社会科学の部屋・部落問題分室
編集・発行 雑賀光夫


未解放部落「政治起源説」をめぐって
身分・階級・弁証法 渡辺広先生の追悼に代えて
部落差別と弁証法 メモ
同和特別対策終結Q&A(1998,7,9掲載)
困難な中だからこそ共同が広がる…全教・部落問題学習交流会に参加して
海南・海草地方の同和教育運動の歴史と教訓(1979年)        
  めざめゆく子どもたち 1977年度全国教研

めざめゆく子どもたち 1977年度全国教研
−海南市立野上中学校の実践を中心として−
      海南市立野上中学校  雑賀光夫

* ここに紹介するのは、私が教師一年目で全国教研(新潟)に参加した生活指導分科会 のレポートである。政治主義、教育と運動の混同など、まから考えれば恥ずかし。「解 放教育」の福地幸造に傾倒してたころでもあった。 「青春の記録」として掲載する。 文中 *印で、現時点での注釈をつけた。     (2001年9月) 一 はじめに  世の中のさまざまな矛盾、親の苦労、そういったもの背負ながら子どもたちは毎日学校 に通ってくる。学校では、教育の軍国主義化が「教育正常化」の名のもとですすめられて いる。その中で.子どもたちも苦しみ、教師も苦しんでる。一体どうすれば、それをはね かえしていけるのだろうか。  これまで、多くのすぐれた実践の中で、いろいろなことがわれてきた。「非行児は宝 である。」「子どもたちの要求を大切にしよう。」私たちは、今、このような問題提起の積 極面をうけつぎつつ、さらに理論的・実践的に深めていかなことには、今かけられている 攻撃をはねかえしていくことはできないと感じている。       私たちの実践を支えたものは部落解放運動の中から生み出された同和教育め原則であっ たように思う。八尾中、田中子ども会などの解放運動の発展した地域で生み出された教訓 を、部落解放同盟もない「寝た子を起こすな。」とう風潮のつよい私たちの地域でいかに 具体化するかということが私たちに課せられた課題なのであった。    教育実践は教師集団の仕事である。私たちが生みだしたささやかな成果も、単に職場十 四人の教師の力にとどまらず、この職場の民主的伝統をつくりあげてきた諸先輩、つねに 助言とはげましを与えてくれた教育サークルの仲間たちの力の結晶なのである。 一、野上中学校とその歴史  海南市の農村地帯に、生徒数二八七人、教員十四人の野上中学校がある。学校のすぐそ ばに未開放部落があり、二〇%たらずの生徒がそこから通っている。この地域は棕櫚産業 が盛んで交通の便がよく、未開放部落の中では比較的経済的にめぐまれており、融和主義 的な傾向が強い。  市町村合併以前にあった解放同盟支部も消滅し、学校でもいつのまにか同和教育方針は 学校教育計画の中から消えていた。そして、勤評斗争当時、この職場は支部内でもっとも 弱い職場の一つだった。  一九六二年、二人の活動家の先生は解放運動の組織づくりにとりかかった。二人は職場 の協力が得られないままに地域にはいり、「生活と教育を守る会」を組織した。そのとり くみは職場に報告されたが、職場を変えていく力にはならなかった。しかし、このとりく みが、後の沖野々集会の足がかりとなった。  一九六三年、二人の教師から同和教育方針が提案されたが、議論がわかないまに教育 計画にくみ入れられるにとどまった。この年には、生徒が近くの寺にあつまって集団でけ んかをしかけるとう事件もおこってるが、事前に父兄が見つけて校長にしらせ、校長 の判断で警察に連絡してとりおさえるということでおわってる。  一九六四年になって職場ぐるみで同和教育をすすめる気運が生れ、この夏、教師や地域 の父母三十名の参加を得て第一回沖野々集会が開かれた。  一九六五年には同和教育研究校として、県の指定を受けないかという話が出たが、職場 討議の中でまとめられた三条件(@研究・視察のための旅費・時間の保障、A現職教育の ための時間の保障、B自主性の保障)が容れられなため返上し、独自に同和教育のとり くみをすすめていった。  議論の中心になったのは、やくざをする子は勉強のできない子だということに目をつけ、 その子らをどう指導していくかということだった。 そういうとりくみの中で昨年は支部内でも、もっとも強い職場、教育論議が大切にされ る職場になっていったのである。  そして昨年、一昨年の宿日直拒否のたたかいを先進的にたたかい、そのたたかいの中で、 自分たちがなぜこんなにまでして宿日直を拒否するのかを校長の奥さんにしらせる手紙を 職場討議で作り上げる中で、そのたたかいが教育を守っていく上で大きな意義を持ってい るということを意志統一していくという経験なども生み出してる。 三、今年になってからのこと  今春の人事異動で去年のたたかいの中心になった幾人かが配転になり、そのあとに新卒 できた私もふくめて四人の先生がこの中学校に赴任した。  1、野上中学校の子どもたち  この野上中に注目すべき子どもたちの一群がある。その中心になってるのはKという、 身長百七十センチ、野球部の事実上のキャプテンである。その子を中心に集まってくる十 数人はほとんどが未解放部落の子どもたちで「悪こと」なら何でもするグループをなし ていた。  去年かれかれらがしてきたことをあげてみよう。  ・ みかんととりにく・  ・ けんかをする。  ・ ガラスをわる。     ・ 腰板をけやぶる。  ・ 昼休みに校庭の池のこをつる。  この子どもたち、とくにその中心になってるKの要求をどうひきだし、どう組織する かということが、野上中の同和教育の課題なのであった。  野上中には、もう一群の子どもたちがいる。それは成績のよい子どもたちの民主的グル ープで、その子どもたちは、Kをよくしようとうことを最大の目標にしながら、ときに はKらの反発を受けながら献身的に努力してきたのだった。 私たちは、この子どもらの協力を得ながらKの要求を引き出す仕事にとりかかった。 2、子どもたちの不満・要求と部落問題の結合  ある日の昼休みのこと、私はKと話した。  Kは、しんみりと話した。「ぼくらは去年、みかんとりにった。みかんを食たくてとっ たのやない。けちなやつらを見てると腹が立つのや。去年は三年生ともけんかした。 勝ってみるとあとがさびしかった。」いろいろ話したいというので、宿直の夜、Kを呼 んだ。Kは三人の仲間をつれてやってきた。そこでかれらは積もりに積った不満をぶちま けはじめたのであった。  ・ 小学校で女の子が先生になぐられて、一週間学校を休んだ件。  ・ 野球するのに先に場所をとってたのにあとから来た「先生の子」が自分たちを追   出してしまったこと  ・ 「頭の子」だけが大切にされるということ etc  子どもたちの不満はとどまるところをしらなかった。  そこへやってきたKの担任の先生は、子どもたちに部落問題の話をしようと決意したの である。あばれてる子どもかちに、部落問題についての正し認識をもたせることが必 要だということは昨年からの職場討議の結論であった。しかし「寝た子をおこすな」と う風潮がつよい中で「親にもわずに話すのは……」ということで実践にうつされずに来 たのだった。  Kの担任の先生は熱心に話しはじめた。部落の歴史・部落の人々が経てきた苦し斗い、 自衛隊差別事件などに見られるような現在も生きつづける差別…………、そして、それ につけ加えて強調したのは、部落の子どもたちが集団をなして暴れていることが、一体ど んな役割をはたすのかということだった。「おまえたちは、けんかして、だれにもまけな かもしれない。しかし、その結果、あつらにはかまうなということになってくる。」  子どもたちは熱心に話をきいた。そして、口々に話してもらってよかったと言い、その 一人のOは「やさし部落の歴史」を持って帰った。彼は翌日、「昨夜いろいろ考えて2時 ごろまでねむれなかった。」と言っていた。  3 苗代事件と要求行動の発展  ところが、翌日、またも新たを事件が発生した。Kが所属してる野球部の生徒がボール をさがしに田に入り、苗代を半分ほど乱らしてしまったと言うのである。翌日、職員会議 が開かれ、次のことが決められた。 @ 明日、一時間目に学級活動の時間をとり、この件について討議する。   A ボールが田に入いらをような手だてをとる。   H 明日、野球部父兄会を開き善後策について検討する。  宿直のときたずねてきた子どもたちは、その時まだ野球をしてた。ぼくが父兄会のこと を知らせ、もうおそから帰れと言ったときKはくってかかってきた。「わえら野球部やめ たらええんやろが。なんで勝手に父兄会ら開くんや。わえらどうせ家へいんだらなぐらえ るんや」。説得してもききれようとはしない。そのとき、かけつけてくれた一人の先生が 次のような話を始めた。  「ぼくも中学のころは野球をした。この学校はぼくの母校や。ぼくもあそこでボールひ ろをしたことがある。ボールが田に入るとドロで見えなくなってしまうことも知ってる。 そやから、なんとかして金網を高くして、ボールが出やんようにしょうやないか。  おまえら今のままでいたら一生やくざでおわってしまう。おまえらががんばって金網を 高くしたら、Kらがみんなのためにやってくれたということになるんや。他人がそういう てれんでもかめへん。ミッちゃん(職場の中心にをってる先生)ら見てみ。自分は損ぼっ かりしても、みんなのためにやってるんや。お前も男やろ。おこらえることぐら何なら。 野球部からにげ出すんやなしに、金網を高くするためにがんばってみよ。」  Kはうつむてじっときてたが、顔をあげて言った。「よし、やる」  その夜、Kの担任の先生がKの家にってみると、Kは「先生、あした生徒総会開いて くれへんか。みんなの前で話したんや………。」と言だしたのである。やがてKの家に仲 間があつまってくる。かれらは生徒総会での演説の原稿をつくりはじめたのである。  翌日、臨時生徒総会が開かれた。提案者として壇上に立ったKの自己批判をも含む提 案演説すばらしものだった。  その演説は全校生徒の支持をうけ、きらに各クラブからの要求も出されてっいた。そし て、運動場を広げること、金網を高くすることetcの要求を教育委員会に出してこうと いうことがきめられたのである。  このような子どもたちの盛り上りは教育長をうごかした。教育長が自ら子とどもたちの 声を開くために中学校に来るいとう異例のことがおこなわれたのである。子どもたちは、 教育長に会う人数を制限しようとする校長らのうごきをおし切り、約七十名の参加の下に、 整然としたは話しあいを成功させたのである。 4 子どもたちの反抗はつづく  臨時生徒総会と教育長交渉を経て、子どもたちは大きくかわった。大部分の教師は手ば なしでよろこんだ。私自身も、教師なったばかりで、何の苦労もせずに野中同和教育の成 果だけを味わえるとは何とありがたことだろうと喜んだものであった。だが現実は甘くは なかった。再び、子どもたちの反抗はつづいた。たしかに、子どもたちは、よわい者じめ をしたり、ものをこわすことは少くなった。しかし、教師への反抗はつづいた。  ・ プールそうじのやり方が不公平だとって校長室へどなこむ。  ・ 注意されたことをきっかけけして、女の先生をからかう 等。  私はこの時期に、Kに胸ぐちをつかまれ、なぐられそうになりなが、どなりあをしたこ とがある。宿直の夜のことKが遊びに来た。Kが教師のエンマ帳などをのぞこうとする ので、きびしくしかった。「おせえは、ぼくの前でなら少々悪ことをしても見逃してくれ ると思ってるのか。そんなことをしてたら、お前のためにならん。きょう家に行って親に はなしをする。」  するとKはまっかになっておこりだした。「おんしゃ家へ来てわえの根惰がなおると思 ってるのか。家へら来てみよ。まえのわえに逆もどりや。わえ家とび出して、ヤ−さんに なって、おんしゃの前に出刃つきつけちゃるわ」どなりあうこと約一時間、Kはなきそう になって、あやまらずに帰ってった。そのことにつて、あとでKの担任の先生といろいろ はなしあった。そして、こんなことを考えた。「あいは「家へらうてきたら、まえのワエ に逆もどりやといってる。教師の胸ぐらをつかみながらも、自分は以前の自分とはちがう のだと考えてるのだ………。」 ともすれば「やっばりあの子は変らないのか。」とう気持になりそうだった。私たちは、 その中で、「うらぎられても、うらぎられても、子どもたちを信頼しょう。」ということ ばを自分に言きかせつつ、お互にはげましあってきたように思う。この事件で考えた ことというのは、その一例である。  子どもを信頼するとうことは、子どもを甘やかすことではな。手どもたちは、要求 を主張する場合、すぐ無軌道にはしるという個人主義プチブル性を身につけてる。その ような傾向とは、きびしく対決しつつ、正し方向にみちびいてくのが教育なのではない だろうか。 5 その後の子どもたち  子どもたちの成長はジグザグだった。ある時期には子どもたちけ内部分裂をおこした。 Оが単独行動をとりはじめたのである。  「ぼくはKらのグループりらぬける。Kは勝手すぎる。あいつらといっしょに民主々 義の運動をしていく自信はない。Kらが説得しても聞りず、Оは単独行動をとりつづけた。 その間、自信のなさのあらわれとしての教師へ反抗もあった。たとえば私の数学のテス トで、わぎとまちがった答をかくなど…………。                    Оは部落問題ついて、最もまともにうけとめた子どもだった。彼の行動らは、彼が真剣 に悩んでいることが読みとれた。私たちは、これを発展途上の矛盾としてうけとめ、より 深く解放へのすじみちを認識させることによって、この困難をのり切らせようとした。  彼がKらとの団結をとりもどした一つのきっかけは、夏の第四回沖野々集会だった。 地域の人々と教師によって開かれたこの集会では私たちの実践報告をめぐつて討論がおこ なわれ、夜は父母のあつまり、青年のあつまりとともに、子どもたちのあつまりももたれ た。子どもたちのあつまりそのものの討論は十分なものだとは言えなりったが、この沖野 々集会は子どもたちに目に見えぬ励ましを与えた。  Оは翌朝、こう言った。「先生、ぼくらの今の状態どう思う?ぼくらばらばらやったら なんにもできへんしなあ」こうして、子どもたちは団結をとりもどしたのである。  去年まで破壊者だっKは、今秋は体育委員長として体育大会の中心になったし、後期 の生徒会長に選ばれた。しかし、同時にいすをつかんで教師にくってかかりってくること もある。この、Kに典型的にみられる子どもの姿は、私たちにいくつりめ課題をつきつけ ているように思う。この子どもたちが、学校の管理体制にくみ入れられてしまうのでもな く、同級生の支持をえられない形で教師にくってりりるのでもなく、立派な組織者者とし て成長していくすじみちはどうをのりという問題である。 6 子どもたちとともに成長してきた私たち教師集団  私たちは四月から、生徒指導をめぐつて討論をくりかえしてぎた。その討論は生徒が問 題を起こしてから問題をとりあげるという形でしりでしかできなかったことが多かったと はいえ、教育論議が大切にされるということは何よりも貴いことであった。論議のつみ重 ねと、子どもたちの成長の中で、私たち教師集団もまたきたえられてきた。はじめは、子 どもたちにきびしくしりるべきり、要求をくみ上げるべきりという論議がなされてきたが、 実践の中で要求をくみあげることの大切さが確認されてきた。さらに、生徒のしつけに重 点をおくのか、生徒と教師の民主的人間関係が大切りという論議へと発展していったので ある。  私たちにとって、教育実践と組合運動はつよく結びついていた。一〇、二六斗争でも、 私たちがまず第一に考えたのは、子どもたちのことだった。私たちは斗いの意義について、 どう子どもたちに話すりを討議し、次の三点について子どもたちに話すことを確認した。  @ ベトナムを中心とする情勢の中での、一〇、二六斗争のもつ意味    A 人事院がつくられた歴史にてらして、私たちの斗いが正当であること  B 私たちが一時問の年休権行使のために、半年にわたって準備をすすめてきたこと。 * このあたりのことは、今日の和教組の方針にてらすと、労働組合の課題をストレート  に教育に持ち込む大きな誤りである。(二〇〇一年九月) 四、若干の問題提起  解放同盟が地域にないという困難な条件の下で、私たちは子どもの組織化にとりくんで きた。その中で、私たちは「要求を大切にする」というだけのことでは今ぶつかっている 困難を乗りきることはできないと感じている。  先にのベたように職場の中には二つの意見があつた。はじめは、@きびしくしかる、A 要求を大切にする、という論争であり、のちには、@しつけか、A民主的人間関係か、と いう論争であった。実践のつみあげの中で職場での意見は「この二つは矛盾するものでは ないが、後者の方が基本的な問題である。」という方向に統一されていった。しかし、そ れだけでよいのだろうか。  たとえば、次のような見解がある。  「あばれる子どもたちは、不満や要求をもっている。その要求をくみあげ、実現してや ることがかれらの不満を解消してやることになり、かれらはあばれることをやめる。」  たとえば、校長は次めように発言している。  「臨時生徒総会では、子どもたちのいろいろな願いが出されました。私は会場中をはし りまわつて子どもたちの発言をかきとめ、今も持っております。これを一つでも実現して やろうと、いろいろやりくりしているのです。」「先日、父兄といっしょに運動場の金あ みをはっていますと、Kがきまして『先生、すまんのう。』というのです。私は、『これは、 みんな君らの力でできたんや』と言ってやりました。また、『父兄におねがいして、バッ ティングケイジも買ってもらおうと思っているんや』と言つてやりますとKは、ほんと にうれしそうにしておりました。」(沖野々集会での発言要旨)  「私も近ごろKのことをK坊K坊とよぷようになって、大分親しみやすくなってきま した。」(ある日の職員会議で)  校長は、要求をくみあげることと、人間関係め大切さについてのべている。しかし、こ れは近代企業における「提案制度」と「ヒューマン・リレイションズ」の教育版ではない だろうか。 * これでは「校長敵論」だ。同じ職場の校長をレポートでこんなに書いた配慮のなさも  恥ずかしい。  野上中における二つの意見の対立の本質は何だろうか。現代の資本主義社会には、相対 立する二つの人間像がある。一つはは、社会に順応する管理しやすい人間像であり。もう 一つは、差別や不正に目を向け、その体制をうちやぶっていこうとする人間像である。 野上中での論争は、私たち自身が意識すると否とにかかわらず、その対立の反映なのであ った。したがって、私たちがめざす人間像からきりはなして「要求をくみあげる」ことを 考えるならば、「正常化」攻撃の中では、その教育実践は、私たちが目ざすものとは反対 のものに転化していく危険をもっている。  要求の組織化を私たちがめざす人間像と結びつけていくということは、言いかえれば、 不満・要求を、新しい社会をつくっていく展望と結びつけていくということである。そこ から、子どもたちが当面している不満や要求についてほり下げ考えさせるとともに、社会 のしくみ、歴史のすじみちについての正しい認識もたせるという任務がでてくる。「子ど も会は、まずサークルをつくって遊ばせる。それが勉強によい影響を与える。つぎに、部 落問題を研究させて、自覚をもたせる。そのように指導すると子どもたちはたたかうよう になる。」これが田中子ども会の指導原則であった。この原則の中で「部落問題を研究さ せて自覚をもたせる」ということの持つ意味を再確認していかないことには、「教育正常 化」の中では、団結を大切にすること、要求を大切にすることが我々がめざすものとは 反対のものにすりかえられていく危険を感じるのである。 * ここで私が朝田善之助の子ども会理論を全面的に受け入れていることがわかる。恥ず  かしい話だ。「たたかう子ども会」というこの理論は、すでに私の学生時代に誤りが指  摘され克服されたいたものなのに………。(二〇〇一年九月)  次に、子どもを組織化していく中での教師の位置と役割が検討されねばならをない。私 たちは、子どもたちが暴れるたぴに、彼らがそういう形でしか主張できないでいる要求は 何かということについて討議をつみかさねてきた。そのことは向よりも大切でをる。 しかし、私たちの実践は、暴れれば要求をかなえてくれるかのように考え、クラスを組織 しょうとせにず一人で教師にくってかかる生徒を生みだしたという面ももっていた。要求 を子どもたちを組織化していくためのテコにしていくこと、そして、子どもたちがクラス を組織して要求を主張せざるをえない方向に指導していくということ、これが権力の末端 にあって、権力の押し付けによってゆがめられず自主的・民主的な行動の出来る子どもを 育てようとする教師の役割であろう。言いかえれば、子どもたちに民主的規律を要求する ということである。  差別についての科学的認識と民主的規律……この二つに支えらたとき、子どもたちの要 求斗争は、敵の攻撃をはねかえし、私たちがめざす人間像と固く結びついたものになって いくのである。 五、まとめ  私たちのときみは今も一進一退である。今でも、子どもたちを前して途方にくれること が多い。しかし、四月からの大きな流れをふりかえってみれば、私たちは職場の実践の中 で同和教育のすじみちを確認することができる。  職場の中には意見のちがいもある。しかし私たちは、子どもたちの現実から目をはなさ ない論議の中で一致点を見出してきたし、これからも、同和教育のすじみちを一歩一歩き りひらいていくことができる思っている。たとえ自分がどんなにまずくても、この道を一 歩一歩たどる以外に道はないであろう。 (つづく)

未解放部落「政治起源説」をめぐって

「政治起源説のあやまり」とうのは、どううことですか

  部落差別が封建的な政治支配・身分差別に由来することは間違ではなでしょ
う。しかし、従来の「部落問題学習」では、部落の起源を単純に「封建的支配者が
政治的に作り上げた」とする説明が多くありました。しかし、歴史的な制度は、そ
んなに単純に形成されたわけではありません。地域によっても違があるでしょう。
  同時に「起源」とう説明は、「起源以後、連綿と続てる」ものとする受け
止め方になる面からの批判もあります。歴史の学習は、画一的に類型化したものを
「正し理解」とするのでなく、時代と地域によって変遷をとげた事実に沿って理
解されるべきです。
  こうした問題から、単純化された「起源説」を「正し理解」とすることには問
題があることが多くの研究者から指摘され、民主的研究者の中では通説になってき
てます。
  ただ、歴史学説にはろろあって、自由に討論されるべきものですから、「政
治起源説」もふくめて、さまざまな論議を保障することが必要です。和教組責善部
の見解も一つの提起として、「政治起源説」にちか見解も含めて自由にご議論を
ただければとおもます。
  ただ、「県民の友」のように、行政・県同和委員会が、「政治起源説」を「同和
問題への正し理解」として、それとは違った意見を、「同和問題への間違った理
解」であるかのようにって、それを「啓発」の名で、県民に押しつけてること
は、重大な問題です。
                                      1999年11月

「政治起源説」にかかわっての学習から    渡辺広先生の著作から学ぶ

和教組責善部の討議資料で「政治起源説のあやまり」と書いたことから、少 し勉強してみることにした。「未解放部落の源流と変遷」(渡辺広著・一九九四年 刊)というかっこうの表題の本がある。言うまでもなく渡辺先生というのは、お亡 くなりになった元和歌山大学教授である。              (一) 冒頭の「序説」に「かつて私は、『未解放部落とうのは政治的関係のみによっ て存在しているのではない。政治的関係も、経済的関係、社会的関係を基礎として るのである。未解放部落は生活関係の産物である。』(「未解放部落をめぐる学 界の動向」)と述べた」(P一三)とある。本書に収められてるその出典にあた ってみると一九五七年にかかれた論文である。その論文の終わりの方で、東上高志 氏が「部落とう現実に存在する部落差別は………特定の社会構成体の中で『国家 権力』によって政治的に、身分制度として作り出されたものであって………」述べ たのに対置して「これに対して私は、未解放部落を中世に成立してきた身分的、職 業的、地域的差別が、戦国時代以降、とくに近世中期に至って、封建的支配者によ ってたくみに利用され、強化され、制度化されたものと考える。」(渡辺前掲書P 五二)とかかれてる。              (二) これだけでは、東上先生と渡辺先生の見解の違が、ピンとこなかもしれない。 渡辺広先生は、一九八九年から九〇年にかけて「和歌山の同和教育」(和同教機関 紙)に「歴史的に見た未解放部落」とう連載をかかれた。そこで、「『部落は、 武士階級の国家権力によって、行政的につくられた』という考えがあります。この 考え方が、『部落差別の制度(江戸時代の賤民制度)が行政的につくられた』と う意味であれば正しいわけです。しかし、そうではなくて、『部落(または部落差 別)そのものが行政的につくられた』とう意味であれば正しくありません。国家 権力は、どのようにして部落(部落差別)そのものを作り出したのでしょうか。」 と述べておられる。(前掲書P三四〇ー四一) さらに「『部落は、武士階級の国家権力によって、行政的につくられた』という 考え方の中には、『変化の中に連続性を自覚する感覚』か欠け………」とし、大阪 歴教協高槻支部の「部落の成立をどう教えるか」を紹介します。そこでは、以下の ように解説されてたのでした。 「『えた』の場合のきめ方は、もっと無ちゃくちゃなものでした。何の理由もな しに『明日からこの村はえたの村とする』と幕府が勝手に決めたのです。『えたの 村とする』と決められた村に住んでた人は、そのまま『えた』の身分とされたの です」(季刊「同和教育運動」六号) ここまで示されれば、かつての東上先生の説を渡辺先生が批判した理由が分かり ます。単純な「政治起源説」は、このような歴史のあやまった単純化に導くのです。 大阪だけの問題ではありませんでした。和歌山県内でも、部落の起源を「殿様のわ るだくみ」とする教材が、一時、すばらし教材だと言われたのですが、渡辺先生 の提起をうけとめ、再検討されたのでした。              (三) 東上先生や渡辺先生のような、偉い先生が論争するのでは、われわれ一般教員は、 何を頼りにしたらいいのかとう質問が出されそうです。 渡辺広先生は、中学校・高校の先生が、「部落の歴史」をとりだして一生懸命教 えようとしてるのを見て「そんなに教えたら、大学で教えることがなくなってし まう」と言われたことがあるそうです。これは、先生一流の皮肉です。先生は、歴 史学習の中で、「部落の歴史」だけを突出して教えることの問題を指摘されたので しょう。 「同和教育」では、善意からであれ、「部落差別をなくす」とう目的から、説明 しやすように「部落の歴史」をくみたて、突出して教える傾向に陥ってたので はないでしょうか。大きく言えば、部落解放運動がすすめやすように、部落の歴 史や起源を組み立てたとも言えます。  「部落は、武士階級の国家権力によって、行政的につくられた」という説明に立 ち返ってみると、この言い方が「行政がつくったものは、行政の責任でなくせるし、 なくさなくてはならな」とう「結論」に直結できるように組み立てられている ことを、すぐ看取ることができます。渡辺先生は、大目に見てますが、「行政的 につくられた」という言方もおかしなものです。江戸時代の政治を「行政」とい うのでしょうか? 渡辺先生は、「一定の政治的見解をうらづけるための学問研究などというものは ナンセンスである。」という歴史学者・羽仁五郎の見解を支持するとして、部落の 起源につての説明が「行政闘争」との関係でだされてきてるとう指摘をされ ています。(前掲書P五二) 学問や教育は、政治的・道徳的目的に従属してはいけないのです。私たちがあつ かう教育内容は、自然や社会につての基礎的な事実であって、まだ論争中の最先 端の議論のどちらを教えるかなどまよわなくてもいいのではなでしょうか。ただ、 専門分野では、最先端の研究に触れることによって、知的刺激をうけること、その ことが教育に生き生きしたものをもたらすことも大事なことは、いうまでもありま せん。私も、渡辺先生の古い論文を読みながら、和歌山の歴史の実証的研究にとり くまれた先生の確かな数十年前から変わらなたしかな視点にふれ、大いに刺激を うけました。 1999年11月 雑賀光夫

身分・階級・弁証法
渡辺広先生の追悼にかえて

身分・階級・弁証法

          (一)
  和歌山大学の後藤正人先生(非核の政府へすすめる会全国世話人)が、最近、精力的に
著書を出されてる。与謝野晶子についてのもの(共著)などは、やや親しみやすのだ
けど、「社会科教育と法社会史」「土地所有と身分……近世の法と裁判」などといういか
つものが多。売れな本を出した先生は、出版社に気を使、会議に来るたびに本を
持ってこられる。私は、そのたびに財布をはたいて、率先して本を買うことになる。後藤
先生は教授になられたが、まだまだお若から、学問的業績をあげられて初期の出版物が
古本屋でどんどん値上がりするのを楽しみにしてる。
 それでも、「つんどく」だけではもったなと「土地所有と身分」とうかめしい
本を開てみた。「補章 書評・渡辺広『未解放部落の形成と展開』」という項がある。
部落問題には若頃から多少かかわってきたという自負心もあるので、パラパラめくって
みた。その二六七頁でドキンとしたのである。「身分は階級的生産関係の外皮であり……
…」この規定を私が十数年探してたのだったから。
  話せば長ことながら、はなさなければわからない。
                  (二)
  私は、この「学習新聞」に、武谷三男(湯川秀樹とならぶ理論物理学者)とか三浦つと
む(哲学者・言語学の研究もある)とかう聞き慣れな名前を登場させてきた。三浦つ
とむが武谷三男につて語るとき、彼が言ったのは「弁証法の哲学を説くとき、マルク
スやヘーゲルだけをよんで、それを易しく解説するなどというのはダメだ。自分で弁証法
を個別科学に適用して切り結んで弁証法を鍛え上げてこそ弁証法を説くこともできるの
だ」とう強烈な主張である。武谷三男が、「文献主義よさらば」(自然弁証法、空想か
ら科学へ)と喝破したのも同じ立場であった。
  私自身は、弁証法の学習を、ささやかではあっても部落問題や教育労働運動の実践と結
びつけてすすめてきたつもりでる。現実と切り結んで役に立ったものだけを抜き出して
労働学校の講義につかってきた。それには実践家の弁証法理解のもつ積極面とプラグマチ
ックな消極面をともなってたかもしれない。
  ところで、今から三〇年前に、私が弁証法を武器にして格闘してたのは、部落問題の
理解であった。「朝田理論」(解同の理論的基礎)から出発した私は、「朝田理論」が新し
融和主義に吸収されてく事実を前にして、もがいていた。日本共産党の部落解放運動
の理論は、まだ確立されていなかった。
  その時期に、「橋」とう事実上、私の責任編集のような機関誌(私がガリ版ずりで出
してた)に書きなぐったのが、別掲の「部落差別と弁証法」とう論考である。もう一
つ「差別とはなにか」とうメモもある。
                  (三)
 「身分は階級的生産関係の外皮であり………」とう規定を十数年間探してたという
のは、この論考に関してのことである。弁証法と折衷主義とう問題をレーニンの「ふた
たび労働組合につて」から考え、毛沢東の「矛盾論」の限界を考え、「現象と本質」な
どカテゴリー論を深めたいと寺沢恒信の「弁証法的論理学試論」を興味深く読み、ローゼ
ンタリー編の「カテゴリー論」を買ってきたがあまり役にたたなかった。
  「橋」の論考で、私は「身分は階級をおおかくす法制的ヴェールである」と書いてい
る。どこかで聞き覚えたこととして書たのだが、出典がはっきりしなかった。ある、た
ぶん部落研の集会(和教組大会議室)で、ある報告をしたあと、岡本佳雄先生にこの出典
はわからなかと個人的に聞いたら、岡本先生は、大座で参加者のみなさんに「どなたか
わかる人があったら教えてあげて欲し」と私の質問を紹介してくれたが、教えてくれる
人がなかった。野呂栄太郎の「日本資本主義発達史」に、「身分」にふれて「法的外皮
(哲学の貧困)」と書いた箇所を見つけたので、「哲学の貧困」を探したが見つからなか
った。「マルエン全集がパソコンに打ち込まれてたら、検索機能でさがせるのになあ」
などとも考えたことがある。
  それを後藤先生の著書にみつけたわけである。
                    (四)
  さっそく、渡辺広先生の「未解放部落の形成と展開」を引っぱり出して開いてみる。買
ってはいるが、開いたこともなかった。さらに、これまた買ったまま開いてなかった「未
解放部落の源流と変遷」も引っぱり出すことになった。渡辺先生の本を買ってはいるがな
ぜ読まなのかとえば、私は、歴史については専門でないので、渡辺先生のように実証
的研究についていけないのである。これこそエンゲルスが「史的唯物論は、歴史を構成す
る魔法の杖ではない。歴史が研究し直されなくてはならない。」(たしか「フォエルバ
ッハ論」だったと思う)と戒めたところであるが、私は、労働組合運動の実践家だからと
自分に対して自己弁護してる。
  しかし、渡辺先生の「形成と発展」の「序説」と「源流と変遷」の「序説」を読み出す
とおもしろのだ。渡辺先生の実証的研究とともに方法論的根拠にしておられる問題が語
られる。マルクス・エンゲルスの「ドツ・デオロギー」をはじめ、エンゲルス「家族
・私有財産および国家の起源」から先生が何を学びとられたのかがわかる。戸坂潤、丸山
真男、古在由重といった、私にとってもっと学んでみたいと思う碩学のことが引用される。
羽仁五郎もでてくる。羽仁五郎とう人は、奥さんが子どもを守る会の会長をしていると
きに老骨のくせにゲバ学生と一緒にヘルメットをかぶって笑われたこともあるが、戦前の
小論文「歴史の審判ほど厳格にして快活なものはな」は、私には座右の銘にしたいほど
好きなものである。
                    (五)
  私は、渡辺先生には、個人的にあまり面識はない。ただ、和教組においでになったとき、
和教組書記局のソファーで雑談したとき、「五公五民などとますけどねえ、実際はそ
うだったら百姓は生きていけなんですよ」とうようなことを語られたのを興味深くお
聞きしたのを記憶してる。内容的には不正確な私の受け取りかもしれなが………。マ
ルクスが資本論であげた剰余価値率の例が、百%(五資五労)なのだ。江戸時代の生産力
が低時代にそんなことができるはずがない。私たちが習った歴史でも、「百姓は裏作な
どで………」とつけ加えて習っているが、江戸時代の搾取率が何%だったのかとう研究
があってもよかろうと思った。
  もう一つ、私は最近まで「非核の政府を求める県民の会」の事務局をしてきたが、渡辺
先生に賛同者かなにかになっていただいていた(と私は思ってる)。多分、先生はいろい
ろ頼まれるからお忘れになっていたのであろうが、「非核の政府を求める会」から資料
を定期的にお送りすることにお怒りになって、先生一流の皮肉を込めたはがきをいただい
た。「私はこんな会に入った覚えはありません。なんでいろいろ組織をつくるんですか。
無駄なことです」とうような意味だったと思う。事務局の仕事をしてる若い書記が、
私の所にハガキを持ってきた。「ひどいですよ」と言って。私は、慇懃無礼な返事を書
た。「まちがって勝手に書類をお送りしてたのかもしれません。失礼しました。今後、
一切お送りしません」
  先生がその直後に息子さんをなくされ、私の知り合である息子さんの奥さんから渡辺
治(同名の政治学者のことを学習新聞に書たことがあるが別人)さんの遺稿をお送りい
ただたりするおり、失礼なお葉書を書いて申し訳なかったなとう思いを新たにしている。

一九九五年十月七日  午前二時二十分
                               県学習協副会長 雑賀光夫

* 渡辺広先生が後なくなられ、この文は追悼文になってしまった。

部落差別と弁証法 メモ

1970年5月18日
紀北唯物論研究会(注1) 雑賀光夫


「部落差別の本質はなにか」が、近ごろ大阪問題とからんでよく論じられます。
(1)北原泰作氏はう
 「部落差別には大きく分けて二つの要素があります。その一つは身分差別の問題であり、
他の一つは貧困の問題であります。この二つの要素は、切り離すことができな関連性が
あるので、別々に考えることはまちがいであり統一的に把握しなければならぬとうこと
が主張されてきました。………。
  けれども部落問題を社会科学的に分析して検討する場合、この二つの要素を一応区別
して考えることも必要があると思ます。
  そこで部落差別とはなにかと言えば、それは、人種・民族差別でなく身分差別でありま
す。身分差別と一口でっても、封建時代の身分差別と近代社会の身分差別とはちがま
す。」@(一九六七年五月、部落解放研究集会)
  同じ北原氏は、一九五七年に次ぎのように言っていた。
  「今日、部落大衆が苦しめられてる基本的な、主要な矛盾は、反封建的な身分関係で
はなく、資本主義的な階級関係である。………身分差別の矛盾は存在するが、それは主要
な矛盾ではなく、副次的・第二義的な矛盾である。」A
  十年間の間に、北原氏はその主張を180゜変えたのである。

(2)身分と階級をどうとらえるか
@身分差別という矛盾、階級差別という矛盾の関係をどうとらえるかの問題。
  部落問題にあっては、身分差別と階級差別は一つの矛盾をつくってるわけであるから、
この矛盾の二つの側面、この矛盾の構造をどうとらえるかと言換えてもよい。
A北原氏のAの見解には、「主要な矛盾と矛盾の主要な側面」をとらえるとう方法によ
って矛盾を整理しようとう試みがみられる。
Bこの方法は、毛沢東の「矛盾論」の中でもっとも重視されている方法であり、一つの有
効な方法であることはまちがな。しかし、その方法は、矛盾の大小関係を平面的にと
らえるにとどまり、矛盾の相互関係や構造はとらえられないとう限界を持ってる。
Cレーニンは、1920年代の労働組合につての論文の中で、ブハーリンを批判して「弁
証法と折衷主義を混同してはならな」とましめてる。
  ブハーリンは”政治と経済を統一してとらえる”ことを主張したが、レーニンは、
”「あれも」「これも」とうのは折衷主義である。「政治は経済の集中的表現である」と
いうとらえかたをふまえて統一しなければならな”ことを強調した。
D私たちが部落問題をとらえる方法論上の出発点は、「身分は階級をおおかくす法制的
ヴェールである」とうとらえかたである。身分と階級とは、このとらえかたの中で、は
じめて弁証法的に統一してとらえられる。その矛盾をさらに分析していくのに有効な方法
は、「形式と内容」「本質と現象」についての弁証法であろうと思われる。
Eこのとらえ方をぬきにした「主要な矛盾論」は、たやすく180゜の転換をしてしまう
のである。
Fその分析から、戦術的には身分差別の面が重視され、戦略的には階級支配の面が重視さ
れねばならないということ、いいかえれば、戦術的には民主運動との区別が、戦略的には
統一が重視されねばならないとう結論になる。

(3)本質と現象の弁証法につての一部の人々の無理解が混乱を生んでいることにつて
@「差別の本質」「部落差別の本質」ということばがよくつかわれる。しかし、本質と現
象は固定したものではない。差別一般につてえば、その本質は分裂支配であり、その
特殊的な現れである部落差別についていえば、その本質は身分差別だといってよい。しか
し、差別一般という広立場から見直すと、身分差別は分裂支配とう本質の現象形態で
もある。
  このような「本質と現象」「一般(普遍)性・特殊性・個別性」とう弁証法の理解は、
決定的に重要であろうとおもわれる。
  だから、部落差別の本質をさらに正確に規定しようとすれば、「身分差別を利用した分
裂支配」といわなくてはならな。

(注1)当時、故岩尾靖弘氏宅(当時は、海南市内海)で、楠本一郎氏などもふ くめて、
学習会を開てた。古在由重氏の「唯物論と唯物論史」もやったし、 「唯物論と経験
批判論」もとりあげた。田伏道男、藤田勉先生も参加されたと思う。その学習会を「紀
北唯物論研究会」と呼び、私が当時ガリきりした原稿 の中のくつかに、この肩書きを
つかってる。

   初出「橋」(海南海草部落問題研究会機関誌)第3号(1971,12,25)

   * 追記(1995年頃かたもの)

 この号には、「大野小学校区での問題・まよ・探求」とうサブタトルがついて
いる。この事象との関係で、各方面にけっこう出回ったのだが、ここに打ち直した私のメモ
にコメントしてくれた方は、タダ一人、ま海南市役所の幹部である坂東氏だけだった。
「雑賀はん、哲学ノートのできそこなみたなものを書てるやなか」
そう言ってただてうれしかったことを記して、お礼にかえる。

同和特別対策終結Q&A



「較差」がなくなるまで、同和教育は必要か? ┌──────────────────────────────────────┐ │ 同和地区内外の較差がある限り、同和教育・同和行政は必要だとう意見があり  │ │ ますが、どう考えたらのでしょうか。                    │ └──────────────────────────────────────┘  同和行政・同和教育行政とはそもそも何なのかを考えてみましょう。 同和行政がはじ まったころ、同和地区の生活は劣悪であり、同和地区には切実な教育課題が山積していま した。「同対審答申」「特別措置法」により、同和対策事業がはじまったのですが、同和 対策事業は、そもそものはじめから矛盾をもっていました。特別対策をしようとすれば、 日本国民の中にあってはならな旧身分の線引きをせざるを得なという矛盾です。それ でも、同和地区の生活実態が劣悪であり、部落差別が厳然として存在するという状況の中 では、「線引きしてでも特別対策をする」ということも積極的意義をもっていたのです。 しかし、同和対策事業と社会の進歩の中で、同和地区をめぐる状況が大きく変わったなか で、いつまでも「線引き・特別対策」をつづけることは、同和地区内外の垣根をつくると いう弊害の方が大きいという段階にきているのです。 約十年ほど前から、同和地区内外 の「学力格差」「高校進学率格差」は、四〇年前とくらべると大きく縮小した段階で、固 定しいてます。このことは、「同和対策」としてこの問題にとりくむことが限界にきてい ることを示してまいす。和歌山市でいえば、不当に手厚く同和対策をされてる地域で、い っこうに「格差」がなくならない(逆に「自立」と「交流」をさまたげている)という 事実が、そのことを示してます。 それとはちがって、民主教育をすすめる中で残された課題を解決しようとするとりくみが 前進することによって、最終解決への道が開かれるのです。そのことも、県下各地の実践 によって示されてます。

同和問題の仕上げの時期だから、原点にもどってがんばってほしいと言われると、そ うかなと思ってしまますが……… ┌──────────────────────────────────────┐ │ 「同和行政は終了間際だから、最後の期間に同和推進教員はしっかり地域に入り、 │ │ 残された較差をなくすためにがんばってほしい」と教育委員会の同和担当者はいい │ │ ます。どう考えたらいいでしょうか。                     │ └──────────────────────────────────────┘ 同和行政は、基本的には今年の三月末で終了しました。残務整理として、「@着手ずみで 未完了の物的事業 A激変緩和的な観点から配慮が必要な分野」につて経過措置を継」 続するとうのが、現在の段階です。 次官通達(各省庁の事務次官から地方自治体への通達。文部事務次官から県教育委員会へ の指導文書として通達されたもの)には、次のように説明されています。  ……………………………………………………………………………………………… 全般的に見れば、これまでの特別対策は本年三月末までに概ねその目的を達成できるもの と考えられる。 しかしながら、一部物的事業につてすでに着手ずみであるが本年三月末 までに完了することが困難な事業がみられ………、………また、教育、就労、産業などの 較差がなお存在してる分野がみられ、その短期間での是正は困難であるものの、特に利 用度の高個人給付的事業および相談員・指導員等を配置している事業について、激変緩 和的な観点から配慮が必要と考えられることから政府としては意見具申を尊重し、特別対 策は本年三月末をもって終了することを基本としつつ、十五の事業に限定して、五年間に 限り経過措置を講ずるよう昨年七月二六日に閣議決定した。  ……………………………………………………………………………………………… この「次官通達」の立場は、「あと五年しか期間がないから、その間にいままで以上にが んばって特別対策をすすめて課題を解決しよう」とうものでないことは明らかです。 「激変緩和措置」なのですから、同和推進教員の「特別対策的な地域とのかかわり」は、 少なくして、特別対策的とりくみを消滅させるべきです。質問にあるようなことを教育委 員会の担当者が言ってるとすれば、それでは「激変緩和措置」になりません。

同和推進教員の本務は何ですか? ┌──────────────────────────────────────┐ │ 教育委員会は、「同推はしっかり子ども会へけ」と、校長も「ほかの先生も │ │ 交代でできるだけっいて下さ」というのですが……。それが同和推進教員ある │ │ いは教員の本務なのでしょうか?                        │ └──────────────────────────────────────┘ 教員の本務は、学校教育計画にそって、学校がすすめる教育活動にとりくむことです。そ の点は、同和教育推進教員であっても、同じことです。 学習ホールや同和子ども会とい うのは、社会教育として実施されているものですから、子ども会で勉強を教えたり、子ど も会のバスツアーに参加するということは、ボランテア活動であって教員としての本務 でないばかりか、「勤務」でもありません。 ただ、教育活動にともなう業務とうものには、PTAとの連携など「教育活動に密接 に関連した業務」があり、「勤務」と見なされるものがあるでしょう。そういう意味で、 地域子ども会と連携する必要があれば連絡しあったり話し合ったりすることは「勤務」と みなされても、子ども会の運営や活動に参加することは、ボランティア活動と見なされま す。 同和推進教員が、学習ホールや子ども会活動の指導にあたることは、同和推進教員の 本務でなく、いわばボランティアであることは、一九九七年度からはじまった「基礎学力 向上推進地域指定事業」につての県教委(学校教育課・社会教育課)との交渉でも、確 認されてます。(五月二九日交渉、六月六日速報)

困難な中だからこそ共同が広がる
………全教・部落問題学習交流会に参加して

  雑誌「部落」掲載の報告の最初の原稿です。冗談半分の文があったのと、各地でたたか
っておられるみなさんへの配慮から、多少訂正しました。あくまでも私の意志で………。


               和歌山県教職員組合副委員長    雑賀光夫
                          (一)
  五月二二、二三日、徳島市で全教主催の部落問題学習交流集会が開かれた。私は、和歌
山県教組の担当者として「全教へのおつきあだ。海の向こうとはえ隣の県で開かれる
集会をすっぽかすわけにもくま」とう程度の気持ちで参加した。

 その半月ほど前、徳島の女性の先生から和歌山県教組に電話をいただいていた。「今度
かわってきた学校では、同和の締め付けが大変です。子供会へ行けど校長に言われて、断
っているのは私一人です。こんな攻撃をはねかえす経験はないかと全教にお聞きしたら、
和歌山県教組に相談したらどうかと言われたものですから………。」とう具合で、その
先生を激励する義務感のようなものもあった。
  ところが、集会で感動し、激励されたのは、私だったのである。その感動の何分の一か
でもお伝えできればと思つつ、パソコンのキーをたたいている。
                          (二)
  集会は午後二時半からはじまり、全教・工藤中執の基調報告と大阪の「人権教育・解放
教育」につての特別報告がおこなわれた。(大阪市教北大阪支部書記長・小林優氏)大
阪のたたかいを「矢田事件」(組合役員選挙でのあさつ文を「差別文書」として解同が
糾弾したが、大阪市教組の民主的活動家は断固としてはねのけ、大阪市教組民主化の契機
となった事件)にさかのぼりながら、新しい「人権教育」の名による攻撃とたたかいの到
達点を報告された。
「人権学習といっても、部落問題学習などしてる学校はありません」とおっしゃる。翌
日の記念講演をされた梅田修先生は、「部落民宣言などやれとう押しつけがあったら、
『あなた方は不勉強だ。解放教育の本場である大阪でもそんなことはやっていない』と言
ってやったらいい」と言われたが、大阪でも、解放教育派が破綻し追込まれ、「人権教
育」に隠れ場所をもとめるという事態になってるということであろう。
                          (三)
  この学習交流会は、夕食後、六時から八時まで第二部として、三つの特別報告があると
うハードスケジュール。夕食時間に「ビールを飲んでもいいのでしょうか?」と誰かが
質問する。工藤さんは「主催者からおすすめしませんが、各人の自由です。」とおおらか
にお答えになる。
 「ところで、雑賀さん、私の基調報告の間はよく寝てられましたね。雑賀さんを眠らせ
るような基調報告ではだめですね。」とおっしゃる。(その仕返しに工藤さんが私に雑誌
「部落」への原稿執筆を推薦したわけでは決してないと私は信じている。)
 かくて、ほろよ気分で私たちは、第二部の三つの特別報告を聞くことになった。ここ
で、居眠りどころか、ほろ酔い気分がふっとぶような感動的な報告を聞かせていただいた
のである。
                          (四)
  特別報告の最初は、徳島からの報告である。徳島に全教の組織はなく、全教に連帯する
「教職員の会」というものがある。そのほかに、日教組所属の県教組と全日教連というも
っと右よりの組織がある。そのなかで、信じられなような教育と教職員への蹂躙がおこ
なわれてる。
 @先生が児童をいじめたというデッチアゲ事件がおこる。デッチアゲたのは、体育振興
公社にいる陰の教育長ともいわれる人物。「教職員の会」が真相を明らかにするとりくみ
をすすめ、組合所属の違をこえて500人の教職員が集会にあつまる。抗議の交渉超党
派でおこない、市教委当局者が、「なぜ県教組と全日教連と喜多一派が同席してるんです
か。」(「教職員の会の会長さんは喜多先生なので、喜多一派とよばれるとか。)と言う。
ついに徳島市教育長は、責任をとって辞任した。
 Aこんなひどい教員イジメをする行政が、公正なはずがない。予算分析で「トイレット
ペーパー代まで児童からあつめ、雨漏り校舎で、窓枠が落ちてくる老朽校舎はそのままに
して、体育振興公社の予算だけが異常にのびる」という実態が報告される。
  私は、行政の非民主制の追及と教育予算充実の要求を結合してとりくんでいる方針の的
確さに舌を巻きながら、報告にききいった。
 B鴨島町の解同幹部を批判する葉書がだされ、その犯人探しのための筆跡鑑定がおこな
われた事件。となりの川町議会で、解同を批判した議員が議会から除名された問題でのた
たかい………。
  居眠りどころか息つくひまもない思いで、私は報告にききいった。所属組織のちがいを
こえた共同………全教のメンテーマが全教の組織も確立していない徳島の地でシンフォニー
をかなでてる。
                            (五)
  つづく報告は、全教広島福山支部・大門中学校・小林先生の報告である。この支部と学
校の取り組みについて数年前、全教広島の今谷書記長からお聞きしたことがある。日本鋼
管の城下町、しかも解同にとりまかれた町で、教育で父母の信頼をかちとり、県教研集会
を大門中学校で開たときは、父母が実行委員をかってでて、そろいの法被まできて支え
てくれたとう報告であった。校長は教研集会にあわせて新し輪転機を買ってくれたと
も聞いた。
  「どうしてそんなことができたのですか」と今谷書記長に質問すると、「まだ詳し報
告がはいっていないんだが………」とわれていたが、その後、なにかの機会があるたび
に、「福山支部のとりくみ」に注目してきた。この支部の西谷先生には、同室に宿泊して
根ほり葉ほり教訓をきかせてもらったこともある。今回は、その大門中学校の現場の先生
の報告だけに、あらためて新鮮な感動を持って報告をきかせていただいた。
  紙数がつきた。最後は、民主町政を生み出した黒田庄町の報告である。有権者数に近い
署名をつんで「部落条例制定」をせまった同和固執勢力。その中で、三人しかいない全教
組合員など、「条例を危惧する会」をつくった人たちの勇気。そこに集まった町民の共感。
  子どもがキレルというが大人もキレル寸前にある。その怒りを正しく発展させる核があ
ったとき雪崩が起こった。同時に、八鹿高校事件以後の兵庫の解同の蛮行とのたたかいの
積み重ねが生んだ勝利でもある。そんなことを考えながら報告を聞た。
                                (六)
  夜の交流会は、午後八時からはじまり各県の自己紹介は夜の十一時までつづたが誰も
文句をいうものはいなかった。
  翌日の梅田修先生の講演については、お書きになったものを読んでいただくことにして
割愛するが、「障害者問題を3時間、アイヌの問題を2時間など人権問題をつめこんで、
そんなことで人権認識が育つのでしょうか。人権ぎらいをつくりかねない。同和ぎらいが
できても同和をおわったらもういいんですが、人権問題はいつまでもとりあげなくてはな
らないから、人権ぎらいをつくったら困りますね。」とわれたのが印象的だった。

海南海草地方の同和教育運動の歴央と教訓

一九七九年   雑賀光夫
(元東海南中学校教諭、海南海草部落問題研究会、和教組本部書記長)


(本編は、一九七九年度の和教組海南海草支部、和高教線第一ブロック海南・大成班合同
による「海南海草地方責善集会」で講演してただたデーブより集録しました。〉
                                                  
(一)同和教育運動の時期区分
 和歌山県の同和教育は一九四七年に和教組が責善教青を創設し、いくつかの時期を画し
ながら発展してきました。
○第一期(一九四七〜一九五二年)
 責善教育がはじめられた時期。観念的だという弱点を持ってたといわれます。

○第二期(一九五二〜一九六○年)
 西川事件闘争(一九五二年)をきっかけにして、「差別は観念でなく生活の中にある」
とうことが明らがになって、子どもの生活に目を向けて、貴善教育をすすめていこうと
した時期。

○第三期(一九六○〜一九七〇年)
 「責善教育指導方針(案)(県教委)」を廃案とする通達が出され、「人間尊重教育(同
和教育)」が出され、今までの責三教育の伝統が教委の側がら否定され、それに対して、
自主的、民主的な責善教育の運動が下がらおこっていった時期です。
 ここで、「人尊〈同和)教育方針」の問題点を三つに整理しておきましょう。
 @責善教育は一部の人たちが特定の立場がらやってきた教育なんだといって、貴善教育
の伝統を否定したこと。
 A運動と教育は別なことは当然ですが、運動と教育が協力をするとうことを否定して、
部落の解放をめざす運動と切りはなした形て教育をすすめようとした点。
 B差別は観念であるという考え方。

○第四期(一九七○〜一九七五年)
 人尊体制の中で、それを批判するさまざまな自主的な教育運動がおこってきた。そして
この体制をうちやぶった一つの大きな力は、一連の差別事件闘争でした。
      南高事象や北富田小事象、海南では高差別事件             
 こうしたたたかいを一つのテコにしながら、人尊教育を廃案にし、新し同和教育基本
方針をうちたてていった時期です。
○第五期(一九七五〜    )
 八鹿高校事件がおこり、東京都知事選をめぐって、同和行政のあり方について大きな論
争があり、全国的に部落解放とは何か、同和教育とはどうあるべきかが論議され、国民融
合をめざす同和教育の方向がうちたてられた時期です。

(二)海南海草の同和教育運動     
 私がおはなしするのは、第三期がら第五期のことです。私自身が教師になったのは第三
期の後半とうことになります。

 市立野上中学校(現東海南中)の同和教育
 @ その時代
 一九六〇年代(全国的に同和教育がおさえつげられた時期〉、海草地方でもすべての職
場て同和教育にとり組むとうことにはなっていませんでした。
 そんな中て中心になって同和教育をすすめてきたのは、いちばん大きな未解放部落をか
かえた市野上中(現東海南中}だったと思ます。
 人尊教育によって同和教育がおさえこまれて、同和教育などせんてもいいとわれ、責
善教育の方針にもとづいて同和教育をやろうとしたら、「組合の先生や」といわれたころ
です。
 教職員組合の組織的力量も、勤評後、きびしい弾圧の中て組合員の数も滅って、組織率
も低下しており、賃金闘争でストラキするのも大変だったころです。
 同時にその時期というのは学力テスト反対闘争がたたがわれ、和歌山県では日宿直の廃
止のたたかいにとりくみ、日宿直の廃止を実現した。そして組合員数も最低がら増に転じた
時期です。                
 私が教職についた一九六七年の秋には、公務員共闘の全国統一ストラキに和教組も参
加する、そうう時期に市野上中の実践というのがあったわけてす。
A 職場……地域……教育論議(注1)
 一九六二年の「第一回生活ど教育を守る会」が沖野々集会のはじまりです。一年とんで
六四年「第一回沖野々集会」このころから中野上中の同和教育がはじまっています。
 このころの職場で、どんをことがおこってたかといいますと、
 ○N先生を守るたたが
  非常勤講師の先生の首があぶないとうことて、職場でっしょになって闘ったこと。
 ○日宿直拒否闘争   
 日宿直廃止を要求して、年末年始の日宿直拒否の闘をくむわけです。校長は年末がら
年始まで一人で毎晩日宿直をする。職場はつろうてしょうがをけれど、権利をかちとる
ためにはやっぱりやらをあかのやということて団結して闘ったのです。 
 そうう権利闘争の前進、職場の団結の中で、同時に底辺のこどもに眼を向けていく実
践がすすんできます。  
(「同和教育へのあがき」市野中教師集団、同和教育第六八号 六九・一一) 
 当時の論議の一つとして伝えられてるものに、「ナボテン論議」というのがありま
す。運動会の時にピラミッドを作るまわりにサボテンになる子をみたら、みな体の弱い子、
同時に授業におちこぼれになっている子ということが論議になってきた。いつも鼓笛で何
かやることになったら、またはちだされていくとうような論議になって、その中でそうう
子どもたちをどうするのが論議せをあがんとうこと………。
 当時の沖野々の実態とうのは今とだいぶんちがいます。小さな住宅が、だまだ建てこ
んでいて、保育園などなかった時代です。子どもたちの中に非行間題がぞくぞくと起こる
ということがあって、それをきっかけにいろいろな論議があるわげです。  
 お正月に開た同窓会で、先生がなぐられかかったこともあったそうです。 
 その前に一人の卒業生が単車の事故で死んでいました。 
 「Kが単車の事故て死んだ時、先生らば葬式へまいっちゃったんか」
 「金持ちの子どもやったら、すぐいくのに、わえらやったら、すぐ来てくれへんやな
いか」  
 こういうことを持ち帰って、われわれの教育はこれでよがったのかと、職員会議て議論
する学校でした。

(2)「めざめゆく子どもたち」(注2〉と0君の作文

 わたしが教職についたのは、ちょうどそのころでした。       ′
 学校あらし、授業妨害……こんなことばかりする生徒をどうするのか、いろいろ論議し
ました。
 その子どもたちのもっている教育要求を取り上げていこうと、生徒会を中心とした要求
運動にとりくんだり、問題少年を女の子たちがはげまし、生徒会長に立候補させたり、
いろいろなとりくみがありました。その実践ついては、一九七二年の県教研で報告させて
もらいました。                   
 そういうとり組みをする中で、子どもたちに部落問題をちゃんと教える必要があのではな
いかう話がでてきます。ところが、この当時、人尊教育の下で同和教育がおさえられられ
ていた時期ですから、今のように部落問題が教科書にでてくるわけではありませんし、「橋
のな川」のような映画があったわけでもありません。教師集団全体で部落問題を正しく
教えることについて、この職場でも意思統一できなかったという現状があったわけです。
 そこで、何をやったかといいますと、田伏先生(現海草支部長)が宿直の晩に遊びにき
た子どもたちをつかまえてえ、はじめて部落問題の話をします。、          
「おまえらの親は、こんなに苦労して差別をなくすためにがんばってきた。それなのに、お
まえらはあたけてばかりてなんだ」
とうような話でした。
  はじめて部落問題をまともにおしえる実践が、教室の中からではなく、宿直室でやられ
たということが、当時のとりくみの水準、狭さを象徴しています。
 その一年後に「O君の作文」……最近までよく教材にもつかわれてました……が生ま
れます。 
 その夜、田伏先生から聞た話を一年後のО君が人尊作文に書くわけです。親戚の結婚
差別事件と結びつけて。
  「今年の五月に腹の立つことがあった。それはぼくの親戚の家でおこった結婚話のこと
です。相手の男の人は、となりの町の人で、二人は前々から結婚したと思ってたので
すが、相手の親はどうしても反対するのです。なぜこんな問題がおきるのでしょう。未解
放部落……このことばをみなさんは聞いたことがありますか。ききなれないことばでしょ
う。ぼくも一年前ぐらいに先生からきいたことはです。未解放部落というのは、ひどい差
別を受けいてる部落のことです。このへんでいうと沖野々と新出です。………ぼくらはあ
まりにも部落のことを知らなさぎる。先生もあまり話してくれない。親も話してくれせん。
それで思いきって書くことにしたのです。」
 この作文が佐古先生(現海草教育事務所)の学級から出てきたとき、教師集団はびっく
りしました。職員会議でいろいろ論議しました。表題は「差別をなくすために」として
ますが、もともとは「未解放部落につて」といいます。これはきつすぎる。まず題をか
えよとうことになりました。それから、部落の名前「沖野々と新出です」この名前を見
せたらえらいことになるとけずる。警察で拷問でされる場面があるんだけど、そこの表現
がきつすぎるからと校長が言って、けずられた。こういう作文一つが出できたら、ぴっく
りして、そこで初めて部落問題を教室の中でとり組んだのです。今とくらべると、かなり
違ます。
 ところでその頃のことをふり返ってみて、弱点がいっぱあった実践だと思ます。た
とえば、 I
 「今から思えば、教師が子どもたちに追つめられ、差別者としての自己を見つめざる
をえな立場にたたされつつ、必死になって子どもたちに訴えかけでてったとりくみが、
子どもを変え、そして教師集団自身を変えてったような気がする。………」(「めざめ
ゆく子どもたち」より)
 あの当時、「非行は宝」といいましたが、そういう言方の持ってる弱点、まじめだ
けれど、今から考えると理論的にまちがった面を持っています。            

(3)海南市同教結成と「橋のない川」………同和教育の全市的な広がり
 沖野々集会をはじめたころ、市同教はまだ結成されていませんでした。はじめ沖野々集
会ををい開ても、市長や教育長が来てくれるわけでなく後援のあるわけでもない。市野中
の先生が中心になって、まわりのの先生の呼びかけて、この教育を支えるためには地域と
結びつかなくてはだめなんだとっいて、沖野々集会を開いていった。第三回に中山先生
(現市議)が実践報告をして、会場がいっぱいになりました。
 昭和四二年に市同教が結成されて、第四回目からはじめて市長や教育長が沖野々集会に
顔を出しました。さらにその次になると市同数が主催して沖野々集会を開く。そういうふ
うにして組織をつくり、いろいろ弱点はあったけれど、まあ必死になって(全体のとり組
みには、なかなかようしなかったけれど)とりくんできたとうのが、この時期だったわけ
です。一九六六年五月、全同教、和歌山大会が開かれます。一九六七年五月、和同教発足、
一〇月市同教結成。一九六九年〜七〇年にかけて、「橋のな川」の止映運動がひろがり
ます。
 かつて市野中の宿直室で部落問題の話をし、0君の作文が出でどうするか論議し、部落
問題を教えていいんか悪いんかと論議した。その同じ問題について、すべての学校でい
やおうなしに論議したのが、「橋のな川」上映運動でした。
 同和主任会が何回も開かれて、事前指導をどうするか、事後指導をどうするか、ほんと
うにあれ教えてもいいんか、いろいろ論議をしました。いま、「橋のな川」上映運動は
どういう意味があったのか、総括をしてみる必要があると思います。        
 「橋のな川」を見せたら、同和教育ができるんだとうけとめるのは弱点であったと思
いますが、その中で部落問題から逃げずにきちんと教えるというところへ海南海草の教師
集団がぶつかっていったとう点で、我々自身も勉強もしたし、大きく変わったといえる
し、同和教育をきく前進させたといえると思ます。


4 差別事件闘争のとりくみ                          
         .
 そういう教育運動の広がりとあわせで、もう一つ人尊体制をうちやぶっていったものと
して、差別事件(明月レストラン・三中・市民病院・下二中事象といった大きな差別事件
へのとりくみがあるわけです。
 その前段に、きちんとしたとりくみにならなかったいくつかの差別事件がおこっていま
す。
 その一つは、一九六七年の住金差別事件です。
 市野中から住金の養成校にうかった生徒がいて、その担任のところへ住金から電話が入
った。
「ちょっと聞きたことがあるので、日曜日に学校へ行っててくれないか」
そこでその先生が待ってるいと、住金から電話がかかった。海南出身の人がいるのでかわ
りますからと言ってかわり、その人を通じて担任に聞たのは、
「今度、送ってくれる生綻壮大変優秀やけれども、部落と関係ないでしょうね」
 ということでした.
 その場は「関係ありません」とこ答えたが、これをほっておくわけにはいかなとうの
で、職員会議へ提起して論議した。その結論は「ふせとけ」でした。「これはしばらく、
口外しないでもらたい」と校長がった。そういうのが当時の差別事件がおこった場合
の職場の態度でした。そのあと、部落の何人かの方々に集まってもらって相談し、住金に
一定の抗議をし、住金の方は社内教育をちゃんとやりますと答えたんではなかったかと記
憶しています。この程度で終わったのが住金の差別事件です。
 一九六八年には市民病院差別事件(市民民病で働いてる人の間でやりとりのあった会
話での差別事件)がおこっています。これはその時事件にならず、ずっと後に事件になり
ました。
 まともに差別事件闘争にとりくんだのは、一九六九年の高差別事件です.那賀海草教育
事務所の高次長が初任研の席で、部落問題の説明として、部落差別+因習偏見+生活状態
+心身の弱点・欠陥 といいました。当時、和教組青年部が初任研を民主化するためにと
いうので、初任の先生にノートをきちっととってきてもらい、それを見せてもらうと
こんなことをいってるとわかりました。
 和歌山市・那賀・海南で確認会をくりかえしました。権力をあんなにやっつけたとう
のは、初めての経験でした。また我々教職員にとって民主的な職場づくりや教委との力関
係をかえる上で、大きな意義をもつ闘でした。

 要求書と回答があるので、一部よんでみましょう。
  ………………………………………………………………………………………………
     要求と回答(一部)
  A教師の人権を守るため、さまざまな労働条件を保障するために、どんな姿勢でとり
   くむのか。
 (回答)教職員の権利保障や労働条件の改善については、事務所として前向きな行政を
     推進してまいりたと考えます。従って、先生方の教育実践上の妥当な要求や
     悩みを卒直に聞かせていただき、研究検討してまいりたと思ます。また、教
     育事務所だけ解決のつかな問題もあるように思われますので、地教委等とよ
     く相談して改善のため適当な指導助言をしていきたいと思います。
  G同和教育をはじめとする各種自主的・民主的研究活動を保障するために、どんな姿
   勢でとりくむのか。
 (回答)事務所としては、先生方の自主的な研究会やサークル等につで、今後とも充
     分理解させていただくよう努めるとともに、これらの自主的な研究組織やサー
     クル等が平素の学校運営や教育計画にマッチした方向で研修され、教育効果が一
     層高められるよう積極的に助成していきたと考えています。   ・    
  ………………………………………………………………………………………………
 せっかくここまで言わせたのに、あともっとくり返しくり返し確認して定着させるたた
かいがもっといったのではと、今から考えたら反省をしします。(注6)
 また、中野上小の人尊教育研究発表会があって、その研究発表会をやることは、人尊方
針を支えることになるとっいて中止を要求しました。(六九・十一・四)
 このたたかのくみ方には、今からふ少かえってみれば、少し無理もありました。それ
にしても、私たちの主張をみんなに知ってもらいたいとうので、わたしが書いた「中小
人尊発表会とわたしたちの立場」(注7)とう部落研としての見解を、支部執行行部が
「資料」として採用を決め、職場に配ってくれました。
 こんなとりくみをしながら、全体として同同和教育を前進させてきたと言えるのではな
いかと思ってます。
 これらは権力へ向けての差別事件闘争でしたが、自分たちの仲間の中での問題にはじめ
めてとりんだのが、大野小学校の問題でした。(注8)教師集団を団結させながら、どう
いうふうにこの問題を正しく処理をしたらいいのか悩みました。実際、職場が一番えら
たたかだったと思っています。(一九七一年一〇月)
 こんな差別事件がおこった時、差別確認会を開きますが、会に解同(今の和解連)を入
れるかで大論議をしました。教委は海南でおこった間題だから海南て処理をしようと胸を
はり解同が来ても会に入れない、差別された人が友人として入れてほしと言っても、そ
れは困りますと市教委が拒否をする。
 こうう行政の姿勢で問題の解決が長びきました。ある程度、高差別事件等でたたかい
が前進したけれども海南市教委などは、本当に自分の弱点を謙虚に改めようとしない姿勢
が明確になりました。
 もう一歩、事態をきりひらたのは、それにつづく三つの大き差別事件闘争を通じてで
す。
@明月レストラン事象(一九七一・九発生、一九七三・五とりくみ)  ・
 明月レストランで、A子(部落出身・すさみ町)とB子(海南市)の二人が勤めて

  ………………………………………………………………………………………………
   B子=(指を四本出して)きたないんやて。
   A子=それ、何のこと。
   B子=部落の人や、部落の人はきたない。道とか川に魚の頭がすててある。
  ………………………………………………………………………………………………
 その場で問題にならず、A子がすさみに帰って、一九七三年に南紀高校に入学し、学校
の同和教育の一環としての「過去に経験したいやなことを述べよ」とう課題の作文にそ
のことを書きました。
 すさみ町教委が海南市教委へその問題を提起し間題化されました。この頃、この間題
も含め、貴和高校らの提起などから、海南海草からの生徒は同和和教育の認識が低いので
はないかとうような内容の提起を受けていました。そこで、海南海草の同和教育はおち
こんでるとう形で行政を追及しました。
 明月レストラ事象の確認会をすさみで開き、海南のとりくみとすみのとりくみは全然ちが
うことが明らかにされました。また解同が中心となる確認会へ参加したのも私達は初め
てで、参加者に感想をきいた「こわい」とう人と、「大事だ」という人がいました。
 当時、わたし東海南中の「同和資料」にこのことを紹介し、「一人一人の気持ちの中に
もこの二つの面がある。『大事』とう面を大切にしながら、『こわい』という点に
つてもよく話しあってみよう」(注9)とう意味のことをかいています。
 今からふりかえれば、確認会のもち方の弱点があったのです.
A 三申事象 (一九七三年九月発生)
 海南三中の生徒と東南中の生徒が友達になって、三中の親が「部落の子とつきあうな」
といって、つきあをやめさせたとうことをきっかけにした事件。
B市民病院事象(一九六八年 前出)
 ここで大衆的確認会という大きな講堂に集まって差別事件の問題をみんなで話し合うと
うパターンが定着しました。

(5) 大衆的差別確認会と同和教育の広がり
      ………その成果と問題点………

 よかれあしかれ同和教育の間題が職場で論議されたこの時期の成果と弱点につては、
深くえぐって総括してみる必要があります。
 前進した面として、同和教育行政が前進しました。明楽市長が明月レストラ事象最後の
確認会で、同和教育をいっしようけんめやると意志表明をした。加配教員でも、海南海
草地方は同和地区は少なから、基準からいったら同和加配教員は二人しかない。だか
ら同和教育が遅れてるのではないかとせめるると、次の年は十名ほどふえました。
 海南市では社会同和の中で地区巡回講座を社会教育課を中心に積極的に進めるようにな
ったのは、この時期からです。
 もう一つは、職場の民主化、学校の民主的運営のととりくみがすすみました。全県的に
見でも、同和教育が一部の人のやる同和教育でなくて、学校ぐるみの同和教育として大き
く進んだ時期でもありました。(名手小の教育実践 等)
 名手小では、同和教育の中で用務員さんはどうう役割を果たすのか、こんなことまで
話し合ってるということも聞いてきて、いろいろ同和教育につて論義がされました。
 差別事件を教材化するとりくみなどもおこりました。
 職場民主化の中味として、職員会議にに養護、事務、必要に応じて調理員、用務員を含
めて入るかどうか論議されました。
 ある学校では用務員さんをおばちゃんと呼ぶのおかしのではなか、やはり名前で呼
ほうじゃなか。こんな話が出てきたと報告されたのはこの頃です.
 のちに、解放教育、朝田理論が大問題になった頃のことですが、同和教育につて現職
教育をやるから話を聞かせよ、とうので、ある学校へ呼んでもらったとき用務員、調理
員も入って来て、みんな話を聞てくれました。
 同和教育と名前がついたら、用務員、調理員を含めて勉強するが、同和と名が付かなか
ったら、教師だけてやる傾向がある。例えば夏休み前に職員会議で夏体みの行事のこと
を話しあう時には用務員、調理員は入いらないで、同和教育の話ときだけ呼びにいくと
いうのは、おかしいわけです。

 部落研の会合でも、三つの差別事件闘争にとりくむ中で、当時差別確認会が本当に必要
なのか、特に権力ではなくなく一般の人がおこした差別事件を、講堂に集まってはなしあう
ことが必要なのかどうかと論議しました。
 明月レストラン事象の時は、大きな確認会をやりましたが、すさみ町ではA子さんを支
える青年の集団がありました。三中事象の時も問題をおこした子のお父さんを呼んで、三
中の教師集団がじつくりと話し込んでいます。その中でそのお父さんが変っていった。と
ころが市民病院事象の場合、大きな確認会をやってこっちがつらくなりましした。職場で
その人をかえていくとりくみがない場合には、確認会の場でおろおろしてしまって何を言
っていいのかわからなくなってしまいます。
 この上うな状態の中で確認会とは何か。これでいいのだろうか、行政の姿勢を変えたと
う成果はあったけれど、人間自身変えるのは、その人その人がきちんと納得できる場を
設け、その集団の中で変わるという点をおさえなくてはいけないのではないかとう論議
をいろいろ迷いながらやっていたように思ます。
 当時、遊びの中でおこっでくる差別は、一中でも二中でもいろんな所で頻発しました。
当時は、「身近かな差別……歴史学習……展望」というパターン、高校でいうと同和LR
というパターンのとりくみが広がったと思いますが、単に部落問題、同和問題だけをとり
出して教えるのでなくて、民主的な人格の形成を全体としてどうするのかという点が十分
でないままに同和教育だけ教えるという組みでは、部落問題とうのは特異な問題として
映ったり、高枚生でったら「また同和か」ということになったり、正しく受けとめられ
ないということが、教訓としてえると思います。
 そういうことも当時論議したものでした。

(6)国民融合をめざす同和教育へ
 そういうとり組みを経て、いろいろ迷っでる中でおこったのは、八鹿高校事件
(1974,11)と解同県連第十九回大会白浜事件(解同から分裂した一派が大会になぐりこ
んだ暴力事件(1974,8,18)です。
 八鹿高校の問題の総括の上に立ってもういちど部落問題につての理論を整理したの
は、国民融合をめざす同和教育のとりくみだったと思います。
 和教組の「学校教育の基本と責善(同和)教育」(1967)の職場討議がはじまりました。
その前年、一九七五年の支部責善集会の基調報告は、責善部のほか同推の先生方もふくめ
て実行委員会をつくってとりくみ、基調報告ほ実行委員会の討議をふまえてまとめたもの
です。
 そこでは国民融合めざす同和教育という点で、同和教育を更に発展せるために今までの
のとりくみを整理する必要があるのではないかということで、いくつかの成果をあげてい
ます。
      ………………………………………………………………………………………………
 〇 同和教育の討議の中で、職場の民主化がすすんだこと。
 ○ 遅れた子どもに眼が向き、子どもたちの差別をとらえて集団の中で解決していくと
  りくみが生れたこと。
 ○ 父母の要求に眼を向け、地域懇談会で話し合う職場が多くなったこと。
 〇 「橋のな川」の上映などで、子どもたちに部落問題を正しく教えようというとり
  組みが行われたとと。
 ○ 障害児教育との結合…
      ………………………………………………………………………………………………
こうう成果を挙げて、
      ………………………………………………………………………………………………
   しかし、これ号で同和教育ということばが民主教育とうことばの代名詞として使  
    われてきたところがありました。このことは民主的な考え方がなかなか通りにく中 
   で、同和の観点ということに寄りかかりながら、民主教育を守ろうとする努力の中か 
   ら出てきたことでした。しかし、このことは民主教育の豊富な内容を同和という観点 
   だけからみるという弱点を持ってます。例えば、はぐるま教材をあつかう場合に、文学
    としての豊かさを全面的に受けとめるのでなく、同和の観点から何をつかませるのか
    とうことだけになれば、極めて狭いものになります。橋のな川を扱うのも同様の問題は
    ないとは言えません。
      ………………………………………………………………………………………………

 こんな問題を提起してます。そしてこの提起をしながら同時に、同和教育の研究会を開
たり参加するのに、こんな意義がありますと言って、

      ………………………………………………………………………………………………
   同和教育そのものを進めることと同時に、同和教育の中で生れてきた教訓を積極的
  に民主教育全体の成果として学びとってくとうことがあるのではなか。
      ………………………………………………………………………………………………

として、同和教育運動がうみだした民主教育全体の財産として、以下六萌目を挙げてせ
す。(省略)
 その観点がその後の基調報告にもいろいろな形で受けとめられてます.
 どの基調報告を見ても、国民融合をめぎす同和教育と言い出されてから、同和教育がな
かなか論議されにくいとう悩みが出きれて、同時に解釈論に陥るのでなくて、今まで同和
教育の名前で呼ばれてきた民主教育の財産を積極的に全体へ押し拡げていくことが大事で
はないかとう観点がつらぬかれてます。


(7) お わ り に

 わたしたちは、同和教育だけにかぎらず、父母やこどもの立場に立って民主的な教育内
容をつくりだしていかねばなりませんし、地域の父母と手をむすび、教育を守ってかな
くてはなりません。
 地域の父母と手を結んでいくということで言ますと、かつて沖野々とう矛盾の集中
した同和地区へ教師集団が眼を向けて、教育の懇談会を開きました。それが沖野々集会
へ発展したわけです。
 教育の荒廃と言われる中で、どの地域でもそういった組織ができる条件が生まれてい
るのではないだろうか。かつて自分たちで自主的な運動として沖野々集会を開たように、
もっと教育を守る父母・教職員の運動を発展させる条件がいま生れてきているのではない
かと思ます。
 ({海南海草地方責善教育研究集会」講演より 1980年3月7日  藤白参集殿)

       ……………………………………………………………………………………
       一九七九年度の海南海草責善研に報告したものを、責善部員の宗先生がテ
       ープをおこして印刷物にしてとどけて下さった・文章にしてみると、文脈
       もつながらなものに手数をかけてただたことに恐縮してたら、同
       推協の山本先生が、先日、冊子ににのせるから手をれるようにとわれ
       た。そで文脈がつながるように手を入れた.これ以上なおすときりが
       なので、これでのせてをさます。
             一九八一・二・八
                          雑  賀  光  夫
       ……………………………………………………………………………………


   (注1) 「同和教育のあがき」 市野中教師集団
              同和教育 (第69号  1967,11,25)
        「人間解放のための教育のすじ道を求めて」 山上寛治
              文化評論(No.67  1968,3)
   (注2) 「めざめゆくこどもたち −市立野中からの報告!」
              紀北教育(bR3  1967・8・25)
        「めざめゆくこどもたち」 市野中教師集団)
              同和教育(臨時号 1967・11・1)
   (注3) 「橋」 (bP及び bVに採録)
   (注4)  同和教育(臨時号)
   (注5) 「橋」はこの時期に発刊され、サブタトルは「橋のな川上映のため
         に」となってる。
   (注6) 「高差別事件闘争の前進のために」 1970年春
            「橋」(第四号 1971,1)
   (注7) 「文部省指定中野上小学枚『人間尊重教育(同和教育)』研究発表会と
         私たちの立場」
            「橋」 第二号 1971・11・15
   (注8) 「大野小学校区での差別事件闘争と私たちのとりくみ」
            「橋」(第三号)1971・11・25
            「橋」(第四・五号にも補足的資料がある。
   (注9) 「同和教育資料集@」(一九七三年度二学期) 東海南中同和部