雑賀紀光「海南風土記」その1

ようこそ!
雑賀紀光刊行委員会

雑賀紀光作品刊行委員会は、1997年、「海南風土記」を再刊しました。
ここにその一部を紹介します。本書は、海南市につたわる言い伝えと版画を
あわせたもの。巻頭には、バレリーナや風景画のカラー写真もはいっている。
熊野博にあたって是非お読み下さい。
一部2000円。お買い求めは、黒江塗り物館または、雑賀光夫まで。

          
序のことば    雑賀紀光    刊行にあたって 刊行委員会 第一話 髷怨霊
第二話 地蔵さんのホウソウ 第三話 おかたはん 第四話 十五娘
第五話 刀鍛治 第六話 奈良丸 第七話 紀の国屋文左衛門
第八話 春日の板橋 第九話 大根合戦 第十話 たまいかり
第十一話 のみとり粉 第十二話 わらべ歌 第十三話 奥女中
第十四話 日方船
第十五話 紙すき 第十六話 矢の島の築地
第十七話 天寧寺の花瓶 第十八話 吉宗と亀池 第十九話 岡田
第二十話 カーネイションのヨネモト 第二十一話 墨屋谷 第二十二話 壺中の太子
第二十三話 井戸八百 第二十四話 日疋将軍 第二十五話 百たたき
第二十六話 打上り 第二十七話 いにしえの美人 第二十八話 宗門改め
第二十九話 牧水と海南 第三十話 熊野街道

「歴史と文化・紀光とともに」(作品刊行事業委員会ニュース)より

海南風土記(第31話から70話)

海南風土記(第71話からおわり)未

和歌山民研「月報」紀州お国自慢(和歌山県保険医協会)未

         


緒のことば

 郷土史に載せる程のものではない、と言ってこのまま忘れられてしまうには惜し
いというような話がよくあるものである。新聞にでも書いておけば誰かが覚えてい
てくれるだろうと思って書き出したものが何時の間にやらこんなにたまってしまっ
た。郷里の皆さんの御声援と海南新聞社の犠牲的御努力によってここに一冊の本と
して生まれることになったわけである。
 巻末にラジオや新聞雑誌に発表した原稿や小唄の類までかきあつめて見た。一緒
に御高評頂くためである。
 この稿をかく為に、久世正富先生、森栄俊先生をはじめ岩崎辰次郎氏、服部利一
氏にいろいろ御世話になった外、玉置勇氏から沢山の御蔵書を頂いたことを感謝し
たい。又禅林寺の阿部諦英師及び名手源兵衛氏、笹尾大次郎氏から貴重な古文書、
文献を拝借したことに対しても御礼申上げねばならぬ。更に同級生諸君の御激励は
郷土史の知識に乏しく、文筆の素養のない、又絵を描くことは半ば業とはいえ版画
には全く自信のない私にこの勇を起こしてくれた原動力になった。嬉しく思ってい
る。
 私を育ててくれた郷土、又何時かは自分の骨を埋める郷土への感謝の念切なるも
のがあるが、その一つの印としてこの一冊をふるさとの皆様に捧げる次第である。

東浜の寓居にて   


刊行にあたって

 敗戦後の海南市は日本中がどこでもそうであったように社会が混迷をきわめ、多
くの人びとは郷土の風物の良さや昔の人たちの生きざまなどに心通わす余裕はなか
った。そのような時期に、画家であり郷土史家でもある雑賀紀光先生が地方新聞に
連載をはじめたこの地方の「風土記」は、人びとの心に潤いと希望をもたらすもの
となった。
 作品には、遠い万葉の昔から海南地方を訪れた王侯貴族、武人や文人墨客の物語
り、江戸時代にはこの地に流れ着いた浪人の義侠、藩主に直訴して獄死した義人・
重根屋伊七の史実などが描かれている。明治、大正、昭和の地場産業の興隆に貢献
した人々の奮闘記や市井の片隅で健気に生きた漆器・和傘職人や、百姓、商人、博
打うち、奇人の生きざまが描かれているが、その哀歓は今も私たちの胸を熱くする。
 この「風土記」は、先生が海南だけでなく、生石、高野山麓、さらに和歌浦湾沿
岸の漁村にも足を運び、古老の話や埋もれた伝説、民話、寺社と旧家に残された古
文書を克明に調査された苦労の結晶である。それによって、地域の景勝地の価値が
見直され、古びた寺社、路傍の石仏、朽ちた老樹、山の石、祭礼、裏街道などに正
当な文化的価値と歴史の光を与えたものは少なくない。これらは民族・歴史研究の
うえでも貴重な業績である。
 先生はバイオリンを奏で、プロ顔負けの手品の愛好家でもあった。こうした多彩
な才人だけに文化、芸能にまつわる伝承や人物論はその深い造詣がにじみでて面白
い。いっぽうで銭湯の女風呂に入り込んだ自身の失敗談など、ほほえましい体験逸
話もある。戦後の作品は、海南で発行していた地方紙、とくにサンデー海南、海南
新聞、紀州日報に連載されてきた。その原稿・掲載紙ともほとんど見当たらないの
が現状だが、幸い海南新聞社から出版された『海南風土記』にはその多くが掲載さ
れている。今回はその初版をもとにして刊行することにした。なおほかに、その増
補版である『和歌山海南風土記』、海南市刊行の『海南郷土史』、県保険医協会の
『紀州お国自慢』などにも興味深い話があり、なにかの機会にみなさんの目にふれ
られるようにできればと思っている。
 本著刊行にさいしては先生の旧友、知人、絵の門下生、先生の絵画の愛好者をは
じめ、広範な方々のご助力、ご協力を得た。最後にこうした皆さんに深甚な感謝を
申し上げたい。

一九九七年十一月

                    雑賀紀光作品刊行事業委員会  

第一話 髷怨霊

 日方茶屋浜の石屋の前の広場によく見世物小屋が立った。大正半ばの頃であった
ろうか、娘剣舞が来て連日大入満員、白虎隊から熊谷直実等時代物に非常に人気を
呼んだ。
 丁度三日目の夜だった。時は丑三つ頃、小屋の横手の柳の老木もぐったり枝を垂
れていたが、その時「キャッ!」という声が小屋の寝室に起った。

 「ガクリと髷の落ちかかった浴衣姿の亡霊が枕もとに立って居た」と言うのであ
る。これを見てさけんだのは女剣戟師の一人であるが、その声に目をさませてこの
亡霊を見た者は幾人かあった。
 この所は元港であって芦が生えていた。その芦の中へ丸まげを切られ首をしめら
れた女が投げ込まれていたという事件があり、その女の怨霊が出て来たわけである。
旅役者は縁起をかつぐものである。早速、翌日永正寺でその亡霊の為に施餓鬼を執
行して霊をなぐさめた。以来、今日に至るまでここに幽霊が出た話をきかない。

第二話 地蔵さんのホウソウ

 明治の中頃、海南中の線香が一時に売り切れてしまったことがあった。
「この辺にえらいホウソウがはやる」と専らうわさが立って大騒ぎ、人々は地蔵さ
んに線香を立てて日参をした。話はこうである。小中の地蔵さんが一晩の中に顔中
に一ぱいホウソウのあとが出来たというのである。地蔵さんは身を以て人々に教え
てくれたのだと云って、参詣人が長蛇の列をなした。御利益があってか、一名の罹
患者もなくてすんだ。やっぱり地蔵さんの御加護のお蔭だと更に参詣が続いた。
話しかわってそれより数日前、小中の地蔵さんの頭に鴉が一羽とまった。それを見
た鈴木大固さんが持っていた猟銃で「ズドン」と一発やったのだが、散弾だったか
らたまったものでない。地蔵さんのお顔に一ぱいツブツブの穴をあけてしまった。
大固さんは鈴木家の最後の人で画をかき文にすぐれた人であったが、この失敗は人
に語ることもなく一人で苦笑いして居られた。
 後日友人の服部痴堂氏にそっと話されたそうである。

第三話 おかたはん

 「絶世の美人」とは講談師の美人の形容であるが、明治の中期、絶世の美人が黒
江北の丁に住んでいた。典型的な富士額、四六時中馥郁として得もいわれぬ香りを
放ち、男と生まれたからには一度は会って見たいと笠森のお仙ではないが、室山の
伊勢子山詣に事よせて大野、名高の若い衆は一日、十五日のもん日にはよく北の丁
へぶらつきに来たものであった。彼女は人形のように愛らしかった。

 人々は呼んでおかたはん(女の子がこしらえる人形)と言ったが、その後芸妓と
なってその全盛時代を送った彼女はついこの程老いて亡くなるまで、一日として風
呂をかかしたことはなく、また白粉をていねいにつけ、水もしたたる日本髪に結っ
ていたが、その髪から流れ出る甘い丁字油の芳香は幾人の男を悩殺させたか知れな
い。
 その頃は美人といえば京女。京の祇園の市子、近勇、万龍と云えば仲々鳴らして
いたものだが、おかたはんには比べものにならなかったと粋人達は云う。

第四話 十五娘

 冷水浦の道場に年の頃は十五位、白の十字絣に浅黄繻子の帯を締めた女があらわ
れた。泥ぬまに立つ白さぎか、高く輝く芙蓉の花か。当時の巡錫せられた本願寺第
八世の蓮如上人のお説教を聞きに来たのである。
 人々の目は一様に彼女の方にそそがれた。が誰一人として彼女の素性を知るもの
はなかった。お説教は幾夜も続いたが、彼女は何方からか現われ又何方へとなく消
えて行くのであった。
 人々はこの女の話題で持ち切った。遂にそのあとを追跡しようということになり、
村はずれの一本松(紀勢線第四トンネルの所)まで来たが、姿がかき消すようにき
えてしまった。すると一匹の大蛇がざぶんと海に飛び込み北へ北へと泳いで行った。
その後それは船尾山の寒谷の大蛇が毎夜海を渡って上人のお説教を聞く為に女に化
身してやって来たということが分かった。
 それからはその松を十五の娘が姿を消したというので十五の松と呼び、その辺の
地名を十五と呼んでいる(乞う、海南市の地図参照)
ページはじめにもどります

第五話 刀鍛治

 黒江室山のお燈明のそばに刀鍛治の居たのは江戸も終わりに近い頃であった。
関孫六、兼門七流、兼元の子、大国斉源金光と申し三本杉の見事な刀を打っていた。
金光は本名を浅野新之助と云い親の代には紀州公の抱えの刀鍛治。孫六、兼元の流
を受けついだ金光は草深い室山に引込んでいるには惜しい刀鍛治であった。慶応三
年八月彼は菊池海荘の居合の刀を打った。背には不動の剣形を刻み片方に万歳楽、
他方には大国正彦と刻んでいる。彼は大国主命の信者であった。今海南市内に彼の
打った刀は相当残っている筈であるが、銘の周囲に桧垣のやすり(関孫六一派が好
んで用いたやすりの紋様)を入れているのですぐ判明される。

 源金光の刀打ちの秘伝は明治に至って殆んど絶えてしまったが只一人服部利一
(痴堂と号し現在笠松病院の東隣に住んでいる)がそれを伝えているのみである。
又彼の傑作刃渡り二尺四寸の銘刀「黒龍」が東浜の某家に秘蔵されているが、元治
元年六月南紀大国斉源金光と銘が入っているから、今から九十三年前の作品で最も
油の乗り切った時のものである。



第六話 奈良丸

 「炭田!一つたのむぞ」雨の日の体操の時間は、少年炭田嘉一郎の浪花節がはじ
まる。紅顔の美少年のどこからこんな声が出るのか隣近所の教室もしばし鳴りをひ
そめて彼の声に聞き入るのであった。黒江北の丁、炭田菊松氏の二男に生まれ、間
もなく母が病死した為、伯父清水安吉氏に養われた。
 小学校に入り間もなく浪曲に興味を持ち、末広座、朝日座にかかる浪花節はかか
したことのないという変りもの。しかし成績もよく級友からも尊敬されていた。担
任の中井孝之先生や山形先生はこれはきっと日本一の浪曲師になると見込んだ。小
学校六年の夏、吉田奈良丸(二代目)の弟子入りをし克苦勉励、昭和四年三代奈良
丸を襲名した。爾来春秋の大会には新作を発表し、その名調によって満天下の浪曲
ファンを魅了した。義士銘々伝、勧進帳など芸のうまさと巾のある美音で胸に喰い
こむものがある。

第七話 紀の国屋文左衛門

 伊勢の志摩、鳥羽浦の網引音頭に「ヤーレ沖の暗いのに白帆が見えるあれは紀の
国ヤレコリャドッコイ蜜柑船」と言うのがある。いまではこの歌は全国的にひろま
って誰知らぬ人はない。紀州蜜柑に運命かけて下津は方の浜に船出した紀の国屋文
左衛門と逆巻く激浪の中を疾走する白帆、鳥羽浦の人々は、これは八大龍王の御座
船だろうと手を合わせて拝んだが後に文左衛門の蜜柑船と分り、歌い出したのがこ
の音頭である。
 江戸強行を決心し、千石船の破れたのを買い取り修理したが、船夫がない。
給金百両出すことにしてやっと集った十五、六人、何れも死を決しての白装束、文
左衛門は自分のマゲを切って片浜の海中に投じ、トモヅナを断った。
 一カ月はかかる海上を六日間で走り、品川の港についた。忽ち六千余箱を売り捌
いて五万両の利益を得た。豪商紀文を記念して今下津、方の浜には船出の地として
記念碑が立てられている。

第八話 春日の板橋

 日方川が雨の為に氾濫することが度々あった。
 大宝元年、元慶二年、明治に入ってからも十四年九月から四十三年五月の間に七
回も水害を生じている。その中でも明治三十六年七月八日の風水害は誠に言語に絶
するはげしさであった。
 カロリン群島から北上した台風がまともに紀伊半島に上陸、海南でも大暴れにあ
ばれて遂に春日神社西の鳥居前の板橋を押し流してしまった。其の後和歌の魚屋が
日方の下橋でこの板を拾い、近所の別荘へ扁額用に売ったのであった。ところが夜
な夜なこの板橋が泣き出すというので評判になり、その泣き声を聞いて見ると「春
日へ帰りたい」というのである。神のたたりを恐れてこの橋板は間もなく大野中の
春日神社に返納された。
 同神社ではこの橋板の縁起を木村見山先生に頼んでその表面にかきつけて貰い、
社宝として拝殿にかざっているが、その後この板をけずって煎じると小児の夜泣き
によく利くというので、われもわれもと削りに行ったと云う。額の裏面に沢山の傷
がついているのはその為である。

第九話 大根合戦

 日方の木地由さんの所蔵の中に中谷紀山さんの描いた大根合戦の軸がある。考証
は服部利一さんでエジャナイカ騒動の一断片として誠に面白い記録である。

江戸末期は丁度終戦後の様に何か落付きのない不安な時代であった。何をやっても
エジャナイカエジャナイカとおさめてしまう。打ち続く飢饉で食糧も不足したせい
か、他人の家に這入って行って櫃の中の飯を食う位平気であった。段々と隊伍を組
んでエジャナイカエジャナイカと方々荒し廻った。
 その頃加茂谷から藤白坂を越えて大根をかついで来た百姓があった。赤土に栽培
した大根は格別うまい。彼は少し荷が過ぎる位担って藤白神社の鳥居のところまで
来た時に運悪くエジャナイカ組に見つかってしまった。彼等は少女の足の様にふっ
くらと伸びた大根を見るやいなや、忽ちにしてこれを奪い取ってしまった。

 百姓はトマトの様に赤くなって怒った。「何をしよる」と奪いかえす。また奪い
取る。大根で頭をこつく、ここに大合戦が起った。衆寡敵せず、百姓は遂にヘトヘ
トになって茫然と立っていた。エジャナイカ組の連中はその大根を両手に持って境
内で踊り出した。その格好が誠におかしく、百姓も遂に苦笑いをしながら残った大
根を持って一緒に踊っていたと云う。

第十話 たまいかり

 「相撲にや負けても怪我さえしなきゃよ。晩にやあたしが負けてやる」
相撲甚句に手拍子合せて若い衆達は今日の勝角力を祝っている。本日の主勲功は佐
太郎である。中言神社の秋祭りはもうそろそろ寒い。しかしこれ位の寒さは何事ぞ。
連日の稽古が実って今日の優勝となったのである。
 大正八年十一月一日、この日こそ佐太郎玉碇関の記念すべき日である。たまたま
来会した加茂村の関取、紀の川氏は彼の体格と力量にぞっこんほれ込み常陸山改め
出羽海に紹介、同氏の部屋に弟子入りしたのである。
 家業の運送業をおさらばして孜々として勉励、大錦関の薫陶をうけ一躍東京角力
の前頭筆頭に昇進した。
 彼の大成には又大野里関も預って力があった。一面、弟子の養成にもよく力をつ
くし、千葉錦、能登乃海ら三四人の有能力士を育てている。
 大正末期、川口さんの骨折で東京角力海南に来る。若椿さんをはじめ荒馬さん、
白藤さん等郷里の角力の専門家達は玉碇関の錦を着て郷里に帰る日を歓び迎えた。
幾十本と云う幟が秋風にはためいていた。

第十一話 のみとり粉



日本の蚊取線香の発祥は海南である。明治初年、黒江室山の笹尾長右衛門は製蝋の
傍、のみとり粉を作って全国に売っていた。蝋燭の方も原料の木蝋を豊後から仕入
れ、当郡製蝋組合長をつとめていた。其の頃有田郡の製蝋組合長は上山英一郎で、
組合長会議等でよく一緒に顔を合わせ親しい間柄であったので、ノミトリ粉の製造
販売をすすめて見た。
上山氏は大いに乗気になり有田に除虫菊栽培をはじめたのが今日の「金鳥かとり線
香」のはじまりである。岩崎辰次郎さんのお話では明治十八年、上山英一郎が福沢
諭吉の宅で米人H・F・アーモアーから除虫菊の効用を聞き種子を取よせ、黒江室
山の笹尾農園に試植したと云われているが、何れにしても笹尾さんがそのはじまり
であることには間違いはない。

第十二話 わらべ歌



「あの嫁さんエエけども、帯の下へ店出して、人参やゴンボやよう売れる」こんな
低俗な歌から「一つ日限の地蔵さま、聖徳太子のノミのあと…」のような数え歌ま
で数々のわらべ歌が海南地方に残っている。現在のようにレコードやラジオが普及
するともう地方のわらべ歌と云うものは次第に姿を消していくのでなかろうか。
子供等がカクレンボをする時に必ず「藤岡のコンペント」と何回か繰返す「一二三
四五六七八九十」と数えるかわりである。名高方面では「娘いかんか、もらいに来
たら、町の九丁目の傘屋から」と云う民謡がある。
又街道の両側にずらりとならんで「子買おう、子買おう、どの子ほしけりゃ、トシ
ちゃんちゅう子ほしよ」と唄ってあそぶ遊戯が全市にあるが、これはこの頃やるゼ
スチュア遊びの一種である。手毬歌では「トントンお寺の道成寺、釣鐘落として身
をかくし、安珍清姫蛇にばけテンコロ」などが一般的で、子守歌では「ねんねん子
守はどこへいた、あの山越えて里へいたー」が素朴なメロディーでうたわれている。
歌詞は全国的にある子守唄「坊やよい子だー」にやや似かよっている。
大人の歌では、お舟歌、幟上げ、臼ひき音頭など沢山あるが、これは又、稿をあら
ためることにしよう。
わらべ歌を聞くと誰もが子供の頃の哀愁が胸によみがえって来て、母のふところに
いだかれるおもいがする。

第十三話 奥女中


海南市で一番大きい庭園は温山荘、次は玉置氏庭園、第三は藤白の中野氏庭園とい
うことになる。中野氏庭園の池の鯉は誠に見事であるが、それにもまして庭から見
る藤白山の背景は素晴しい。殊に近くつき出している比丘尼山の風情は絶佳である。

ここで比丘尼山の由来を書くことにしよう。
紀州の殿様に仕えた奥女中側室達は殿様が死ぬと位牌を賜り、剃髪をさせられ比丘
尼となってこの山に籠り余生を送らねばならなかった。しかも品行についてはその
監視極めてきびしく、社寺への参詣以外、他家への出入りは一切禁じられていた。
燃える性の悩みは如何にして解決したかはここに書くことをはばかる。
この山は熊野妙法山になぞらえ諸国の比丘尼此の所に集まり盛んであったが、戦乱
により荒廃し元禄年間有田屋浜を開いた有田屋新九郎(上野山ともいう)が一宇を
建て菩提所とした。今は荒れるにまかせ只見事な地蔵尊だけが松の木蔭に立ってい
るが、元文五年八代将軍吉宗時代のものである。

第十四話 日方船



日方の柿本神社にお参りすると先ず入口に大きい模型船の奉納されたのが目につく。
正徳五年、日方の橋爪伴助さんの先祖が奉獻されたものである。その頃橋爪さんの
持船明栄丸、明神丸、明力丸は海南市の物産を積んで江戸は勿論長州萩あたりまで
出かけて行った。久世先生の研究によると柿本神社の絵馬中船を描いたもの八面、
年号は宝歴、安永、文化となっているから一五〇年乃至二〇〇年前の日方浦の海運
の盛況を物語っている。この頃一方黒江港には盛んに伊予船が入港して来た。特産
の伊予絣を販売に来たついでに黒江漆器を買って帰り、終りにはそれを全国に販売
するところまで発展して黒江南の浜に伊予問屋が出来た。
漆器組合の冷水清一さんが今の研究をすすめられているが、近くすばらしい資料が
発見されることと思う。黒江信用金庫の前の古松や金比羅大権現とかいた灯籠は黒
江港盛んなりし頃の遺物である。

第十五話 紙すき

大正年間、大野は山田川の清流に素足をひたして紙素を晒している三人の娘っ子が
あった。あさ枝、いち枝、今枝と呼び仲々の働きもので器量もよく町の青年達はよ
くそこへ遊びに来た。
日方、名高の和傘はもとより黒江の塗物を包む為にも強い和紙が必要である。その
紙は有田の清水を中心とする保田紙、古沢や河根ですかれる高野紙が用いられてい
た。
・三田の佐太夫はよい子を持って、おいま大蔵に、おすまは遠井に、おたけは湯川
の上様にという俗謡があるがこれは承応の頃、山保田荘笠松佐太夫が紙の製造の秘
法をさぐるため三人の好男子を小間物屋に仕立て本場の吉野郡に派遣し、紙すき女
を手に入れ三組の若夫婦を作った。この三夫婦を三カ所に配して紙の製法を伝えさ
せたのであるが、これにならって日方の和紙商玉井近之亟は山の保田から三人の美
しい紙漉き女をつれて来て海南の地にこの業をはじめたのであった。この保田紙も
新しく出来た新保田紙に押され衰微の一途をたどり久野原、清水、三田の三カ字に
数える程になっていたが、最近は紙やすり(サンド・ペーパー)用として注文殺到
し需要に応じ切れない有様である。

第十六話 矢の島の築地


黒江の古老に富村清吉という人がいる。隅田市長さんの宅のそばに住んでおられる
が、清吉老は陸奥宗光の親類に当り元は宗光の家によく出入りしていたという。
清吉さんは記憶のよい人で明治初年に歌ったこの地方の俗謡は大てい覚えているが、
そのなかにこんなのがある。「妹背四郎九郎と犬のような名をつけ与兵衛おだてり
ゃ磯をつく」これは当時の失業対策の一人がふとした不平から作った唄で当時の先
覚者妹背氏や慈善家の与兵衛さんの悪口を言っているのでこの男は遂にこの地に居
ることができず姿を消してしまったらしい。
この事について更に精しく述べてみよう。
宝永年間富士山が大爆発を起し、紀州に大津浪があった。そして今の第一中学校か
ら温山荘へかけての一帯は多大の被害を受けた。琴の浦のひょうたん山は矢の島と
も称し矢竹が繁茂していたのであるが、それも悉く枯れてしまった。その時妹背氏
(次郎四郎)はこの地を川幡六兵衛氏から譲りうけ築地工事をはじめたが、完成す
るに至らなかった。其の後黒江地方に不景気が起った際(九十年前)那賀郡の名手
から移住して来た名手屋という人が救済の目的で土工をおこし築地を完成したので
あるが、その時の総監督は清水屋の曽祖父、与兵衛という人で慈しみの心の深い人
格者であったと云う。
大正元年この地は更に新田長次郎氏に買いとられ現在の温山荘園が出来たわけであ
る。

第十七話 天寧寺の花瓶

天寧寺というとあまり知られていないが、藤白のお大師様といえば知らぬ人はない。
野上、安原は言うに及ばず有田方面にまでその信者をもって旧暦三月二十一日の春
の会式は大変な人出であった。
場所は丁度日限さんと背中合わせで小栗ケ丘の中途から東に入るわけである。この
寺はもと稲井与兵衛の持庵で雲傍庵といっていたのを享保年間(二五〇年前)僧天
寿によって天寧寺と名づけられたのであったが、其の後新正氏(海南市教育長の新
正秀楠氏の祖)がそのあとを受けついだ。珍らしく黄檗宗の寺で、現在は和歌山市
の本寺に統合されてしまっている。
稲井家は大野十番頭の一、稲井因幡守と称し、鳥居浦の旧家であるが、紀州公の愛
顧をうけその時拝領した偕楽園お庭焼の名器がなんとこの寺のすのこ下から泥にま
みれて出て来たのである。海南高校湯川教授の鑑定で正統偕楽園製の逸品であると
折紙がつけられた。
新正秀楠氏はこれを虎の子のように大切にし、一時は毎日のように道具屋が押しか
け値をせり上げたが、どうしても手放さなかった。そのお陰で海南市に今貴重な焼
き物の一つがあるわけである。

第十八話 吉宗と亀池

宝永七年四月二十日馬のいななき蹄の響きが青葉の梢をつつんだ。徳川吉宗公のお
成りである。亀池の工事が終って晴れの水張りの日、井沢弥惣兵衛その妻菊感激の
表彰を受けたのであった。
正月十六日から始まって四月二十日に完成という突貫工事、働いた人夫延五万五千
人工費銀七十一貫、池の面積十町歩、深さ八間というでっかいもので、当時は紀州
第一と称した。水は低い方へ流れるのが道理、それに亀池は流れ込む川よりも水位
が高い、又風が吹いても波が立たぬ。楠の赤味の大樋など七つの不思議を秘めて今
は県立公園に編入された西念寺という名刹を抱え、東畑の梅林又近く紀州の十和田
湖といった感じであった。

第十九話 岡田



奈良時代の霊異記(りよういき)に岡田の村主(すぐり)の話が出ている。ある時
安原の薬勝寺に一匹の斑牛が紛れ込んで来た。持主がわからないので寺ではそのま
ま飼って使っていたのであるが、その頃岡田の村主が夢を見た。それは岡田に石人
(いわびと)という人があり、酒を作りに薬勝寺から米を借り返えさない中に病気
で死んでしまった。
彼はその償いをする為に一匹の牛に化身して薬勝寺に奉仕したのであるが、寺では
あまり酷使するのでほとほとこぼしているという夢だった。翌日村主は寺に行って
その話をつげた所、正にその通り和尚はその非を詫び牛の為法華経をあげ、その為
牛になった石人は無事極楽往生したという。
(岡田、教法寺、森栄俊氏談による)


第二十話 カーネイションのヨネモト


第二十話 カーネイションのヨネモト
海南市大野中は蓮華寺を少し東へ行ったところに仲のよい二人の少年が居た。大正
二、三年頃であったか、漸く野上電車の布設工事がはじめられた時分で、その頃空
気銃は誠に珍しかった。
ところでこの少年の一人が和歌山で空気銃を買って貰って、友に見せ、引きがねを
引いた拍子に弾丸が他の少年の眼瞼にあたったのである。さあ大変眼がつぶれるの
ではないかと心配したが、銃は安物であったのと、あたり所がよかったので大分は
れ上ったが、奇蹟的に異状なくすんだ。このタマのあてられた少年は米元次一郎さ
んであった。
その後米元さんはアメリカに渡って花壇を営み専らカーネイションを作った。この
花は元々フランスのものであるが、ギリシャ語のコロナイ(花冠)から来て、頭を
飾るのに用いられたといわれ、アメリカ人は非常にこの花を好んだ。在来エンチャ
ントレス種だけしか優良なものがなかったのを米元さんが苦心を重ね次々と数十種
の新種を作りカーネイションの米元といえばアメリカで誰一人知らぬ人がいないと
いう程有名になってしまった。
数年前久し振りに渡米されたが、アメリカ一流新聞は「ヨネモト帰る」と大きく書
き上げ喜んだという。
日本園芸界でカーネイションで誇り得る人は土倉龍次郎であるが、アメリカ園芸界
ではヨネモトであるという。クレオパトラの鼻が一センチひくかったら世界の地図
の色が変わっていたかも知れないように米元さんに空気銃のタマの当たりどころが
悪かったら今のカーネイションの色がこんなに美しくなっていなかったかも知れな
い。



第二十一話 墨屋谷



第二十一話 墨屋谷
浜田孝蔵氏は中学生の頃、剣道初段の腕前であった。その頃彼は藤白に住んで居た。
ある日曜日、裏の花畑を耕していた時である。彼は鍬を剣の如く上段に振りかざし、
宮本武蔵気取りでエイッと打ち下ろしたとたん、カチンと鍬の先に手ごたえがあっ
た。さては花咲爺ではないが小判でもと掘り上げて行って見ると、出るは出るはザ
クザクと小判ならぬカワラケが無数に出て来たのである。縄文土器でもなく、かと
いって弥生土器でもない。色々薄黒くよごれている。遂に郷土史家久鬼眞一郎先生
の鑑定を乞うた結果、藤白墨をやいた土器であることがわかった。
墨型を作る木は批把に限られているが、彼の家の近辺に野生の批把が沢山生えてい
るわけも説明された。
奈良の古梅園よりもずっと古くおそらく日本最古の墨であった。藤白墨は能筆で知
られている尊円親王家入木抄に「御稽古には紀州藤代墨、相違あるべからず」と出
ている。外後白河法皇も絶賛遊ばされている。紀伊国名所図会に「藤白のひがしみ
なみに墨屋谷という所にて松煙を焼きて墨を製したりという」とあり。本来のもの
は棕梠皮で握り固め色つやをよくする為に紅を入れて製した。今の紅花墨という墨
はその法をとったものである。幕末の頃からこの墨も中絶し、天保頃新製品を出し
たが、長く続かなかった。最近川久保得三氏を中心としてその再興が考えられてい
る。

第二十二話 壺中の太子


阪井の西念寺に新しい鐘が出来た。それが井島勉博士の設計によるもので、美学的
にも音響学的にも全く素晴らしいものである。
この寺は亀池竣工に関してもゆかり深いが、最近定朝様式の仏像が出て来て大阪美
術館の望月信成氏及び井島博士によって、藤原末期のものであることが確定し、国
宝に申請しようとしている。
しかしそれよりもこの寺を有名にしているのは壺中の太子である。元は浄光寺に壺
の中に入れて聖徳太子御直作尊の像が土中に埋れてあった。それを西念寺に移し貞
享年間堂を建てまつったのが現代のそれで、職人の尊宗が極めて篤い。聖徳太子は
万能インテリ政治家であったが、工芸の神様にもなっている。それで黒江の漆器職
人は一日、十五日の休みには必ずここにお参りすることをかかさなかった。
浄土宗知恩院末寺で本尊は阿弥陀如来、又付近の景勝に加えるに桜樹五〇〇本をも
ってし、大池にまさる大遊園地が計画されている。

第二十三話 井戸八百


「冷水千軒井戸八百」という言葉を西川政七氏から教えてもらったことがある。今
の海南市なれば涎の流れるような話。とにかく往時海南市冷水は大した繁栄振りで
あった。天文年間に明国へ派遣する大船を藤白港(当時はこう言った)に停泊させ
大内氏、細川氏が争ったことがあった。
この港の巨刹了賢寺は本県に於ける浄土真宗草宗の霊場である。今よりおよそ五〇
〇年近く前文明八年蓮如上人が熊野参詣の途中黒江から舟でここに至り、法を説い
たのがはじまりで、其の後三十二年地の利を得ないというので黒江に移され、黒江
御坊が出来たのであった。
毎年三月二十三日より一週間二尊仏の祭があり、なかなかの賑わいである。又湾内
に沖の島という小島がある。温山荘のモータボートで沖の島回遊というのはこの冷
水港の沖の島の事で汽車の窓からもよく見える誠に美しい小島、松の木が一本植え
られ燈籠が立って絵のようである。同地に居た阪口氏が自分の庭から見えるこの小
島に私費でこのアクセサリーを配したと聞くが誠に風情あり、見る者をして愉しま
せてくれる。

第二十四話 日疋将軍

第二十四話 日疋将軍
琴の浦で電車を降りると日疋信亮将軍の頌徳碑が目につく。この頃は観光バスの駐
車場が出来たので、その存在が薄くなった。信亮氏が安政四年十二月朔日、日疋文
七の三男として生れ幼名を常吉と称した。彼はまだ五才の時母に負われて兄の師匠
の塾へ送迎について行く内にいつしか論語、孟子の一章々々を暗記してしまったと
いう。或時下女に負われて取引先の川端六左衛門方に集金に行くと、同家では金を
出し受取証をかくよう言った。
ところが下女は田舎娘でそれを書くことが出来ず困っていると、わしが書くと背中
から五才の常吉が紅葉のような手に筆をにぎって受取証をかいたので、川端家の人
はびっくり。沢山お菓子をほうびに与えた。
今に古老の語り草となっているのに「日疋の三本錐」というのがある。机の前に三
本の錐を立てて居眠りを防いだ彼の精励振りを示している。陸軍主計監少将となり
アメリカにウイルソン大統領と会見し、日方高女昇格に文部大臣鎌田栄吉を説きふ
せ、海南市合併の生みの親として郷党から親しまれ敬まわれた偉人日疋将軍はかく
の如く二葉の頃よりかんばしかったのである。

第二十五話 百たたき

  いつか海南八景が選ばれたことがあった。温山荘秋月冷水浦漁歌等いづれも立派
なものであったが、第九位として惜しくも選に外れたものに日方川新浜仲波止があ
る。春は汐干狩、夏は浴衣の夕涼み、八景以上に市民に愛され親しまれているとこ
ろである。北山のボート屋、中氏のお伽の国の家のような美しい住宅、初音、美登
利と立ちならんでいるが、この辺りは埋立てる以前は日方港への、のど首であった。
海映のそばの大楠は嘉永元年に植えたので今年で百九歳ということになる。それよ
り六〇年遡って寛政の頃、加畑屋治五平の日方船が益んに活躍して居り、又日方港
の外港塩津港には井田氏の倉穀がずらりとならんで日方の且来義はじめ米の大商人
がそこから米を運び入れた。明治になって新浜の築地工事がはじまり下橋(今の日
方小学校の動物園のあたり)に囚人の獄舎があって、毎日赤い着物を着た人々がこ
の大工事に従事した。三十貫、四十貫という石を運ぶことは並大抵のことではない。
力がつきたか、怠けて油をとった者は青竹で尻を百叩かれることになっていた。何
時かの台風に一部破損はしたが、仲々頑丈な仕事をしている。
伏見天皇の御製に |海原や沖漕ぎくれば夕汐の干かたの浦にたづ渡る見ゆ| と
いうのがある。この辺の景色を詠んだ秀歌である。

第二十六話 打上り


  打上りと云うのは魚が浜へ打ち上ることである。
黒江湾はこの打上りが極めて多かった。黒江湾という名は割合に新しく、明治三十
三年五月、紀伊水道の大演習に明治天皇お成りのみぎり命名されたもので、元は黒
牛潟、日方浦、名高浦、冷水、中の浜等とそれぞれの名称で呼ばれていた。ところ
でこの浜は昔から魚類の産卵場になっていて、毎年旧五月、麦のはしかの海面に流
れる頃に鰯の幼魚が太刀魚に追われ浜に上り網袋にはち切れる程とれた。これを打
上りと呼んだ。
この光景を和泉の国大鳥郷船尾村の百姓が熊野参詣の途次眺め大いに感心し、元享
年間に船尾村より大挙黒江の浜に移住して来た。
そしてこの地で漁業をはじめたのである。現在船尾という地名はこれよりおこって
いる。漁具は手操網と地漕網が使用され仲々の盛況であった。しかしそれは長くは
続かなかった。宝永の大津波によって海の様子ががらりとかわり不漁が続いた。藤
白神社の「馬角さん」を舟につんでまわったりしたこともあったが、その御利益も
一時的であった。漁業は藤白から冷水、冷水から塩津へ、更に戸坂へと移っていっ
た。船尾村の人々は漁業をやめ漆器へと転業した。
舟大工達は建設業にかわった。現在黒江小学校の付近に優秀な大工さんの集まって
いるのはその人々の子孫である。


第二十七話 いにしえの美人


海南は美人が多いと云う。それもお国のうぬぼれではなく当地を訪れる有名人士が 口を揃えて讃めるところである。最近では日方の北岡さんがカバーガールとして海 南美人の存在を全国に示した。 昔からの日本女性ミス・ニッポンを審査すると第一位は小野小町第二位は衣通姫 (そとおりひめ)第三位は常盤御前ということになる。その中、衣通姫は和歌浦の 玉津島神社にまつられ、常盤はその子牛若が藤白の鈴木邸に遊んでいるから当地方 に関係がないわけでもない「牛若が目をさましますと常盤いい」。 六条判官為藤の女鶴原姫も美人の聞こえ高い方であったが、熊野堪増に嫁入りする 時藤白の鈴木重邦がその媒酌をした。 尚又大野春日神社に勧請の時供養した面々十人はそれぞれ美男型であった。尾崎、 稲井、井口、坂本、藤田、石倉、中山、田島、三上、宇野辺、この十姓の人々であ るが、今でもこの姓のつく人々に美人が多い。 昔から港々に美人が多いとされているが、日方港、黒江港、藤白港(冷水港)と人 の集まるところに自づと美人が多くなっていったのであろう。 日高郡へ行くと大引男に衣奈女と云って衣奈の浦には美人が多い。近くでは塩津に 美人が多いと云われている。

第二十八話 宗門改め

海南地方におけるキリスト教の信仰は桃山末期から江戸の初期へかけて次第に隆盛
を極めて来た。一方幕府は家光の代になって厳重にこれを禁止した。そして大野、
日方をはじめこの地方のキリスト教信者は悉く仏教に改宗し、褝林寺(真言宗)永
正寺(浄土宗)浄国寺(浄土真宗)というように何れかの寺の檀徒にならなければ
ならなかった。
日方大橋の某氏はこれをこばんだ為和歌山で水牢責めに会った。寺では宗門人別帳
というものを作ってその氏名を幕府に報告し、又これらの人は「若しキリスト教を
信じたる場合体を八ッ裂にされてもかまわない」という意味の誓書をかかされた。
このようにしても人々の信仰は改革されることが出来ない。或は茶の湯の会と称し
てキリストの教徒は相会し庭の灯籠にマリアの像を彫りつけそれを一心に拝み続け
たのである。これは誠によい方法でこうすれば絶対に見つかることはない。これを
考えたのは古田織部でこれを織部灯籠ともマリア灯籠ともいう。
黒江小学校講堂東の小庭の池のそばに立っているのがこのマリア灯籠で石が一部分
なくなっているが、マリアの像だけがはっきりと浮き上がっている。

なおこの程幡川の褝林寺の襖のはり替えをした時、下張りの中から享保九年海草郡
長谷毛原村の村民が黒江へ引越しの際キリシタンでないという庄屋の証明書が出て
来たのも面白い。

第二十九話 牧水と海南


第二十九話 牧水と海南 若山牧水が海南を訪れたのは大正七年の夏だった。 ・一の札所第二の札所の紀の国の番の御寺をいざ巡りてむ・ 酒と旅の歌人、牧水が懐中一文なしになって野上草男氏(前野鉄社長石本喜十郎) を尋ねてきたのである。「比叡と熊野」の一節に「その頃もう私の路銀は殆どつき かけていた。高野山に登るはずであったがそれすら見合わさざるを得なかった。そ こで最初の予定であるN郡H村(東野上村)のある友人―自分のやっている歌の結 社の友人を訪ねるつもりで黒江行という電車にのりこんだ。中略―それから電車 (野上電車)を待つ三、四十分間は随分また寂しかった。小さなむき出しの待合室 に夕日を受けて腰をかけていると、また種々のことが気になる。ぢっとしていられ ないような焦燥を感じて電車を待った」とある。 海南は歌人が多い。野上草男の外に松尾ぬまを(市教委事務局)日比野道男(元海 南中学教諭)久世正富(串本高校長)の諸氏は全国的に名が通っている。ところで 牧水が野上氏の宅(東野上)で毎日大酒をのむこと数日愈々和歌浦から出船しよう とすると、あいにく大雨が降った。彼は「船出せん今宵なりしを君が宿に残りいて きく雨のさやけさ」と詠んだ。 野上氏は又「大雨はうべこそ降りぬまくまのに船出す君を留む大雨」と詠みかえし、 再び酒をくみかわしたのであった。 紀伊国の歌 鉦々のなにかたたずみ旅人のわれもをろがむ秋の大寺                     |牧水|

第三十話 熊野街道


若山牧水が海南を訪れた時は電車は黒江までしか来ていなかった。彼はそこから人
力車をやとって野上電車までの途中の印象をこうかいている。「電車から降りて車
に乗った。そして通りかかった町は町というよりも宿場というが適当らしい、日方
の町はよそに見ることの出来ないほど古びた特色のある町であった。街路が極めて
狭く、そのうえまがりがちで軒と軒とはほとんど触れ合うばかりに相向い、みな蒼
然たる古色を帯びている。
そして商売は盛んらしく、店頭を見ても行き合う生魚や果物などの呼び売りを見て
もなんとなく活気が見える。こうして見なれぬ場所を通りかかると旅に出ていると
いう心がはっきりと浮かんでくるものがある。そして事ごとに胸はときめく」
黒江―池崎―栄通り―今市屋―出口丁―野上電車、この間の印象をかいたものであ
るが、誠によくうがっている。この中で今市屋までが新熊野街道でそこから龍神街
道になるわけであるが、海南の交通路で一番古い上代の熊野街道はくも池から日限
山の下を通るいわゆる小栗街道で蓮如上人が紀州へ来られた頃(約五〇〇年前)は
紀三井寺から室山、北の丁、八幡谷、日方宮山の北を越し神田で上熊野街道に合す
る道があった。
上人はこの迂回をさけ船路で一路冷水に向われている。牧水の通った街道は江戸期
に出来たものであるが、現在残っている建物で丸瓦のものは多く明治にたてられた
もの、平瓦は大正時代のものである。(カットは宮山からの眺望)

「歴史と文化・紀光とともに」より

歴史と文化・紀光とともに NO,1

みんなで語った紀光さんの集い       紀州漆器伝統産業会館をおかりして       梅田恵以子さんが語る「味な味と紀光」

九月二〇日、黒江の紀州漆器伝統産業会館で「海南の文化と歴史を語りあおら会 …雑賀紀光さんと黒江…」が開かれました。 光彩会の稲井さんが挨拶したあと、梅田恵以子さんが、「味」をキーワードに紀 光さんとのおつきあいについての味わいのある話の口火。それを受けて「紀光を語 り文化を楽しむ夕べ」を楽しみました。

一つに打ち込め・気の早い人

画家としての紀光を語る稲井さんのあと、東條さん(海南市教育委員長)は、教 師時代の思い出を「若い者は一つのことに打ち込め」といわれて自分の「蜘蛛の研 究」になったというはなしを皮切りに、子どもを飽かせない強弱をつけた授業、海 南文化協会のことなど語りました。 ご自身が画家でもある柳さんは、「気の早い人」「おだてるのが上手」「廃材を 利用して教材に」「役につくのがきらいで、絵を描く時間を大事にした」などの思 い出を語りました。

ほめてくれたらうれしく、勤評闘争の時の怖い顔

漆器屋の中山さんは、お父さんと紀光のつきあいを語り、ご自分は生徒として接 した思い出を「絵が下手だと思いこんでいた自分をほめてくれたのは忘れられな い」と語り、お父さんが「勤評闘争のとき、PTA会長として紀光さんと対立する 立場になり、そのときにものすごい怖い顔をしていたのが忘れられない」という趣 旨の思い出を書き残していることを語られました。

ガールスカウト記念誌表紙を語る

ガールスカウトの名手さんが、ガールスカウトの記念誌の表紙にかわいい女の子 の顔をかいてもらったとおもったら、海南市の花などを描き込んでくれていること がわかったこと、原画のバックには、ヤマモモの実をすりつぶした絵の具が使われ たことを紹介。

見事な手品・打越先生わざわざ、 風土記朗読・出版がたのしみ

第二部は文化の夕べ。奇術の県下第一人者、紀光さんにも指導したという打越一 馬さんが友情出演。音楽に合わせた見事な奇術に、目を見張りました。そのあと、 紀光さんの思い出を語りながらの奇術。紀光さんを思い出させて頂きました。 つずいて、黒江小学校の西尾先生が、思い入れたっぷりに「風土記」のいくつか を朗読して下さいました。

バイオリン演奏にうっとり

最後が、バイオリン演奏です。池原事務局長の娘さん・衣美さん。ピアノ伴奏は 中野佐和美さん。紀光さんが奥さんの琴と合奏したという「春の海」。つずいてト ロイメライ・ユーモレスクの名曲にうっとり。 「紀光さんの好きだったバイオリン曲は?」と池原さんから電話があったとき息 子の光夫さんがとっさに答えたのは、「弾きたいとあこがれていたのは、チゴイネ ルワイゼン。バイオリンの先生だった平山先生がカーネギーホールで弾いた話をよ くしていた。自分でも、はじめの一節だけ弾き始めるんだが、そこで止まってしま うんだなあ」

絵はがき・出版物即売会   儀平さんが饅頭「いもいも」さしいれ

会場には、紀光さんのバレリーナ、和歌山城、浄瑠璃寺、裸婦や、大野小学校レ リーフ原画(海南市蔵)、儀平つつみ袋原画、ガールスカウト記念誌原画、裸婦デ ッサン、スケッチブックの習作など展示されました。 また、「紀州風物図絵」ほか、残部わずかという「和歌山海南風土記」(昭和五 十年の増補版)や年賀状につかった印刷はがきが「刊行事業基金にします」として、 販売されました。 うすかわ饅頭で有名な串本「儀平」さんからは、紀光さんの絵が印刷された袋入 りの饅頭「いもいも」の差し入れがあり、みなさんのおみやげにさせていただきま した。

歴史と文化・紀光とともに No.2 1997 9,2

「賛同」「作品登録」次々 「登録第一号」は魚市場社長

新聞(和歌山新報)を見て、お電話をいただいた第一号は、田中栄峰さん(和歌 山魚市場社長)です。 「那智の滝・畳一畳の大きさで終戦後、手に入れました。山本有造元海南市長と 同級です。」という趣旨のお電話をいただきました。

声をかけずにスタートごめんなさい

画廊でお世話になっている方、紀光の作品をつかって工芸品をつくって下さって いる方など、本来、呼びかけ人をお願いしていてもおかしくない方がおられます。 早速、お電話いただきました。声をかけずにスタートしてごめんなさい。

防空壕でダメにした水彩画

九月一日の「企画委員会」には、「ニュースを見ました」といって、協賛金五口 をもって、お二人の方が駆けつけて下さいました。新聞を見てお電話いただいたか たも含めて、「協賛」も数十口になっています。 かけつけていただいた和歌山市・西の庄のMさんは、「昭和十四年四月から十六 年三月まで、和工で「図画」の授業を受けました。当時、校庭の一部でつくったト マトをさしあげたところ、素晴らしいできばえだとおほめいただき、大きな色紙に そのトマトに青いトウガラシを添えて水彩画を下さいましたが、防空壕でダメにし てしまいました。」と添え書きして下さっています。 企画委員一同、「いかにも紀光さんらしいなあ」と話し合いながら、その絵を防 空壕にまで持ち込んで大事にして思い出にして下さっておられることに感動いたし ました。

歴史と文化・紀光とともに No.1 1997 8,18

石田海南市長が救った紀光さんのレリーフ原画 刊行委員会との会見で披露

 刊行委員会メンバー(東條、稲井、玉井、中山、池原、雑賀)が、十二日、石田 海南市長に協力を要請しました。その席で、石田市長は、「海南市で紀光さんの作 品としては、バレリーナとバラの花を所蔵していたが、そのほかに大野小学校建設 の時のレリーフの原画を保管していたのを、教育委員会移転の際、市長みずからが 見つけだして、額縁にいれて大切にしている」ことを披露。刊行委員会メンバーか らは、「さすが市長だ」という声があがりました。市長も「これを見つけたときは、 もうけたと思った」と冗談を言いながら、和やかに話し合いました。市長が見つけ たというレリーフの原画は、東條教育委員長が大野小学校校長当時、紀光さんが頼 まれて描いたというのも何かの因縁でしょうか。紀光さんの従来の画風とは違った 子ども向きの夢のある風景画で、貴重なものです。 刊行委員会として、事業への何らかの応援(たとえば、「出版記念展」への後援、 「市報」での紹介)など要請しました。その後、刊行委員会メンバーは、川久保海 南市教育長を訪問しました。

夢は広がる、紀光記念館に!

事務局長の池原さんは、この席上で「黒江に雑賀紀光記念館ができたらいいなと いう夢を持っているのです。どこかの建物を借りてでも実現したい。油絵、水彩、 墨絵、漆器、包み紙、絵はがき、切手、焼き物、郷土史、随筆、そして教育者とし てなど幅広い紀光さんの実績を、海南市の活性化の力にしたいのです」と語りまし た そのことには「遺作展などは開かないでほしい」と遺言されていた光彩会メンバ ーも異論はありませんでした。

雑賀紀光(さいかきこう)紹介

1912年5月30日 海南市に生まれる 玉井近之丞三男 1993年3月7日 没 和歌山師範専攻科卒・文検合格 和歌山師範・海南高校・和商・和工・海南市内小中 学校に勤務 日本美術家連盟会員   光彩会顧問 海南市文化賞第一回受賞 県展審査員をつとめた 代表作品 梅林(昭和11年第二部展出品、東京・鈴木氏蔵) 海の見える露台(昭和12年文展出品) 瀞峡(フォトバーグ博物館) 紀州の民家(松下幸之助氏蔵) バレリ−ナ連作 版画、郷土絵はがき、切手など 著書 「和歌山海南風土記」(海南新聞社) 「紀州お国自慢」(県保険医協会) 「味な味」(梅田恵以子著)挿し絵 「絵本風土記」(岩崎書店)挿し絵 「紀州風物絵図」(四巻) 「紀の国の歌」(打垣内正作曲集)挿し絵 「紀の万葉抄」挿し絵


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