雑賀雑記帳2(古い原稿から)

ようこそ!

「月報」100号によせて
「教育論についての雑感」について 父・紀光についての雑感

         



         


月報一〇〇号記念によせて


 和教組書記局の私のポストに、「月報一〇〇」を入れてくれていた。例によって
裏返して「一人一話」から。世古淳二さんが、考えさせてくれるエセーを書いてく
れている。問題をとらえる目の確かさを感じながら表を引っ繰り返した。「月報一
〇〇号記念」となって、山田昇先生が寄稿してくれている。読まずばなるまいと、
山田、楠本、岩尾先生の苦労話を読んだ。
 山田先生が書いている「青表紙」(実際は黄緑表紙・国民教育運動特別分科会報
告書)、若い先生は知っているだろうか、一九六〇年代のなかば、御坊小学校の
「学年新聞大地」の実践(「青表紙」には、「この実践を『大地の実践ということ
に矮小化してうけとめてはいけない』という趣旨の総括をしている)、北条先生
(県会議員だった北条先生の兄さん)などの上富田中学校の「モンチを高校に行か
せる会」などの実践、そして私も参加した市立野上中学校の実践など分析されてい
る。時の教文部長は、岡本デンスケ先生であったことも書き添えておいたほうがよ
かろう。暇のある人は、一九八七年の和教組定期大会議案が「たたかいの経過と総
括」の「はじめに」の部分で、この時期の教育運動の評価にきわめて簡潔にではあ
るがふれているので見ておいてほしい。
 山田先生がふれている「青表紙」が「途中でしばらく休んでしまった」のち、や
や性格を変えて「和歌山の教育運動・教育実践」として登場するのは、一九七八年
である。実は、一九八七年度(八八年三月)の「特別分科会」で和教組書記次長で
あったわたしは、飛びいり発言をしていまる。(その発言原稿を、一九八四年の
「月報・三七号」に載せていただいる。わたしは、教育研究活動の発展のためには
「組織教研・自主的な教育サークル・底あげの教育基礎講座・もっとも幅広い学校
での民主的な現職教育」の「四つの研究組織論」を唱えたのだが、あわせてその
「総路線」のまとめの場としての「国民教育運動特別分科会」の意義と「青表紙」
復活を訴えたのだった。その時、山田先生が、研究集会の「まとめ」の中で、「青
表紙復活」を「公約」してくれた。復活した「報告書」に「不満を感じていた人た
ちもいるにちがいない」と山田先生が書いておられる。実は、私は不満を感じ、
「昔みたいな青表紙を」といいつづけてきた一人なのです。(ノスタルジアだろう
か、しかし、碓井先生が中心になって、私の願いをかなえてくれそうだといううわ
さも聞く。)
 楠本先生が、「合宿の夜が『月報』誕生の場」と書いている。あまりお酒を飲ま
ない楠本先生は、夜中まで飲みながら語り合うということはせず、賢く寝てしまっ
たのだが、わたしは山田先生が好きなビールにつきあっていた。「原稿が集まらな
いのなら、私が書いて埋めます。」山田先生の、この一言が、「月報」発行に踏み
切らしたカウンターパンチだった。

 楠本先生は、真面目な完全主義者である。いいかげんなやっつけ仕事は、できな
い性格である。購読者をつのってお金を集めているのに発行がおくれるので書記長
のわたしは焦った。「中身など多少不十分でもいいから、毎月発行できるようにし
てほしい。教研集会のレポートを順番にのせても格好はつくじゃないか」楠本先生
は、ガンとして聞かない。研究者と運動家の違いだろうか。結局、一九八二年が空
白になっているが、一年間発行がとまったのでなく、発行がおくれてズレこんでき
たものを調整し、一年間空白にし、購読料も損をさせないようにしたのである。

 教育研究所事務局長・楠本先生と岩尾先生とのつなぎの時期、わたしがやっつけ
仕事で誤魔化した号がありる。「三四号」の湯浅教育調査特集、「三五号」の若い
先生におくる教育の手がかり、「三六号」の風の子共同保育所のとりくみなど。わ
たしのやっつけ仕事にもかかわらず素材の立派さで救われている。「教育の手がか
り」は、「和教時報」に白井春樹先生が集めた「三人の先生は語る」という特集を
転載したもの。教育実践家の白井先生は、和教組常任になり情宣を担当すると、
「和教時報」の紙面の半分を教育実践の紹介で埋めてしまった。書記長のわたしは、
それにクレームをつけ「紙面のバランスを考えろ。組合の機関紙というのは、駅弁
みたいにすこしづついろんな分野のことが書かれていなくてはならないんだ」とい
ったのですが、白井先生が集めてくれた教育実践はすてきなものでした。その次の
号も、白井先生夫妻が全国教研に参加するのに作ったレポートをそのまま載せさせ
てもらいました。

 「五五号」の「四つのテーブルのシンフォニー」も、わたしの請負作品です。
「光協会」(森永ヒソミルク被害者救済組織)の二〇周年集会に参加して感激して
しまったわたしは、そこで発言した人たちをつかまえて、「今日の発言を文章にし
てくれ。」とたのんでまわったのです。そして岩尾先生におねがいして作らせても
らったのがこの特集です。
 教育研究所の「月報」に、和教組書記長がこんなに口出しすることは良くありま
せん。「月報」が軌道にのる過渡期だったから許されるでしょうか。教師の仕事を
まともにできないまま組合専従になってしまったわたしにとっては、こんなかたち
で教育にかかわることができたのは幸せなことでした。

   (月報一〇〇号を手にした日に書いたもの・後になってワープロのフロッピー 
  を整理していたら出てきたので多少手直し・和教組副委員長・雑賀光夫)
         


「教育論についての雑感」を読んで


教育の階級性をめぐって
(1)「教育論について」というレポートを読み、10数年前の問題意識を思いだし
ました。北又先生が和教組委員長をしていて、わたしは支部書記長だった頃、北
又先生に学習会の講師をお願いしました。
 「社会発展史を教育論や同和教育の問題と関連させて話して下さい」というの
が、私の注文でした。その抗議の中で、北又先生が、教育を「上部構造」として
話されたことに疑問を提出したことがあります。
(2)わたしの意見は、つぎのようなことでした。
 @「教育の階級性」という問題と「読み・書き・計算」など基礎学力の関係は
 どうか。
 Aこの問題を考える上で、そもそも教育とは何かを根元的に考えよう。
  そもそも、原始時代にあっては、労働と教育は分化していなかった。子供は
  おとなとともに狩りについていき、田植を手伝いしながら、労働の仕方を学
 んだ。
 B社会の発展および階級分化のなかで、教育が労働から分化する。
  その際、支配階級の教育の中心が生産にではなく、イデオロギー教育におか 
  れたことに注目する必要がある。(中国の論語・ギリシャの哲学)他方、庶 
  民の教育機関の典型とされる寺小屋の教育の中心が「読み・書き・そろばん」
 であったことにも注目しておこう。もちろん、両者の区別は相対的であり、支
  配階級の教師であったアリストテレスは科学者であったし、寺小屋でも忠孝の
  道徳はおしえられたであろう。
 C現代の教育とは、こうした二つの側面をあわせ受け継いでいると言えるので 
  はないか。二つの側面を「生産力発展の科学教育」と「階級支配のためのイ
  デオロギー教育」と簡単に特徴づけることもできる。
 Dところで「上部構造」という問題はどうか。
  この問題を考えるヒントになったのは、そのころ「文化評論」が特集した「自
  然科学に階級性があるのか」という論争であった。「ある」という論者、「な
  い」とする論者、蔵原惟人氏は「うすい」という折衷論であったように記
  憶するが、そのなかで芝田進午氏が「科学は上部構造だと入門書に解説してい
  るが、それでいいのか」と問題を提起した。氏は資本論を引用しつつ「マルク
  スは、科学を『普遍的生産力』と呼んでいる」と論じた。
  この論点は、教育を考える上でも参考になると思った。原始時代の労働と未 
  分化の教育などというこの立論のヒントになったのは、芝田氏の科学論である。
   教育を単純に「上部構造」とは言い切れない。「上部構造」に属する側面 
  と、生産力に関連する側面をもっているというのが、わたしの考えである。

(3)その後、いくつかの文献にぶつかるたびに、自分の問題意識と突き合わせて検 
 討してみた。
 @小川太郎「教育と陶冶の理論」(著作集第一巻)
  小川氏の論点は、生産関係を反映した教育と生産力発展の教育という区別を 
 しており、わたしの考えと一致しているように見えるが、「教育に上部構造  
 に属する部分と属しない部分がある」とする海後勝雄氏の見解を批判してもお
 られる。もうすこし綿密に検討してみたい。
 A小林栄三「日本共産党の教育政策とマルクス・レーニン主義の教育論」
  (「科学的社会主義と民主教育」所収)
  「マルクスは、教育を社会の上部構造と関連させていただけだけでなく、社会 
 の生産、ことに労働と関連させていたのです。」
  小林氏は、「上部構造に属する」という表現でなく「関連させて」という慎重
 な表現を使っているが、わたしの見解と一致しているとみていいのだろうか。

                            (1990年雑文というファイルにあった)

         


父・紀光についての雑感


                          (一)
 わたしの父は、雑賀紀光という絵かきである。紀光の子であることを知ると、
ひとはわたしに「あなたも絵をかくんですか」ときく。全くダメである。中学
時代、美術の先生がわたしを呼んだ。
 「雑賀、作品がでていないぞ。やりかけがあれぱ仕上げて出せ」
苦手な美術の作品提出の催促など、無視したいところだったが、絵の教師の子
にあんまりな点もつけにくいという先生の立場も考えて、しわくちゃやにした作
品をひっぱり出し提出したことがある。
 わたしは「絵かきの紀光さんの息子で」と紹介されるのがいやであった。三○
代になっても、父のワクよりずっとせまいところにいることを思い知らされる。
 あるとき、北又前和教組委員長から、農民組合の委員長にひきあわせていた
だいた。
 「この人は絵かきの紀光さんの息子で…」「雑質さんというと、もしかしたたら
海南の教員組合にいた方では………」わたしは大得意になった。「どんなもんだ。
おやじを知らんでも、ぼくを知っている人がいるんだ」と。 
                            (二)
 父の絵は、だれにもわかりやすい絵てある。いわゆる「芸術家」型でなく「職
人」型の絵である。
 このことについて父が、ふともらしたことがある。「ミケランジェロも、ダビ
ンチも職人だった。時代のたかまりの頂上にいる職人だった」と。
 凡人の父とミケランジェロを比べるのではないが、「○○○も職人だった」と
いうところが、なぜか今も心にのこっている。
 きのう、こんなことばをみつけた。「もし私が遠くを見たとすれば、それは巨人
の肩の上にのっかってみたのだ」(ニユートン)。高田求さんの「未来をきりひら
く保育観」という本の中である。
 ふと、こんなことを考えた。「すばらしい教育実践にとりくんでいる一人ひと
りの仲間たちも『教え子を再び戦場に送るな』という合ことばのもとにすすめら
れてきた民主的な教育運動の肩の上にのって可能なのだ」と。
 このことは、ニユートンの天才を否定していないのと同様、日夜、子どもとと
りくんでいる一人ひとりの教師の血のにじむような個人的努力や教育的力量の高
さを無視するということではない。
                           (三)
 父は、革新懇の世話人に名をつらねている。かといって革新的入物ではない。奇
術に凝っていた当時は警察とのお付き合いも長かった。「絵を買ってくれるのは、
自民党の先生方のほうが多いから………。」ともいう。いつか、保守の有力者が、
銀座の個展にならべた絵の一枚を自民党本部だか首相官邸だかにかけるといって買
ってくれたといってよろこんでいた。本当にかけてくれているかどうかは知らない
けれど………。
 そんな父も、戦争だげはいやだという。体の小さい父は、徴兵検査で五玉をはね
られた。「お前はもういい!」と記録もしてくれなかったという。おかげで終戦ま
で召集をまぬがれた。「召集されていたら生きていなかった」と小さいころ父にき
かされた。戦災のあと、やけのこった家財を荷車につんで「次の電柱まで。次の電
柱までJと自分にいいきかせ、はげましながら、海南の借家までたどりついたこと
など……。弱々しい人間の、ごく平凡な戦争体験でしかないけれと、自分の孫たち
にそんな経験をざせてはならないとだけは思っているようだ。
 そのことだげ思っていてくれれば、革新想のメンバ−としては十分だろう。よび
かけ人や世話人というがらではないけれど。
 「彼は決して政治を求めては行かなかった。ところが政治が彼を求めてきた」
(ロマンロラン「魅せられたる魂」第九巻)という、戦争と平和の問題にだれもが
無関心でおれない時代に、また、さしかかっている。
                         (一九八二、五、三)
      ………………………………………………………………………………………………
 父のことについて、ふと雑文をかいてみたくなり、どこにのせるともなく書きと
めておいた。父が野間さんを推せんしだ機会に、ひっぱり出してみた。
(和教組書記長)                                           (「和歌山民報」掲載)
      ………………………………………………………………………………………………
  「あとがき」にあるように、「和歌山民報」にのせるために書いたものでなく、自
分の手記である。「和歌山民報」の下角さんに見せたら、「これは面白い」と載せて
くれた。
 生前、親に一言も親孝行の声をかけたことのない息子が、「民報」紙上で親父に送
った親孝行の言葉である。父とこのことについて話したことはないが、母が「お父ちゃ
ん、よろこんでたよ」と言っているのは聞いた。父と息子の対話の少なさというのは、
こういうものであろうか。
 日本共産党から「お父さんに野間さんのパンフレットに推薦をいただけないか」と
相談を受けたとき、私は、こう答えたと思う。
  「僕は、絵の依頼でもなんでも、自分で親に頼まないことにしている。いろいろ引
き受けている親父が、息子の義理でまで仕事を引き受けてはかわいそうだと思うから。
僕には無関係に話を持ち込んでほしい」と。
  父が野間さんの推薦を引き受ける判断をしたのには、野間さんへの評価とともに、
当時の父は、「自民党の先生」に気兼ねしなくても誰でも絵を評価してもらえるとい
う絵描きとしての自信を持てるようになったことに加えて、息子が野間さんにお世話
になっていることへの配慮もあったかもしれない。
 一方、この文を、「民報」にもち込んだ私のほうにも、父の立場への配慮がはたら
していることも読み取っていただけよう。
  ところで、その父が、野間さんのパンフレットに寄せた言葉。
  「………野間さんは立派だ。その野間さんを毎回国会に送っている和歌山県民も立派だ。」
県委員会の松葉さんが「ええことばやなあ」と言ってくれたが、僕も、親父にほれ込んだ
言葉である。
              (父の死後、HPに載せるにあたって書き加えた)