和歌山の労働運動史

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「人権侵害の会社には、卒業生は送れない」
         


「人権侵害の会社には、卒業生は送れない」
   ……海南・日東紡闘争と和教組

 海南市のいまはジャスコ、ココなどという新商店街になっている一帯、ここに日 東紡績海南工場があった。私が高校生だった一九六一年、女工さん達のサークル活 動への弾圧があり、いわゆる日東紡闘争がたたかわれた。 私は、海南高校どんぐり会(部落研)に所属する高校生だった。社会問題・人権 問題に目を開いたばかりのころ、「海南新聞」の紙面に毎日とりあげられた記事を、 自分でつくったスクラップブックにはりつけた。その貴重な資料を高校の部室に置 いていたのでは紛失すると怖れて、自宅に持ち帰ったものが、私の手許にある。そ れを元にしてつくった年表がある。一部を抜き出してみよう。 一九五八年ごろ 二人の労働者、人生手帳「みどりの会」へ 一九六〇年三月 会社は「みどりの会」へ圧迫(一人ひとり呼んでやめさす) 一九六一年四月 ナロード合唱団できる 七月 日東紡からナロードへ参加し始める 十月 会社は「青年学級」つくる 十一月 ナロードに参加のメンバーに、配転、呼び出し、自宅訪問、 「ハハビョウキ」の電報、「父入院」の速達など 十二月 「みなさんに訴えます」のビラ配布。 退職強要などつづく。 地区労が支援。職安が調査。前中県会議員が質問。 和教組全国へ訴え。民青同盟声明発表。 共闘会議結成。市民報告大会(海南駅前) 社会・革新クラブ(県会)が調査団(前中・松本・中谷) 一九六二年三月 地裁へ訴え 七月 和解 海南駅前広場で開かれた女工さんたちをはげます市民報告集会。高校生の私は自 転車にのってでかけた。集会に参加するのでなくて、横から見ていたのである。司 会者が「次は、共産党の代表の方」と紹介すると、ガタガタと下駄の足音高く代表 者が走り出てきて挨拶に立ったのを今でも覚えている。集会の最後に歌われた「お れたちゃ若者」の歌がなんと力強かったことか。 ♪♪ おれたちゃ若者、元気を出そう。幸せつくる力、それが若者。オイ、どうし たい。それがなんだ。そうだ、前をみよう。そうすりゃ、道は近い。ころんでおき る。♪♪ そんなこともあって青年時代の一九七〇年頃、「日東紡闘争の話を聞く座談会」 というのを開いた。参加者は、岩尾靖弘さん(故人・当時和教組海草支部書記長) と奥さん、中山豊さん(現県議会議員、当時の海南地区労議長)、板東旦舒さ(当 時海南市職書記長)、当時の日本共産党市会議員、当時の女工さんだった三人の女 性などである。  *「当時」とは、「一九六一年当時」のこと  日東紡績は、海南市における中心的企業だった。日東紡績では、戦後すぐ女工さ んがストライキをしたという歴史があり、それを私たちは第一次日東紡闘争と呼ん でいる。この記録も、海南堂書店のご主人・田中正美さんらからの聞き取りをまと めたものも、わたしの手許にはある。だから、一九六〇年代の闘争は、第二次日東 紡闘争である。どちらの記録も、自分でガリ切りして「橋」(海南海草部落問題研 究会機関誌)にのせている。 さて一九六〇年頃、日東紡績の女工さん達は、北山村、本宮町など遠隔の地から あつまってきていた。その女工さん達が、会社がすすめる生け花など花嫁修業だけ ではあきたらず、当時の若者に読まれていた「人生手帳」という雑誌をよみ「みど りの会」にはいった。そこから、海南の歌声サークル「ナロード合唱団」にも参加。 その先進層が、民主青年同盟とであう。 当時の様子が、座談会では次のように語られている。 「不満は、門限がはやいこと。ごはんは外米で蒸気でたく。おかずは一品。布お る機械を六〇台。とめそこねたら一〇〇本の糸がとまる。不良の反物をつくると呼 び出される。ご飯を食べるのがすごく早くて二・三分。虫、カタツムリがはいって いたこともある。みそ汁は大きなカマでたいてバケツで汲む。長靴でふんだところ においたバケツで……。月給を見せ合うことはしない。仲間より十円でもよけいに 欲しい。当時、九百人ぐらいいた。」 女子青年達の自覚のたかまりをおそれた会社側は、北山村などから親をよびだす などして、娘達をつれて帰らそうとするのである。岩尾靖弘さんは、郷里の親の説 得に北山村にまで出向いたという。自家用車などなかった時代のことだ。 たたかう女子青年たちをはげますために海南地区労はたちあがった。和教組は 「中学校卒業生を日東紡海南工場へは送らない」(一二月二二日、海南日々新聞に よる)と声明する。しかし、企業内の組合は、会社と一体である。 こうした中、たたかった女子青年たちは、最後は地裁の斡旋で和解するのだが、 「和解に応じるかどうか、本心を言わせようとおもって、どぶろくをのませにいっ たこともあったね」というひとことに当時の苦悩がしのばれたものである。それを 支えたのは、地区労の労働者、教職員、和歌山からも応援に行った青年・学生たち、 それに岩尾夫妻や教育会館に住み込んでいた和教組海草支部書記のおばちゃんなど であった。 座談会のおわりごろ、日東紡闘争のころから歌声にかかわっていた岡宏先生(故 人・のち和同教会長)が、そのころ海南ではじめた歌声サークルの女性たちをつれ て入ってきた。座談会の後半を聞いて、女性の一人が言った。「私たち、あたらし いサークルの名前をどうしようかと迷っていたんです。いま岡先生と相談したんだ けど『なろうど』の名前を受け継ごうとおもうの」と。 「日東紡闘争の話を聞く会」の座談会は、「たたかってよかった」という女性た ち言葉と「それにいいダンナさんを見つけたしね」という言葉で結ばれている。ち なみにその女性たちは、日本共産党の役員や県会議員の奥さん、和教組支部の書記 さんとして奮闘しておられる。 和歌山の百年のひとこまを私の青春のひとこまと重ねあわせて、そのひとこまを つくられた仲間と先輩を偲びながら書かせていただいた。          


緒のことば