永田先生の「私の組合活動」その2

ようこそ!

雑賀光夫
永田先生の手記のつづきです。資料を正確にするために先生にみてもらってもいるのですが、できたところまで公開します。疑問な点などおよせ下さい。本の出版なら完全に校正して印刷しなければなりませんが、ホームページはこういう注釈をつけておけば、多少の不完全さは許されると思っています。他人を傷つけたり、公序良俗に反しない限りは………。
1、教員の政治活動制限に抗して   2、こういち裁判 3、西川事件
4 「お母さん選挙」で当選 5、体罰事件 6、勤務評定反対闘争
7、京屋事件 8、刑事弾圧反対闘争
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1、教員の政治活動制限に抗して


 1953年有田支部書記長に選出された最初の仕事は県会議員選挙での組織候補選出
の戦いであった。私が教員になったのは1948年4月で有田郡生石中学校致論としで一
年生の学級担任。国語、社会、体育の学科担当であった。当時の新制中学三年生は
旧制中学及び高女からの舞い戻り生従で不真面目な生徒が多かった。中でもMという
生徒は学力ばあるが悪賢く、授業中マンガを他の生徒に回覧して誰かがクスクス笑
って教師に叱られると陰でニヤりとしていた。私は全員にスケアータンスを指導し
て運動会で因習に囚われている村人を教育しようと考えた。男子生徒と女子生徒に
手を握らせるのに苦労をした。生徒たちはなかなか手を握らない。そこで一案、小
さな万国旗を作成、竹に張り付け男女一組に一本を渡し、「さあ握れ」と命令した。
いささか強引であった。生徒たちは女子が竹の下端を握り、男子が竹の最上部を摘
んだ。全て生徒Mの抵抗である。他の生徒はMのいじめがこわくて全員竹の上と下
を握った。男女同権、男女共学を急いだ私の見事な敗北。全員を運動場に正座させ
自分も正座して「君たちは男女お互いに手を握りあいたいと思わぬか」「思いま
す」「思うものは手をあげろ」全員挙手
 「M」
 「ばい」
 「君はどうだ?」
 「僕も握りたいと思います」
 「さっきどうして竹の上を持ったのだ」
 「体裁が悪いから」
 「体裁?他人の思惑など気にするな、もっと目分に正直になれ!解かったか」
 「解かりました」
 「よし正座はこれで終了」全員を立たせた。
 その夜Mの自宅を訪問
 「M」
 「はい」
 「君は書道が好きだなあ」
 「はい好きです」
 「でば明日から毎日一枚書いた物を持って俺の家へ来い、添削してやる」
ど約束。翌日からMは習字を持参した。
 「上手に書けているが字がひねくれている。『自分に正直、自分に正直』を
毎日三回唱えながら字を書け、そして書いた物を前日のと比較して悪いところを直
しながら書道に励め」
 その後Mはまじめになり、高校から大学教員養成課程を卒業、現在高校の教師にな
っている。面倒見が艮いと評判。人間は誰でも特技を持ち得意な所をほめ育てれば
欠陥も是正できる。所が私たちが運動場で正座して居るところを村役場の窓から盗
み見していた者がいた。村長であった。村長は早速校長を役場へ呼びつけた
 「校長、今日、永田先生が生徒達を連動場に正座させ軍国主義教育を行なってい
たのを知って居るか?」
 「いえ校長室から運動場は見えませんので知りませんでした」
 「今後監督を厳しくして二度と軍国主義教育をさせないように注意しなさい」 
 「承知しました」で校長は釈放され学校へ帰ってきた。
 中学部主任の川口先生と私が校長室へ呼びつけられた。「永田先生少し手加減し
て教育して下さい」校長は村長から叱られた一部始終を話してくれた。私は直ちに
村役場へ駆け込んだ。「村長居るか、出てこい」と大声で怒鳴った。村長は留守で
助役が飛び出してきた。「村長は市役所へ出かけたので留守です」「留守なら仕方
がない、帰って来たら村長に伝えなさい。村長はもっと真剣に村政に取り組め。道
路にしても河川にしても災害復旧にしても住宅にしても、まだまだ改善を必要とす
る箇所がたくさんあろう。村長は本務を忘れ教育に介入するな、権力的不当介入反
対と確実に伝えなさい。助役は村長補佐の任務を忠実に守れ!村長も俺に文句をつ
けたければ直接俺に話しなさい。小心な校長を苛めるな」癇にさわっていたので大
胆な又句をつけて引き揚げた。
 同年四月に入り県議会議員選挙戦に突入した。有田支部は箕持高校長裏辻往左衛
門先生を組織候補と決定、選挙戦に突入した。この年、自民党は教員の政治活動制
限を目的に教育公務員員特例法を改悪して「教職員は勤務している学校の所在市町
村内での政治活動は地位利用の怖れあり、是を禁す」という法律を成立させ公布し
た。
 私は有田郡の最奥「安諦(あで)村立中学校教諭」に任命された。安諦村は有田
郡の最も奥の山村で人口も少なく又誰一人私の顔を知って居るものも居ない。街宣
車に来って選挙連動をやってもバレルことはない。候捕者を乗せて郡内各地を巡回
した。ある日、保田村の農道で三輪トラックが構に後輪の片方を落とした。私は飛
び降り溝に入り、車輪の下に肩を入れエンジンを蒸かすと同時に担ぎ上げ、トラッ
クを道路に戻した。車に来せていた若い女性達が一斉にふきだした「先生の褌{ふ
んどし}まっ黒」それもそのはず一ケ月以上も帰宅ぜず、下着の着替えもせす選挙
事務所に勤めっきり、日中は郡内を飛び回り夜は戦術会議で、褌を取り替える暇が
ない。平素はズボンをはいているのでバレなかったが咄嵯の出来事、前後を考える
暇もなくズボンを脱いで幅5米、深さ1.6米の溝に飛び込んだのである。女性達
は郡青年団女子部から選挙応援に来てくれていた美人達。咄嵯に急所を見られてし
まった。一代の不覚であった。幸い裏辻先生は当選した。
 選挙後県議会に傍聴に行った。傍聴席の最前列中央に座っていた。新政クラブの
峯畑議負が演壇に上り「教育長に質問する。教育委員会は選挙に絡めて教員の人事
異動を行なうのか」と質問した。村上教育長は「峯畑議員にお答えいたします。教
員の人事異動は我が県内の教育振興を目的として実施いたします。選挙とはなんら
関係はございません」と明解に答弁した。止せば艮いのに峯畑議員は「再質間」と
称して演壇に上がるや「その傍聴席最前列に座って居る永田君は、本年3月まで拙者
の村の中学校で教えていた。四月になるとどこか他の村の学校へ転勤し、某候補の
選挙カーに乗っていた。これでも選挙と教員異動は関係がないと言うのか」と私を
指した。
 学事課長が傍聴席から私を呼び出した。「君が永田君か、議員の質問を開いた
か」「はい聞きました」「実際はどうなっているのだ」「実際も質問の通りです。
三月まで峯畑議員が村長を動めていた生石村(うぶいしむら)の中学校に居りまし
た。四月に安諦(あで)村の中学校へ異動しました。私は僻地教育が重要たと思い
転勤希望を出しました。ですから教育長が明解に答弁された通り、人事と選挙は全
く関係ありません」峯畑は再再質問で「教員は選挙運動を行なっても構わないの
か」村上教育長は「峯畑議員にお答えいたします。教員は勤務校の所在市町村では
政治活動を禁止されておりますが勤務地を離れれば選挙運動に携わることも国民の
権利の一つですから、県教委と致しましては国民の権利を侵害することはでぎませ
ん」と答弁した。峯畑は村長時代、私に「権カの教育に対する不当介入はやめろ」
と抗議されたことを根に持ち、県議会で名指ししたものと思われるが、村上教育長
の見事な答弁で虻蜂取らすに終始した。地行法改悪の際、辻原中執は自民党と話し
合い、制限規定を挿入させて居たのである。当時辻原は日教組法制部長を勤め国会
に出入して議員工作に当たっていた。




2、こういち裁判


 1954年4月実施された総選挙で和教組は組織候補として和歌山第二選挙区て辻
原弘市氏を出して戦った。この選挙で自民党では早川議員と正司議員が当選し、古
参の世耕前議員は落選した。辻原は当選した。世耕は当落決定後、直ちに「辻原の
当選無効」の提訴を行なった。提訴の理由は辻原は名前が弘市であるから辻原弘市
だけが有効投票で、辻原弘一の札は辻原と世耕弘一を合成している。従って辻原弘
一の半数は世耕に加算し辻原の得票数から半数を削減すべきである」と称した。す
ると同じ落選組の田淵光一は「辻原及び世耕の得票中、辻原こお一、世耕こお一ま
たは辻原こういち、世耕こういちは田淵光一のこおいち、こういちの分が含まれて
いるから三等分して各人にカ目減すべきである」と主張した。これが全国を驚かせ
た「こういち裁判」である。結果は「辻原弘一も辻原こおいちも辻原こういちも辻
原コオーも辻原コウイチも全て辻原の得票てめる」という判決が出た。この裁判は
和歌山地裁、大阪高裁、及び最高裁まで争ったが、全て辻原の勝利に終わった。裁
判に要した費用は日教組の救援規定が適用され、日教組が支出した。世耕は八票差
で落選していたのである。世耕や田淵の主張が認められれば辻原と世耕は当落逆転
していたのである。

3、西川事件


 事件は1956年12月御坊市鉢の木旅館で勃発した。当日、県土木部主催で県会議員
中土木部担当議員懇親会が開催された。社会クラフ所属M議員が開催時間に少し遅れ
た。主催者は「 M先生が少し遅れています.お待ちして到着次第開催致したいと思
います。暫くお待ち下さい」と挨拶した。そのとき県政クラブ所属の西川議員が
「エッタボシなど待つ必要なし、すぐ開催しなさい」と発言した。旅館の女中がこ
の発言を開き部落解放同盟へ報告した。

 「西川議員差別発言事件」は全国部落解放同盟(以下「解同」と略す)が取り上
げた。解同は西川に面会を求め事実確認を迫ったが西川はそれを拒否した。和歌田
県地評、和教組、和高教、解同で四者共闘会議を編成して西川に議員辞職を求めた。
また小野知事に「西川に辞職勧告」を求め、県議会各派に「西川辞織勧告決議の採
択」j求めた。しかし当の西川は知事の勧告も議会の決議も無視した。最後に自民党
県議団の説得て議員を辞任した。 直ちに補欠選挙が公示された.西川は立候補し
た。解同は御坊市の責任者をもり立て対立候補として立候補させ選挙戦に突入した。
四者共闘会議は必死になって戦った。結果は見事な敗北、西川は大差をつけて当選
した。御坊市内の部落の有権者の過半数は西川に投票していた。解同は痛烈な自己
批判を行なった。従来差別発言を捕えて差別者とレッテルを張り差別者糾弾闘争を
組んできたが、これは「差別認識の誤りであった」として「差別は人民相互間の意
識の問題ではなく」「差別は権力者と権力に追随している連中が人民の諸種利を否
定したり椎利を制限して不当な圧力を加える事実を言い、差別の反照{照り映え}
として人民相互間に対立を起こさせ憎しみさせる権力の陰謀に来ぜられているのて
ある」と定義づけた。これは見事な総括である。当時の解同は松本治一郎先生を委
員長に担ぎ、田中織之進氏が書記長を勤め優秀なスタッフで書記局を編成していた
ので、これだけの優れた総括がてきたのである。その後、朝田善之助が解同を乗っ
取り「一億マイナス800万=差別者」という独善的な理論を作成して、従来解放運動
の未熟低劣な府県を朝田理論で統一させ以後の誤った解放運動を指導した。有名な
八鹿高校事件は、朝田解同の「差別糾弾」に名を借りた暴行事件であった。

4 「お母さん選挙」で当選{中谷鉄也氏の快挙}

4 「お母さん選挙」で当選{中谷鉄也氏の快挙}

 1959年4月地方選挙が実施された。和教組は各支部で革新候補を推橋して、選挙戦
に突入した。和歌山市支部ては丸山書記長を、教育庁職組は松本新一郎氏をそれぞ
れ組織候補として県議選を進めた。和教組頭間弁護士中谷鉄也氏から「相談に乗っ
てほしい」と電話があり、県庁前の喫茶店で面談した。「実は市議会議員に出たい
のだが組織がない、何とか成らないだろうか」「大丈夫、出なさい、市支部は組織
候補を抱えて忙しいが、特殊学校部は県議は丸山と松本、市議は中谷と双方を支持
して戦ってやる」「ありがとう、それで自信が沸いてきた」「鉄ちやん、必勝戦術
を教えようか」「ええ?必勝戦術ってありますか」「ありますよ」「教えてよ」
「毎日市場へ行き『お母さん、中谷鉄也です。市議会誌員選挙に立候補しました。
お母さんの一票で当選させて下さい。私の母は夫を亡くした後、私の成長を楽しみ
に小学校中学校を卒業させてくれました。とっても厳しい母でした。私も母の期待
に背かないように勉強しました。戦時中でしたから、私は陸軍士官学校を受験して
合格しました。母は「お国の役に立って嬉しい」と喜んでくれました。しかし、戦
争は負けました。母は「今度は貧乏人のために役に立つ職業に進みなさい」と言っ
てくれました。私は大学へ行き直し、法律を勉強しました.大学卒業後司法試験に
合格しました。同期生の中には警察や検察庁に進む者も居りましたが、私は母の教
えを守り弁護士になりました.市議会に出れば私は弱い人の立場に立って奮闘する
覚悟です.私の母は残念ながら昨年亡くなりました。お母さん!皆さんの一票でど
うか中谷を市議会へ送ってください、中谷、中谷、中谷鉄也です。よろしくお順い
します。を連呼しなさい、市場でですよ」「どうして市場なのですか」「市場には
全市から魚屋、八百屋が朝の買い出しに来ています。市場でお母さんを連呼すれば
魚屋や八百屋のおっさん連中自店に帰って「今日も鉄ちやん朝早くから市場でお母
さんを連呼していたぞ」と話題になる、市内をガソリン使って走り回るよりもっと
早く有権者の耳に伝わる。魚屋や八百屋の前を宣伝カーで通過するとき必ず、お母
さんご支援ありがとうございます』と車から下りて頭をさげなさい。「お母さんば
っかり訴えると父親の票を逃がしませんか」「それは大丈夫。親父が支持者を決め
て妻や子供たちに押しつけて投票に行かした時代はもうとっくに過ぎて、今やご婦
人達も目分の意志で支持者を決定している時代ですよ。お母さん一点張りでやって
みな、絶対成功しますよ」「ありがとう」
 それから中谷は朝早くから市場に来て「お母さん」を連呼した。当時市場は丸正
百貨店西方の路地にあった。その後市場が和歌山市駅西方の河岸へ移転したがここ
でも「お母さん」を連呼する中谷の姿を毎朝欠かざす見受けました。中谷は見事一
位で市議会議負に当選しました。1961年県議会議員選挙にも出馬して当選。1963年
11月第30回総選挙にも出馬、見事当選、代議士先生になった。1967年8月私は衆議院
第二議員会館へ中谷先生を訪ねた「先生今度の参議院議員選挙にも出るつもりです
か」「もちろん出たい」「それは絶対駄目」「どうして」「市議会、県議会、衆議
院までばお母さん戦術と先生の御人徳で見事当選してきましたが、今後の選挙は個
人の戦いではなく政党の戦いです。現在の社会党は既に政党としての権威も亡くし、
解同の傀縄になっています。今まで社会党を支持してきた総評も総評傘下の各単産
も、社会党一党支持の方針を改める段階に来ています。中谷選挙戦術は今や共産党
の選挙戦術になっているでしょう。先生ばここまで来れたことに誇りを持ちこれ以
上の欲望は綺麗に捨てなさい」「解かりました。永田先生に言われるまでもなく最
近の党の方針や活動に私自身、疑問を感じて来ていました。国会での自民党との馴
れ合い合意や解同の傀儡になって選挙資金を受け取っている議員と共に政策を論議
するのが馬鹿らしくなっていました。参議院議員選挙はキッパリ止めます」「そう
です作戦要務令第十第二項為サザルト遅疑スルトハ指揮官ノ最モ戒ムベキ所トス是
此ノ両者ノ軍隊ヲ危殆二陥ラシムルコト其ノ方法ヲ誤ルヨリモ更二甚ダシキモノア
レバナリ{途中から二人て声を揃えて唱えた}
 「あはばはは………(二人は声を揃えて映笑した)
 「永田先生今日は御教訓有難うございました。もう少しで墓穴を掘る所てした」
 「最初に担ぎ上げた責任をとることが出来、私の方こそ感謝します.然し、流石、
陸士卒、指揮官の心がけだけは忘れていませんでした。立派です」
 近年、中谷先生の訃報に接し、うたた感無量。
 お母さん戦術は中谷鉄也だから成功したのであって他の候補が真似をしても女性
は見向きもしなかったでしょう。中谷は弁護士として弱者の立場に立った弁護を続
けた。私の尊敬する人間の一人です。

5、N先生(体罰)事件

5、N先生事件

 1958年8月15日突発事件が発生した。聾学校高等部男子生徒二名が隣の和歌山県立
商業高等学校のN教諭に殴打され顔面を腫れ上がらせ口内も切ってしまった。教
職員は緊急職員会議を開き対策を協議した。大勢は「県教委に交渉してNを免職
させろ」と主張した。私は「待て待て先ずは事実確認が先決だ。相手の言い分もよ
く聞いて対策はそれからだ。両校で確認会議を開こう」と主張した。校長も「それ
が好い」と賛成。急進派も納得した。

 双方から数名づつの委員で「確認会議」を開き、まず当のN教諭の意見を聞い
た。「実は当日、県下高校のバスケットボール選手権大会を和高校体育館で挙行、
優勝戦で我校選手が惜敗した。l試合中体育館内に下駄履きで入場していた者がおり
ガタゴト、喧しく選手の指導も邪魔されたので、数回「体育館内は下駄厳禁だすぐ
脱いで下さい」と放送したが二人は絶対脱がず、試合終了後選手達に講評をしてい
る最中、私と選手達との中間を悠々と通り過ぎた.「こら下駄を脱げ」と叫んだが、
それも無視して外へ出ていった。「こら待てえ」と叫んだが、これも無視された。
二人は悠々と運動場を横断してろう学校の中へ消えた。一言注意してやろうと追い
かけ腹立ち紛れに分殴った。今は悪いことしたと反省している」と述懐した。

 「ろう学校生徒と気がついたのはいつだ」との間いに「殴った後だ」と答えた。
「体育館は土足厳禁だったのか」の問いに「否、土足は禁止していなかった」「靴
履きの者もいたのか」との問いに「いた。靴は喧しくない、下駄は音を立てるので
脱げと放送を繰り返したのだ」「聾者は放送を聞くことが出来ないと思わなかった
か」「知らなかった」「二人はろう学校の校舎の中を通り過ぎて湊寮の中に逃げ込
んでいるのに湊寮の中まで迫いかけたのはどうしてだ」「とにかくかっとなってい
たので前後の見境は付かなかった。二人にはお詫びしたい」と答えた。被害者の親
たちを呼び出し、父母会を招集した。
 「けしからん、聾児と知ってて殴たのは絶対評せない、すぐ、県教委に押しかけ
Nを懲戒色織に迫い込もう」と言う意見が大勢を占めた。私は「皆さん、興奮さ
れるのはごもっともです。しかし、ここでNを免壊処分にすれば、社会一般は
「聾者、襲児に近寄るな、すぐ差別だと問題にされるる」これでは逆に障害者は疎
外される。二人にも『靴履きは良くても、下駄履ぎてはいけない場所もある』と言
う生活指導が足りなかったことを反省しなければならない。Nには二人に謝罪さ
せ、今後注意させるから許してやって下さい。彼にも妻や子供もいるでしょう。懲
戒になれば収入も無くなり再就織も出来なくなります。今後の対応は校長に一任し
て下さい」と懇願した。「解かった、校長一任」と声があり全父母が納得した。私
はすぐ交渉団を編成、県教委へ交渉に行った。
 「殴ったNも良くないが、最も悪いのは県教委だ。殴打事件の遠因は両校の立
地条件にある。全国で校門の無い学校があるか?我々ろう学校の教職員生徒は商業
高校の校門を潜り通勤通学をさせられている。運動場も商業高校は四百米のトラッ
クが取れる広さで、ろう学校の運動場は五十坪にも満たない狭い運動場だ。生徒に
は商業高校の運動場に入るなと教えても子供たちはすぐ前の運動場へ入る。Nは
日頃、ろう学校の生徒に「こら出て行け危ないぞ」と聾学校生徒児童を迫い払って
いた。槍投げ、円盤投げ、砲丸投げ、硬式野球のボールが飛んでくる度に我々も
「戻ってこい」と注意していた。注意しても、ろう学校には遊ぶ場所がない。子供
たちが可愛想だ。県教委は、一度両校の立地条件を実際に見に来て下さい」と申し
述べた。数日後、保健体育課長以下数名が視察に来た。「なるほど事件の背景が良
く解かった」と言って調査団は引揚げた。

 すぐ「要求書」として@門柱を立て「和歌山県立聾学校」の看板を掲げること。
A少なくとも運動会を開催できる広さの運動場を確保すること。B通学バスの運行
に支障の無い道路に拡張すること、を要求した。県教委、聾学校・商業高校の代表
が数回会合を開き聾学校の要求書を検討した、が容易に結論に達しなかった.要求
1の校門について「門柱の右柱に県立襲学校の看板を掲げ、左柱に県立商業学校の看
板を移してはどうか」と提案したが商業学校側は承知しない.結論として門柱を三
本とし一番右の門柱に聾学校の看板を掲げ、真中の門柱に商業高校の看板を掲げる
ことで、双方了解した.これで聾学校の児童生徒は自分の学校の校門を潜って通学
することになり、商業高校の生徒はいつの間にか聾学校と商業高校の校門の中間を
通学することになった。電車道から商業高校の校舎に入るには右と真中の門柱の間
を通るのが自然で真中と左の門柱の間を通ろうと思っても少し迂回することになる。
人間の足は一時は意識的に歩いても、次第に自然の通路を選ぶ物なのだ。最初反対
した商業高校の意見は自然の通学通路に敗北した。要求の2「運動場は絶対現状維持
を保ちたい」と商業高校の強行意見で暗礁に乗り上げた。「では庭球コートにして
いる部分を全部下さい」と申し込んだが「あそこは本校の所有になっているが、和
歌山県庭球連盟が使用権を所有しているので本校の一存で譲渡できない」と言い出
した。県教委は庭球連盟役員に譲渡を申し入れた。「代替地を確保してくれれば了
承する」と連盟の答。県教委は早速商案高校の東南部に代替地を確保して庭球コー
ト四面分の広さの土地を,学校に登記替えを行なった。私は早速「運動場獲得記念
大運動会」開催を提案、全父母に招待状を発送した。勿論、お世話になった方々を
も招待した.N教諭も来貢席に座った。彼は第一の功労者である。「有り難うN君」
私は彼の後姿に感謝の目礼を送った。私の行動は誰一人知らなかった。

6、勤務評定反対闘争

6、勤務評定反対闘争

 1957年文部省は教職員の勤務評定に関する政令を施行した.愛媛県は全国に先が
けて実施、ついで東京も実施。和歌山でも58年に入ると県教委は勤評実施の様子が
出てきた。私は分会役員を数班に分け、各郡市ごとに父母集会を開き勤評の善悪を
訴えた。同年6月3日、県教委は抜き打ちに「勤務評定実施規則と評定書内容」を決
定した。決定理由として教育振興を掲げていた。私は評定書内容を検討して校長と
共に県教委指導課長に面会を申し込んだ.「寮母の評定書が示されていないのは何
故か」「文部省の案にないからだ」「県教委は和歌山県の教育に責任を持たねばな
らないのに文部省試案になければ作らないつもりか」「否、作る。寮母の勤務評定
書は養護数論の評定書を準用せよ」「県教委は養護教諭と寮母の業務をどのように
考えているのか」「それは異なると知っているが準用できないこともなかろう」
「赤チン塗るのと、生活指導を混同するのか」「君たちは評定書を提出しないつも
りで交渉にきたのか」「教育振興に役立つものならぱ提出するが暖味な内容では教
育振興にならない、だから真剣に内容を教えてもらいにきているのだ。本当に特殊
教育振興に役立つと理解したら提出するが、指導課が説明できないインチキな物な
らば提出拒否も己むを得まい」と交渉を打ち切り職場に帰り交渉内容をありのまま
に報告した。職場全員「県教委は無茶苦茶だ」と認識した。3月24日父母集会を開催
「6月5日教職員は一斉休暇闘争に突入する。父母の皆さん児童生徒を連れてお帰り
下さい。子供が校内にいると校長は教員に授業しなさいと命令しなければならない
が、一人も校内にいなければ校長も授業を命じることが出来ません。襲学校では校
長以下一致して子供達を守るため戦っているのです」とお願いをした。父母の中に
地教委の教育委員二名、地教委の教育長一名がおり、それぞれ立ち上がり「勤務評
定は国の政策として実施したものだ。国の政策に反対することに協力はできない、
同盟休校反対」と反対演説を開始した。その時一人の母親が立ち上がり「あのねえ
おっさん!あんたはん、どこか地教委の偉いさんか知らんけど聾学校の先生達が今
まで子供達のためを思って県知事や県教委に交渉した際あんた来たことあるのけ?
平素は奥さんを参加させといて、今日だけ偉そうに反対とはなんちゆうことや。通
学バス獲得の時も運動場獲得の時も、わてらあんたの顔を見たことないぜ」と叫ん
だ。「そうやそや」の声と共に満場の拍手が沸いた。私は地教委の教育長と称する
男の子どもの担任と共に「君のお父さんだけ子供を連れて帰ることに反対している。
5日から三日間君一人学校に残るがそれで良いか。お父さんに「僕一人残るの嫌や
と足へしがみつきなさい」といった。子供は正直です。すぐ父親にしがみついて
「残るの嫌や」と泣き出した。地教委の教育長は「市町村の先生達には勤評は必要
だが、聾学校の先生達には必要ない」と理屈に合わないことを言って我が子を逮れ
て帰った。和教組の三、三、四割の一斉休暇戦術には十制、十制、十制の休暇戦術
を敢行した。その直後、教育予算増額の陳情に知事を訪問した。知事は私たちが着
席すると同時に大声で「俺は今まで障害児教育を重視して少しでも多く盲聾学校へ
予算を回してきた。然るに今回の勤評提出に県立学校で二校だけ未提出というでは
ないか。今後予算は絶対にやらぬからそう思え。勤評未提出とは俺の政治生命に関
わるぞ」と怒り出した。そこで間髪を入れず私は「知事さん、お伺いします。私た
ちは勤評は教育振興めため文部省が実施したと承ってきましたが、今、承りますと
勤評が知事の政冶生命と関わるとのこと、どちらが本当でどちらがインチキかご返
答をお願いします」と質問した。知事は急所を突かれて「否、今のは言い過ぎだ。
勤評は教育振興のため実施したのだ。評定書を出さぬとはけしからん」「いえ決し
て出さないと言ってはおりません。勤評には多くの欠陥がありますので、どう書げ
ば良いのですかと何回も県教委の指導課へ質問に伺ってきましたが、未だまともな
回答がありません。嘘だと思われるなら指導課長にどう指導したか間い合わせて下
さい」「そうか、指導課が説明出来なかったのか」「そうですよ」「教育委員会は
何をしている。して、君たちは何を質問したのかねえ」「盲襲学校には生活指導を
担当している寮母が居ります.学校で教科を教えている教員だけ勤務評定をして障
害児にとって最も重要な生活指導を行なっている寮母の評定書がないのです。それ
で教育振興といわれても私たちは納得出来ません.指導課長は寮母の評定書ばどう
しますかと質問したら養護教諭の評定書を準用しておけとの答でした。怪我の手当
と生活指導を混同されては障害児は可愛そうです。二回目に何うと「ええい、うる
さい。どうでも良いから勝手に書け」という返事です.私たちは教育振興に役立て
ると言うので評定書の内容にも真剣に取り組んでいます。それをどうでも良いから
勝手に書けでは絶対に提出出来ません」「わかった。俺から教委を叱っておく。と
ころで今日は何を陳情にきたのだ?」「知事さん、では要求書の説明をさせていた
だきます1は寄宿舎の環境整備です。両校とも寄宿舎の周囲の水はけが悪いので汚水
が溜まり、臭くて寄宿舎で生活できません。排水路を改造していただきたいのです。
2は便所の子供たちが立つところに横に木を打ち付けてほしいのです。先日も盲児
が足場がわからず便所の中へ足を入れ大変でした。3は盲学校の廊下の板を修繕し
てほしいのです。廊下は走るなと指導していますが、先日も生徒が廊下板を踏み破
って足を捻挫してしまいました.老朽校舎ですから、部分的で結構です。せめて生
徒が怪我をしないで程度に修繕して下さい。4は、………」「わかった県教委から
接接担当者を派遣するから良く相談して子供たちに怪我や病気のないように気をつ
けて呉給え」「承知いたしました本日は色々要求いたしましたが予算がないといわ
ずに予算は知事さんが良心に従い順次査定されるものですから、よろしくお額いい
たします」と言って引き揚げた。
 翌年の教育予算を見ると小中学校費で1・2%の増額、高等学校費で1・5%増額。
盲聾学校費は1・8%増額となっていた。孫子にいわく「攻撃は最大の防御なり」勤
評は自民党と政府が画策した不当文教政策であったが、これを逆に予算獲得に利用
したのである。職場会で「勤謀反対一斉休暇戦術を提案した時、男子教員で一名ス
ト反対を唱えた男がいた。彼は「生長の家」信者で常に私に反対して来た。彼が囲
碁を好きなのを知って私は自費で碁盤と碁石を購入し、昼食休憩時に宿直室て碁を
戦わせた.私と彼は同じ位の腕前て常に「互い先」で打った。碁の最中に勤評反対
の理由を説明したが、彼も強情で容易に了承しなかった。時には勝つ勝負を負けて
やり説得した。彼は最後に、「職場が一斉休暇に入るのなら自分は年休で休む」と
言っ協力してくれた。父母の同盟休校は効果的で、当日県教委は主事に命じてろう
学校の現状調査に来た。主事は児童生徒が一名も居ないことを確認、「これでは校
長も授業をせよと命令できない」と復命した。小中学校で良心的な校長が数名「勤
評不提出jを理由に行政処分を受けたが、盲襲二校長は処分を免れた。孫子に「天ノ
時八地ノ利ニ不如。地ノ利ハ人ノ和ニ不如.」とある。


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7、京屋事件

 1958年6月3日県教委は抜き打ちに勤務評定実施規則を制定した。和教組は事前交
渉て「勤評は双方話し合いで決めよう」との言質をとっていたので、「まさか抜打
ち決定はしないだろう」と思っていた。しかし県教委は約束を破棄して制定したの
である。怒った四者共闘は、当日から「撤回せよ」と交渉を始めた。4日も数百人が
教育庁舎につめかけた。夜に入った。教委側は西山委員一人委員会室に座り、抗議
団の抗議にも質問にも黙秘を続けた。他の教育委員も事務局も誰一人出勤しない。
共開会議も西山委員もだんまりが続いた。私は「局面打開の妙案はないか」と考え
た。「よし課長連中を連れてきて攻撃しよう」と北条書記長に相談したが「課長を
連れてきても局面打開にはならぬ」と取り上げない。致し方なく和歌山市支部の青
年部と相談して「課長達をさがしし出そう」と二班を編成した。一班は和歌浦方面の旅
館を捜索し、一班は市内の旅館を捜索することにした。私は市内を担当した。どこ
から着手して良いやらトンと見当が付かない。このとき私の頭にピンと来たのは
「県教委は和歌山銀行の地下会議室を良く使用する」と言うことであった。 この
年、3月私は県教委学事課から呼び出しを受けた。用件は「山奥の中学校へ異動せ
よ」ということであった.「聾学校から知事や県教委に要求を出す張本人は永田
だ」として「永田をどこか遠方の学校へ追い出せ」と教育長の命令を受けた鍋島学
事課長は、井上課長補佐と大浦人事係長に命じて異動発令を出そうとしていた。
 私は薄々「人事攻撃が来るな」と直感していたので「地方教育行政の組織及び運
営に関する法律[を勉強していた。同法第48条に「市町村立学校教職員を他の市町
村立学校教職員に異動させる場合は本人の承諸を要する」とあり同条第二項に「但
し同一県内に限り本人の承諾を省略することを得」とあるのを捜し出した。この条
項は市町村立学校相互間の人事異動に付いて規定しているが、県立学校から市町村
立学校への異動は常に本人の承諾を要すると解釈すべきだと考えた。それで印鑑を
持ち教育庁へ出かけた。案の定、山奥へ転出を申し渡された。印鑑を見せびらかせ
「これを押したら百年目、決して押しませんよ」と開き直った。大浦も流石人事係
長、他行法の条文を知っていた。二三日後再度の呼出しを受けた。教育庁ではなく
「和歌山銀行地下室へ来い」とあった。そこへ行くと「そこへ記名、捺印して下さ
い」と岩田人事係が「承諸書」用紙を広げた。印鑑は持参していたが捺印をせず紙
を返上した。「やはり駄目ですか」「捺印したら百年目ですからねえ」
と印鑑を見せびらかしながら拒否した。その年の人事異動表には、私の名前は載ら
なかった。このとき県教委と和歌山銀行地下会議室の関係を知った。

 6月4日夜10時すぎ、(*「和教時報」によると、5月27日)私は和歌山銀
行を訪ねた。玄関は勿論閉まっていた。裏へ回ると潜り戸が開いていた。潜り戸を
潜ったところで守衛に「そこから入ってはいけません」と阻止された。「地下の会
議室にうちの課長達来ているでしょう。一寸逢いたいのです。」というと、守衛は
私を教育委員会の誰かと錯覚して「教育庁の課長さん達ならさっきまで地下におら
れましたが、ついさっきここから出て行かれましたよ。」

 「遠くへ行っていない近くだ」と思い、ふと銀行の裏門の斜め右を見た。「京屋
旅館」という看板が目に入った。この族館は自民党代議士正司氏の実姉が経営して
いる旅館だ。県議委の課長たちが隠れるのに格好の場所である。「今晩わ」と玄関
の格子を明けて中にはいると女中が出てきた。「うちの課長達泊めてもらっている
でしよう」というと県教委教の職員とでも思ったのか「はいお泊りいただいており
ます」「誰でもいいから一人呼び出しで下さい」「解かりました」と女中は二階へ
上がった。
 出てきたのは衣笠保健体育課長。階段の中程で私の姿を見るや「何ですか君は」
と七面鳥のように顔色を変えながら叫んだ。「課長何をしている!西山委員が一人
で応対しているに」と怒鳴りつけるとあわてで衣笠課長は二階へ舞い戻った。
「待てよここで頑張っても課長全員出てきたら私一人では捕えようがない』と思い、
旅館をでて公衆電話を探した。銀行の前に公衆電話があったのを思い出したが、そ
こまで行く時間がない。ちょうどそこへ和歌山支部青年部の先生が一人通りかかっ
た。「そこの京屋旅館に県教委の課長連が隠れている。私一人では取り逃がすので
応援を呼んで下さい。県教委に電話して四者共間会議の者を呼び出し、直ちに本町
二丁目・和歌山銀行の裏通りの京屋旅館へ二三十人応援頼むと言ってドさい」と頼
んだ。
 再び京屋に戻ると課長違が玄関の式台まで出てきて将に靴をはこうとしていた。
私は大声で「こら待てえ」と叫びながら大手を拡げた。課長達はあわてて靴を脱ぐ
と、また二階へ上がっていった.暫くするとさっきの青年部の先生も釆てくれた。
二人でも心細い。「早く来い、早く来い応援団よ」と神仏に析った。半時間後応接
団が駆けつけた。百人で旅館の前後を取り囲みlもう逃がすものか」と思い一人で旅
館に入った。表階段の他に裏階段がある。裏階段を上ったところで女将が出てきた。
「もしもし、あなた、住居不法侵入で警察へ訴えますよ」という。「訴えるなら訴
えなさい。ホテルや旅館の廊下は一般道路と同じで誰でも出入り出来ることになっ
ているのを知らないのか。旅館の経営者はそれくらい勉強しておけ」と怒鳴りつけ
た。女将は沈黙して引き下がった。私はすぐ二階の部屋を全部調べ上げ、押入の中
まで点検したが、どこへ消えたのか課長達、誰一人発見できなかった。外に出ると
応接団がひしめいている。ふと見ると東屋の左隣に歯医者がある。旅館の表裏を見
張っていたのだから他へ逃げられない。誰かが「永田先生あの歯医者は京屋の女将
の弟が経営しているのですよ」と教えてくれた。「ははん、課長達は両家の間の潜
り戸を潜り歯医者に逃げたなあ』と思い歯痛の急患を夫婦二組を編成、歯医者の玄
関を「あ痛い痛い。急患です。先生診て下さい」とノックした。一組は甲へ入れた
が歯医者もこちらの作戦を見破り、二組目ば拒否された。
 私は県庁記者クラブへ「おもしろい取材ですよ。本町二丁目裏通りの京屋まで来
て下さい」と電話した。幹事の毎日新聞和歌山支局員が応対にでた。「あなたは誰
ですか」「出水君の同級で永田といいます。和教組執行委員です。「わかりままし
た。各社に連絡してすぐ伺います」で電話が切れた。出水とは私ど箕島商業学校同
期で、その頃毎日新聞和歌山支局に勤務していた男である。待つ間もなく各新聞者
の記者が写真班を運れて京屋に到着した。玄関式台の前には数足の靴が雑然と脱き
措ててあるてある。カメラは一斉に靴を写した。翌日の新聞各紙全国版一面トップ
に五段抜きで「屋根を伝って逃げた県教委」と題して写真が掲載された。教育委員
会の面白丸損れである。共闘会議は交渉を再開した。 軍隊で学んだ作戦要務令綱
領に
「第九 敵ノ意表ニ出ヅルハ機ヲ制シ勝ヲ得ルノ要道ナリ。故ニ旺盛ナル企図心ト
追随ヲ許サザル創意ト神速ナル機動トヲ以テ敵ニ臨ミ常ニ主導ノ位置ニ立チ全軍相
戒メテ厳ニ我軍ノ企図ヲ秘匿シ困難ナル地形及天候ヲモ克服シ疾風迅雷敵ヲシテ之
ニ対応スルノ策ナカラシムルコト緊要ナリ」とあったのを思い出した作戦であった。
「第十一 戦闘ニ於テハ百事簡単ニシテ且精錬ナルモノ能ク成功ヲ期シ得ベシ。典
令ハ此ノ趣旨ニ基キ軍隊訓練上主要ナル原則、法則及制式ヲ示スモノニシテ之カ運
用ノ妙ハーニ其ノ人ニ存ス。固ヨリ妄リニ典則ニ乖(そむく)ベカラズ。又之ニ拘
泥シテ実効ヲ誤ルベカラズ。宜シク工夫ヲ積ミ創意ニ勉メ以テ千差万別ノ状況ニ処
シ之ヲ活用スベシ
{京屋事件ハ将ニ典則応用ノ勝利ナリ}



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8、刑事弾圧反対闘争

 1962年8月下旬、田辺市で和教組定期大会が開催され、執行部は全員田辺の旅館で
宿泊していた。突然侵入してきた警官達は、岩尾執行委員長以下執行部を逮捕した。
同日、真砂町の和教組本部も手入れされ会計書類、会議録など全部押収された。和
歌山地検、県警、県教委は連携して和教組撲滅を狙っていたのである。同年6月4日
午前中、県教組執行委員会が開催され「勤務評定抜き打ち実施抗議を含め一斉休休
暇闘争を組む」という議案を満場一致で可決決定した。更に同日午後開催された県
委員会(和教組の大会に次ぐ決議機関)でも、満場一致て同議案を可決した。県警
は、この日の出席者の名簿を重視した。私は執行委員の一員として出席名簿に記名
していた。当時、和教組は市内から出席した委員には交通費を払わず、日当として
一日30円を支給していた。会計係書記に30円を催促すると、池田書記は「先生は明
日から山形県上山市で開催される日教組定期大会並びに前日開催の各部総会に出席
されるので日教組旅費規定により出発日も日教組から日当が支給されます.従って
執行委員会の日当30円は支給しません」という。「ケチじやのう、では大金を和教
組へ寄付するわ」とつぶやき、執行委員会出席の名前を二本の線で消した。県警は
この出席名簿を唯一の資料として逮捕したので、私は30円受け取らなかったので逮
捕を免れた。
 執行委員会出席者で逮捕され起訴されたがむ無罪判決を受けたものがいる。東牟
裏支部書記長惣坊氏てある。惣坊も出席名簿に名前を書いたが、印鑑は書記次長が
県委員のもまとめた代理印を押して旅費を受け取り支部に帰って皆に分配する習慣
になってたので、裁判長は惣坊自身が旅費を受領したものと認めることが出来ず、
無罪判決となったものである。惣坊は刑事弾圧は免れたが行政弾圧て他の執行委員
とともに免職処分を受けた。県教委は資科不足でも勝手に処分をする。地検は裁判
て勝利すると確信がないと起訴出来ないことが判明した。県警は逮捕した者を和歌
山西警察署、東警察署、海南警察署、岩出警察署、粉河警察署などに分けて留置し
た。私は東警察署の裏に回った。留置場が裏にあること.を知っていた。警察署の
裏は田圃である。田圃に立って大声で「北条頑張れ皆が応援しているぞ」と叫んだ。
すると制服私服の警官がぞろぞろ出てきて私は包囲された。「大声を出すな騒音妨
害た」という。「何をこれが地声だ。拡声器は使用していないぞ。地声を取り締確
まる法律でも出来たのか県条令でも出来たか」「いや、其はまだだ」「其なら俺が
何をしやべろうと又句を言うな」「付近の住民が迷惑する」「ここは田園の真中た
住民などおらぬではないか」「この野郎捕まえる」と誰かが命令するとワ一とばか
りに十数名の警官に捕えられ警察著の玄関まで運行された。「単独行動た。行過ぎ
は控えよう」と考えた。玄関で釈放されたので再度田圃へ行くのを取り止め、帰宅
した。数日後、北条書記長が釈放されて出てきたので「4日の夜の激励は留置場内
まで聞こえたか」と専ねた「うん、よく開こえた、貴様大胆だのう。よくまあ逮捕
されなかったものだ」と呆れていた。
 和教組は執行部が全員逮捕されたので業務が停滞する。そこで第二執行部を編成
することになった。私は第二執行部にも参加した.8月26、27、28日の三日間全員勤
員を指令した。5千人以上の組合員が和歌山に集結した.全員で市内をデモ行進し
た。特に警察著付近てばジグザグデモを展開した。私は先頭に位置して「ワッショ
イ、ワッショイ」とアジッた。警察は大きなマイクて「先生方ジグザグを中止して
真直ぐ歩いて下さい、デモは条令違反です」と制圧を図って来た.私は「何をこの
野郎」と急に腹が立ってきた「街宣車マイクを貸せ」と街頭宣伝車のマイクを借り
「皆さん弾圧に屈ぜず頑張りましょうジグザグテモはデモの常識です。真直ぐ歩い
たらお葬式になります。ジグザグでやりましょう。ワッショイワッショイ」と気合
いを入れた.デモ隊は元気を取り戻し再ぴジグザグを始めた。私もデモ隊に参加し
て「ワッショイ、ワッショイ」を繰り返した.西警察前を終わると東警察署前に回
り同様にデモった.第二執行部では上岡委員長も峰書記長も街頭には出す、デモ隊
の指棒は私と岸青年部長と盲学校の井関先生が担当した。
 9月に入ると毎日警察署長から出頭督促の葉書が来た。「OO日午前九時までに西
警察署まで出頭されたし」と書いてある。私の自宅は東砂山町にあり郵便配達はい
つも午後三時過ぎである。「午前九時に出頭せよという葉書が午後三時過ぎ配達さ
れて、どうして出頭すれば良いのか。これは警察一流の威嚇戦術に違いない」と思
い放置しておいた。二、三日後顧問弁護士から電話があり「打ち合わせに本部に出
頭せよ」という。和教組本部に出てみると井関君にも岸君にも同様の出頭命令書が
来たらしい。中谷弁護士いわく「すでに君たち三人に逮捕状が出ている。出頭拒否
するとすぐ逮捕される。今なら任意出頭に応じたとなり逮捕されない。ここで三人
が逮捕されたら再び抗議デモをやらねばならなくなる。和教組も組合負も疲労困憊
だ。君たち意に反するかも知れないが任意出頭に応じて、黙秘戦術て戦ってくれな
いか。委員長からもお願いだ」と。三人は相談して翌日、西警察署に出頭した。早
速、別々に取調室に入れられた。私の担当刑事は五十過ぎのおとなしい刑事であっ
た。机を隔てて向かい合った刑事の前には調書が置かれ「住所氏名生年月日」を尋
ねてきた。弁護士から「これには正直に答えなさい。答えないと逃亡の恐れありと
され、すぐ逮捕されるから注意しなさい」といわれていたので、間われるままに答
えた。私から雑談として「刑事さんお子さんおりますか」「男子ばかり三人いま
す」「お子さんに刑事の仕事を継がそうと思いますか」「とんでもない刑事なんて。
私一代で終わりにします.靴をすり減らすだけの仕事はもう御免ですよ」「そうで
しょう。私には男一人、女一人子供がおりますが、私は本人が希望すれば教師とい
う職業を継がしますよ。刑事と教師とでは雲泥の相違ですね。さあどこからでも調
べて下さい」
 (私はこれで優位に立ったとうぬぽれた。しかし、これは少々甘かった。刑事の
取り調べは用意周到て質問は要点を突いてきた。)
 「あなたは8月の休み中、家を出たことがありますね」「あります」「そのとき大
勢と一緒に行動しましたね」(そらお出でなすった。)「黙秘」「大勢と行動した
とき、あなたは大勢の列の先頭、真中、後尾のうち先頭に居ましたね」「黙秘」
「この写真はあなたですね」(刑事は一枚の写真を見せた。それは私デモの隊列の
中で汗をふきながら歩いている写具であった)

 「これが私だと刑事さんは言うのですか。」「違いますか。あなたてしょう」
「違いますよ」「違う?あなた自分の顔ぐらい知っているでしょう。」「刑事さん
あなたは自分の顔を知って居ますか」「知っていますよ」「どこて見ましたか」
「毎朝顔を剃るので見ていますよ」「これは不思議。鏡に写っている顔ば左右反対
てしょう。鏡に同かって右目を瞑ってご覧、左目でしょう。人間は自分の顔て見る
ことが出来るのは鼻の先だけですよ、こうしてご覧。」顔をしかめて鼻先に視線を
向けた。「ほらこの先だけしか見えないでしょう。調書を書くのなら書きなさい
『刑事は一枚の写真を被疑者に見せこれはあなたです』と強制したと」「いえ強制
などしていませんよ」
 次に刑事は私が街宣車のマイクで動員者に気合いを入れている写真を見せ「この
写真はあなたがジグザグはデモの常識です。まっすぐ歩くとお葬式になると言いま
したね」と質問しきた。
 「刑事さんあなたは映画の作り方を知って居ますか」「知って居ます」「知って
おれば話が早い。映画は先に写真を撮影影しておいて後でスクリーンに映写しなが
ら、口の動きに一致させて声を出し、これをフイルムの端に線の幅で録画してフイ
ルムを完成する。映画館でこのフイルムを映写機にかけると光電管の作用で声に再
生される。声を出すのに、これだけの苦労が必要だ。警察は普通の写真一枚を見せ
て被疑者に「あなたは、しかじかかくかく」としやべったと強制してもそうはいき
ませんよ」「あなたはいやに詳しいね」「私は軍隊で通信中隊長を勤めていたので、
光電話機という軍事機密の兵器を研究、兵隊達に教育していたから光電管の原理く
らい常識だ。刑事さんも、ここまで詳しくは知らないてしよう」「参りました」

 ここで刑事が交代した。二人目の刑事ば見た目にもペテランらしく「先生、大変
博学だそうですね、この辺て休憩にしましょう、番茶ですがどうぞ」と茶を茶腕に
注ぎ自分も飲みながら私にも勧めてくれた。調度、咽が乾いていたので一気に茶を
飲んだ。
 「刑事さんティッシュありませんか」「ありますよ、ティッシュをどうするので
すか」「見ていて下さい」もらったティッシュを飲み残した茶に浸して、茶腕の上
縁と周囲をふきだした。「それ何をしているのですか」「茶を欽んでそのままにし
ておくと警祭は鑑識に茶腕を回して指紋と血被型を採集するから、それをやられな
いようにこうして指紋と口をつけた箇所を奇麗にしておくのだ」「先生そこまで心
配しなくても結構ですよ」「刑事さん六法全書を貸して下さい」「六法をどうする
のですか」「憲法の基本的人権の条文と刑事訴訟法の条文を見ながら取り調べを受
けたい」「それなら心配要りません。自分はそれらの条文でしたら全部暗記してい
ます。何条と尋ねて下さい。即座に答えますから」「とんでもない、昔から泥棒と
刑事はうそつきの名人といわれている。私が尋ねて刑事が答えた法律を信用して調
書をとられ、裁判であれば虚だったと判明しても後の祭り。犯人にされてしまう。
私は六法の活字以外は信用しないことにしている」「六法はありません」「ほらす
ぐ嘘を言う。先日署長室に来たとき署長の椅子の後ろの書架に刑事関係の法律条令
が入っていたぞ」「先生は署長と知己ですか」「署長は知己ではない。次長なら私
の妹の家の家作人で毎晩貫い風呂に来ているよ」「解かりましたもう一度、探して
きます」
 刑事は席を外して間もなく六法全書を持参した。六法を机上に置き「刑事さん、
ついでに楊枝かマッチを二、三本ください」「楊枝をどうするのですか」「見てい
て下さい」
 私は楊枝を六法に突き刺し一枚一枚紙を捲った。「それ何をしているのですか」
「唾をつけて指で捲れば血液型と指紋を採集されるからねえ。面倒たが楊枝で捲れ
ぱそれを防止出来る。刑事さん、これは証拠隠滅罪に相当しますか」


  (この間、一枚抜けているようです。私がコピーするときにどうかしたのかもし
れません。………雑賀)

落ちた蚊を指した」「蚊たったのか、どうもありがとう」私は「勝った』と心中で
叫んだ。しかし警察から検察庁へ送検された。検察庁から間も無く出頭命令書が郵
送されてきた。中谷弁護土が付き添いで検察庁へ出頭した。流石検事です、要点を
突いて質問してきた。結局「起訴猶予」となった。県教委は「起訴猶予は犯罪事実
が存在したこと明白」として「昇給延伸三カ月」の行政処分を発表した.日教粗の
救援規定が適応され実害は免れた。逮捕された執行部は起訴され、一審判決で有罪
となり高裁、最高裁で無罪を勝ち取った。更に行政処分の「免職」も和解成立で処
分取り消しとなった。もちろん履歴書は汚さずに済んだ。馬鹿を見たのは我々三人
で、昇給延伸は和解の項目から外されたので行政処分はそのままとなり、組歴書を
汚したままとなってしまった。別の職業に就くとき行政罰を受くとかくのが嫌。


作戦要務令綱領第九
 敵ノ意表ニ出ヅルハ機ヲ制シ勝ヲ得ルノ要道ナリ。故ニ旺盛ナル企図心ト追随ヲ
許サザル創意ト神速ナル機動トヲ以テ敵ニ二臨ミ、常ニ主動ノ位置ニ立チ、全軍相
戒メテ厳ニ我ガ軍ノ企図ヲ秘匿シ、困難ニナル地形及天候ヲモ克服シ、疾風迅雷敵
ヲシテ之ニ対応スルノ策ナカラシムルコト緊要ナリ。


作戦要務令綱領第十一
 典命運用ノ妙ハーニ其ノ人ニ存ス。宜シク工夫ヲ積ミ創意ニ勉メ以テ、千差万別
ノ状況ニ処シ之ヲ活用スヘシ。

孫子一九八
「兵有五名一曰(いわく)威強、二日軒 三日剛至 四日食忌 五日重柔(戦いで
は相手の性格を見抜き対応せよ.)1驕慢な相手には軽くあしらえ 2威きり立つ相
手には時間を稼ぎ敵の精力を消耗させよ 3独善的な相手には煽て上げこちらのべ一
スに引き込め 
4食欲な相手には際を見せ相手を引き出し、動きの取れない所へ迫い込め 5見かけ
倒しの相手には軽く脅し反応を見て出てきたら撃滅し出てこなければ包囲繊減すべ
し)
 私の刑事弾圧反対闘争は常に作戦要務令及び孫子を応用した戦いであった。警察
よ、以て冥すべし。願わくば刑事全員に作戦要務令各条文及び孫子の再教育を実施
し、狡猾なる悪人及ぴ凶悪犯人を逮捕し以て善良なる市民を防衛すべし.珂々大笑。