私のあゆみ・教育と生活・平和を守って35年

ようこそ!

対談 足もとを見つめながら、未来を探る(抜粋)
――碓井和歌山大学教授と雑賀光夫和教組委員長が語る――
「子どものしあわせを守る会」のこと
民間労働組合から教員組合のA君へ
生活や環境をまもる要求運動に




和教組委員長を辞任するにあたって          


対談 足もとを見つめながら、未来を探る(抜粋)      ――碓井和歌山大学教授と雑賀光夫和教組委員長が語る――


  「和歌山県国民教育研究所」の「月報」で碓井先生と対談させていただきました。
私の自己紹介になっていますので、相当短くして(特に碓井先生の発言は要約させて
いただいて)紹介します。
     ………………………………………………
碓井 本日は、今年の四月から和教組委員長に就任された雑賀光夫先生に、ご自分の人柄
や教育実践、和歌山の教育などについて自由に話していただこうと思います。先生は、京
都大学をご卒業後、一九六七年から海南市立野上中学校(現東海南中学校)で英語教師と
して教壇に立たれました。その頃の失敗談なども聞いておりますので、おいおいお聞きす
るとしまして、最初に教職を目指されたきっかけ当たりからお話しください。

高校、大学時代の思い出

雑賀 大学は経済学部でした。高校時代は海南高校でどんぐり会という部落問題研究会に
出会いまして、そこから社会のこと教育のことに目を開きました。
碓井 高校時代から社会的な活動に関心を持っておられたとのことですが、和歌山県でい
えばおそらく勤務評定反対闘争や全国的な安保反対運動などの動きを、中学生から高校生
の多感な時代に見聞されたのでしょう。当時の高校生は現在では想像もつきにくいほど社
会への関心が高く、世の中の不正や腐敗への怒りのようなものが多くあったように思いま
す。ところで、「ドングリ会」の活動はどんな内容だったのでしょうか。

雑賀 和歌山地区高等学校責善教育連絡協議会(和責連)という高校生の責善教育をすす
める組織がありました。海南高校でその役員になったので、部落問題にふれ、どんぐり会
をつくる一員になるのですが……。私が一年生のとき、県教委が「責善教育」を廃止して
「人間尊重教育」を押しつけてきました。高校生のなかでもおかしいんじゃないかと論議
しました。
碓井 その後、京都大学に進学されますね。そして、高校部落研活動を引き継いだ感じで
京大部落研に入って活動をされますね。

雑賀  大学に入学して、部落研で子ども会活動などするんですが、学問か子ども会活動か
悩みました。大学の近くに田中部落という京都市内でも有数の大きな部落があります。
 部落と子どもたちが置かれている現実から出発して、社会について学ぼうというのです
が、子どもとかくれんぼしながら「こんなことに時間をつぶすより、『資本論』を読みた
い」と思い「資本主義的生産様式が支配している社会の富は膨大な商品の蒐集として現れ、
……」という『資本論』冒頭の文句を口ずさんでみた思い出があります。もともと、人や
子どもと交わるのが下手な人間でしたから。

教師への旅立ち

碓井 この時代に、学問を通じて社会の現実を社会科学的に見てゆこうとする気持ちと、
子ども会活動を通じて接する現実の子どもの姿や困難な生活の実態を改革する実践に関わ
りたいという気持ちの間で揺れ動くわけですね。
 そこで、今度は教師になってからのお話を聞くことにいたしましょう。「子どもと付き
合うのは下手」という思いを持ちながら、教師生活を始められと思いますが、教師一年生
はどんな出発だったのでしょうか。
雑賀 教員になったのは、一九六七年。海南市立野上中学校がかけだしです。英語の免許
が取りやすかったので英語の免許をとりましたが、受験英語しかやっていないから、英語
が話せない英語教師です。教員の採用試験は、京都・大阪・和歌山の高校全部落ちまして、
和歌山の中学校にだけすべりこみました。
 部落子ども会などやってきていましたから、民主的な教師になりたいという気持ちはあ
りました。でも教師の仕事は、理念だけでできないでしょう。未熟な教師でした。英語の
授業も、教えるのが下手だから教室が騒がしくなる。子どもともうまく行かない。自分は
教師に向いていないと思って、「教師をやめたい」と悩んだこともありました。

碓井 「民主的」な教師でありたいと願うにも関わらず、現実にはクラスが荒れて、今日
の「学級崩壊」に近いような状況に悩むのですね。教材や授業技術の問題だけでなく、教
師と生徒の関係のつくり方に灯りが見えない状態でしょうか。

雑賀 担任しているクラスに、しょうのないのがいましてね。授業妨害する、私は野球部
の顧問をしたのですが、そのグランドに石を放りこんでクラブ活動のじゃまをする……。
 そのうち、まじめな女の子が日記に「先生は優しすぎるから男の子はまじめにしないん
です」と書いてきたのですが、そのときは焦りました。そこで、今度騒いだら殴ろうと決
めて、自分の頭を殴って、手加減を確かめました。マカレンコというソ連の教育学者の実
践記録「教育詩」に子どもを殴る場面があることを知っていましたから、それを読み返し
て、「なぐってもいいんだ」と自分に言い聞かせました。
  明くる日、ニュー・プリンス・リーダーズの教科書でその子の頭をはったかしたのを今
でも覚えています。教室は、一瞬静かになりました。女の子は日記に「今日の先生はいつ
になく厳しかった」とほめてくれました。でもそんなことでうまく行くはずがありません。
子どもたちの反抗はいっそうひどくなりました。

碓井 マカレンコの「教育詩」を読んで、体罰を決意するなんて雑賀さんらしいですね。
それで、教科書で生徒の頭を殴ったあとの、教師と生徒の関係はどうだったでしょうか。

子どもの真実の姿に学ぶ

雑賀 一学期最後の個人面談のときです。僕は、親に言いつけるつもりで、その子どもの
悪いことをノートに書いて待ちかまえていました。お父さんが来たのは、面談の最後でし
た。私の話を聞いたお父さんは「いろいろ迷惑かけてすみません」といったあと、家庭で
の子どもの様子を話し始めたのです。
 「家内が病気なので、あの子が食事の支度をしてくれます。わし、このあいだ『もっと
うまいもの食わしてくれ』といったんです。そしたらあの子は『お父ちゃん、うまいもの
つくろと思ったら、お金かかるんや。お母ちゃん病気でお金かかるんやろ。僕もしんぼし
てるんやから、お父ちゃんもしんぼしてくれ』……」
 私は、頭をがーんとやられたような気がしました。なんと自分はこの子の本当の姿を知
らなかったのかと。その話を、そのあとある研究集会で話したのですが、その私の話をす
ごくほめてくれたのが、亡くなった岡本佳雄先生でした。

碓井 やんちゃな子だけれど、いい話ですね。子どもの生活を見る目のすばらしさに教師
が教えられています。生活の事実が子どもの感性を育て、家庭の人間関係を読みとってい
るのですからすごいです。当時の中学生には、父母の生活現実や苦労する姿が生々しく見
える生活場面がいっぱいありましたし、そこから自分の生き方を考える契機がありました。

雑賀  今になれば整理してキレイに話せますが、その渦中では大変でした。十数年前、和
教組は「体罰はやめよう」という呼びかけをしました。当時その中心になった教文部長の
森畑さんから「雑賀書記長はこのことについて自分の意見を言わんやないか」と迫られた
のを覚えています。そのとき、未熟だった頃の自分を思い出し、自分が現場の教師だった
らどうだろうと考え込んでいたのです。

碓井 学校外の子どもの生活や家庭のありよう、子どもの「内面を丸ごとつかむ」という
のは和歌山の教育実践が伝統的に培ってきた歴史の遺産です。雑賀先生が、生徒やその父
親と出会って考えたこと、あるいは、あちこちで頭をぶつけながらたどり着いたところが、
和歌山の教育実践の原則であるということもいい話ですね。
 雑賀先生の英語の授業で、その生徒が騒いだり、授業を妨害したことは、今日的に解釈
すれば「先生、ぼくにもかまってよ、もっと目を向けてよ、分かりたいよ」というメッセ
ージを送っていたことになります。今日ではそのメッセージの送り方が、子どもの内面が
多様になっているだけに、それだけ複雑になっていますから、教師の子どもをつかむ力量
が問われますし、子どもとの関係をつないでいるアンテナを高くしておかなければなりま
せん。

教職員組合活動へ

碓井 ところで、教職員組合の役員をされたのは、何時からですか。
雑賀 一九七四年に和教組海草支部の書記長になり、そのあと本部にきました。
  ストライキ万能論を克服して、「ストライキをふくむ多様な戦術」といわれたころ「私
と職場の要求運動」という提起をしました。西牟婁支部の書記長さんから「一年生の子ど
もの親から『土曜日のパンとミルクだけでいいから食べさせて帰らせてほしい』という要
求があって、校長先生と話し合って解決した」という報告です。朝早く、山の上の家を出
て、帰りはお腹をすかせてぐったりして帰ってくるというのです。その話を聞いてすごく
うれしかったのです。こういう具体的な要求が職場でとりあげられているということ、さ
らにそういう話が本部執行委員会で報告されるのは、職場の組合員がこうした職場での活
動を和教組本部が大事にしていると思っているからだと思いました。
碓井 「固有名詞のついた職場要求」という表現や発想というのは大切ですね。
雑賀 一〇年間和教組書記長をした後、統一労組懇と県地評の事務局長などを五年ほどや
らせてもらって、トラックの運転手、タクシー労働者、住金など大企業労働者とお付き合
いをして、世界が広がったように思いました。お話するには時間がありませんが……。

                  (中略)

インターネットと趣味

碓井 ところで、インターネットで楽しくて深い内容のあるホームページを開いておられ
ますし、最後に趣味などのお話もお願いします。
雑賀 私は、あまり遊びをしらない人間で、趣味は読書と囲碁ぐらいかな。囲碁の師匠は、
この民研の楠本先生。
 それから、おっしゃるように最近は、インターネットに、はまっています。私のホーム
ページは、自分が書いてどこかに載せた文、発表する当てのない文を全部入れた文字ばか
りのものですが、東京のある大学のフランス唯物論研究者がメールをくれましてね。「あ
なたのホームページはおもしろい。パスカルやディドロとくらべて、今の哲学はどうだろ
うと思ってるんだが、あなたのホームページには時代に応える力がある」というような、
過分のことばをいただきました。もう一人、大企業の管理職を退職した方とも知り合いに
なって、三人で毎日のようにメールの交換をしています。

碓井 和教組運動が新しい局面を開かねばならないことも出てくるでしょう。ぜひ原点を
大事にしながら、新しい和教組の時代をつくっていただきたいと思います。長時間ありが
とうございました。
雑賀 ありがとうございました。学校現場が大変なとき、しかも政治も教育も大きな曲が
り角に来た時期に大任を引き受けてしまいました。組合員や役員のみなさんに助けていた
だいて乗り切って行きたいと思います。

         


「子どものしあわせを守る会」のころ

  海南海草で教育運動にとりくんだのは、一九七四年から七六年です。
  「海南海草子どものしあわせを守る会」というのは、懐かしい思い出です。
      ………………………………………………

中山豊先生の最初の挑戦

  和教組海草支部の役員として、日方小学校の隣にあった古い木造の教育会館に座りまし
た。その間に、中山先生の最初の県会議員選挙があったのです。
 中山先生は、和教組海草支部の支部長をなさり、勤評闘争で首を切られていましたが、
復職後、日方小学校ですばらしい教育実践をして私たちを励ましてくれていました。でも、
それだけでは子どもと教育を守れないと、教職をなげうって政治の世界に挑戦されたので
した。
 教職員の仲間は、この選挙でがんばりました。木造の教育会館二階は、投票日前日、午
後一時、三時の二回に分けた動員者でいっぱいになりました。私は、疲労で声が出なくな
って、行動指示を黒板に書いて、それれを指でさして説明しました。中山先生は、支援の
皆さんの前で泣かれました。
  大奮闘で八八〇〇票とったけれども、相手の布陣に勝てませんでした。投票日前日、大
橋知事の黒い車が黒江に来て、票わりの指示をしたともいわれます。
  そのとき私が決意したのは、中山さんに期待をよせた八八〇〇人、さらにさまざまな事
情で相手陣営につかざるをえなかった多数の保護者・市民を教育を守る運動に残したいと
いうことでした。

子どものしあわせを守る会

 私の名刺の裏に「子どものしあわせを守る会」事務局とかいています。打井清一郎さん
というのは、神田にお住まいだった名物おじいちゃんです。よく、フンドシ姿でジョッギ
ングされていました。この方が会長さん。昨年秋にお亡くなりになったのが残念でたまり
ません。今日もお見えの岡田さんなどがメンバー。武道の先生にも協力いただきました。
  この会で、教育についての懇談会を開いたり、教育要求運動にとりくみました。「教育
要求県民集会」というのが毎年開かれ、県教育委員会に要求をぶっつけます。海南からの
参加者で、会場の大半を埋め尽くしてしまって、他郡市の方に申し訳ない思いをしたこと
もあります。

病院内学級など要求実現のこと

  このころの教育要求実現で忘れられないのが、市民病院の院内学級です。
 当時の海南一中で障害児教育をされていたS先生が教育会館にこられておっしゃるの
です。
  「病気で長い入院をしている子どもがいるでしょう。子のこらは、教育から切り離され
ている。教育を受ける機会があるほうが、意欲が出て病気の回復にもつながるんです」わ
たしも、しろうとですが、「なるほど」と思いまして、「教育要求県民集会」で発言をお
願いしました。訴えを受けた県教委のトップは高橋教育次長(後・教育長として人望のた
かかった方)です。前向きの回答をいただきました。
  翌日、私は、海南市の教育委員会にいきました。そこにいた課長さんは、「いま、県教
委から資料を出せといわれているんだ」といそがしそうにしています。和歌山県で最初の
院内学級が実現したのです。
 そこには、日本共産党の市会議員や県会議員の方の助力のありました。また海南市民病
院の小児科医長・今の岡田小児科の岡田先生のご助力もいただきました。
  最近海南市では、学校給食のあり方が大きな問題になりました。子供たちの近くで給食
をつくって温かくておいしい給食を食べさせてあげたい。このお母さん達の運動の話を聞
いたとき、私は、私が新米教師であったころの地域の暖かさが生きているんだと思いまし
た。この地域の暖かさは子どもを守る力なのです。最初の中山先生の選挙ではやぶれたけ
れど、そのとりくみが教育要求実現の運動につながったように、お母さん方の運動は、子
どもを守る運動としてさらに発展していくとおもいます。



民間労働組合から教員組合のA君へ

        民間労働組合と一緒に仕事をしていたころ、教職員組合の若い役員
      に語りかけるつもりで書いた文です。このころのわたしの取り組みの
      紹介として引っ張り出しました。
  ………………………………………………
A君
 和教組の役員生活にも慣れましたか。役員になるとき父母から「学校を去らないでくれ。」
と引き止められ、その説得に苦労した君だし、「早くまた担任を持ちたい。」と言ってい
た君だけれど、数年間、組合役員の仕事に全力を上げることは決して無駄にならないと思
います。ぼくは、プロ専従だから、もう教壇にはもどれませんが、広い世界に出れば出る
ほど、教育の世界にお返ししたいことにも出会うし、大きい目で教育を考えることが大切
だと思います。 

一、住金下請けのトラック運転手

  四月から県地評事務局長になって、すごくいい勉強をしています。一緒の事務所にいる
のは、次長の滝さん(島精機で組合を作って首を切られて労働運動の道に入ったベテラン)
医労連、運輸一般、木材木工組合の役員などです。
 運輸一般の橋本さんというひとは、二〇年近く前に同和地区の企業でストライキをした
ら「部落民に不利益なことは差別だ。」という理論にもとづいて「差別」攻撃をやられた
が「労働者が生活を守るためにたたかって何が悪いか。」と当たり前のことを言って頑張
ってきた人。ところが、この攻撃で組合はつぶされ一人組合員なのです。一人で、会社の
専務と団体交渉をするそうです。
 橋本さんに「トラックの助手席に乗せて夜中の住友金属の構内に入らしてくれやんか。」
と言ったら「幌のなかに隠してやろうか。」と言ってくれました。県地評事務局長が幌の
なかに隠れているのが見付かるというのも恰好が悪いのでやめました。住金という会社に
はいるには助手席に乗るのにも身分証明書が必要だそうです。独占大企業とそこに働く労
働者の生の姿を自分の目で見たかったのですが………。
  運輸一般和歌山合同支部の吉田支部長もトラックの運転手です。住金から「朝二時に鋼
材をつんで、午後・・時までに鹿島にとどけろ。」といわれてでかけます。二時に行って
みると、まだ荷物を積む準備が出来ていないので待たされます。それでも、指定の時間に
荷物を届けなくてはなりません。休憩も、仮眠もする暇がないので、眠気をもようすとト
ラックをとめ自分のほっぺたをたたきまくって眠気を覚まし、また走りだすそうです。

二、銀行労働者の悲鳴にも似た声
   住金出向労働者の手は曲がっていた

  人との付き合いだけでなく、労働運動の原点のようなものを県地評に来て学んだように
おもいます。銀行のサービス残業問題に取り組んだときです。県地評のアンケートはがき
で寄せられた銀行労働者の声は、悲鳴にも似たものでした。
 「八〇時間、百時間というサービス残業」「ノルマの追及」など。このとき、右翼的労
働組合に組織されていようと、「いらっしゃいませ」と、しとやかでにこやかな笑顔を見
せていようと、労働者は人間らしく生きたいという願いを持っているという当り前のこと
を痛感しました。
 住友金属から出向中の労働者が相談にきたとき、その人の手はひん曲がっていました。
「魚屋に出向して、マグロを切る仕事をしてこい。」といわれたのです。
 「楽な仕事だ」というので行ってみると、マイナス五〇度Cの冷凍庫に入っている冷凍
マグロを鋸で切り、骨と身をノミで剥がす仕事でした。冷凍庫への出入りで体
調を崩した上、クレーンの熟練工であったこの人は慣れない仕事で腰を痛めてしまいまし
た。その上に、凍傷で指が曲がってしまったのです。組合は出向に協力の組合ですから、
とうとう県地評に相談に来たのです。
 滝さんが会社にかけあい、休職を認めさせ、労働基準局に労災の手続きをしました。同
時に私たちは多くの労働者が出向先で苦労しているに違いないと、出向労働者の家庭訪問
をはじめました。
・「行った先でがんばらなしょうない。がんばってますよ。」と 吐き捨てるように言う
のは、住金で保安の仕事をしていて、警備会社に出向してガードマンをしている労働者。
・「今晩は、労働組合関係のものですが。」と訪ねて行くと、奥さんが「いつもお世話に
なっています」と挨拶してくれました。住金の組合と間違えたのです。
「実は・・・」と話してみると「関係のないあんたたちが、こんなにして来てくれるのに
うちの組合はなぜ何もしてくれないのだろう。」という話になりました。
 すべての世界が新鮮です。
 考えてみると、教師というものは、こんな人たちと「教師と父母」という関係で接して
いるのです。でも、先生だと威張っていてはダメなのでしょうね。胸を開いてこういう父
母の生活をつかみ県地評に持ち込んで来て欲しいものです。
                             (後略)


生活や環境をまもる要求運動に


  和教組本部にいきまして、教職員組合の書記長、副委員長、委員長という道を歩むので
すが、一九八〇年に「国民要求実現大運動実行委員会」という組織ができます。海南では、
「みんなの要求実現の会」といいます。その事務局長をやり、今は実行委員長です。ここ
では環境問題・住民運動のことをお話してみましょう。
    ………………………………………………       
雑賀紀光と雑賀崎埋め立て問題

 父の紀光がなくなりまして五年目に、みなさんが紀光の出した「海南風土記」という本
を再刊し、展覧会をやってくれることになり、そのことが新聞にものりました。 すると、
女性の方からファックスがとどきました。「雑賀崎沖を埋め立てるという計画があります。
紀光先生が生きておられたらなんと言われるでしょうか」雑賀崎の番所庭園に一番近いと
ころに双子島荘という旅館があります。そこの若奥さんです。さっそく訪問しました。き
いてみると、紀光が生きていたころ万葉の和歌浦というテレビ放映があった。紀光が話を
して、その女性が万葉時代の女性の服装で出演した。それからの紀光ファンだったそうで
す。雑賀崎の運動は大きく盛り上がって、木村知事になってとうとう凍結に追い込みまし
た。
  紀光の「海南風土記」の栞には、梅田恵似子さんはじめ色々な方が紀光への思いを書い
てくれています。そこに私は、次のように書きました。
「雑賀崎の埋め立て問題で、旅館の娘さんからお手紙をいただきました。不老橋の保存が
大きな問題になったとき、紀光はだまって、和歌浦の墨絵を中心にした展覧会を紀の国会
館で開いたことがあることなどを思い起こしたことでした」

和歌山県を救った住民運動

  私は、和歌山の住民運動の力はすばらしいと思います。
  仮谷・西口知事時代、燦くろしおリゾート構想というのが、和歌山県の開発計画でした。
和歌山県の山と海岸線をゴルフ場とリゾート地で埋め尽くすという計画です。大阪府の開
発計画は、ベイエリア構想といって、大阪湾岸を埋め立てて再開発する計画です。どちら
の計画も、莫大な県民の税金を使って、しかも和歌山の場合は、貴重な自然を破壊するも
のです。
  大阪は、この計画をやりきったが、造成地に工場もビルもこないで、大阪府の財政は破
綻しました。
  和歌山県ではどうなったでしょうか。巽小中学校の裏の山をゴルフ場にする「全日空ゴ
ルフ場」計画というのがあった。しかし、重根・椎原自治会の特に女性のみなさんが、反
対してがんばりました。がんばっている間に、ゴルフ場をつくろうとしていた会社が倒産
して、海南の自然は守られたのです。和歌山と大阪の間の和泉山系を開発するフォレスト
シティ計画も挫折し、先日、開発許可が失効しました。雑賀崎沖埋め立ても、紀伊丹生川
ダム計画も中止になりました。燦くろしおリゾート構想は、破綻したのです。破綻してい
なかったら、和歌山県の財政はもっとひどいことになり、和歌山県の自然は取り返しのつ
かないほど破壊されていたでしょう。
  関西電力は、和歌山県に原子力発電所をつくって、電源基地にしたかったのです。でも
和歌山県民はそれをさせなかったのです。
  私は、こんな仕事とをしている関係で、県庁の部長・次長のへやにふらりとはいってい
きます。ある方に「これから和歌山県の発展方向はなんだろう。ITかい」と聞きました。
その方おっしゃるんです。「もうITも不況だよ。和歌山県の生きる道は、自然を生かした
観光じゃないのかな。そう考えると原発ができなくてよかったよ。環境で売り出すのに原
発があっちゃ具合が悪いものね」和歌山県知事が「緑の雇用」というのを売り出す直前の
ことでした。
  私は和歌山県民はたいしたものだと思っています。乱開発と原発から和歌山県を守った
のは、県知事でも保守の政治家でもなく、住民の運動です。日本共産党の議員は、その県
民のみなさんとともにあるのだと思っています。

大運動実行委員会の対県交渉や
    救命急患センターの実現

  大運動実行委員会は、毎年、地域や団体の要求をあつめて対県交渉にとりくみます。ま
た、全県の自治体や労働組合を訪問する全県縦断行動にもとりくみます。
  和歌山県には、命にかかわる急病になった場合に、救命急患医療センターがありません
でした。大運動実行委員会は、「日赤病院に救命救急医療センターを」と全県で訴えまし
た。県がその設置を約束し、一〇〇万円の調査費を計上したのは、一九八一年のことです。
  二〇〇〇年には、県単独医療費補助をけずるなと県庁一周パレードをして対県交渉をお
こないました。

木村知事との懇談を実現

  こういうとりくみをしていますから、木村知事との懇談を実現したいと考え、秘書課と
話をして、今年二月に懇談が実現しました。
  県単独の医療費補助の存続が問題になっていましたので、社会保障推進協議会や、保険
医協会のお医者さんに一緒に行ってもらいました。
  私は、最初に大運動実行委員会が前年度に配布したビラを示しながら話しました。
  「このビラは、知事さんが当選した直後に、知事さんの政治姿勢を問うつもりでまきま
した。雑賀崎沖埋め立て、丹生川ダム計画などの大型開発をやめよと書いています。高齢
者医療などの県単独補助を存続してくださいと書いています。このビラが配られたころ、
知事さんは、雑賀崎沖埋め立て凍結を発表されました。また、昨年は、県単独医療費補助
は存続されました。そのことは評価しています。今年もそのことを継続していただきたい。」
  しかし、木村知事は「お年よりでもお金持ちの方もいるから」と所得制限導入を示唆し
ました。また、乳幼児医療の拡充という要求について「このことについては、喜んでいた
だけると思います」と述べました。小学校入学前まで拡充されたのです。
  その後、丹生川ダム計画は中止になりました。これもいいことです。でも、今議会で村
岡県会議員が指摘したように、ダム建設で土地は買収されるとあきらめて、その上に生活
設計してきた住民のみなさんへの補償など課題が残っています。
  また、今年度予算では、関空第二期工事、新宮港第二期工事などの大型公共事業への支
出が計上されています。
莫大な財政支出が見込まれる紀淡連絡道(紀淡大橋)推進の姿勢もかわっていません。
  この懇談で私は、全国多くの自治体で「三〇人学級」をめざす施策が進んでいることを
示し、「和歌山県でも是非やってほしい」と訴えましたが、前向きの答えは得られません
でした。

         

和教組委員長を辞職させていただくにあたって
2002年7月9日
和歌山県教職員組合執行委員長  雑賀 光夫


  私は、支部書記長3年、本部書記長10年、副委員長12年と永年にわたり組合員のみ
なさんにお世話になりました。そして委員長になって3年目の任期途中でありますが、県
会議員選挙出馬のため、辞任させていただくことになり、本日の県委員会でご了承いただ
きました。私を育て支えていただきました組合員のみなさんに、厚くお礼申し上げます。

  私たちの願いを代表してくれる議員をもっと多くしたいということは私たちの切実な願
いです。高校学区制撤廃をはじめとする教育改革の問題にしても、和教組と県教委の交渉
だけで解決する問題ではありません。だから和教組は「30人学級」でも「教育改革」で
も県民世論を結集してとりくむ方針をもっています。それに加えて、県政や県教育委員会
の方針を変えさせていくためには県議会での力関係を変えることはきわめて重要です。
  私自身への出馬要請にあたって考えたことの一つは、教職員組合運動などに長く携った
者が議会に進出するということは、特別な意味があるのではないかという問題です。
 歴史をふりかえれば、勤評闘争後の困難な時期、解同(現解連)和歌山県連委員長であ
った松本新一郎氏が、日本共産党県議会議員として活動されました。その後、北条力、小
林史朗氏がつづかれました。この3人の存在は、教職員組合運動と解連運動をはげます、
きわめて大きな役割を果たしたと思います。いま、その後を中山豊氏ががんばっていただ
いているわけです。
  いま一つは、私が育った海南市で教職員の先輩である中山豊氏が守り抜いてきた二人区
での一議席を継承することへの特別な思いです。中山さんは私が教職についたころの海草
支部長です。1975年に教職をなげうって県議会の挑戦されましたが惜敗し、その後、
海南市議を4期16年つとめた後、海南市ではじめての県議会での共産党議席を獲得され
たのでした。どうしてもこの議席を守らなくてはならないという私の思いは、中山豊氏や
海南市のみなさんが、私に立候補を要請いただいた思いと重なるものです。

  ところで、和教組委員長職との関係をどうするのかで悩みました。選挙そのものは来年
4月ですが、立候補するとなると今から準備しなければなりません。当初は、休日や平日
の夜の時間を利用して選挙準備をし、一定時期までは和教組委員長の職務と両立させるこ
とを考えておりました。しかし、和教組委員長在職のままでは、記者発表もできません。
多くの友人のみなさんから「立候補するからには、当選をめざして全力をあげるべきだ」
という助言をいただきました。悩んだ末、7月いっぱいで和教組委員長を辞任させていた
だき、選挙準備に全力をあげたいと考えました。

  和教組は、このたびの大会で「和歌山でも30人学級を」のアピールに賛同する署名運
動を提起し、PTAとの共同など大きな上潮にむかっています。私が県議会に挑戦するの
も、このうねりをさらに大きくしたいからです。平和と教育を守り県民生活を守るために、
みなさんとともにがんばる決意を申し上げ、みなさんのご理解をお願い申し上げます。