定年後に読む街道をゆく

第32巻、紀ノ川流域、司馬遼太郎著、週刊朝日19884月より8月まで連載
和歌山の教育界に席を置き、コツコツと革新運動を進めておられる雑賀光夫様とは、たった2日程前にメールを通じて御知り合いになった間柄。小生の「定年後に読む資本論、第21章の附記」について、懇切なる読書感想とご意見を頂戴した。

雑賀光夫氏は相手の文章をきちんと熟読し、小生の年号入力ミスまでもご親切に指摘頂いた。お礼のメールに雑賀様という苗字は司馬さんの作品にもある由緒あるお名前でと書いたら、折り返し実はオヤジは街道をゆく紀ノ川流域編で司馬さんと雑賀の宴で登場してますとお聞きしてまたびっくり。

実は丁度今日読み始める予定で、机の上にのっていた第32巻を開く。紀ノ川流域6雑賀の宴に入海がみえる緑泥片岩の山の中腹にある料亭で、藤田俊乗さん、有本清さん、そしていまひとりは、雑賀光夫様のご尊父である和歌山師範の古いころの出で、画家の雑賀紀光氏が司馬遼太郎氏に招かれて宴が始まる。以下原文より。

雑賀紀光氏は壮年のころは、小学校の校長さんをされていた。「雑賀さんは、雑賀党の雑賀さんですか」ときいてみると、いいえ、この苗字は養家の苗字です、ということだった。まことに丁重な物腰の人で、宴なかばで立ちあがられて、「手品をいたします」といわれた。雑賀さんは、奇術の創作家でもあるという。なんとも寂々として、かっての根来の行人や雑賀の地侍衆の宴もこうであったかとおもわれた。・・・・・・・・

雑賀光夫さんは、「私は残念ながら画才も手品もうまくオヤジの血をひいておらず、いつも橋の下で拾われた子といっております」とおっしゃる。やはり父にして子あり。飄々とした生き方の中に、高校時代から、権力にへつらわず、平等なる社会を働く者の力で創っていこうとする決意を貫き、後悔なき人生を選択してきた氏の背中には、ここにも人ありといった強い印象を受ける。

たった2日間のお付き合いだが、人間の深みは離れていても、即座に伝わって来るものだ。

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