編集・発行 和歌山寺子屋
このホームページはインティッキ大学ブッシュグレア研究室で編集しています。
1990年代のはじめに、「マルクス・エンゲルス全集を読む会」
(寺子屋)が、明野進氏主宰で開かれていました。そこで、雑賀が
中江兆民の「一年有半」などへの感想を明野が批評したやりとりです
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明野・雑賀の兆民論争

           (1)中江兆民と社会主義 ・民主主義 S
        (2)兆民先生と永田広志      A
         (3) Aさんに答えて (Sさんにかわって編集子)
          (4)二つの「兆民論」の差異は・・・? A
        
        
         




(1)中江兆民と社会主義 ・民主主義 S

                                                  
 私が労働学校で喋るレパートリーのひとつに、「民主主義の継承者としての社会主義」
というのがある。私は、民主主義が大好きだし、それも、ブルジョア民主主義をくぐり抜
けてきた、土壌の広い民主主義でないと駄目だと思っている。ブルジョア民主主義をとび
こしたソ連・中国がこの問題で頭をうっているが、それだけだと思ってはいけない。青年
団活動などをくぐってきた活動家などは、民主主義の土壌が広い。しかし、すぐに「民主
集中」というところで初めて民主主義の勉強をした活動家は、よほど自覚的に努力しない
と、官僚主義になる。

 それはさておき・・・・・私の、論理構成の種本は、言うまでもなく「空想から科学へ」
である。あの書き出し部分は大好きだ。 「現代の社会主義は・・・しかし、その理論上
の形式からいえば、・・一八世紀の啓蒙思想家たちがうちたてた諸原則を、うけついでさ
らに推し進め、・・・」そして、「サンシモンは、フランス革命の子であった」へつなぐ。
 そのことの例証として引き合いにだすのは、「ベトナム独立宣言」なのだが、この論理
構成は、芝田進午の「ベトナムと思想の問題」によっている。(私は、芝田さんという人
が嫌いなのだが、好き嫌いは別として、理論的に優れたものは使うことにしている) も
うひとつ、引き合いにだすのが、日本思想史に於ける民主主義と社会主義なのだ。日本の
民主主義運動の源流を、自由民権運動に求めることについて、異論はあるまい。その理論
的指導者は中江兆民であった。その一の弟子は、幸徳秋水である。幸徳が、日本最初の「共
産党宣言」の翻訳者であり、日本社会主義の草分けのひとりであることに異論はなかろう。
     
 ところで、この二人のことについて、口からでまかせを喋って来た。
 兆民は、食道ガンにおかされ、後一年の命だと言われて、遺言的著作「一年有半」「続
一年有半」をかいた。その出版をまかされたのが、幸徳秋水であった。私の口からでまか
せと言うのは、 @食道ガンを口頭ガンにしてしまったかもしれない。
 A兆民は、「続・・」を出版しないで死んでしまったことにしていた。
 B二冊の本は、唯物論哲学の本だと言っていた。(ただし、私は読んだことがないが、
と正直に言ったことは救いである) 神田の古本屋で「中江兆民全集I」をかって来た。
新幹線の中で開いてみて、
 @秋水が、前書きをかいているのを確かめた。
 A二冊とも、中江兆民が生きている間に出版されたことを初めて知った。
 B「続・・・」は哲学書だが、「一年有半」の方は、随想ふうのものであることを初め
て知った。 
 ABはまことにお恥ずかしい次第である。しかし、もっと大きな驚きは、「続一年有半」
の内容であった。見事な唯物論なのである。しかも、精神についての捕えかたなど、機械
的唯物論でなく、弁証法的唯物論に迫っている。
 背のびしたことをしゃべって、恥ずかしいおもいをするが「恥ずかしい」という気持ち
をもっていることは、私の民主主義的感覚の証であると思っている。

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(2)兆民先生と永田広志      A

 僕は、戸坂潤の「科学論」(岩波書店)を焼け跡の倉敷のある書店に行列して買った青
春の日の興奮を、40年たったいま、ふと思い出した。
 Sさんの「兆民先生」のお陰である。僕が軍国少年の日々に心酔した皇道哲学=天皇主
義イデオロギーを粉々に紛砕したのは、この日の「科学論」ではなくて、「日本イデオロ
ギー論」と「認識論」とであった。          その戸坂が死をもって守りぬいた「唯物論
研究会」で、日本の思想(哲学)史研究を担当し、戦後日本共産党に入党し、四三才でな
くなった哲学者が、永田広志であった。
 僕の「興奮」は、永田の四部作(「日本唯物論史」「日本哲学史」「日本封建制イデオロ
ギー論」「日本哲学思想史」)を読んで、頂点に達した。この四部作は、僕をその上半身
だけではなく、下半身まで唯物論哲学の陣営に移行させてくれた。そこで僕ははじめて、
科学的社会主義の哲学こそが、僕を心酔させた国粋主義皇道哲学をゆがめ、台無しにして
しまった「日本的なもの」の本当の特質、それが日本史の発展の能動的な文化的要素とし
て見事に引き出されていることを、目の当たりにすることができた。僕は「日本的なもの」
の本当のふるさとをやっとそこにみつけてよみがえることができた。
 こうして永田四部作は僕を頭だけでなく、体ごと、もっとも日本的な戦闘的唯物論の実
践的隊列になげこんだのであった。   
  ところで、神田の古本やで「中江兆民全集I」を買って、「一年有半・続一年有半」を
読み「精神のとらえ方など、機械的唯物論でなく弁証法的唯物論に迫っている」(傍点は
私)と“感激”されたSさん。
  「一年有半・続一年有半」(岩波本)には、「世界は無始無終で有る、すなわち悠久の
大有である、・・・・而してその本質は若干数の元素で有て(ママ)、此元素は永久遊離
し、抱合し、解散し、・・・この如くして一ごうも減ずるなく、増すなく・・・」とある。
  これはもちろん「見事な唯物論」ではある。「だがこれだけでは一面的であり、形而上
学的である。なんとなれば、これだけでは、世界の一切の過程は・・・循環運動・・・・
発展が無視され・・・」(永田広志「日本唯物論史」二九七〜八)ることになるのではな
いか。
  「続一年有半」についても「空間、時間の客観性に関する唯物論的命題が明確にたてら
れている」(永田同書二九六)ものの「兆民のこのような唯物論的見解は、弁証法には無
縁なものであった。・・・すべてが結局元素に還元されるという児おうが一面的に主張さ
れているために、・・・形而上学的要素はいっそうはっきり前面にあらわれている。」(同
上、二九七とさばいたうえで、永田は「中江の形而上学的唯物論を、弁証法的唯物論を混
同することは無論許されない。」(同上・三〇三〜四)との結論を出している。
  もちろんSさんは、兆民を「弁証法的唯物論者」と断じられたわけでは決してない。 
「弁証法的唯物論に迫っている」ととらえられただけである。残念ながら、狭い紙面の中
では、その「迫りかた」の具体的内容にふれられていない。それがとりだされると、わが
永田広志を乗り越えるあらしい発見がもたらされるかもしれない。
  それともこの「迫っている」というとらえ方の中にこそ、Sさんならではの明哲保身術
の極意をくみとるべきなのか。
  ふと、久々の興奮をよびさまされたSさんの一文であった。

(3) Aさんに答えて (Sさんにかわって編集子)


 Aさんの「Sさんへの批判」をSさんに届けました。 Sさんは、「また粉砕されるか!」
と頭をかきながら、以下のように語りました。
 「永田広志が出てきたから正直に言うが、前の文には、少しフィクションがあってね。
『初めて知った』というのは嘘なんだ。実は、兆民と秋水の関係を喋って来た種本が、永
田の「日本唯物論史」なんだ。和教組の責善集会で、例の話をしてから心配になって調べ
てみたんだ。そしたら、兆民は、「続・・」が出版されてから死んでいる。そんなミスが
あったから、原本をもっておこうと思って、神田で買ったわけ。」
「永田広志との出会いは、『・・講話』民青の教育部長をしていたころから、種本によく
使ってね。だれかに貸したのか、今手元にないんだが。」
「ところで、Aさんが言われることだけど、・・・ぼくがあの本を読んで思い出したのは、
古在由重さんの『唯物論と唯物論史』なんだ。あの中で、『意識の属性的資格』というこ
とが強調されている。兆民も、その点は、きっちりしている。・・・古在さんの本をひっ
くり返してみると、『一八世紀のフランス唯物論者たちは、その形而上学的・機械論的性
格にもかかわらず、この一点において正当な見識を我々にのこした。』とある。フランス
仕込みの兆民がそれを受け次いでいたのは、当然のことで、驚くべきことではないかもし
れないけど。」

  『精神のとらえ方など』と限定したところに、Sさん得意の明哲保身術がはたらいてい
るようです。
  「ところでね」とSさんは続けます。「芝田進午の解説では、永田の日本思想史論は、
少し否定的に見過ぎるのではないかと言っていたように思うんだけど、Aさんの引用した
部分を、その観点から再検討してはどうだろうか。」
  Sさん、芝田さん嫌いじゃなかったの。

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(4)二つの「兆民論」の差異は・・・?                    A


  僕の脳裏に「日本的なもの」の本当のふるさとへの回帰の日の想いを一瞬よぎらせてく
れたSさんのメッセージ「Aさんに答えて」を「寺子屋ニュース」編集子が五月一日づけ
で、ユーモアタップリにとどけてくれたのはほんとうにうれしかった。
  それはなによりも、Sさんが「精神のとらえ方」の瀬戸ぎわで”粉砕される”どころか、
見事に身の安全を保たれて生き残っただけではなく、僕がすきだった古在由重さん(僕は
とくにお母さんの紫琴さんー全集は草土文化社、一九八三年刊ーがすきなのだが)や、僕
もあまり好きではない芝田進午さんをもさそいだして下さって、いっそうにぎやかになっ
たからである。
  そして僕はM・E全集第一巻のある一ページを思い出してニヤリとした。
  「いまにも打ちあいせんばかりの両者は仲にはいる第三者がなぐられるようになるよう
に計らうのだが、するとまたぞろ両者に一方が第三者の立場をとるというふうに、この連
中は用心ばかりしているために、けりがつかない。この仲介方式はまた、自分の相手をな
ぐりたがっている同じ男が、この相手が他の側で別な男からなぐられないようかばわねば
ならず、そのため二重に手をとられて自分の用を達するにいたらないというかたちで行な
われることもある」(ヘーゲル国法論の批判」一八四三年執筆、マルクス二五才)
  そこで僕はこのテーマでのSさんとの対話に照準をさしずめ次の二点にしぼることにし
た。
一、永田広志の「兆民論」の核心はどこにあるのか。
二、永田「兆民」論とSさん「兆民」論 との差異はどこに あるのか。
  まず、永田「兆民」論の核心をメモ風に。
永田『日本唯物論史』(新日本出版社一九八三年刊)によるかぎり、そのおもな点は次の
四つだと思われる。
 一、日本唯物論史上の位置・・・「日本における最も輝けるブルジョア唯物論者」中江
兆民氏(P二二四)
二、哲学的内容・・・「兆民の唯物論も一さいの前マルクス的唯物論の例にもれず、歴史
観においては観念論である。」(P三〇四)「『三酔人経論問答』はそれを知るために第一
に吟味さるべきもの」(P三〇五)である。
三、日本社会主義史上の位置・・・「兆民自身の政治的見解の反社会主義的本質にもかか
わらず、かれの哲学が日本社会主義思想に、したがって弁証法的唯物論につながっている」
(P三一九)「兆民は・・・その唯物論によって、日本の社会主義の哲学的唯物論に先駆
し、連関をもった。」(P三二〇)
四、「兆民」論で果たした日本の弁証法的唯物論の役割・・・「明治以来の哲学的唯物論
の繁栄と、哲学的唯物論の擁護、展開の仕事における社会主義者の無力とのために、久し
く歴史の掃溜(はきだめ)のなかに埋葬されていた兆民の唯物論哲学が、正当な評価に附
されようと試み始められたのは、弁証法的唯物論が、思想界の有力な一潮流として登場し
てからである。」(P二三一)
  つぎにSさんの「兆民」論との差異はどこに・・・?これははなはだ残念ながら、今の
ところ前回の私の一文以来、Sさん自身の声はまだ聞こえなく(第三者の影はくっきり見
えたのだが)さきにすすむわけにはゆかない。もちろん、「差異」が限りなくゼロに近づ
くこともあって、またたのしい。  さしづめの二つの焦点のほかに、いずれそのうちに焦
点としたいテーマをひとつだけあげておこう。
  それはいま、戦後第二の反動攻勢の流れがしたたかにつよまるなかで、そのイデオロギ
ー的攻撃手段として復活させられつつある「日本文化」論との闘争課題のなかに「日本的
なもの」の本当の特質、日本歴史の能動的な文化的要素としてのその蓄積をどのように活
用することができるのか、というテーマが本格的にすえられていいのではないかという問
題意識である。
  「日本的なもの」のほんとうのふるさとは、はたして政治反動によって非合理主義、非
科学、非人間的イデオロギーへそんなに簡単にゆがめられ、ねじまげられてしまうほど根
の浅いものであったのかどうか。
  この課題を正面からかかげての日本の科学的社会主義の哲学戦線でのたたかいの到達点
は、一体どこまできているのか。  これは僕のあの日以来の・・・つまり永田広志との出
あい以来の、古くてあたらしいテーマなのである。
                             (一九七八、五、二九)



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