吉川薫雄教育論集

ようこそ!
編集・雑賀光夫
 私の恩人の一人である吉川薫雄先生のフロッピーを手にしたので、ここに
先生に敬意を表し、吉川薫雄教育論ページを開設することにしました。
 * 今日、2009年2月2日、吉川先生のお宅を久しぶりで訪問。この前の訪問で預かったワープロのフロッピーを、パソコンでも読み出せるように変換したことをお話し、携帯のパソコンで読み出してお見せしました 。久しぶりの訪問にたいへん喜んでいただきました。これからその原稿を少しづつ、紹介していきます。
一 ひかり協会事業とは何か    二 教育事業の具体的実践と、
  その成果と教訓   
三 光協会事業・まとめ   
「水曜学級」八か月間の活動から すばらしき子どもたち(1957年)南野上小学校での実践   うた子のたより 南野上小4年の実践(紀北教育2号)
         


一 ひかり協会事業とは何か


1、はじめに

 ひかり協会とは、森永ひ素ミルク中毒の被害者救済のための機関として設立され
た財団法人です。
 さて、かねてからひかり協会が被害者救済の重要な柱として実施してきた教育事
業について、学校現場をはじめ教育関係者の方々に是非紹介したいと考えてきまし
た。なぜならその教育事業には、学校教育に生かしたい多くの成果と教訓があるの
ではないかと考えるからです。この度第35回和歌山県民間教育研究集会「実践交
流会」において、その報告の機会を与えていただき、関係者のみなさんに厚くお礼
申上げます。
 なお報告では、教育事業だけでなく、その基本となった被害者救済の理念や原則、
そしてそれを支えてきた力、さらには若い世代の先生方のために森永ひ素ミルク中
毒事件と「森永ひ素ミルク中毒の子どもを守る会」(以下「守る会」という)によ
る親たちの運動についても紹介したいと思います。

2 森永ひ素ミルク中毒事件とは ー事件のあらましと、その特徴ー

 この中毒事件は1955年、森永乳業KK徳島工場製造の「森永ドライミルク」
にひ素等の有害物質が混入し、それを飲用した西日本一帯の人工栄養の乳児一万数
千名が中毒症状を訴え、130名がその中毒により死亡するという過去に類例のな
い痛ましい食品公害事件です。
 この中毒事件の特徴は、乳児が主食として飲用した粉ミルクの中にひ素等の有害
物質が混入して起きたものであり、食品会社である森永乳業KKがその原材料につ
いての厳しいチェックを怠ったということです。これはまさしく高度経済成長に向
けて企業利益を最優先する日本型企業の体質によって引き起こされた人工公害であ
ったのです。

3 「守る会」は、何を求めたか ー親たちの願いと、「守る会」運動の特徴ー

 1955年8月事件が公表されると、被害児をもつ親たちは各県単位の被災者同
盟を結成し、はやくも9月には被災者同盟全国協議会(全教)という連合組織をつ
くり、森永乳業KKと国(厚生省)に対して、一日もはやい子どもの健康回復を基
本に慰謝料要求の運動を展開しました。しかし当時の社会的条件のなかで運動の継
続が困難となり、森永乳業KKとの覚書を唯一の手がかりとして、不本意ながら、
1956年4月全教を解散しました。
 その後「岡山県森永ミルク中毒の子どもを守る会」による地道な運動が続けられ
るな
か1969年10月、当時大阪大学医学部教授であった丸山博氏によって「14年
目の訪問」が発表され、これを機に再び全国の親たちが結集し「守る会」運動へと
発展していったのです。
 「守る会」は、被災者同盟全国協議会の運動の教訓にたって、その組織原則を全
国単一組織とし、また要求も国民的合意の得られるものとして「子どもたちのから
だをもとに返せ」をスローガンに、「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する
対策案」(以下「恒久対策案」という)を作成し、その実現をめざして運動を展開
していったのです。この「恒久対策案」には、医療・教育・福祉など人間が人間と
して生きていく上での必要な対策が具体的に述べられています。そして本部交渉・
現地交渉などを積み重ねながら、森永製品の不売買運動、民事訴訟などの運動を多
くの国民の支持をうけて進めていったのです。
 1973年10月、国(厚生省)のよびかけで、「守る会」・森永乳業KK・国
(厚生省)の三者による話し合い、いわゆる三者会談が始められ、同年12月23
日開催の第5回三者会談において、次のような五項目について合意し確認書が作成
されたのです。ひかり協会は、この確認書にもとづき1974年4月公益法人(財
団法人)として設立されました。
 ところでひかり協会が設立されて一年後の1975年5月3〜4日、「守る会」
は松山市において第41回拡大常任理事会を開催し、「救済とは、被害者を通常の
社会人として自立させるため、一人ひとりの被害者が必要とする教育権、労働権、
生活権等、一切の生存権の回復をめざし、その発達を保障することであり、それ以
外の何ものでもない……」「『一律、平等、無差別に、何らかのプラス・アルファ
ーを』という主張は、現状において、被害者の真の救済にプラスにならない……」
との被害者救済の基本理念を統一見解として決定したのです。

4 被害者救済の「三つの原則」の確立 ーとくに教育事業の位置づけー

 「守る会」第41回拡大常任理事会での被害者救済の基本理念についての統一見
解は、ひかり協会における被害者救済の原則を確立する基礎となり、それはその後
のひかり協会の被害者救済事業の実践のなかで試され、理論的にも深められていっ
たのです。そして1978年第一次の「救済事業のあり方」において、@被害者の
全面発達と社会的自立を保障する事業であること、A総合的な事業であること、B
個別対応こそ、生きた救済であること、という「三つの原則」を確立したのです。

 「被害者の全面発達と社会的自立を保障する」とは、ひかり協会による被害者救
済の基本理念を示すものです。そして「総合的な事業である」との内容は、ひかり
協会の事業は、医療・教育・福祉という三つの分野からの総合性と、金銭的事業と
非金銭的事業による総合性ということです。さらに「個別対応こそ、生きた救済で
ある」とは、個々の被害者の現状に即して必要な事業を具体化するということで、
事業を画一化したり基準を絶対視するものではないということです。つまりABは、
@の基本理念にもとずく事業の実施方法を提起しているのです。この「三つの原
則」は、今日も貫かれています。
 ところでこの「三つの原則」は、いずれも学校教育の原点と重なるものであると
思うのです。また医療・教育・福祉の総合性ということを検討してみると、人間の
全面発達と社会的自立というのは、医療だけ、教育だけ、福祉だけでは勿論のこと、
それどれがバラバラでも、決して十分に保障されるものではありません。今日の縦
割り行政の仕組が、そのことを明確に示しています。こうした縦割り行政のなかに
あっては、具体的な教育実践においては、医療や福祉を含めての一人ひとりの子ど
もの現状をとらえることが必要であると思うのです。それから個別対応の原則もま
た、教育実践において重視すべきことだと考えます。

 以上のようにひかり協会の被害者救済の事業においては、教育事業が大きな柱の
一つとして位置づけられているのです。





         


二 教育事業の具体的実践と、その成果と教訓


 和歌山において、被害者救済事業としての教育事業が系統的な訪問教育として始
まったのは、ひかり協会が設立された1974年11月からでした。以下和歌山に
おける教育事業実施の特徴と成果・教訓などについて紹介したいと思います。

1 教育事業(訪問教育)の出発

 ひかり協会和歌山事務所を開所して間もなくのことです。知的障害のあるS君が
お母さんに伴われて事務所にやってきました。
 S君はわたしに、気象や歴史、そして社会の出来事などについて、生き生きと話
してくれました。わたしは、その記憶力に驚きました。しかしそのS君は、二十歳
になっているのに、安定した就労ができておらず、母の実家が経営するプラスチッ
ク加工の会社で、手伝いとも言えないような程度の仕事をさせてもらっているとい
うのです。そして正月とお盆に小遣い程度のお金をもらっているのですが、母親は
「遊び程度の仕事しかできていないのだから、これでいいのだ。働かしてもらって
いることに感謝している」というのです。
 わたしは、「S君は、どうしてきちっとした仕事につけていないのかな」と、S
君に尋ねました。すると、それまであんなに生き生きと話していたS君の顔が歪み、
目にいっぱい涙をうかべ、「ぼく、つらかってんよ」とひとこと言って、俯いてし
まいました。「どうして、つらかったんよ?」ときくと、次のような話をしてくれ
ました。
 小学校・中学校の9年間、算数が全くわからないまま過ごしたこと、体育の時間
はいつでも見学だった(右腕に若干の機能麻痺があり、運動がすごく苦手だった)
こと、そして今も金銭の勘定ができずバスに乗っても運賃が払えず運転手に叱られ
たこと、さらにそうしたことから母と一緒でなければ何処へも行くことができない
ことなど……。
 数量について確かめたところ、基数の加減すらできないのです。でも読み書きの
力は一定ついており、新聞は毎日読んでいて関心のある記事はスクラップしている
というのです。その発達の状況には、大きなアンバランスのあることがわかりまし
た。
 わたしが「S君、今からでも算数の勉強してみないか」と尋ねると、飛び付くよ
うに「ぼく、算数の勉強するよ」との返事が返ってきました。早速、和教組日高支
部の協力を得て、週に一回現職の先生を派遣することになったのです。これが和歌
山での教育事業の出発であり、全国で始めての訪問教育の実施となったのです。

2 あらためて「集団の中でこそ、子どもは育つ」ということ
          ー個別の訪問教育と集団活動の統一的実践へー

 S君から始まった訪問教育が、ひかり協会の教育事業として事業計画に位置づけ
られ本格的に実施されるようになつたのは、和歌山においては1975年12月開
催の第一回訪問教育指導者会議からで、この時期教育対象者は5名でした。
 第一回訪問教育指導者会議では、教育対象者の全面発達と社会的自立を保障する
事業にするためには、集団の場が必要であることを確認しながらも、県内の交通事
情から対象者を一か所に集めることは困難であると判断し、当面は訪問による個別
指導だけの実施でもやむを得ないということになったのです。
 ところが1977年2月白浜において、岡山「わかば教室」の仲間たちとの交流
合宿集団活動を一泊二日の日程で実施したのですが、日頃集団を基礎とした活動を
経験している岡山「わかば教室」の仲間たちの生き生きした生活や活動と、和歌山
の状況の間には大きな発達上の開きがみられたのです。ここで和歌山の指導者集団
は、あらためて集団の場を保障することの重要性を痛感したのです。そしてどんな
困難があっても集団の場を保障しようということになり、1978年度の教育事業
では、年6回の集団活動を実施し、1979年度からは毎月一回の集団活動を一泊
二日もしくは二泊三日の日程のものを年間3回〜4回含めて実施してきたのです。
 ところで集団活動では、次のように多様な内容をとりあげてきました。     
 
 *生活と労働の話し合い …… 日常生活や仕事のこと、結婚や将来のことなど
 *造形 …… 工作、はり絵、切り絵、作陶など
 *読書 …… 絵本、文学教材、紙芝居など
 *数量学習 …… 日常生活のなかの数量
 *買物学習 …… 予算を決めて、一人で、あるいは仲間と協同して
 *作文 …… 生い立ち、仕事のこと、集団活動のまとめなど
 *運動 …… 水泳、走り、なわとび、各種の運動器具をつかって、民舞、リズ
        ム運動、山登り、アスレチック、ボール投げ、ドッヂボール・キ
        ックボールなどルールのあるもの、年一回の運動能力測定・体力
        測定など
 *仲間の職場訪問
 *料理学習
 *労働体験 …… 農耕、共同作業所など
 *社会見学 …… 魚市場、史跡、郷土資料館など
 *健康学習 …… 入浴指導、食生活、歯のブラッシング、生活習慣など
 *小刀などの生活のなかの道具を使って
 *うたとゲーム
 そして開催地を毎回変え、高野山・岩出・和歌山・海南・湯浅・由良・田辺・白
浜・すさみ・那智勝浦など、参加するには交通機関を利用する必要のある場所を選
び、ひとりあるきの力をつけることに配慮してきました。

3 教育対象者個々の教育課題の設定と、指導者集団の役割

 教育事業をすすめるにあたってもっとも重視したのは、教育対象者一人ひとりの
障害・症状と社会生活の現状をふまえ、その生活と労働を基本とした将来展望・将
来設計と、その実現にむけての年度毎のとりくむべき具体的な教育課題(発達課
題)を設定することでした。この将来設計と当面の教育課題は、一泊二日の指導者
会議において、担当指導者からの具体的な提起にもとずき集中的な集団討議を通じ
て設定するのですが、その討議は、ときには深夜に及ぶこともありました。そこに
は教育対象者一人ひとりの全面発達と社会的自立を確信した指導者の方々の情熱と、
指導者集団として責任を果たそうという厳しさがありました。この指導者会議では、
設定した教育課題にもとずく一年間のとりくみを総括し、その総括内容を次の年度
の教育課題設定につなぎ生かしていきました。
 和歌山の教育事業は、こうした教育対象者一人ひとりの将来設計とそれにむけて
の教育課題を設定し、専門性をもった集団的な指導体制があったからこそ、あとで
述べるような大きな成果を生みだすことができたのだと確信しています。なお指導
者会議では、毎月実施する集団活動の具体的な実施計画をたて実施後の総括も行っ
てきました。

 以上のように毎月定例的に開催してきた指導者会議(指導者集団)は、ひかり協
会の教育事業を推進していく上でのカナメとしての役割を担ってきたのです。した
がって指導者会議は、ひかり協会の教育事業において、もっとも重要な機関として
位置付けされてきたのは当然のことです。

 ところで和歌山の指導者集団は、現職の教職員・保健婦・施設の指導員を中心に
若干名の退職教職員など総勢31名(教育対象者18名に対して)によって構成さ
れてきました。そして担当の教育対象者と同じ地域に居住しておられ、また指導者
全員がなんらかのかたちで、地域で自主的な教育サークルやさまざまな民主的な運
動において中心的な役割を果たしておられる方々でした。なお現職の教職員が勤務
時間中にひかり協会の教育事業に関わる場合は、三者会談「確認書」にある行政協
力として「職務に専念する義務の免除」の扱いとなり、あるいは所属学校長が出張
扱いにしても「旅費別途支払」ということで容認するということが、県教育委員会
との話し合いによって確認されています。言いかえるとひかり協会の教育事業は、
必要経費を別として、公的に認められてきたのです。

4 「生きる力」としての基礎的力量とは ー教育事業を通じての教訓からー

 ひかり協会の教育事業(訪問教育による個別指導と集団活動の統一的実践)を通
じて、指導者会議(指導者集団)は、《「生きる力」としての基礎的力量》の内容
を次のように整理しました。
 (1) いわゆる基礎的学力として
   @人前で話す力 A文をつづる力 …… 自己表現・自己主張する力
   B文を読む力 C話をききとる力 …… 自学の力・知識獲得の力
   D数量の力
  以上の基礎的学力こそ、「買物する力」「金銭を使いこなす力」の基礎であり、
 また「ひとりあるきする力」ともなり、さらには「他者と関わる力」「集団生活
 のできる力となる。これらの基礎的学力は、系統的、継続的な学習の積み上げに
 よって獲得されるものである。
 (2) 生活や労働を基礎に物事をとらえ考える力。自主的・主体的、そして民主的
 に行動する力。
 (3) 小刀など日常生活に必要な道具を使いこなす力、木のぼりする力、運動する
 力など。これらは、労働の基本となる基礎的な力であり、体力をつけ知的発達に
 も関わる力である。
 (4) いのちを大事にし、自分の健康は自分で管理する力。
 (5) 基本的生活習慣、民主的な市民道徳、及びゆたかな情操。
 (6) 他者に関わり、他者とともに生活する力。他者に援助を求めることのできる
 力。以上のような基礎的力量獲得の過程において、新たな願い・要求・めあてを
 生みだし、人格発達も保障することができる。

5 具体的な実践事例
 以上、ひかり協会の教育事業のあらましを述べてきましたが、以下具体的な実践
事例を紹介します。

【実践事例1 M君の場合】
 M君は、知的障害(療育手帳B2、障害基礎年金二級受給)をもっています。地
域の中学校を卒業したあと、野菜や花などの支柱をつくっている会社に就職しまし
た。仕事の内容は、雑用が中心でした。毎日、山の中腹にあるわが家から、平地に
ある会社まで自転車で通勤していました。家から会社までは下り坂で楽ですが、帰
りは自転車を押して坂道を上るのは体力的に大変でした。それでも真面目なM君は、
会社に通いつづけました。でも賃金は、障害者ということで、非常に低い額でした。
M君の毎日は、朝家を出て会社に行き、夕方には家に帰り、夕ごはんを食べたあと
テレビを見て、風呂に入って寝るという、何の変化もない生活でした。そして休み
の日も何処かへ遊びにいくということもなく、一緒に住んでいる長兄の子ども(三、
四歳の女の子)とままごとをして遊ぶのでした。たまに何処かへ行くときは、父
親の車に乗せてもらうのです。一人でバスや電車を利用することができません。き
っぷを買うこともできないのでした。
 M君の基礎的学力は非常に低く、算数では基数のたしざん(くりあがりのないも
の)、ひきざんがやっとできるという程度であり、国語力ではひらがなの読み書き
ができるという状況でした。
 このようなM君に対してひかり協会は、教育事業の対象者として、現職の教職員
を配置し週一回の訪問教育による個別指導を実施するとともに毎月一回の集団活動
への参加によるとりくみをすすめました。将来展望として就労の定着と内容の充実、
一人生活の実現、そして結婚へという見通しをもち、そのための当面の教育課題と
して読み書き算の基礎的学力の獲得と交通機関を利用してのひとりあるきをとり上
げました。
 学習に対するM君の意欲は凄じく、会社から帰宅し夕食後毎晩二時間、小学校一
年生程度からの算数の計算や漢字学習にとりくんだのです。二十歳の青年が小学校
一年程度の学習にこれほどまでに一生懸命にとりくむとは、担当指導者は勿論のこ
と指導者集団をはじめ協会関係者の誰もが予想しなかったことでした。基礎的学力
が獲得できていないがために、中学校を卒業したあとの社会生活において、とくに
会社で、M君がどれだけつらい思いをしてきたことか、その悔しさが毎晩2時間の
学習への情熱となったのです。それだけに小中学校においてどうして最低限の学力
保障ができなかったのか、読み書き算という基礎的学力の保障がいかに大事か、と
いうことについてあらためて考えさせられます。
 こうしてM君は、昼間の労働の疲れを乗り越えて、学習に意欲を燃やし続け、大
きくその基礎的学力を伸ばしていきました。そして個別指導と並行して毎月実施す
る集団活動には欠かさず参加し、交通機関を利用してのひとりあるきもできるよう
になっていったのです。あとで報告しますが北海道への新婚旅行も自力で行ってき
ました。
 さてその後M君は、担当の指導者の働きかけで手話サークルにも参加するように
なり、援助を受ける立場から援助する立場へと、自分を変えていくスタート台にた
つのです。 そしてこの時期、「50tバイクの免許をとりたい」との要求をもち、
それにむけての学習を訪問教育の課題として位置付け免許取得学習に集中的にとり
くみます。4回目の受験でようやく50tバイクの免許を取得しました。この50
tバイクの免許取得は、単に通勤を楽にしたということにとどまらず、M君の生活
圏を大きく拡げることになり、社会人としてのより豊かな視野から物事がとらえら
れるようになっていくのです。
 このようにしてM君は、ひかり協会の教育事業を通じて、日常生活に必要な読み
書き算の基礎的学力も身につけ着実に自らを発達させ、社会的自立への道を歩んで
いきます。この間、就労していた支柱会社は倒産し、個人経営のスポンジタワシを
つくっている会社に再就職しましたが、今ではこの会社にとってなくてはならない
存在として評価されているのです。
 M君の社会的自立にむけての意欲はとどまるところをしらず、つぎに挑戦したの
が普通免許の取得でした。地域の自動車学校に入り会社を終えたあと通うのですが、
実技の上達がおそく一つひとつの過程をスムースに通過することができず、費用が
かさみ入校以来30万円近くの出費となったのです。その状況を見かねた父親は
「こんなことでは、たとえ免許がとれても事故を起こしかねない」と言って、とう
とう学校をやめさせてしまったのです。この事態に対して指導者集団(会議)は、
「これでいいのか」ということについて討議した結果、「このままでは、M君の自
立にマイナスの影響を与えかねない。M君のこれからのことを考えたとき、何とし
ても免許を取らせることが大事だ」ということになり、父親に内しょで自動車学校
に復学させ担当者とも話し合い協力してもらうことにしたのです。その結果やつと
実技試験に合格しました。次は学科試験ですが、それが何回受けてもあと一歩とい
うところで合格できないのです。個別指導において学科試験に向けての学習を集中
的にとり上げ、会社の協力も得て連続的に受験したのです。そして自動車学校入校
から1年半かかって、普通免許を取ることができたのです。M君本人のよろこびは
勿論のことですが、集団活動でのM君の報告に仲間たちの「やった」「よかった」
という自分のことのような嬉しさをこめての拍手、そして何よりも「再入校」を決
断した指導者集団の安堵の喜びはひとしおでした。こうしてM君は、地域の共同作
業所の古新聞の回収に軽トラックを運転して一役をかうのでした。
 その後M君は、指導者集団の積極的な働きかけにより、反対する父親を説得して、
親もとをはなれアパートデの自炊生活をはじめるのですが、その際生活に必要な炊
事用品や電気製品などすべて自分で選び購入しました。そして父親の心配をよそに
立派に独り立ちした生活を送っていくのです。金銭管理もレシートによる整理など
を含めて計画的にやりこなせていきました。
 こうした一人生活をしていくなかで、結婚に向けて見合いをしました。結婚その
ものに反対する父親に対して二年以上もの粘り強い交際を続け、指導者集団をはじ
め多くの関係者の協力もあって父親もしぶしぶ同意し、多くの人々の祝福を受けて
結婚しました。そして夫婦の支え合いにより、誰もがうらやむような家庭を築いて
いつています。こうした二人の姿に今になって父親も心から「よかった。ええ嫁さ
んにきてもらって、ほんまによかった」と喜びを語っています。今年長女が誕生し、
M君は父親となり、立派に自立した社会人としての生活を送っています。
 今日のM君は、今から二十年前、基数のたしだん・ひきざんもできず、ひらがな
しか読み書きできない、家と会社の往復しかできなかった、3、4歳の女の子とま
まごとをしていたなど、全く想像もできないような全面発達と社会的自立を果たし
ているのです。

【実践事例2 S君の場合】
 「1 教育事業(訪問教育)の出発」のところで、すこし紹介したS君へのとり
くみについて報告したいと思います。
 「生きる力」としての数量についての学力保障を中心とした訪問教育が、週一回
の個別指導ということで始められたのですが、予想以上に理解がおそく行きつもど
りつという学習状況が続きました。そして定着するまでに相当な時間を必要としな
がらも、S君自身の頑張りと指導者の根気強い指導によって、少しずつ力をつけて
いきました。とはいえ整数の三位数の加減がやっとできるようになり、かけ算の学
習にすすみ「くり上がり」のある「×三位数」になって、またまたたし算に逆もど
りするというようなことを繰り返しながら、やっと小学校三〜四年程度の加減乗除
ができるようになって今日に至っています。こうしてS君は基礎的学力の獲得によ
り、その日常生活を豊かなものにしていきました。集団活動での買物学習や日常的
に出会う簡単な数量の計算は、暗算で処理できるようにまでなりました。つまり日
常生活に必要な最低限の数量の力を獲得するのに、他者の何倍もの時間を要しまし
たが、その定着状況は確実なものになっているということです。
 ところでこれまでの人生でS君に一番つらい思いをさせてきた数量の力の獲得は、
その労働と生活を大きく変化させました。いままで遊びの域を出なかったプラスチ
ック加工の仕事において、焼き上げたおぼんなどの製品のはみ出した部分を電動の
ヤスリにかけておとしていく作業(「ばりとり」という)で、それまでは一日70
枚程度しかできなかったのが、数量の力を伸ばしていく過程でどんどん枚数が増え
ていき、いまでは一日2000枚の量をこなすようになっているのです。そればか
りか円形のものだけしか扱えなかったのが、楕円形や長方形や正方形のものの「ば
りとり」もできるようになったのです。またその作業ぶりは、まさに熟練工といっ
ても決して言い過ぎではない状況です。そして仕事の内容も「ばりとり」だけでな
く、出荷に向けて枚数を数えての製品の荷造りもできるようになり、さらにそれを
トラックに積み込み、工場主の助手となって、製品を納めにいくようにもなったの
です。こうした労働力の拡大によって、賃金も毎月貰えるようになりその金額も二
万円から三万円に上がり、いまでは五万円以上になっているのです。
 また地域での生活においても、寄合いなどには母親にかわって世帯主として出席
するようになっていますし、ひかり協会の地域交流会や健康相談会、さらに「守る
会」の総会にも、一人で参加しているのです。
 今日のS君は、もはや二十年前のS君ではなく、一家のあるじとしての道を順調
に歩んでいるのです。

【実践事例3 C子さんの場合】
 C子さんは、重度の知的障害・四肢の機能障害、加えててんかん発作があり言葉
をもたず、身体障害者手帳一級・療育手帳A1(障害基礎年金一級・介護料受給)
を所持する重複障害者です。
 ひかり協会設立当初のC子さんは、寝たきりでおむつをあて流動食を母親の手で
口に流し込むという状態で、母親以外の他者が話しかけても全く反応を示さず、常
時介護を必要としていました。そしてその頃は体調が非常に悪く、あと2〜3年の
いのちではないかという医師の診断でした。
 こうしたC子さんに対してひかり協会は、生活保障としての金銭給付をするとと
もに医療的措置に万全を期した対応をすすめました。同時に「よりゆたかな人間ら
しい生活に向けて、その発達を保障する」ということで、訪問教育(個別指導)を
実施することにしました。「いまさら、こんな子に教育して何の役に立つのか」と
いう母親の意見でしたが、「どれだけの効果があるかどうか、とにかくやってみよ
う」ということで母親を説得しました。でもわたし自身も小学校での障害児学級の
実践を通じて「どんなに障害が重度であってもその発達には、無限の可能性があ
る」と確信はしていましたが、それがこれほど重度の重複障害があり、しかも二十
歳をこえている人間にも言えるのかどうか、自信はありませんでした。
 C子さんに対する訪問教育は、障害者問題に大きな力量と経験をもっておられる
県立ろう学校で重複学級を担当しておられる現職のA先生と、地域で障害児問題に
とりくんでおられるB保健婦さんに、C子の現状にたって「教育と医療の総合的・
統一的実施」ということで担当をお願いしました。A先生には主として教育・訓練
を、B保健婦さんには保健・医療面を担当してもらいました。
 A先生のはじめての訪問にわたしも同行したのですが、A先生はC子さんに自分
の手を握らせて開口一番「お母さん、C子ちゃんの手を握る力は非常に強い。こん
なに強い力をもっているのだから、起きた生活が可能です。場合によっては、学校
へいけるかもしれない」と言ったのです。わたしも驚きましたが、お母さんの驚き
といったら言葉では表わせません。お母さんは、これまでこんな言葉をかけられた
ことは一度もなかったのですから。さらにA先生はつづけて「人間の生活には、昼
と夜の区別が必要です。いまの季節は寒いですからこのまま蒲団の中の生活はいい
として、春になって暖かくなったら朝から蒲団をとりたたみの上での生活をさせよ
う」とも言ったのです。昼と夜を区別した生活、これはまさしく人間が動物と異な
る基本的なことがらです。こうした生活のなかで、三度の食事も大事になるのです。
 C子さんはこうした教育的働きかけを通じて、暖かくなった翌年の5月頃だった
と思いますが、訪問教育を実施して6か月後に、蒲団のない昼の生活を始めたので
す。
 考えてみるとこうした生活は、昼と夜を区別した人間の生活であるだけではなく、
蒲団のないたたみの上では蒲団の抵抗がないだけからだを動かしやすいのです。た
たみの上でのゴロゴ生活こそが、身体機能を回復させることができるのだなと痛感
しました。
 事実その後の経過のなかで、C子さんの動きが活発になっていったのです。座敷
の中だけではなくロ−カを隔てたとなりの部屋へのいざっての移動ができるように
なり、またフスマを破ったり仏壇の線香たてをひっくり返し灰をまき散らすなどす
るようになりました。
 こうしたC子さんの変化は、寝たきり状態の頃にはなかったお母さんの負担を大
きくしました。にもかかわらずお母さんはC子さんのさらなる発達への期待をふく
らませていくのです。
 お母さんは、暖かくなって蒲団をとりたたみの上での生活を始めた時、「この子
が生まれて、初めてパジャマでない服を買ってやることができた」という喜びを語
ってくれましたが、これほど大きな母親としての喜びが他にあるでしょうか。
 その後C子さんはすこしずつではあるが、その日常生活をゆたかなものにしてい
きました。座っての生活、椅子にこしかけての生活、座っての食事、テレビをみて
手をたたき顔に笑いをうかべる生活、知らない人にも反応を示す生活、そして車椅
子に乗っての外出、他者と視線が合う生活など、時間の経過とともに人間としての
ゆたかな生活をとりもどしていきました。またB保健婦さんの指導によって、食生
活が改善され、抗てんかん剤の服用により発作が起きなくなるなど、あと二〜三年
のいのちと言われたことが嘘のような健康な毎日を過ごせるようになり、二十年前
に比べてからだがひとまわり大きくなったように思えます。
 こうしたC子さんの発達・変化について、医師は「医学的には、全く考えられな
いことです。教育というものの力に驚いています」と語っています。

 以上具体的な実践事例として三人のケ−スについて紹介しました。18名の教育
対象者の全員が、ひかり協会の教育事業によって、それぞれの障害・症状をのりこ
え軽減し、人間としてのよりゆたかな人生を歩みつづけているのです。


         


三 光協会事業・まとめ


1 ひかり協会の存続と、その事業を支えてきた「三つの力」

 ひかり協会が森永ひ素ミルク中毒の被害者救済の機関として今日まで21年間、
その存続を維持し「三つの原則」にもとずく救済事業を充実・発展させることがで
きているのは、それを支える大きな力があったからです。
 その第一の力は、いろいろな分野の専門家集団による積極的な協力であり、その
第二の力は、事件に対する行政責任という立場からの行政協力であり、その第三の
力は、被害者組織としての「守る会」の健全な運動です。わたしはこの三者の協力
こそ、これからもひかり協会の存続とその事業を支える力だと考えています。

 ところでこの「三つの力」を同列にとらえることには、大きな誤りをおかす危険
性があると考えています。何故なら第二の力の行政協力というのは、事件に対する
「行政責任」ということがその原点にあっての協力であるし、第三の力の被害者組
織の協力は、当事者としての当然のことです。ところが専門家集団というのは、行
政や被害者組織とは全く異なり、いわば事件やひかり協会に対しては第三者の立場
にあり、その協力はひかり協会の事業の内容やそのすすめ方に心から賛成し全くの
自主的協力であるわけです。
「専門家の協力は当然だ」というような思い上がった考え方があるとしたら、それ
はひかり協会とその事業にとって墓穴を掘ることになりかねないと考えています。

 ともあれひかり協会の存続とその事業の充実・発展にとって、「三つの力」によ
る協力、とりわけ専門家集団の協力は欠くことのできない条件であると思っていま
す。

2 おわりに

 ひかり協会は民法34条による公益法人ですが、前述したように三者会談の合意
を基盤に設立されたものであって、第5回三者会談での「確認書」が唯一の設立根
拠になっているのです。ここにひかり協会というものの特徴があり、わたしたちは
これを三者会談方式≠ニ呼んでいます。
 ところで第一回三者会談(1973年10月12日)開催直前の1973年9月
26日公害健康被害者補償法が成立(1973年10月5日公布)し、法的な公害
健康被害に対する補償が国の責任においてすすめられることになるのです。しかし
この公害健康被害補償法はその後の経過のなかで1987年9月26日改悪され、
第一種地域の指定が解除され、新規認定が打ち切られていくのです。一方法的保護
のないひかり協会は、専門家をはじめとする多くの方々の協力によって、その事業
内容を一層充実したものにしてきているのです。何とも皮肉なことですが、ここで
大事なことは、ひかり協会とその事業内容は国民的合意によって支えられていると
いうことです。


         


「水曜学級」八か月間の活動から

   ありのままの自分を出し、仲間とともに育ち合う居場所づくりをめざして
          = 「水曜学級」八か月間の活動から =
                 海草教育なんでも相談所   吉川薫雄

■ はじめに ーなぜ「水曜学級」をはじめたか。

 不登校の子どもたちは、どうしても家に閉じこもりがちです。したがってその日
常生活では、他者と関わる機会が少なくなります。特定の子どもたちが遊びにきて
くれたとしても、屋外で思いきり体を動かす遊びよりも、ファミコンなどによる屋
内での遊びが中心になってしまうのが実態です。
 こうした不登校の子どもたちの日常生活の現実を直視したとき、家を出て、理解
し合える友だちが一杯いてその友だちと関わり合い、しかもありのままの自分を何
の抵抗もなしに出せる場をこの子どもたちは求めていることを実感します。そして
そうした居場所でこそ、元気を取り戻せるのだと思うのです。
 そこでこの子どもたちの思いに応え、実施可能な週一回午後二時間ということで、
1997年10月1日から、相談所と親の会によって、始めたのが「水曜学級」の
活動です。したがって始めてからまだ日が浅く不充分なところも沢山ありますが、
5月末までの八か月間の活動をまとめてみました。

■ 「水曜学級」の活動の基本

 「無理をしないで、まず動きだそう」「失敗から教訓が生まれる」ということを
前提にしながらも、次のようなことを基本におきました。

@ 対象は、小学校の不登校児に限定したこと。
 不登校の子どもたちには、小学生・中学生・高校生がおります。縦割り集団と
いうことでは、一般的には「小・中・高を一緒に」ということが考えられます。
しかし対象が不登校児であるということで、一般的な考え方は通用しないのでは
ないかということ、また小・中・高では発達段階に大きな格差があり、要求もち
がうので活動内容が大きく異なってくるということを考えました。そこで小・中
・高が一緒に活動するのには無理があり、ありのままの自分を出し、ともに育ち
合う集団の活動になるどころか、矛盾が生じて居場所そのもの崩壊に繋がりかね
ないということで、最大限の構成範囲として小学生を対象にしました。

A 遊び道具は、各自の要求にもとづき、各自持参させたこと。
  これは、子どもたち一人ひとりに主体性を育て、ありのままの自分を出して活
動させるということの具体化ということです。「きょうの水曜学級では、ぼくは
わたしは、これで遊ぶ」という目的をもっての主体的な参加を具体的に提起し、
保障しようということです。つまり遊びは、他者から与えられるのではなく、自
分で創りだすということです。

B 「遊び」と「物をつくる」ことを、活動の中心課題としたこと。
 子どもは「遊びのなかで育つ」と言われています。それは、いろいろな「遊
び」のなかで仲間と関わり合い、そうした活動を通して「生き方」を学ぶという
ことです。
 また「物をつくる」ということを通して、「生きていく力」を育てます。そこ
では、創造性を育て、道具を使いこなし、まさに人間が生きていく上で必要な力
を育てることができるのです。
 こうして「生きていく力」と「生き方」を獲得することこそ、自分をあらため
て見直し、元気をつけていく基本であると考えています。とくに道具を使って物
をつくることを通じてこそ、道具を使いこなす力が獲得できるのです。


C 「個人遊び」から、「集団遊び」へと発展させること。
 子どもは、仲間との関わりのなかでこそ育ち合えるということから、「個人遊
び」に止っておらず、「集団遊び」へ発展させることが重要であるということで
す。
 「水曜学級」を始めた頃は、「個人遊び」が中心でした。しかし回がすすむな
かで、仲間と関わっての遊びへと、大きく発展していくのです。

D 何をするか、すべて子どもたちで決めること。
 「個人遊び」の場合は、個人の要求にもとづいて、好き勝手に遊びます。しか
し集団の活動では、どんな遊びを、どんなルールで、ということなどについての、
集団を構成する仲間の合意が必要です。その合意づくりを子どもたちにやらせる
ことを大事にするということです。

■ 具体的な活動をたどって

 八か月間の活動の経過を振り返ってみたとき、いくつかの点で、活動の内容や形態が大きく発展の方向での変化してきました。

@ 「個人遊び」から、「集団遊び」への発展
 自分の要求にもとづいて、リュック一杯に色々な遊び道具をもっての子どもた
ちの参加が長期間つづきました。ところが最近は、遊び道具を持たずに参加する
子どもが増えています。とくにヨーヨーブームが去ったあと、この傾向が強くなってきました。
 そして「個人遊び」が激減し、「集団遊び」や仲間と関わる遊びが多くなって
きたのです。その内容は、かくれんぼ・ダルマさん転んだ・ケイドロ(警察と泥
棒)や相撲・腕相撲というものが中心になってきています。さらに道具を使って
も、紙飛行機の飛ばし合いとか、卓球・バドミントンという遊びが多くなりまし
た。

A 活動の場が、教育会館から地域へと広がる
 「個人遊び」や道具をつかっての遊びが中心であった頃は、教育会館内での活
動に終わっていました。でも最近では、自然博物館への二度にわたる見学、さら
には海南市立総合体育館のトレーニング室での活動、休耕田を本来の田にもどし
そこに小生物を呼びよせる試みの場への自然観察遠足、ブラックバス釣、あるい
は地域の公民館でのクリスマスの集いなど、積極的に地域社会に出ての活動が増
えてきています。
 こうして家に閉じこもっていた八か月前には、予想もできなかったような元気
を取戻してきています。

B 道具をつかって物をつくりだす活動の展開
 取り組みの基本にもしていることですが、当初のビーズ・折紙・プラモデルの
組み立てなどから、クリスマスでのカレーやケーキづくり・自然博物館での包丁
を使ってのエサづくり(魚を三枚におろす)への挑戦・青竹を材料に小刀でのて
んぷら箸とブンブン作り・あるいは陶芸などの活動が展開されていきています。

C 子どもたちの要求による活動内容の発展
 活動が大きく地域社会へと広がりをみせてきたのは、すべて子どもたちの要求
によるものです。内容的には、クリスマスの集いの内容・海南市立総合体育館で
の色々な用具(つり輪・のぼり綱・ろくぼくなど)を使っての運動・自然博物館
の二度めの見学・陶芸・遠足・ブラバス釣などは、すべて子どもたちの要求によ
るものです。

D 学級の友だちを「水曜学級」に誘う
 これは「水曜学級」が始まってしばらくたった頃、「水曜学級に、学級の友だ
ちを連れてきてもかまわんか」という要求から出発したのです。不登校の子ども
たちが元気になっていく上で、プラスになるという判断で、積極的にその参加を
すすめてきたもので、事実大きくプラスになりました。
 最近では、自分たちの活動の楽しさを学級の友だちにも経験させたいとの不登
校の子どもたちの積極的な思いから、例えば二度目の自然博物館の見学・陶芸で
は、魚のエサづくりや陶芸の楽しさを友だちにもということで参加を誘うように
なってます。

E 「勉強教えて」という要求が出てきた
 これは、居場所としての「水曜学級」を始めたときから予想してきたことです。
それが八か月という短期間で、はやくも出てきました。
 5/13の第23回「水曜学級」で、六年生になった女の子から出てきたもの
です。相談員集団では、この要求を積極的に受け止め、「水曜学級」とは切り放
して、毎水曜日の午前に一時間程度の学習の場を希望する子どもに保障すること
にしています。

F 八か月間の活動の内容
 《一人遊び》
  ファミコン・スビロデザイン・ヨーヨー・サッカーボール投げ・折紙・ビーズ
・プ ラモデルの組み立て・マンガの本読み・ラジコン・紙ねんど・魚の餌つくり
・竹細工 ・編み物・のぼり棒・つり輪・小生物さがし・陶芸など

 《集団遊び(他者との関わりのあるものを含む)》
  トランプ・将棋・紙飛行機の飛ばし競争・アンバランスゲーム・ビー玉飛ばし
競争 ・卓球・ミニ四駆競争・カレーつくり・ケーキつくり・クリスマスの飾り付
けつくり ・ヨーヨー大会・腕相撲・相撲・ウノ・かくれんぼ・バドミントン・ト
ランポリン・ ダルマさん転んだ・ケイドロ(警察と泥棒)・遠足・ブラバス釣な
ど



■ 八か月間の活動の教訓・成果

@ 八か月間の活動の教訓
* 参加対象者を小学生に限定したことにより、異年齢集団としての機能を損うこ
 となく、しかも年齢の開きを感じないで、ありのままの自分を出し合い、仲間と
 しての関わり合いができ、育ち合う集団づくりをすすめることができたというこ
 と。
* 対象児の学級の友だちの参加により、集団の構成が広がり、活動の質を高める
 ことができたということ。
* 活動の内容については、子どもたちの自主性にまかせ、個々の要求にもとづい
 て必要な遊び道具を各自持参させたことにより、一人ひとりが目的をもって参加
 し、多様な活動内容にすることができたということ。

* 個々バラバラの遊びから出発して、お互いが関わり合う遊びとなり、さらに集
 団の遊びへと発展していったということ。そして集団の遊びでは、集団の合意づ
 くりが大事にされていったということ。

* 物を作るという内容が、折紙や紙ねんどから、道具をつかっての物づくりへと
 発展していったということ。

* 回を重ねるなかで、子どもたちの要求による集団としての活動が大きく発展し、
 活動の場も地域社会へと広がっていったということ。

* 親(主として母親)の参加を容認してきたが、それは当初親から離れられない
 子どもがいたことによるものであったが、いまはその必要性が無くなっているの
 に、なお継続しているのは、親たちが参加することにより、家庭では見られない
 わが子の積極面やその変化・成長のすがたを知ることができるし、さらには親同
 士や相談員との交流ができるということ。

* 相談員は参加しても一切のおしつけの管理や指導を行なわないことにしてきた
 が、このことは子どもたちの自主性・主体性を育てる上で極めて重要であって、
 居場所活 動のあり方の基本要件であることが確認できたこと。

* 居場所は、遊びや物をつくるなどの内容による集団的・自主的な活動を通して、
 お互いに育ち合い、その発達を助け合いながら、「生きていく力」と「生き方」
 を育て、獲得する場であることを再確認できたこと。
  また「水曜学級」は、週に一回という最少の回数ですが、結果として「権利と
 しての公教育(学校教育)」を保障する再登校への道を開く重要な一つの場とな
 ることが確認できたこと。

A 個々の子どもたちの変化 ー その発達への展望 ー

 「水曜学級」への参加対象としている小学生は十名ですが、この八か月間に一
度でも参加したのは九名です。そのうち常時参加している子どもは七名です。そ
して常時 参加できていない三名のうち、二名は再登校しています。
 なお「水曜学級」を始めてから、それまではどうしても参加できなかったプラ
ットホームの一日行事に、「水曜学級」に常時参加の七名が参加するようになっ
ています。
 この七名の子どもたちの八か月間を通じての変化・発達の状況は、次の通りです。

【Α・小6・男】

 その生活態度にゆとりができてきました。そして他者を受入れ、とくに低学年の
子どもたちに対して、包み込むような温かい対応がみられます。またこれまでみら
れなかった自分からの他者への働きかけ、例えばこれまでは誘われていた学級の友
だちを、逆に「水曜学級」の陶芸に誘ったり、あるいはわたしに「腕相撲をやろ
う」と挑戦してくるなど、積極的に他者との関わりを求めていくようになっていま
す。さらに6月に予定されている修学旅行に参加することを自分で決め、小学校一
年の一学期に不登校になって以来、久しぶりに登校し旅行についての話し合いに参
加しているのです。

【Β・小4・女】

 すくみがちだった生活態度が姿を消し、自分の願いや要求をどんどん出せるよう
になりました。とくに「水曜学級」の活動の内容を地域社会にまで広げてきたのは、
この子を中心とした三年生(現在四年生)グループです。また他者を思いやる気持
ちが大きく育ってきており、不登校になっている他校の六年生の女の子に「水曜学
級」への参加を呼びかける手紙を書いたりしました。また学級の友だちにも楽しん
で欲しいということで、自然博物館での魚の餌づくりや陶芸に誘うなどしています。

【C・小6・女】

 自分のことを理解してくれる友だちがつくれず、いつも沈みがちだったのが、
「水曜学級」に参加するなかでΒとの友だち関係ができ、生き生きした生活が戻っ
てきています。そしてΒとともに他校の不登校児への手紙を書き、陶芸に参加した
その子に付ききってアドバイスしたり、さらには遠足への誘いの電話をするなど、
他者への積極的な働きかけをするようになっています。こうして六年に進級して、
放課後に学校へいってみたり、「水曜学級」に学習の場を要求してくるなど、大き
く成長してきています。また6月に予定されている修学旅行に参加するということ
で、旅行についての学級の話し合いに出席したのです。

【D・小4・男】

 家の中に閉じこもりがちだったのが、「水曜学級」に参加するようになって、ど
んどん外にでるようになってきました。それから他者に声かけされるとすくんでい
たのが、いまはそうした状況は全く見られなくなっており、「水曜学級」の活動で
は、積極的に仲間たちを引っ張っていく役割をはたしています。

【Ε・小4・男】
 もともと元気のある子でしたが、「水曜学級」の活動を引っ張っていく役割を果
たしている一人です。「今日は、どんなことをして遊ぶか」を一人ひとりに働きか
けていく中心的な役割をしています。また「水曜学級」の活動を思いきり楽しんで
いる一人です。

【F・小5・男】

 「水曜学級」を始めた頃は、お母さんの側を離れることができず、ちょっと離れ
たので声かけするとサッと母の側に逃げてしまうという状況でした。勿論子どもた
ちとの関わりもできませんでした。

 ところが「水曜学級」の回を重ねていくなかで、仲間たちとの関わりも少しずつ
できるようになっていくにつれて、母の側を離れて遊べるようになってきました。
そして最近では、母よりさきに家を出て一人で「水曜学級」にくるようになり、一
人遊びは姿を消し、仲間とも関わり集団のなかに入って思いきり遊べるようになっ
ています。また相談員に、冗談を言ったり、かまいにきたりして、ありのままの自
分が出せるようになってきています。

【G・小6・男】

 「水曜学級」では、かなり長期にわたって一人遊びしかできず、集団に入れない
状況がつづきました。そして相談員に対しては、1:1で自分の主張にすごいこだ
わりをもって話しかけてきますし、他の子どもたちとの関係でも幼稚性がみられ自
己中心的なところがありました。しかし最近になって、ようやく仲間集団に入り一
緒に遊べるようになってきています。こうしたなかで、時々登校もするようになっ
てきています。

■ おわりに … 今後の展望と課題 …

 まず第一に考えたいことは、現在小学生だけを対象として「水曜学級」の活動が
展開されていますが、来年になると三人の子どもが中学校に進学します。この場合、
万が一不登校状態を中学校まで引きずっていくとしたら、中学生を対象とした居場
所づくりが大きな課題となってきます。どんな内容と形態の居場所にするのかを今
から検討を始めることが求められるということです。
 第二には当面の課題として、この八か月間で「水曜学級」の活動の内容と形態が、
子どもたちの要求によって、大きく変化・発展し、もはや従来のような内容や形態
では、子どもたちのニーズにこたえきれなくなっていることは明らかです。そこで
夏休みに入るまでに、子どもたちの意見を基本にしながら、これからの「水曜学
級」の活動のあり方についての検討を早急に始める必要があるということです。
 第三に、学習の問題が子どもたちから提起されてきました。現状では、「水曜学
級」と切り離し、水曜日の午前中に時間をとって、その要求に応えていくことにし
ていますが、将来的な発展方向を展望したとき、より計画的・系統的なものにする
ための検討が必要だと思っています。

         


すばらしき子どもたち(1957年)

「紀北教育」創刊号(1957.12発行)掲載

 すばらしき子どもたち

 南野上小学校4年「社会科」の実践より

  社会科学習の中で、「なんで南野上に病院(医者)ができないのか」ということに
取り組んだ時のことである。子どもたちから、その理由として、
  ◆  人口が少ないので、病人も少ない。
  ◆  乗り物があまり走っていないので、それによる怪我人が少ない。
  ◆  病気がだいぶえらなってこな、医者を呼んだりしない。
  ◆  道が悪い上に坂があったりして、医者はそんなところへ行きたがらない。
という4つのことが上げられたが、この話し合いの中で、一人の子どもから、
 「こんなんだから、南野上で医者をしても、金儲けがあまりできない上に、往診の
ときからだがえらい。ほいでも、医者というのは、人のいのちを守るのが仕事だし、
ぼくはこうなったら、医者の考えにまかさなしやないないと思う」
という考え方というより疑問が出された。非常に大事な問題提起である。
  わたしは、早速みんなの問題として取り上げたのだが、正直いって、これを『どう
扱っていったらいいのか』ということで迷ったのである。
  「医者の生活権をはっきりと認め、その上にたって、人の命を守るということを医
者に対して要求する(生活権を認めないで、『命をまもれ』とは言えない)」という
ことを、子どもたちにどうわからせるか。子どもたちが、このことをどこまで理解で
きるか。うっかりすると、「医者というのは、人の命を守るのが仕事だから、金儲け
のことらあんまり考えないで欲しい」「医者は、人の命を守ることに一生懸命になっ
とればいいんだ」というように、あっさりかたづけられてしまう。
  私は、いろいろと考えた末、とにかくこのことについて、子どもたち一人ひとりが、
どんなに考えているかを確かめてみることにした。そして子どもたちに、このことに
ついての自分の考えをノ−トに書かせ、次の時間に発表させた。ところが子どもたち
一人ひとりの考えを聞いて、私の迷いはいっぺんにふっとんでしまった。子どもたち
の考えを整理してみると次の通りである。
  ◆  金儲けのことばかり考えないで、もっと人の命を大事にする医者になって欲し
い。でも、自分(医者)の生活ができないというようなことになってはどうしようもな
い。生活に必要な金だけは、儲けねばならない。南野上でもそれくらいはできる。
  ◆  医者には、沢山お金を儲けて楽な生活をしようとする医者と、自分は苦労して
でも人の命を守っていこうとする医者とある。
  ◆  自分らも、ちょっとでも体の調子が悪かったら、医者に診て貰おう。それは、
命を守ることだし、医者にもお金儲けをさせてあげることになる。
  ◆  道をひろくし、坂道をなくして、何でも通れるようにしたら、医者も往診が楽
になり来てもらいやすい。
  ◆  みんなで(村や町や市や県や国など)でお金を出して、医者を雇ったらよい。
  ◆  医者に診て貰っても、お金のいらないようにしたい。
  ◆  百姓が働かないと医者も生きていけない。これは本当のことだ。医者もこんな
ことをよく考えて人の命を守ってほしい。
  ◆  みんな病気にならないようにしよう。
  そして、これらのことについての話し合いの中で、次のことが出された。
  ◇  いくら人の命を守ろうとしても、自分の生活ができないようでは、人の命を守
る仕事は出来ない。
  ◇  南野上では、楽な生活をしようと思って医者をはじめてもあかん。でも生活に
必要なお金ぐらいだったら儲けられると思う。若し生活に必要なお金が儲けられない時
には、みんな(村や町や市など)からお金を出したらよい。
  ◇  たくさんお金を儲けて楽な生活をしようとする医者が多いが、自分が苦労して
でも人の命を守っていこうとする医者は少ない。
  さらにここで、「自分が苦労してでも、人の命を守っていこう」という考え方につ
いて話し合ったところ、「そんな医者だったら、南野上にもきてくれる」「みんなも
喜ぶ」ということと共に、「いくら『苦労してでも』といっても、自分が生活してい
けるだけのお金は儲けなあかん」「もし『儲けない』というのであれば、それは『自
分の命も守れないばかりか、その結果『人の命を守る』という医者の仕事もできなく
なる。」ということが出された。そして最後に「ほいでも、自分が苦労してでも人の
命を守ろうとする医者だったら、生活していけないということはない。そんな医者だ
ったら、みんなで支えていく」というのである。
  すばらしい子どもたちではないか。わたしは、ここで「子どもたちは、自分の生活
を守ると共に、他の人々の生活をも守り認めていく子どもに成長しており、人の命の
大事さを本当に知っており、さらに本当にみんなのために働けば、必ずみんながその
働きを認め、その人を支えていくし、そうでなければならないということを理解して
いる。」ということをはっきりと知らされた。子どもたちは、そのチエと力で、私の
迷いをちゃんと解決してくれたのである。
  わたしは、喜びをもって、子どもたちを、そしてこれまでの自分の取り組みという
ものを、改めて見直したのである。


         


うた子のたより

「紀北教育」第2号(1958.2発行)掲載

 うた子のたより

 南野上小学校4年の実践より

  三学期になって、わたしは、子ども達と手紙のやりとりを始めました。手紙の用紙は、
西洋紙4分の1の大きさのもので、二段に分けて返事も書けるようにしています。
そして出した手紙は、一人ひとりまとめて綴じています。
  はじめのうちは、わたしから先に出して、それに対する返事をもらい、さらに私から
出すというような具合だったのですが、最近では、うれしいことに、子どもの方から先
に書いてくれることが多くなってきています。
  ところで、今日は、『仲間意識を育てる』ということでの簡単な実践例を紹介したい
と思います。
  1月13日の昼の休憩時間でした。うた子が、わたしのところにやってきて、
 「先生、うち、先生に言いたいことあるんや」
というのです。「そうか」と、その時は聞き流して、そのあとすぐ、うた子宛に、次の
ような手紙を書きました。(返事で書いてもらう方がよいと考えたからです。)
  《うた子ちゃんへ》  1月13日
 何か、ぼくに言いたいことがあるそうだけど、どんなことでもいい、つぎに書いておくれ。
  うた子から、次のような返事がきました。
  《先生へ》  1月13日
 うちでは、おかあさんが一人でばんのこしらえをしてくれている。わたしが、学校の帰り
がおそくなると、おかあさんがおこる。そのおこられるつらさを、みんな、
なんで聞いてくれないのだろう。
  この学級の女の子たちは、一学期の終わり頃から、時々放課後全く自主的に、『女の子
の会』というのを開いて、自分たちの生活や学習のことについて話し合っているのです。そ
して時々、帰りが遅くなることがあります。
  ところで、わたしは、この手紙の中で、「みんな、なんで聞いてくれないのだろう」
というのが気になったのです。というのは、以前にうた子が「うち、はよ帰らな叱られる」
と、『女の子の会』に出したことがあったのです。しかしみんなは、このうた子の訴えに
対して、
 「おまえうちの人に、自分らの会のこと、ちゃんと説明せえよ。そしたらわかっくれらよう」
 「うちのお父ちゃんもお母ちゃんら、なんにも言わせん」
 「そんなことでおこるおまえとこのお父ちゃんやお母ちゃんは、わからん人や」
ということで、子どもたちも私も、これでよいと片付けていたのです。みんなから、こんな
に言われて、うた子は、だまってしまっていたのです。でもうた子にとっては、みんなのい
うように、簡単にいかなかったわけです。わたしは、うた子宛に、次のような第二信を書き
ました。
  《うた子ちゃんへ》  1月18日
 『女の子の会』で遅くなると、お母さんがおこるということだが、なんでおこるのだろう
ね。お母さんは、どんなに言うておこるの?  おこられた時のうた子ちゃんのきもちは?
  これらのことについて、できるだけくわしく聞かせておくれ。
  早速、うた子は返事をくれました。
  《先生へ》  1月18日
 「はよたべやなんだら、てまかかるのに、はよたべよ」といっておこる。そして、お父ちゃん
は「そげおそおそまで学校にいてんのやったら、学校にとまってこい」という。そうすると、
にいやんが「ほんまになあ」という。お母ちゃんは「みんなに言うて、はよもどってこなんだら、
おかあちゃんいそがしいさけ」という。私が「ほいでもよう」というと、「なんよっ」と、おか
あちゃんがいう。
 私は、あしたこそみんなに言わんなんと思ってねる。そしてあくる日になって、学校へ行き、
帰りしなになって、みんなに言おうと思っても、はずかしくなっていえない。そしてまたおそ
くなって、うちでしかられる。
  私は、この返事を読んで、私自身ともすれば忘れがちになっていた『子どもの家庭での位置』
というか、そのようなことについて考えさせられたと同時に、女の子たちが、本当に自主的に、
自分たちの生活を豊かにし、学習を高めるために開いている『女の子の会』というような一連の
活動に対して、この手紙にあるような態度や考え方の親達が、案外多いのではなかろうかと、考
えさせられたのです。
  私は、うた子に対して、次のような第三便をおくりました。
  《うた子ちゃんへ》  1月20日
      どんなわけで、うた子ちゃんがおこられるのか、よくわかったよ。
 ところでうた子ちゃん。はずかしいら言わんと、このわけをみんなに話そう。そしてどうした
らよいか、みんなに考えてもらおうよ。ちゃんと話したら、みんなきっと、いっしょうけんめい
に考えてくれるよ。もし、うた子ちゃんが、ようはなしせんというのだったら、ぼくが話しても
いいと思う。どうだね。
  こんな手紙をだしたのは、うた子の悩み・つらさを、みんなで考えさせたい。そしてその営み
の中で、仲間意識を育てたいと考えたからである。そして、この私の手紙にたいして、うた子か
ら、次のようなうれしい返事がきました。
  《先生へ》  1月20日
 先生が話してくれてもよいと思うけど、私からみんなに、おもいきって言ってみるよ。でも、
私のこと、みんな考えてくれるやろか。
 「私からみんなに、おもいきって、言ってみるよ」と、はっきりと踏み切ったことは、うた子
にとって、大きな成長です。ほんとうにうれしいことです。しかしうた子は、こうふみきった
反面で、「私のこと、みんな考えてくれるやろか」という不安をもっているのです。大事なのは、
ここだと思うのです。この不安をうた子から取り除いてやり、さらにうた子を勇気づけてやらね
ばなりません。
  私は、ここで、うた子としては、「思い切って言ってみる」ということで充分であり、あとは、
うた子が不安に思っているように、うた子のつらいおもいをどこまで受けとめ考え、そのつらさ
を取り除くことに取り組むかということであると思ったのです。
  私は、これまでのうた子の手紙をすべてみんなの前に出し、うた子のつらいおもいをみんなで
考えて欲しいと訴えました。私は、この訴えの中で、とくに、うた子が以前につらいおもいを出
した時、みんなは、「おまえ、うちの人に、自分らの会のこと、説明せえよ。そしたらわかって
くれらよう」「うちのお父ちゃんもお母ちゃんら、なんにも言わせん」「そんなんでおるおまえ
とこのお父ちゃんやお母ちゃんは、わからん人や」と言って片付けてしまったが、これではうた
子のつらさは、解決しないということを話したのです。みんな真剣に聞いてくれました。そして
うた子もとてもうれしそうでした。
その日の放課後、妙子から、次のような手紙がきました。
  《先生へ》  1月23日
 きょう先生がうた子ちゃんのこと言うたけど、うちいっこも知らなんだんしよう。
 先生から、うた子ちゃんに「ごめん」と言ってほしい。
 さよちゃん(たえ子と同じ在所で、いつもいっしょに帰る子)がびょうきで休んだ時に、のぶ
ちゃんが、うちに、「6年の子といねよ」と言うてれた。だから、うた子ちゃんもはやく帰るよ
うにしたらいいと思う。
    ※  さよ子やたえ子の家は、山の上のほうにあり、非常に遠い。
  私は、このたえ子の便りを読んで、本当にうれしかった。そしてたえ子に、次のような返事を
出すと同時に、みんなにたえ子の手紙を紹介した。
  《たえ子ちゃんへ》  1月24日
 手紙ありがとう。たえ子ちゃんの手紙を読んで、ぼくは、たえ子ちゃんは、うた子ちゃんのつら
さを心のそこから考えてあげようとしているなあと思い、ほんとうにうれしかった。こんなたえ
子ちゃんの気持ちをうた子ちゃんが聞いたら、どんなによろこぶことだろうね。『ごめん』とい
うことばは、このたえ子ちゃんの手紙の中で、ほんとにすばらしい意味をもっている。たえ子ちゃ
んの気持ちを、ぼくから、うた子ちゃんにつたえよう。そしてみんなにもつたえよう。
 たえ子ちゃんが、のぶ子ちゃんに「6年の子といねよ」と言ってもらった時、ほんとうにうれし
かっただろうね。会がおそくなるような時には、うた子ちゃんをはやく帰らせてあげるといいね。
 たえ子ちゃん。みんなが、こんなにして、おたがいのつらいことを考え合いかばい合っていくよ
うになったら、自分らの学級は、ほうとうにすばらしいなかのよいクラスになるよ。
    ※  のぶ子は、学級のリ−ダ−の一人
  以上、『仲間意識を育てる』ということでの取り組みの一コマを紹介しました。

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