値段を比較してほしい。もちろん、入って
いるソフトの違いもある。そのことを考慮して日本での値段が相当高ければ、
量販店が値下げしていないのか、ソニーが外国ではダンピングしているのかの
どちらかである。

* ここで、ソニーの名誉のために言っておくと、私が調べた限りでは、同機種は、
和歌山のジョーシンでは、アメリカに遜色のない値段で売られている。
 
5、第四日・陽気なフィリッピンの妻ディタさんをNeivieで得た○○さん

  第四日目、日本業者の観光バスで砂漠地帯へ行く予定のところ、前日の午後
11時に、「日を変えてほしい」と電話が入った。日本人の団体が入ったので
ハチだされたわけだ。ひどい話だが、こちらは気楽な旅だからかまわない。明
日の朝はゆっくり寝られてうれしい。もしもサービスが悪ければ、この業者の
名前をインターネットに公表してやればいいと思うし、「地球の歩き方」に送
ってやってもいいと思う。
 こういうわけで、四日目は、ゆっくりと寝て、ノブちゃんとドライブにでた。
「海岸沿いに友人がいるので連れていっていいか」という。大歓迎だ。○○さ
んのお宅に案内された。奥さんはフィリピンからと聞いた。60才だが、ビー
フジャーキーの工場で包装の仕事をしている。午後に仕事にでるというので、
「パートか」ときいたら「フルタイム、8時間勤務だ」という。午後にでて、
午後10時ごろまで働くらしい。
 海辺に家がある。庭の松の木にフロート(魚網につけるうき)をつるしてい
る。よほど釣りの好きな人らしい。このガラスのボールを、僕は、フィッシャ
ー・ボールというあちら製のものだと思っていた。高級なブランデーにフィッ
シャー・ボールというのがある。茶色の球状のグラスを麻の編み目でくるんで
いる。ところが、ここにあるのは、日本をはじめアジア製であった。
 ご主人に話かけると、見せたいものがあると裏庭につれていく。倉庫に2艘
のモーターボートと漁具がいっぱいある。なにをつるのかと聞いたら、かにだ
という。スペルは知らないが「クラブ」という。いきなり言われてもわからな
かったろうが、写真を見せながら話してくれるから「蟹=クラブ」と頭の回線
がつながる。(調べてみたらcrabである)
 アメリカ人の家庭では、家族の写真を飾っている。ご先祖様は、せいぜい自
分が面識ある懐かしい人までで、奥さんの家族、息子娘の家族である。この家
でも、その説明をしてくれた。ご主人は、日本にいたことがあるが、知ってい
る日本語は、トヨタ・ニッサン・ホンダという。日本にいたのは、東京・横須
賀などいう。Neivy(海軍)だとわかった。奥さんとは、フィリピンに海軍で
行っていて出会ったのである。「海軍での生活はどうだったか」と聞いたら「い
ろいろだ」と答えた。この人もベトナム戦争の時代だが、それ以上の質問はさ
けた。
 アメリカでの離婚率は50%ぐらいあると聞いた。その中で、日本やフィリ
ピンで若いアメリカ兵士とむすばれた人たちが幸せな家庭をつくっているのは
うれしい。それとは違った運命をたどった人たちも多かったのだろうと想像し
ながらも、ここは陽気な奥さんがふるまってくれたケーキをごちそうになる。
  そのあとは、ノブちゃんの車で、海岸をまわった。砂浜や灯台や………。観
光地でもなんでもないところで、半日をすごせるのがうれしい。

6、第五日、「オレゴンのグランドキャニオン」「オレゴンから愛」への旅

 フジテレビで「オレゴンから愛」という番組があって、オレゴンは知られる
ようになったのだそうだ。ノブちゃんも、「オレゴンといっても緑いっぱいの
オレゴンと違ったオレゴンがあるのを見て帰ってほしい」というから、「オレ
ゴンから愛」の舞台や乾燥地帯を見物することにした。ノブちゃんの運転では
疲れるから日本の旅行業者のツアーを利用することにしたら、予定日の前日の
夜11時に日程変更の電話が入ったことは先に述べた。
 ジャパンエンタープライズ(日本語フリーダイヤル1-800-684-2680)である。
三人だと$110/1人、二人だと$145/1人という料金である。ポートラ
ンド発なので、ノブちゃんにはポートランドに送ってもらって二人で行くこと
に計画を変更しようとした。前日、連絡しておけばよかったのだが、「割高の
料金を払うのだから」と気楽にしていて、当日、ポートランドに向かう車の中
から電話した。手続きはノブちゃんに任していたので、この電話もノブちゃん
がしたのだが、なんと「キャンセル料を100ドルいただく」とか三人で行く
よりも一人キャンセルする方が割高になるような話にノブちゃんは受け取っ
た。「向こうで前日の11時に日程変更などしながら、法外なキャンセル料と
は何事か。この悪徳業者め」と腹が立ってきた。ノブちゃんは「それなら、キ
ャンセルせずに私も行ってもいいよ」と大和撫子らしいことをいうが、わが妻
は、私に一言いわせないと収まらないと私をたきつける。
 約束の場所に迎えの車がきたので、相手に名刺をわたし、ちょっと怖い顔を
して(私が怖い顔をしても締まらないが)事情をきりだすと、「それはおかし
なことだから、事務所に直接言っていただいたら……。」とやわらかく対応さ
れる。電話で一定のやりとりをしたが、相手の言い分は「当日のキャンセルだ
から三人分の当初の料金を払ってほしい。カタログに書いていないが旅行業法
で認められている。それ以上の金額になったのは、規定のチップ(一人15ド
ル)のことを言ったのだ」ということ。
 結局、キャンセルはとりやめ、三人で参加した。相客が二人おられる。おひ
とりは、退職後とみられる柔らかい物腰の方。おな前を「ツル」とお聞きした。
ラフな服装でいらっしゃるが、「思想の科学」の鶴見俊輔氏ににていると思う
ほど、奥ゆかしい風貌で、ひとかどの人物とおもわれる。「退職後のご旅行で
すか」とお聞きしたら「退職前からこちらで、こちらの方が長いんです」とお
っしゃる。流暢な英語を話し、カメラなどという野暮なものはもっておられな
い。写真をお送りするのでお名前を書いていただいたら、「Mitsuo○鶴」とか
かれている。光栄にもわたしと同名であられる。
  もう一人の若い方は、福岡の方だが学生時代からヨーロッパ、アメリカなど
歩き回り何度目かのアメリカ旅行らしい。その日、昼食のあとレストランをで
て、「アメリカにきておいしいものを食べたことがない」といったら「そうで
す。イギリス・アメリカはだめです。フランスから船でイギリスに渡ったとた
ん、食べ物がまずくて。」とおっしゃる。「イタリア・フランスはおいしいけ
れど、まずいというドイツでもハムやソーセージはおいしいものね。」とわた
しも20年前のスペイン・イタリア・フランスの旅と2年間のドイツ旅行での
食経験を披露したら、「そうです。ソーセージがあんなにおいしいなんてドイ
ツでびっくりした」とおっしゃる。「アメリカでおいしいのはビフテキぐらい
でしょうか」と聞いたら「アメリカ人がおいしいと言っても、堅くてだめです
よ。100ドルぐらいだして高級レストランで注文すればおいしいのを食べら
れるかもしれません」と言われる。アメリカには、「グリル・エイト」も「と
んちゃん」も「城月」もなく、あるのはファミリーレストランとハンバーガー
ばかりである。
 さて、5人はガイドの運転で、走り出した。ガイドの○○さんは、教師では
ないが中学・高校生とかかわっているという、誠実そうな方である。中学時代
に家族でアメリカに移民してきて20数年になるとおっしゃる。運転しながら
のガイドは大変だ。私も、はじめにいやな話を切りだしたものだから、協力し
なくてはならないと思い、運転席で頷きながら聞く。
 ガイドさんは「アメリカ文化」について語るのにクイズをだす。「ピューリ
タンであるピルグリムファーザーズがアメリカ大陸にきたとき、手のひらに乗
るぐらいのものを持ってきてアメリカ文化に影響を与えました。それは何でし
ょう。」というクイズだった。「金」という人がいた。私は「十字架」と言っ
たら「近いです」と言ってくれた。すかさず「聖書」という正解を答えた方が
いた。そこから「アメリカ文化はキリスト教を理解しないとわからない。聖書
はラブ・ストーリなのです。クリスマスの意味もアメリカにきてはじめて知り
ました。こんな話、興味があればお話ししていいですか。」とおっしゃる。助
手席にすわった私は、先に述べた使命感から「聞きたいですね」という。
  そこから、アダムとイブの禁断の木の実のこと、人間の心臓に穴があいたが
その穴は、金によってもドラッグや快楽によってもふさがれないで神様と一体
になることによってしかふさがれないことが話される。しかし、神はドアの前
にたって、自分からはドアを開けない。ドアを開けて聖書の押し売りをするよ
うなことを、神はなさらないのだという話であった。「この聖書の精神がある
からアメリカは国際貢献するんです」というのは見当はずれだが、聞き流して
おいた。このガイドさんは牧師さんなのだろうか、中高校生とかかわっている
というのはジュニア・レッド・クロスのような仕事をしているのに違いないと
思った。
  ガイドさんは、そのあとは、本来のガイドの仕事にもどられる。今回のメイ
ンは、インディアン居住地にもなっている砂漠地帯である。西海岸からの海風
が山に遮られて、乾燥地帯ができている。それを「オレゴンのグランドキャニ
オン」ともよぶ。その風景は、beyond descriptionである。西部劇の場面そのま
まだ。そこがインディアンの居住区になっていて、カジノがある。砂漠の中に
川があり、ある場所までいると砂漠の中の黄色い岩山と大きな川とダム(そこ
に小型の発電所がある)の深緑の水が、壮大な景観を作り出している。「オレ
ゴンのグランドキャニオン」とよばれるゆえんである。ガイド氏によれば、グ
ランドキャニオンは、この10倍も壮大だという。
 今回のアメリカ旅行でカジノは2回目である。さきにリンカーン市で買い物
をした後も、カジノによったのだ。ここでも、「カジノはインディアンの仕事
になっている」という話を聞き、複雑な気持ちになっていた。ラスベガスのカ
ジノはマフィアの支配するところらしいが、オレゴンの大部分のカジノは、イ
ンディアンの生活保障になっているというのだ。ガイドさんは、「アメリカ人
はインディアンの土地を奪ったのだから、お金でその補償をしている。エスキ
モーの場合も同様で、私の友人は、月10万円が政府から支給される」と説明
してくれた。
 考えてみれば、黒人はアメリカ社会で差別されながらも、マルティン・ルー
サー・キング牧師のような指導者を生んだ。歌手、スポーツ選手、そのほかに
学者、医者、弁護士など生んだであろう。ところで、インディアン出身のエグ
ゼクティブはいるのだろうか? ガイドさんにたずねた。「インディアンの総
人口はどのくらいですか?」アメリカの黒人人口は膨大である。傑出した人材
が出現しないのは、その人口比によるものなのか、おかれた立場によるのかを
知りたかった。ガイドさんは、インディアンの総人口についてはご存じなかっ
たから、日本に帰って調べてみることにしよう。
 帰りは、ポートランドで寿司をたべる。久しぶりの日本酒の熱燗が腹にしみ
る。寿司は「小僧寿司」程度のものの回転寿司。四人たべて熱燗一合1本で計
3500円程度。よくはやっている。

  付記
 先にふれたニュージランド視察旅行は、カジノと落馬だけの旅行でなく、ニ
ュージランドの行政改革・リストラの光と陰を視察するものだった。その際、
原住民・マオイ族の労働組合の指導者との会見をした。マオイ族は、侵入者と
の間で、ワイトミング条約をむすび共存をはかる。それは不平等条約であるが、
状況の変化から、政府がマオイ族に多額の補償を強いられると言う状況も生ま
れている。(私は、その補償が、自立を妨げる退廃を生みはしないかと危惧を
もった。この際わたしの危惧は横に置いておこう。)
 対等でないにしても、条約を結んだマオイ族が何人もの国会議員を持ち労働
組合の指導者は反核運動にも参加しているのと、一方的に虐殺され、いま受け
身で「保護」されて、観光とカジノでくらしているいるインディアン(私は、
事情をよくしらないので、不正確なら教えてほしい)の違いという問題が、大
きな問題意識になっている。

7、ポートランドのホテルでフロントへ鮮やかな英語

  キャンピングカーでの宿泊は快適だったのだが、ベイ・シティの生活は、一
つの問題を持っていた。僕のアメリカ旅行の計画を聞いた和教組本部の友人は、
「そんな田舎へ行って見るところないのとちがう?」と率直に言ってくれた。
僕は、「普通のアメリカを見てくるだけでいいんだから」など言っていたけれ
ど、元々、妻が幼なじみに会うために駆り出されたアメリカ旅行だ。友人の心
配は当たっていた。和歌山でいえば、清水町あたりに宿泊して、ときどき和歌
山へ出てきて買い物するという生活である。Sent Hellenの火口をヘリコプター
で見ようとノブちゃんの車ででかけたが、雨でヘリコプターがとばないので引
き返したことがあったが、清水町から遊覧船にのろうと白浜へ行ったが波が高
かったので田辺市で買い物して帰ったというようなものである。その日は30
0キロ以上走っただろうか。ポートランドからベイシティまで、片道100キ
ロのハイウェイを高速で走ってノブちゃんは何回往復してくれたことか。それ
も全く苦にしていないのであるが………。でもこっちがしんどくなってきた。
 帰りは、ポートランドからシアトルまで飛行機で飛んで、そこから関空に飛
ぶのが、旅行会社の旅行計画である。シアトルまでの飛行機をキャンセルして、
シアトルでホテルに泊まることを考えた。ところが、航空会社に掛け合っても、
キャンセルがきかないという。ポートランドから乗らなくては日本に帰れない
かもしれない。「ファーストクラスなら変更できますが、エコノミーでは変更
できません」という。「バカヤロウ。変更できないだけ言えばいいんだ!エコ
ノミークラスは荷物扱いか」というくらい腹が立つ。そこで、二日間、ポート
ランドのホテルに泊まることに決めた。
 ノブちゃんに申し出るとき、わたしは妻に「相手は引き留めるが、こうした
いとはっきり言いなさい」と申しつけた。わたしは妻から申しつけられること
が多いが、たまにはこうして申しつけることもある。朝食の時、妻が言い出さ
ないのでわたしが言い出したら、「もう一日ここに泊まったら」とも言ってく
れたが、「そんな希望ははっきり言ってくれたらいい」(この言葉がアメリカ
人になりきっているノブちゃんらしいと印象的)とわたしの提案が採用された。
ホテルは「地球の歩き方」(旅行の手引き)をみて、ノブちゃんがとってくれ
た。二日間で、立派な部屋が300ドル。まあいいや、多少の贅沢は…………。
という訳で、二日早く、Kennth夫妻(ノブちゃんとその夫)にポートラ
ンドに送っていただき、フランス料理店で私たちの感謝・招待ディナーをして、
僕たちはホテルの人になった。
 マリオット・ホテル・ポートランドという。なかなかいいホテルだ。ただ、
エアーコンディショナーの音が少しやかましい。エアコンがやかましいのは和
教組でなれているから我慢しよう。そのホテルに、僕はノブちゃんからもらっ
たワインを持ってきていた。持ち帰るのは重いから飲んでしまおう。ところが
栓抜きがない。そこで、フランス料理店でノブちゃんに尋ねた。「ワインの栓
抜きなんていうの」「コルク・スクリュウでいいですよ」
 僕は、ホテルの部屋からフロントへ電話した。"This is room  number 1216.
 I have a  wine  bottle with  me.  I'd  like  to  have  it." それだけで
相手に話は通じたように思った。しかし、僕は急いで付け加えた。"Can I have
 a  コルク・スクリュウ ? "  "Ok"と返事があって、栓抜きが部屋に届けられた。
1ドルのチップを用意しておいたが、ボーイさんはドアのところで栓抜きを渡して、
鮮やかに立ち去ったので、チップをわたし損ねた。ゴメンナサイ。


8、ポートランドでの博物館・美術館そして川辺でのお祭り

 ポートランドのホテルに泊まった二人は、この一日を案内なしで過ごさなく
てはならなかった。安心なのは博物館・美術館まわりだ。
  ダウンタウンの歩いていけるところに歴史博物館・美術館がある。まず、歴
史博物館に入る。ちょうど、博物館前の広場で、黒人の音楽と踊りが披露され
ている。無料である。見物の黒人の子どももリズムに合わせて踊っている。見
物人のなかでも体を揺すりながら聞いている人がいる。博物館のもようしなの
だろうか?
  昼御飯は、公園(緑地帯)のベンチで、屋台のピザをかじってすました。午
後は、美術館のほうに入ってみた。日本をはじめ東洋の美術作品がよくあつめ
られている。北斎も安藤広重もある。役者や美人画の浮世絵もある。日本、朝
鮮、中国、インドなどの仏像、陶磁器など豊富である。「これでは、全部見る
のに夜までかかる」と思ったのだが、アメリカ・ヨーロッパの作品は、そう多
くない。ピカソは1品あった。現代アート風のものもある。アジアに力を入れ
た美術館なのだろうか、それともこの日は、こういう展示をしていたのだろう
か。
  夕食は7時からホテルでとろうかと言いながら、僕は町に出た。昨夜はよく
眠ったから、今夜は眠れないおそれがある。眠れないときにほしいのは酒だ。
ところが、手元のワインは半分を切っている。そこで、バーボンの小瓶でも手
に入れようと歩き出さしたのだった。これまでの生活で、リカー(liquor蒸留
酒)は、決められた店にしかなく、ワインはスーパーにもあることを知ってい
たから、ワインでもいいと思っていた。ところが、めざす店が見つからない。
"Where can I  get  liquor ? "と通行人に尋ねる勇気もない。歩いていると「村
田」という日本食の店もあった。夕食はレストランでなくここでもいいかな、
とも思う。ホテルまで一巡りしてから、近くに観光センターがあるのを思い出
した。川沿いだからわかるだろうと歩き出した。「観光センター」=「物産}
=「地酒」という等式が頭に浮かんでいた。いやはや、あきらめが悪いものだ。
旅先の眠れぬ夜というのは、いやなのである。ところが、観光センターは単な
るオフィスであって、物産などない。
 そのとき、川辺の方から音楽が聞こえた。人々がそちらに向かって歩いてい
く。明日は、海南・黒江での下駄市の日だが、夜店に向かって人々が連れ立っ
ていくあの雰囲気だ。近づいてみると、公園にあつまって、屋台が出ている。
舞台では音楽が演奏される。たくさんのテーブルで飲み食いしている。ホテル
の食事よりこのほうが土産話になる。僕は、ホテルにとってかえして、妻をつ
れだした。妻は、「ホテルで食べたら100ドルかかるが、その方が安い」と
賛成する。
 入り口で2ドル払ったら、シールを渡される。服に張り付けろという。シー
ルには " I support  Spesial  Orinpics  Oregon "と書いている。食べ物を探
していたら焼きそばがあった。「大阪屋」という。女の子も日本人だ。「何の
祭りですか」と聞いたら「売り上げの一部をオリンピックに寄付するんです」
という。オリンピック招致の計画があるのだろうか ?。
  ビールをのみながらも、眠れぬ夜のためのワインをさがす。すると囲みの中で、
試飲会をやっている。5ドル払って入る。これで飲み放題かと思ったら、一回の試
飲が50セントである。それも少ししか入れてくれない。妻をほおって飲み回って
いるわけにも行かないので、小さいボトルを8ドルで手にして席に戻った。
 ここの食べ物は脂っこいので辟易するが、最後に手にしたゆでたコーン(ト
ウモロコシ)はおいしかった。

9、同行の奥さんは裸足で走った帰りの飛行機の乗り換え

  オレゴンとの別れの日が来た。ノブちゃんは、またも100キロの道を遠し
とせず、ホテルまで迎えにきてくれた。なんとディタさんまで一緒に見送って
くれる。心配なのは、シアトルでのノースウェスト機への乗り換えである。ポ
ートランド空港でノブちゃんができるところまで手つづきをし、ノースウエス
ト機の搭乗手続きまですましてくれた。係員の女性も大変親切で、私たちのた
めに20分も時間をかけて手続きに応じてくれ、「シアトルの空港に日本語し
か分からない人がくるからと連絡しますが、100%対応できるかわかりませ
ん」とまで言ってくれた。
 ポートランドからシアトルまでは、60人乗りぐらいのホライズンのプロペ
ラ機である。それがなかなか出発しない。機体の整備で遅れるのでなく、乗客
が間違えて乗るのを乗せたりおろしたりして遅れるのだ。田舎のバスみたいな
ものだ。30分遅れた。乗り継ぎ時間が50分しかない私たちは気がきではな
い。ポートランドから一緒に乗った奥さんがいた。娘さんがアメリカ人と結婚
し、初めてアメリカにきたのだそうだ。「シアトルでわからなかったら、イク
スキューズ・ミーといって見せなさい」と言って娘さんが書いてくれて英語の
メモを握りしめている。3人とも関空いきだから運命共同体である。
 小型機は、30分遅れでシアトル国際空港・国内線ロビーについた。20分
で国際線にうつって、出国手続きまでしなくてはならない。国内線から国際線
へのシャトルバスのなかで、僕らは焦っていた。しかし、運転手の女性は、乗
客と冗談を言いながらのんびりはしる。「もう5分しかない!」バスが止まら
ないうちから立ち上がって、私たちは階段を駆け上がった。係員をつかまえて
切符をみせながら、出発ロビーにたどりついたのであった。あとで知ったのだ
が、一緒になった奥さんは、ハイヒールを脱いで走ったのである。
  出発ロビーについてみると、関空行きのノースウェスト機は、搭乗手続きが
遅れて、まだはじまっていない。私たちは、ほっと一息つきながら、乗り換え
時間を50分しかとらなかった旅行会社の係員をこき下ろしたのであった。
  しかし、考えてみると、私たちの荷物は飛行機を乗り継いで関空までとどく
のだ。私たちの名前は、搭乗者名簿にのっていて、ポートランドからの小型機
に乗ってくることもわかっているのだ。それをほっぽりだして国際線が出発す
るとしたら、世界中で毎日パニックが起きるにちがいない。関空につく頃に気
づいたのだが、ホライズンのプロペラ機に遅れ気味でのって飛行機の出発を遅
らす役割を果たした外国人の母子がいた。その母子は、シアトルのシャトルバ
スでは見かけなかったのだが(一つ後のシャトルバスになったということだろ
う)、ノースウェスト機には乗っていた。旅慣れた人は、「飛行機もまってく
れる」と悠々と旅をするのかなと思った。旅行会社の係員をこき下ろした私た
ちは、天に向かってツバしたのかもしれない。
  ノースウエスト機が飛び立ってまもなく、女性の客室乗務員が「雑賀さんで
すか」と声をかけてくれた。「ポートランドから連絡がありました。ご用があ
ったら何でも言って下さい」とのこと。ノースウェスト機にのったら、もう何
も心配はないのだけれども、ポートランド空港の女性の係員の配慮が、ここま
で「100%」届いたことに感謝したのだった。

                                    雑賀光夫
                                    1999年8月15日




         


Our travel to Oregon in USA


Our  travel  to   Oregon  in  USA

1    The reason  why  we  made  a  trip  to  USA

  An old  friend  of  my wife  Yasuko's  got   married   with   an   
American and lives in  Oregon  on  the east coast of  USA. Her name  is  
Nobuko. Her  husband  is  Kenneth, alias "Ken". We recently have  come  to
 communicate through Internet. Ken has an Internet  home-page of  his  own.
 At  first  I sent mails in  my poor  English.  Soon Ken & Nobuko  came to
take  the photographs of Nobuko's  handwriting 
letters and send them to us.  Recently  Ken  got a ward-processor program 
software to read Japanese. 
  My wife called at their house with my  son Koji who was  an elementary
schoolboy.  But I hadn't seen them.  After we began to communicate through
Internet , they  insisted  on our calling  on them.   Then we made up our 
mind to make a trip to USA.
  How long can we make a trip -that was a question. My vacation of Wakyoso
is  very  short.  We  can  make only five days trip.    I  got three-days 
vacation more and we could  make ten days trip to USA.
  

2    We  met  Nobuko  in  a  foggy  airport  in  Portland.

  Seattle International Airport  was covered  with  cloud  when  I looked 
 down from  the  airplane.  When the airplane landed  it  was  foggy  all 
 over.  
  We had entry admitting and  then took a  fright to Portland.  Before our
 fright I  telephoned  to  Nobuko.   There  was  a  problem.   We supposed
 we  can  phone  with little  coins.  But  the  system was different  from
that  of Japan.  In USA  we dial  the  phone number  at  first,  then the 
message is displayed  "3$ and 70cent/minute " next.   
 It cost us 450 yen to tell only one word in  this  case.  In  Japan  we  
can  talk by 10  yen to talk for a short time.  We had not enough coins , 
and so we changed  money  and  bought newspapers  which  we did  not need
at the stand.
  "Hello",  Nobuko responded  to my call. I  told  her,"The  airplane is 
delayed about  30 minutes."   Then  Nob-chan said  to me ," I'm  near the
Portland  Airport.  I'll  be  waiting  for you  taking a  midday  nap." I 
could  not understand  why  she  should take  a  nap.  But I told  my wife,
 "Nobu-chan  lives near the airport."  I knew later that it  was  my  mis-
understanding.
  Now let me tell you about telephone fee system in USA.  Nobuko  gave us 
a telephone card  "10 dollar / hour".
  The system  is  @at  first  phone  the  company  Anext dial  my   pin-
number  Bat  last  dial the  number  I want  to  talk.
  In this system our phone to Japan cost us only  20yen /minute.  Compered
 with  Japanese  telephone fee  it's a little  over short distant  phone 
call fee.  I felt it was very  foolish to have  paid 450 yen to telephone
Nobu-chan  from the airport. In Japan it may be the case  in  near  future.
  Nobu-chan  was waiting  for  us  at  the  Portland  airport. Yasuko  and
Nobu-chan  was very glad  to  see  each other after  20  years  interval. 
I greeted  the  first meeting.  Nobu-chan  had  come  to the  airport  by 
car.  It  takes 100  minutes through highway from  her  house to the air-
port.  Now  I  understood why Nobu-chan  said " I'll be  waiting for you 
taking a midday nap."  She  had a telephone in her car and received  my 
telephone  call  in her car near the airport. 
 Driving to  her home I heard  the story  of  her  marriage with  Ken.  I 
 might  have  heard  the story.  But then  I  didn't  have  seen Nobu-chan.
I  didn't  feel  reality.  So that I didn't  remember  at all.  
  Nobu-chan  and Ken  were  pen pals  in their  high school days. Ken came
to Okinawa in his  military  service.  And  he  came  to Okinono/Kainan to
see Nobu-chan  by  Nokami-local-train. Then  they had  a historical first
meeting.
  Around 1964  they   were  married , when  Nobu-chan  was  20  years  old.
The  first son was born  next year.  Soon  she  went  over  to  USA  with 
Ken.  35  years  have  passed  after  that.


3  Camping-car , Pretty house ,Discoverer of  second liteunant Onoda

  Ken worked  for telephone company-GET. He  was  a farmer as a  side job.
He had  more  than ten-acres field. In USA  this  field is  not enough to 
live on agriculture. Ken and Nobuko had got a second  house  near  the sea
for fishing pleasure.  The house  was 15 meters in width and 20 meters in 
length. The house and the field cost  them only 170 dollars when  they got
them.  "It  cost only as  much as my  car  of Honda."  said Nobu-chan. Ken
reformed the house beautiful by himself and moved over to the house, sell-
ing their old house and wide field. Just after the removal we visited and 
stayed  there.
  There was  a big camping car  by the  house.  It was wide enough  to set
 beds for four  people to  sleep  on.  There is  an  icebox  and  toilet. 
It's  better than a room of the hotel of business class. They offered  the
car for us to live in during our stay in Oregon. We soon noticed that we 
could find such a car everywhere around  in our trip.  Some were in front 
of the house. Some are in the parking. Some  are in the seaside. Nobu-chan
told  us  there are many camping centers where they supply  water  and let
the filthy water.
  The second day in USA , I had come to friendly  with Ken ,and asked him 
about his  younger days in Okinawa.
  "Where  did you live in Okinawa ?  Camp Hansen?,  Naha?, Tori Station ?"
 I listed up the military bases I knew. Ken told a place which I didn't 
know. The place was by Gino by Kadena.  He  continued "Works to live are 
hard , but military services are easy."   He  was in  Okinawa for a year 
and half. Before that he was in Guam. It was around 1962.  "I met Japanese
soldiers", he said. "There were four  before. Three serveived."  They came
 to steal something to eat. I found them and heard them talk. I shouted ,'
Wait! '  But  they  ran  away. After that a typhoon  came to  the island ,
and two of  them died. The soldier came out living  went  over to Brajir 
later , I heard."
  The soldier must be second liteunant Onoda. I  was  surprised  and 
said ", Second  liteunant Onoda was  born and  lived  in  Kainan City wher
e I lived in."  I told my surprise to Nobu-chan ,  and  she said , " It's 
a  famous  story." 
 I asked Ken ”There was a  war in  Vietnam. Are  you  not  afraid ?" He 
answered  ”No,I insisted to go to Vietnam but didn't permitted to go."


4, Our sightseeing in Oregon and Portland on the first two days

  Oregon is  an agricurtuer distorikt………farming , forestry , dairy and 
fishing. We can see  cow pasturuge  everywhere in the dairy fierd .
In the  wide fierd Ken had sold the said houses would be put to grass .
In the other hand , Oregon is an advanced place of computer industry. 
Nobuko's son works in a famus computer enterprise.
 Origin  of Portland is "Land of port", I guessed.   But  it is  far from
the coast.  It's  a  port  by the side of a river.  There  is  another  
Portland in the USA.  (I's on the east coast.)    Jone Vaese once  song "I
lived in  Portland  town.  I  loved  in Portland  town. Yes,I was. Yes, I 
was.………"  
 Nobu-chan said " I suppose it's Portland  on the east coast. Oterwise 
they will  be proud of that here. But  I hove not heard about it."
  On the second day in Oregon, we woke up at ten o'clok in the morning.
Ken had gone fishing.  Nobu-chan  took us to shoping.  In our way to 
syoping  we visited Ken's fishing spot.  In the cool fog,  Ken was 
eagerly  fishing.  No on had fished. In the ocean sermon fishing, they
can seldom fish. If thay fish ,thay  get 30Kg  big one.



4, Our sightseeing in Oregon and Portland on the first two days

  Oregon is  an agriculture district………farming , forestry , dairy and fishing. We can see 
 cow pasturage  everywhere in the dairy field .
In the  wide field Ken had sold the said houses would be put to grass .
In the other hand , Oregon is an advanced place of computer industry. 
Nobuko's son works in a famous computer enterprise.
 Origin  of Portland is "Land of port", I guessed.   But  it is  far 
from  the coast.  It's  a  port  by the side of a river.  There  is 
another  Portland in the USA.  (I's on the east coast.)    Jone Vaese
 once  song "I lived in  Portland  town.  I  loved  in Portland  town.
Yes,I was. Yes, I  was.………"  Nobu-chan said " I suppose it's Port-
 land  on the east coast. Otherwise they will  be proud of that here. 
But  I hove not heard about it.
  On the second day in Oregon.  We woke up at ten o'clock in the  mor-
ning. Ken had gone fishing.  Nobu-chan took us to shopping. In our wayto  shopping  we 
visited Ken's fishing spot. In the cool fog,  Ken waseagerly  fishing.  No on had fished. In the 
ocean sermon fishing, they
can seldom fish. If they fish ,they  get 30Kg  big one.
  I'm  writing  this report  on the third day in USA.  Ken has gone
fishing to days.  But he could not fish one. Once he caught one by its
tail.  It is a rule to relieve one in this case. Ken is going fishing
tomorrow again. His hobby is computer and fishing.
  We went shopping to Lincoln City on the second day. Usually I don't
like to go shopping with my wife. But this time I followed them so that
I wouldn't lose may way.   We got a big bag whit wheels that can be 
carried  pulling. It cost us only 5000 yen. We felt happy for it must
cost us 15000 yen or 20000 yen in Japan.
  On the  third day we all together  went shopping in the downtown in
Portland after Ken came back from fishing.  Nobcan and my wife went 
shopping as they did on the previous  day.   My wife said to me, "You
should go to  computer shop with Ken, for you don't like shopping with 
me."  So I went shopping with Ken parting from Nobuchan who 
can speak Japanese.
  Ken has not learned Japanese. But he ,who lives with a Japanese wife,
knows some Japanese words.  When computer window starts  he calls 
"Hayaku  Hayaku hayaku (harry up)!"  So my wife thought we can comuni-
cate  each other.  I agreed to her.
 Ken would like to go to a fishing house. On the way I talked with Ken
in my poor English. He said, " I  was born and lived in Portland, but
I  don't like this town.  Many kind of people live here. Some extort 
money from us. It's hard to park a car. There are many homosexuals."
He said so pointing to the couple rosing the street.
  Ken said so, but I don't know weather homosexual is decadence or 
one  of the case of human love.
  There was a golf course. I asked him " Do  you  play   golf ? "  He
answered "No, I  don't.  I like computer better."  Then I said  "I'm
so too.  Japan is a small  country.  But they make many  golf courses
in that land.  I think it's  very  foolish. "  He said  "Roads destroy 
nature."  I agreed and said "We  must  protect nature."  
  If they know the conversation in the car on highway ,my friend in 
Wakyoso  will  have another look at me.

 The reason is ……… It's a long story. But I'll tell it for you who
doesn't  know the affair. It's a episode about 20 years ago.
  1980 I had an investigation trip to Europe from Wakyoso. I to was
Teachers Arikatakon investigation trip. I have not up the story in my
home page.  I have printed it on Wakyoso paper,  so I will up it on my
home page someday.
  Now I'll tell you the episode.  It was at the last spot on that trip.
I thought I had locked my key in my room in the hotel in Paris. I was
annoyed and went to the frond desk.  I said in English fluently, "My
key is in the room………."  I didn't know how to express myself next.
So I said, "Batan", with an action of shutting a door.  Hotelman of
France, in this country they are proud of French and dose not like to
speak English,  fully understood what I meant.  In addition my key was
not in the room but at the front desk. I could go into my room without
annoying hotelman.
  After came back to Japan, I reported the investigations in detail 
and added the episode.  But my friend ,especially secretary  Kotoura,
learned only the episode and nothing from my investigation reports.
  I made an investigation trip to New Zealand some years ago. At that 
time  I reported many things that learned in New Zealand. And I added 
two reports "I gained much in Kajino(gambling house)"  and  "I had a 
fall from my horse". In two report  only "my fall"  was  widely spread.

  Now we went into a computer shop. I wanted to get a dry cells to use
digital camera. Ken was eagerly looking for parts to compose computers.
In the meantime I looked at computers and saw how much were those.
Some are $1800(200000 yen).  That's  normal price.  One of them was
a used one and  is $299 (35000 yen).
  I got old IBM laptop computer at the price 100000 yen from Orfa in 
Japan  ,and had carried it to USA.  In this shop I could find not so 
old Japanese model and it was about 70000 yen.
  In our way back in the car I asked Ken and ascertained the price and
said to him , "Japanese makers sometimes sell at  high  price in Japan 
and  sell  at  low  price in America."
 The computer shop we  visited last was COMPUSA. I checked the 
price of those of Japanese models.(Price on 12 August)
    SONY VAI 0505TR     $1999,99(230000yen)
  SONY VAI0z 505SX    $2999,97(350000yen)
  SONY VIOCI Pictuer Boo $2299(270000yen)
  let's compere them with the price of those Josin and Ninomiya in 
Japan.  We must consider that in Japanese soft cost high. Taking it 
into consideration, if those computers are sold in much  higher cost,
Josin and Ninomiya is selling at high price or Sony is damping in the
foreign countries. 

 * I must tell you here for the  honor of Sony.   As far as I have 
investigated  Sony computer is not so high price in Josin in Wakayama.

                                ( not the end)