安保・沖縄(工事中)


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沖縄連帯集会に参加して

1996年の沖縄連帯ツアーの感想文、安保県民会議が中心になってとりくんだものですが、感動の感想文をここに紹介します。「感想文集」として出すはずのものでしたから、実名でいいのですが、こんな形の紹介になる予定ではなかったので、肩書きだけにしておきました。
その後、2000年にも沖縄に行きました。「基地をなくせ・人間の鎖」への参加です。 その感想も入れました。これは、私の分です。
人間の連帯とおいしいものと
沖縄連帯集会に参加して
 平和を心から祈ります      
 沖縄集会に参加して       
民族の怒りにもゆる沖縄集会
まだまだあるがとりあえず
        
        
        

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人間の連帯とおいしいものと
安保なくす県民会議議長 雑賀光夫

                      
 安保県民会議に大阪の安保から「サミット直前に沖縄訪問団を送りたい」と呼びかけが
あった。安保県民会議では、会議を開いて「五人以上、十人の代表をめざしてとりくむ」
「派遣できる大きな団体だけで参加と言うことにせず、団体・個人のカンパで青年の派遣
を重視する」という方針を確認した。   
 県地評事務所で会議をしていたとき、中北君が民青の吉田委員長をつれて入ってきた。 彼は自主的にその方針の実践にとりくんでくれたのである。その奉加帳をみてびっくりし た。雨積和高教委員長が一万円のカンパを出し、それにつられて和高教役員が五千円出し てくれている。私は、自分では三千円ぐらいだし、他の役員・書記に二千円から千円だし てもらって和教組の個人カンパは○万円ぐらい、この調子で個人カンパ○万円。あと、団 体カンパで○万円など皮算用していたものだからびっくりした。しかし、安保県民会議議 長が、雨積委員長を下回るわけにはいかない。私も一万円と書いたが、財布の中がさびし かったので、後払いにしたのだった。
さて、積極的カンパで送り出された青年2人をふくむ代表団は、近畿各県代表とともに 関西新空港を出発し、11時20分、那覇空港についた。着陸時に機体がねじれるように 揺れる。危ない着陸である。那覇空港では、米軍の制空権との関係で、民間機が遊覧飛行 のように危険な低空飛行を余儀なくされるということがよく指摘されるが、そのことと関 係あるのかどうか、航空会社で調査いただきたい。
会場ヘリポートに反対してライブ 喜納昌吉さんは小渕首相の誘いを断った
 午後1時、名護・辺野古の団結小屋を訪問し、海上ヘリポート建設予定地を視察した。 きれいな海。その海に、真っ黒なヘリポートを建設するという。海の砂浜にフェンスが張 られている。「命を守る会」の金城さんはおっしゃる。「このフェンスは、何度張っても 破られます。不良海兵隊員が裏口から帰るとき、破っていくからです」  元海兵隊員・アレン・ネルソンさんの話を聞く。  「私は、20年まえ、この沖縄で、人を殺すことを学びました。海兵隊は、敵を殺すだ けでなく、県民にも危害を加えます。軍隊というものは、県民に危害を加えても悪いこと をしたと言うことにならない。それは彼らが教えていることをしているだけだからです  いま、米軍が県民に迷惑をかけていることを反省し、みなさんとともに平和のために行 動できることをうれしく思っています。  アメリカでも平和運動がおこっています。アメリカは平和運動を大変おそれています。 私たちは力を合わせて平和の運動をすすめなくてはなりません。」  浜辺で音楽会のためのマイクテストが繰り返されている。サミットに当たって、故小渕 首相は、サミット記念の文化行事をしようと、歌手の喜納昌吉さんに出演を依頼してきた という。喜納さんは、それを断って、サミット中にこの浜辺で、基地撤去をもとめる県民 とともに音楽界を開くのだという。  辺野古の団結小屋のみなさんに、和歌山からもって来た「寄せ書き」を託した。
静まり返った嘉手納基地
  午後三時三〇分、安保の見える丘から嘉手納基地を見学。基地には、一機の戦闘機もみ
あたらず、静まり返っている。サミットを前にして、米軍基地はその姿を世界に見られま
いとしているのだ。それは、言い換えればサミットに際して沖縄の基地問題を告発する私
たちの行動は大きな意義をもっているということである。
           
包囲したぞ 二万七千人の鎖で
           
  第二日目が本番だ。「人間の鎖」は、午後2時から3時。
 午前中に、普天間基地が見下ろせる丘に登る。今日も軍用機は飛ばずに静まり返ってい
る。この丘は、沖縄戦での激戦地のひとつ。ある看板には「日露戦争の二〇三高地に匹敵
する戦跡」と誇らしげに書いている。ここに蜷川知事時代に京都府がたてた碑がある。こ
の碑は、他府県の碑と違って、京都府の兵士とともに犠牲になった沖縄県民に思いをした
唯一の碑であるといわれる。
  正午に、普天間基地第二ゲート前で集会の後、基地包囲の人間鎖行動に参加する。「炎
天下の三時間ですから、のみもののポットは忘れないで」と世話役の方が注意してくれる。
  周囲17キロの基地を、切れ目なく包囲するのだから大変だ。固まっていては包囲にな
らない。和歌山県の六人は、人の切れ目を見つけてもぐりこむ。宣伝カーが、「この先の
ほうに100メートルの切れ目がありますから、固まっているところは、手を伸ばして広
がってください」と呼びかける。
  そして、午後2時、基地に向かっての第一回「人間の鎖」。ところが、この鎖は、切れ
目があって完全ではなかった。2時半、「米軍基地は撤去せよ」のシュプレヒコールのあ
と、今度は基地の外側に向かっての「人間の鎖」。しかし、これも不完全であったらしい。
そして、3時の第三回「人間の鎖」は、カウントダウンで手をつなぎます」と主催者。「二
万七千八人で人間の鎖は成功しました。」との宣伝カーのアナウンス。予定の二万五千人
を大きく上回っていた。人が多かったところは、二重の鎖になっていたという。
 集会中の社民党の宣伝カーに国会議員をのせてまわってきた。私は何人かの人たちとと
もに手を振った。
ところが、大阪の何人かの人たちが宣伝カーにつめよらんばかりにして「安保反対を忘れ
るな」とさけぶ。社会党が「社公合意」で安保容認の路線をとり、労働組合の右ぎより再
編につながったことを体験した世代がそういいたいのはわかる。しかし、今日の集会は、
安保への立場を超えた基地撤去一点共闘の集会ではないか。統一戦線の思想を先進的活動
家が身につけないといけないなと思った。
米軍犯罪は、氷山の一角
お母さんの訴えに共感のうず
  「人間の鎖」のあと、関西代表団は、「関西交流集会」を開いた。火照った両腕を洗面
所の冷たい水で冷やし、早く冷たいビールにありつきたいとの思いを持ちながらも、交流
集会へ。
  十二歳の子どもを持つ沖縄のお母さんが訴えをされた。
 「クリントン大統領は、専用機で基地をアメリカに持ち帰ってほしい。米兵の婦女暴行
というのは、事件になるのは氷山の一角です。5年前の少女への暴行事件も、少女が勇気
を持って訴えたから、問題になったのです。
  私にも十四歳の女の子がいます。こんなことは絶対に許せないと、いっしょに『人間の
鎖』に参加しました。私たちがなぜ、いつまでもこうした苦しみを背負わなくてはならな
いのでしょうか」
  お母さんの訴えは、ここにとても紹介しきれない。会場は、共感のうずになった。参加
者の中には女性の方が多かった。新婦人の会の小旗に寄せ書きしたものをもって『人間の
鎖』に参加していたのだが、訴えた女性にお礼を渡したいという声があがり、小旗や寄せ
書きがうずたかく積まれたのだった。
ステーキハウスと沖縄料理
  おいしいものを食べてお酒を飲むのも楽しみのひとつだ。第一日目の夕食は、ステーキ
ハウスにはいった。席についてみて、「高い店に入りすぎたかな」と一瞬思った。「沖縄
ではステーキが安い」とガイドさんに聞いていたし、自分の経験でもそうだが、目の前で
焼いてくれる店ははじめてだ。まあ、安保事務局長の西村さんが食事代補助を2000円
程度持たしてくれているからいいだろう。2500円のステーキを注文する。パンかご飯
もついている。中ジョッキで2杯飲んで、4000円あまりと言うところ。
 第二日目の夜は、安そうな沖縄料理が食べられる店を探す。「ジョッキ2杯で一品付き
1000円」という店を見つけてはいる。沖縄料理をいろいろとって、ビールからはいる。
ただ、「ジョッキ2杯で一品付き1000円」というのは「午後7時まで」のサービスだ
とのこと。ピッチの早い田津原さんは、2杯目は泡盛古酒にしていた。1200円。普通
の泡盛で600円。「折角沖縄にきたんだ。はりこもう」とぼくも古酒をたのむ。
  「豆腐よう」を頼んだ。だれも食べないだろうと1つだけにした。「こんなぐあいに食
べるんだ」と爪楊枝で切って食べてみせる。おいしい。案に相違してみんなが「おいしい。
チーズみたいだ」とたべる。和歌山に泡盛古酒と豆腐ようのファンを増やしたようだ。
  「飲み物はわしらでもとう」と田津原先生が言い出してくださたので、若者は2000
円。飲み物を年長2人でもって3000円づつだから安い。
「戦争展わかやま」に沖縄基地を告発する青年たち
  二人の青年は、個人カンパで送られてきている。「戦争展わかやま」の実行委員が、戦
争展の一角に「沖縄コーナー」をもうけることにして、青年たちを送り出したのである。
 「展示するのに、現地の新聞がほしいなあ」ところが、ホテルでは「琉球新報」も「沖
縄タイムス」も売切れだ。代表団は、現地の新聞社にたちより、新聞を買い入れた。第一
面から「人間の鎖」が大きく取り上げられている。それをお土産に帰ってきたのだった。

                      

                        

沖縄連帯集会に参加して       青年教員

                      
 沖縄、なんと暖かいところだろうと思う。でも「壕」とよばれたり「ガマ」と呼ばれる
ところに入ると、何かヒンヤリする。気持ちの問題なのだろうか、それとも温度がただ単
に低いだけなのだろうか。 
今日、ご一緒していただいた平和ガイド方が「みなさん懐中電灯を消して下さい」の一言
に私は何が始まるのだろうと思った。その瞬間、明かりが消え、そのとき背筋に冷たいも
のが感じられたことが忘れられない。 
ガイドさんが「何か感じますか」と言われ、確かに何かしら音が聞こえた。それは洞窟の
天井からしたたり落ちているつゆであった。 
「みなさん、この暗闇の中で何カ月も居ることができますか?」とガイドさん。私は、も
う早く外に出たいの気持ちで心が一杯で、もうこんな所はたくさんだと少し気がおかしく
なっていた。ガイドさんは体験をまじえながら、戦争とはどんなものか、戦争とは何も生
み出さないこと、戦争が後に残すのは、恐怖と悲惨さといきどうりぐらいのものだと訴え
たことが、こんなに体全体で感じられたことはない。 
私は、集会・デモ行進でも、本当にいま何かをはじめなくてはならないこと、これらの運
動で前進・完遂する大切さを口では言えないほど感じる。平和教育・平和とは何か、基本
にたちかえってすべてを洗いなおし、再出発したいと思う。

平和を心から祈ります

                   
                          青年教員
  那覇空港に到着すると、軍用機が何機も目につき、いま戦争がはじまってもおかしくな
い雰囲気に、どきりとしました。平和を当たり前のように思い、戦争のことなど真剣に考
えることなどありませんでしたが、戦争が起こる可能性が十分にあるということを肌で感
じ、恐ろしく思いました。

  一日目の戦跡めぐりは驚くことばかりでした。沖縄戦は、日本では唯一の地上戦であり、
兵士よりも一般住民の戦死者が多いという事実、生きて捕虜のはずかしめを受けずという
誤った教育により多くの人々が集団自決したという事実を知るにつけ、胸が締めつけられ
ました。家族どうしで殺し合わなければならなかった当時の人々の気持ちは、はかり知る
ことができず、こういう悲惨な時代に生きた人々がいるということを忘れてはならないと
思います。肉体的のみでなく精神的にも痛めつけられた悲惨な戦争が沖縄であったという
事実、そこには、広島・長崎とまた違った恐怖があったことを忘れてはならないと思いま
す。
  また、韓国人慰霊の塔を見学したときの、平和ガイドさんの「私たちは、被害者である
と同時に加害者である」と言われた言葉が耳に残っています。

  これらの事実を忘れることなく、戦争が二度とおこらないような平和な世の中を心から
祈ります。


沖縄集会に参加して

                                    教  員
  私は、はじめて沖縄に行った。私がこの集会に参加したのは、少女暴行事件に対する怒
りと沖縄の基地を実際に自分の目で見たいという気持ちからでした。

  私は、集会で二つの発言が印象に残りました。一つは、反戦地主の「たたかう地主が少
なくなっても、いつか大きな力になって私たちの方向に結実する。ついにそのときがやっ
てきた。全国から集まった多くの人を前にして勇気がわく」という発言でした。もう一つ
は、本土高校生と地元高校生が「この事件を通じて沖縄の基地のことをこのようなことの
ないようにしたい」という発言でした。
  これらの発言を聞いて、米軍によって人権を侵されていた県民の怒りが、少女と大田知
事の勇気で全国の連帯と運動になって広がっていると感じた。
  二日目の基地見学では、なんとも言いがたい思いにさせられた。国道五八号線を走るバ
スの両側は、ほとんどといっていいほど鉄柵で囲まれていた。また、鉄柵のこちら側は、
広々とした芝生と米軍基地がぽつりぽつりと建っていた。
  また道路を封鎖して実弾演習をおこなう一〇四号線両側に、私は民家はないものだと思
っていたが、少なくない農家があった。そして、実際に農家の上を実弾がとびかい、爆弾
の破片で死亡した事件があると聞いて、本当に信じられない思いであった。
  そして、嘉手納基地には、米軍最高幹部のレッドベレーがきていることや、この基地が
アメリカのアジア支配の最大の役割をはたしているという説明を聞いて、戦後五〇年もた
つ日本に何というものが存在しているのかと驚いた。また、それを支える政府に怒りをお
ぼえた。この集会に参加することで多くのことを学べたことは、本当に有意義であった。
今後、多くの人に語り、広げていきたい。

民族の怒りにもゆる沖縄集会


                              教  員
  沖縄は二回目でした。前回は全くの観光目的。しかし、今回は不当にも被告となった大
田知事を励ますとともに、沖縄の人の心を知り、「基地と安保をなくせ」と全国の仲間と
連帯することが目的でした。集会前後の戦跡めぐりと基地めぐりで、その目的が達成され
たかどうかわかりませんが、本当に強烈な感動を受けました。
  とくに、ひめゆり舞台の一人一人の少女たちの写真を見て、どこでどう死んでいったか
の説明を見ていると、とても涙なしでは見られませんでした。真実を知らされず、中には
「私は勤王女子生徒だ」といって殺された子、手榴弾で自殺した子……。すべて当時の教
育に責任があるような気がしてなりませんでした。親から子に、教師から生徒に、大人か
ら子どもに何を教え、何を伝えていくか。それはまさに、親と教師と大人の責任ではない
でしょうか。

まだまだあるがとりあえず

                            青年教員
                         
1、住民たちが米軍に投降することもできず、日本軍にも見捨てられたことで集団自決を
はからなければならなかったという事実がもっとも強烈で、今まで持っていた「アメリカ
は加害者で日本は被害者」というような単純な構図で戦争はとらえられないというのが実
感です。
2、デモ行進したわけですが、沖縄の人たちは本土からやってきてこういう行動をしてい
る私たちをどう見ているのかが気になりました。もちろん、支持してくれる人も結構いた
のですが、多くの通行人、特に若者たちはどう思っていたのだろう。そのことがとても気
になりました。
3、「泡盛」を買った酒屋のご主人から「沖縄には四七の泡盛メーカがある」と聞きまし
た。本土に
出荷しているメーカーはそのごく一部ですから、沖縄県の消費で四七のメーカ
ーが成り立っているということができます。和歌山で同じことが言えるだろうか。答えは
「ノー」です。沖縄の人たちが持っている「地域プライド」の強さがこのことでよくわか
ります。
  以上、まだまだ思いはありますが、とりあえず。
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経験したことのない一体感一・一五沖縄連帯集会に参加して

                          和商連役員 一日目の戦跡めぐり、二日目の集会参加、三日目の基地めぐりと盛りだくさんの企画であったが、天候にもめぐまれ大変よかったです。 集会とそれに続くデモ行進は、まさに住民と一体になったものでした。集会会場の近くの陸橋では、近くの住民も耳を傾けている姿も見え、デモ行進へは通りの商店の人が出てきたり、ビルの二階・三階からも手をふってくれたり、時折走ってくるバスの窓からは特に学生(中・高生)や年輩の方の熱心な声援を送ってくれ、いままで経験したことのない一体感を感じて感動的でした。 しかし、戦後五〇年もすぎているのにもかかわらず厳しい基地の状況や、沖縄の人々の生活を考えるとき、もっと多くの人と早く基地撤去、安保廃棄のたたかいを進めることの重要性を強く感じています。 集会前の短時間でしたが、地元商店街の活気ある日常に接することもできよかったです。 実行委員会のみなさん、本当にごくろうさまでした。ありがとうございました。

平和な島をとりもどすまで

                        和解連役員1、一・一五沖縄連帯集会に参加して 大田知事を激励し沖縄県民の人たちと連帯の輪を広げるためにこんなに多くの人が集まり、大成功であり、一人ではなんにもできなくても、大勢の人が集まればこんなに元気が出るものだと思った。 2、基地めぐりをしてびっくりした。なんと金網をめぐらしているのは基地ばかり。沖縄に平和はやってこないと思う。みどりの海と平和な島をとりもどすために、米軍は一人もいなくなるまで闘うぞ。 ページはじめにもどります

「沖縄の怒り」を和歌山に

                       機関紙協会事務局 一・一五沖縄連帯集会での、沖縄・埼玉の女子高校生の訴えには、何とも言えない感動をおぼえました。前日に見学した「ひめゆり平和祈念資料館」にならんでいた「ひめゆり学徒」の少女たちの顔写真と重なり、”命どう宝””人間の尊厳””本当の平和”とは何なのかをもう一度考える機会になりました。 私もこの歴史的なたたかいを、少しでも肌に感じることができ、「沖縄の怒り」のわずかでも和歌山にもって帰ろうと思います。

戦争は、被害者・加害者をとわず、残酷で悲惨な最高の罪悪

        九六・一・一五沖縄連帯集会に参加して                         和解連元役員                           すべての沖縄県民にとって、六付きは肉親を失った悲しみと戦争への怒りを新たにする「慰霊」と「鎮魂」の月であり、県条例では六月二三日を「慰霊の日」と定め、いかなる戦争の企てにも反対し、平和のために努力することを誓い合っていると聞きました。また、民謡の一節に「戦場(いくさば)ぬ哀(あわ)りいちが志(わし)りゆら」とあります。 このような県民の哀しみ、怒りに直接ふれ、沖縄の心を少しでも和歌山へ持ち帰り、一人でも多くの人々に伝えることができればと思って、年寄り二人が、県代表団のみなさんと一緒に、一・一五連帯集会や戦跡めぐり、米軍基地めぐりに参加しました。私たちにとって三日間の行程は涙と怒りと緊張の連続でした。 連帯集会での感動もさることながら、デモ行進を切れ目なく激励してくれた子どもたちやお母さんたち、商店街やバス・乗用車からのみなさんの姿は、まさに沖縄の心をよく反映していたと思いました。国内基地の七五%もしめる沖縄県内の基地縮小・撤去、日米地位協定みなおしがなくて沖縄の戦後も平和もありません。 いま一つ、私は昨年十一月、戦後五〇年を機に企画された「中国を訪ねる平和の旅」に参加して南京大虐殺記念館に行き、旧日本軍に虐殺された三〇万人の霊に花を捧げてきましたが、今回の沖縄の旅を重ね合わせ、沖縄戦跡めぐりのガイド(比嘉淳子さん)が言っておられた「戦争は、被害者・加害者をとわず、残酷で悲惨な最高の罪悪」であることを改めて痛感しました。

1・15沖縄連帯集会に参加して

                          教   員 私が、沖縄を訪ねたのは2回目です。最初は、10数年前の新婚旅行でした。その時は、観光が中心であり、米軍基地をかかえる沖縄の厳しい現実を正直にいって感じませんでした。ただ、タクシーの運転手さんの「沖縄の1等地はみんな米軍基地や、それに国際通りは狭いとみなさん言いますが、広くしたら米軍機の滑走路になるからこの広さがいいんです」と。その言葉は心の中に残っていました。 私にとって2回目の訪問となった、今回の1・15沖縄連帯集会。集会では、県民の願いを実現しようとがんばっている大田知事に対して、「職務怠慢、公益の利害」に反すると訴える村山前首相、どこの国の首相なのだ!と怒りがこみ上げてくるばかりでしたが、反戦地主の方々のがんばり、高校生のはつらつとした訴えに感動し、元気よくデモに出発できました。 私たちのデモ行進に対して、手をふってくれる、礼をしてくれる、乗合バスから身を乗り出し声援を送ってくれる運転手と乗客などなど、本当に連帯してると実感した集会でした。 余談ですが、その夜何人かで、デモのとき手を振ってくれた居酒屋を訪ねました。そして、「私たちは和歌山から来た、おかみさんが手を振ってくれたのできたんです」というと、そのおかみさんは「私はここ(お店)にいてたくなかった、私も一緒にデモをしたかった」と。もうまたまた感動。 自分史の絵本の1ページを飾れた日でした。

沖縄で考えた「日の丸・君が代」など

         沖縄連帯集会に参加して                             教 員  エメラルドグリーンの海、晴れ渡った空。那覇空港ではそんな南国の空気がわたしたちを迎えてくれました。沖縄の表の顔は優雅で美しいリゾート地。しかし、その裏側には、日本で唯一地上戦があった県・日本駐在アメリカ軍の基地面積の74.3%が集中する県という顔を沖縄は持っています。 「観光目的では絶対に行かない。行きたくない。」沖縄の歴史を考えると、ボディボードやスキンダイビングをして遊ぼうという気持ちには到底なりません。今回沖縄へ行くのには、1・15沖縄連帯集会に参加するためという目的がありました。わたしはそれとは別に知花(ちばな)昌一さんに会って話を聞きたいということを考えていました。結局は知花さんの住む読谷(よみたん)村には行きましたが、ご本人にお会いすることはできませんでしたが。 知花さんが '87年の海邦国体で「日の丸」を焼き捨てた後、腹をたてた右翼が知花さんの経営するスーパーを襲ってレジスターや冷蔵庫を壊し、放火したそうです。右翼の傍若無人の行為は許せませんし、知花さんがなぜ「日の丸」を焼き捨てなければならなかったかは十分理解できます。 アメリカ軍が駐留する沖縄には、日本政府が「思いやり予算」で作ったアメリカ兵のための住宅(4LDKはあるそうだ。日本の公営住宅ってそんなに広かった?)や基地を隠すための(どうして基地を隠すの?)キョウチクトウの植え込みがあります。他にも、軍関係車両の高速料金の免除・アメリカ兵の自家用車の車検料減額(これは差別です)など、日本政府は日本人のことは放りっぱなしで、アメリカ軍のご機嫌を伺うかのように「思いやり予算(=わたしたちの血税)」を浪費しています。先にも記したとおり沖縄県には日本全体の74%を越す駐在基地があり、沖縄の人々は仕方なく基地の外の狭い土地に追いやられています(西太平洋最大のアメリカ軍基地がある嘉手納《かでな》町に至っては82.9%の陸地が基地用地としてアメリカ軍の統治下にある)。加えてアメリカ兵がおこす暴行・強姦事件や交通事故などなど。「 ここは本当に民主主義国家の日本か」と耳や目を疑うことばかりが沖縄で行われていました。 日本人を守らなければならないはずの日本政府が、むしろアメリカ軍の肩を持ち、アメリカ軍といっしょになって沖縄の人々をいじめていては、日本の象徴たる「日の丸」が憎いという気持ちになっても当然ではないでしょうか。 「日の丸」と「君が代」は、台湾や満州を日本の植民地にした時・南京大虐殺の時に掲げられ、歌われたという事実があります。韓国の人々は「日の丸」「君が代」の名のもとに徴集され、日本の兵隊・日本兵のための慰安婦として日本に連れてこられました。これも隠しようのない事実です。(「平和の礎《いしじ》」の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の礎には百人余りの名前しかありません。強制連行され、沖縄戦で亡くなったた韓国の人々はこんな数ではないはず。他の人々は日本人といっしょに名前を刻まれたくないという理由で「平和の礎」には名前をのせないそうです) 戦争中は他国を占領して植民地の人々の心を踏みにじり、沖縄戦では沖縄の一般の人々を盾に戦い、戦後はアメリカ軍基地・従軍慰安婦・天皇の戦争責任などの様々な問題に手をつけず、日本政府( もちろん戦争中と現在では状況は違いますが)は一体何を考えているのでしょう(どうなんです、橋本さん!)。 与儀(よぎ)公園で集会が行われた後、参集した8000人はひめゆり通り・国際通りを通り沖縄県庁までの道のりを「アメリカ軍の基地は沖縄から出ていけー」などとシュプレッヒコールをしながらデモ行進しました。途中すれちがうたくさんの人々から応援の声をたくさんいただきました。党派を越えたこの集会に沖縄の人々は快く賛同してくれたに違いありません。しかし、理解に苦しむのは街宣車でやって来てデモの妨害をした右翼の人々だ。あなた方に問いたい!祖国日本を守りたいのならどうしてアメリカ軍の基地撤退と日米安全保障条約廃棄を訴えないのか!どうしてわたしたちと連帯してこの問題を闘おうとしないのか!(あんたらといっしょに闘うのは嫌だけどネ)。もっと勉強してほしい、沖縄の右翼は沖縄のことを。(祖国沖縄のことを真剣に考えている一般の人々の方があなた方よりよっぽど右翼的ではないか) まあ、右翼の妨害もたいしたことがなく、混乱という混乱もなくデモ行進は無事に終着地点にたどり着くことができました。 最後に、集会の時に急きょ合唱団に 入れてもらいステージにあがって歌った「沖縄を返せ」から一フレーズを抜粋してこの拙文を終わりたいと思います。「われらのものだ、沖縄は。沖縄を返せ。」

沖縄の重み、「連帯」の意味

                           教  員 一家全滅の屋敷跡としてポツポツと残る祠だけをまつった区画、一人で入るのはためらわれるが見学可能なようにと維持されている糸数壕、平和祈念資料館、平和の礎等々。そして魂魄の塔他随所で沖縄戦のことや平和への思いを真剣に語ってくれた平和ネットワークの比嘉さん。五十年以上の年月がたちながらも一つ一つをきちんと伝えていこうとしている。唯一地上戦の行なわれた沖縄の重みを感じた。 その目の前に米軍基地が広がっている。安保の見える丘から見た嘉手納基地は、本当に大きかった。数百件もの米軍関連の事件が起きているのに、きちんとした対応がされていない。人間としてあたりまえのことが実現されず何らかの力によって押しやられることこそ、戦争の論理ではないか。大きな集会は初めてで少し緊張したが、道々手を振ってくれた町の人々に「連帯」の意味を見た。この人たちが十・二一県民集会で八万五千人もの人々を集めたのだと思った。

女性として、母として

                        日本共産党後援会員 少女暴行事件以来、女性として母として心のそこから怒りと悔しさが積もり積もっていました。地域で“基地はいらない”のポスターを貼っているだけでは気持ちがおさまらず、「何かしないと…」と思っていた矢先、村岡県会議員さんから声をかけて頂き、今がチャンスとばかり参加を申し込みさせて頂きました。 第一日目の行程で平和ガイドの比嘉淳子様の話をお聞きしながらまた心の奥から怒りと悲しさとそして人間としての悔しさが激しく湧いてきました。アメリカの人口の99%が自分たちの国の基地が日本にあるということを知らなかったと報道されています。私たち日本人も悲惨な戦争を体験してきた沖縄県民(沖縄だけではありませんが…)の実態をもっと積極的に知り、本当の平和とは何なのか、今日本は本当の平和だといえるのか、もう一度考えさせられる機会となったように思います。 命の尊さ…人間らしさ等学校でも家庭でも私たち大人が話し、伝えていかなければならない義務感をひめゆりの塔・資料館の少女たちの“証言”を読んで切に感じました。日頃は“ノホホン”としている私ですがこの集会の参 加を契機に地域でどんな形で訴え・どんな形で平和運動をしていけば良いのか今後考えていきたいと思います。共に頑張りましょう。    事務局の皆さん、たいへんお世話になりました。

デモとともに思いは感動に

        ……1・15沖縄集会に参加して……                          教  員  今回の沖縄集会に参加する前に、たしかめたいと思っていたことがいくつかあります。県外の人々中心の集会に対して、沖縄の人たちがどんな思いをもつのだろうか、ということです。 デモが始まるとその思いは感動に変わりました。沿道の人たちが手を振ってくれるのです。それも、ひとりふたりではありません。バスの運転手の人が、運転をしながら身を乗りだして手を振ってくれました。それも、交差点で乗客を乗せた仕事の途中にです。繁華街では、七十才ぐらいのおばあちゃんが店の中からとびだして手を振ってくれました。今まで経験したことのないことです。 沖縄の人々の在日米軍基地への思いがわかる気がしました。ずっーと受けてきた痛みがわかるような気がします。

沖縄だけの問題でない

       ……1・15集会に参加して……                              教員  今回の集会行動に参加して感じた三つのことについて。 ひとつは、「まちがった教育が多くの人を不幸にしてきた事実」に触れ、教育の大切さを改めて感じた。自分も教育に携わるものとして、何が真実なのかをきっちり見極めて、事実を正しく伝えていかねばならないと感じたし、そうできるように自分をみがいていきたい。 二つめは、小さな火を灯しつづけるということ。真実を言い続ければいつか必ず皆に心が通じるはず。真実が見えにくくなって、投げ出したくなったとしても、人を信じて言い続けることの大切さを感じた。 最後は、基地問題についてであるが、沖縄だけの問題ではなくなったことを肌に感じて帰ってきた。自分の力も小さいけれど必ず何か役に立てることができるだろう。 埼玉の高校生の言った「だまっていたら、それは認めたことになる。」、この言葉にうなづきながら、がんばろうと思います。

 ゆいまーる。沖縄。

    ……沖縄連帯集会に参加して……                             教員 一月だが初夏のような気候の沖縄において、二泊三日の内容の濃い日程を振り返り感想を述べます。 まず、沖縄県民の願いや訴えは、本土に住む国民には、伝わっていないんではないかということ。米軍基地に深くかかわりながら、戦争の悲惨さを世代をこえて語りついでる沖縄県民の現在の声は、現地入りしてはじめて感じ取れたような気がする。 次に、本集会が、どういう意味で開催されたのか、よくわからないで参加したのだが、全国から約四千名の人たちが沖縄に結集し、沖縄に対して声援したことが、予想以上に、沖縄県民を勇気づけていることになったと感じたこと。集会に参加するずっと以前から、本心から基地問題や日米安保について沖縄の人たちに対し、なんとかしてあげなければ…という気持ちは持っていたが、「心で思っていても、それを行動化しなければ、思っていないのと同じこと」と反省し、また、行動させてもらえたことに感謝したい集会となった。 南部戦跡めぐり、基地めぐりで知り得た情報・見た光景は、今までの資料やニュースでは受け取れなかったも のだと思う。受動的にしていて得られる情報は幾千あっても一見には及ばないものだと実感させられた。今回の自分の経験は、情報を必要としている人たちへの手がかりにしてもらえるよう、草の根的な運動を地道に続けていこうと思う。それがデモ行進の時に手を振って応援してくれた沖縄の子どもたちに対して自分のできることだろう。 ゆいまーる。沖縄。

三日間で三回の涙

     ……1・15沖縄連帯集会に参加して……                            教員 良い体験をしました。沖縄を身近にしてくれました。この3日間で涙を3回流してしまいました。1回目は、今回の平和ガイド比嘉順子さんが糸数壕(アブチラガマ)の中で、当時の様子を語られたとき。2回目は、比嘉さんがバスの中で最後に、淡々と「さとうきびの詩」を唱ってくれた時。3回目は集会で、埼玉の高校生佐藤未希さんが沖縄に対する気持ちを堂々と述べてくれた時です。正直なところ、泣けてくる程感動するとは予想だにしていませんでした。 平和の大きさ、命の尊さは十分すぎるほど理解しているつもりであったが、それはほんの表面的なことを痛感させられました。沖縄の人の気持ちにたって本当に考えたことがあるのか。地上戦の悲惨さを味わってしまったのは、日本で唯一この沖縄である事を思い知らされるほどインパクトの強い3日間でした。集会後のデモ行進の時、地元の人が「ありがとう」と言いながら手を振ってくれる。「沖縄から基地をなくせ、安保反対」とシュプレヒコールをすると、通行人のおばちゃんが大声で「その通り」とあいずちを打 ってくれる。連帯です。自分のこの行動は、この沖縄に対してとても良いことなんだという満足感を得た。学校での平和教育にも、この感動を取り入れ、生徒達に伝えていきたい。平和教育をもっともっと大切に取り組んでゆきたい。「百分は一見にしかず」を改めて思い知らされた三日間でした。
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