和教組70年代から80年代へ

ようこそ!


執筆計画
一、七四春闘の「全一日のストライキ」と教師・教育論
二、ストライキを含む多様な戦術
補論・「スト参加者氏名公表問題」
三、主任手当問題について
四、「多様な戦術」の新しい発展段階と「高度な指導性」
         


執筆計画

  以下の内容で書記長時代の思い出を執筆をしようとした。
  ここにかかげるものは、その草稿である。第三者の目で書いた部分と自分の目で書いた
部分が錯綜していたりする。過ちを指摘していただきながら完成していきたい。
  他人に失礼なことは書いていないので、本名で差し支えないと思うが、現職の教員のみ
なさんの名前は、伏せることにした。

                                          執筆・1990年ごろ

1970〜80年代の和教組運動

1、74春闘と教師・教育論、和教組の5つの基調
(1)74春闘 情勢も含めて
(2)教師・教育論の提起と討論
(3)和教組の5つの基調の確立

2、ストライキをふくむ多様な戦術と職場地域の要求運動

@日教組の画一戦術とそれに反対する「多様な戦術」の提起
A職場・地域の要求運動
B統一労組懇の全県縦断行動と封書ビラ
C「スト参加者氏名公表問題」

3、教育の専門家性の重視と教育運動の発展
(1)70年代の学力・非行問題とそのとりくみ
(2)和教組の教文活動の強化
@「民研」の充実と「月報」の発行
A国民教育運動特別分科会報告書、教育基礎講座
B教育相談センターの開設

(4)あたらしい同和教育方針ととりくみ
@「人尊(同和)」方針廃案においこんだたたかいの積極面とゆがみ
A八鹿高校事件と全国的な解放理論・同和教育方針の発展
B「学校教育の基本と(責善)同和教育」方針の職場討議のひろがり
C学力調査問題など
Dあたらしい同和教育の探求へ  同和教育の使命をおえ後に何を引き継ぐか

4、勤評和解と組織の拡大

5、平和・教育・原発・・・・多様な運動の発展
    執行部の手からあふれだすような
6、「教育臨調」攻撃に抗して

7、労働運動の右より再編に反対し、あたらしい教職員組合運動の創設へ



         


一、七四春闘の「全一日のストライキ」と教師・教育論

1、七四春闘の全一日ストライキ

 日教組は、一九六〇年代、「人事院勧告完全実施」を要求して、秋の閣議決定・給与法
国会山場で「ストライキを含む統一行動」を実施していた。しかし、一九七〇年、人事院
勧告四月実施は定着したとして「本格春闘参加」として、春闘にストライキで参加するよ
うになった。春闘相場をひきあげるたたかいに参加しないと人事院勧告を引き上げること
はできないという趣旨のものである。
 七三春闘は、二〇、一%の賃上げ(人事院勧告・加重平均一四、四九三円)七四春闘は、
三二、九%(人勧・同三一、一四四円)。執行部も組合員も意気高かった。執行部は、「本
格的ストライキは、三日も四日もぶちぬくものだ。半日や一日のストなんて、ミニミニス
トだ。」と職場オルグではあじっていた。
 高度経済成長の最終の時期、田中角栄の日本列島改造論にあおられた狂乱物価で国民の
怒りが爆発したこと、七二年の衆議院選挙では、和歌山から野間共産党議員の誕生など共
産党・社会党ともに前進し、革新統一の気運がたかまった時期でもあった。さらに、全逓
中郵判決(   )など、公務員ストについても「刑事罰からの解放は勝ちとれた。」と
いう判断もあった。
 そのなかで、七四ストライキ直前、和教組本部は、各支部に対し、「刑事弾圧の動きが
ある。警戒せよ。」という趣旨の連絡を下ろしていた。この情報は、日教組よりも共産党
が機敏につかみ、日教組にも和教組にも、連絡してくれたようである。全国的には、この
警告に無関心だったところもあったろうし、弾圧をさけるために、一定の戦術ダウン(傾
斜的)を実施した県もあった。和教組執行部は、「弾圧の危険を軽視しないが、圧倒的な
組合員の突入で弾圧をゆるさないたたかいを組む。」とした。 七四ストライキ(四月十
一日)は、圧倒的な組合員の参加でたたかわれた。(突入率  %)和歌山市支部は、ボ
ーリング場で集会を開いた。海草支部は、市民会館で集会を開き、途中で映画会をし、市
内一蹴のデモ行進で市民に訴えるという具合である。しかし、スト参加者がオルグとなり、
地域の署名行動や労働組合訪問をするという発想は、まだ生まれていなかった。一九八〇
年代の和教組の水準であれば、そうしていたであろうが。それでも、こどもの安全と保護
をめぐって、父母との話し合いがおこなわれた。海草郡野上小学校では、PTA会長が「こ
どもを登校させないように」よびかけた。この地域は、勤評闘争の時、組合員が父母に「ス
トに参加するな」と缶詰にされた地域である。
 こうした、たたかいの高揚、革新統一の前進の裏で、政府・自民党は、反動的巻返しを
準備していた。最高裁判所判事の入れ替えによる司法反動化により、前年の四月にだされ
た判決・・・・・は、これまでの到達点をくつがえすものであった。さらに重要な問題は、
田中自民党内閣が、教育問題を政治の争点に据えていたということである。「五つの・・
・」「十の・・・・」のちにロッキード事件で逮捕されたとき、「あの田中に、道徳を云
々する資格があったのか」と語られたものだが・・・。さらに、「教師の月給を二倍にし
ます。」と銘うった「人材確保法案」である。「一般公務員より多少は待遇をよくする。(二
倍など真っ赤な嘘)そのかわり、教師は聖職に撤してもらわなくてはならない。」という
のが、その趣旨であった。その年の七月の参議院選挙に向けて、大々的なキャンペーンが
展開されていた。

2、「教師・教育論」の問題提起

 「共産党もラッチモナイこという。」四月十七日の午後、海草支部書記局に入ってきた
田伏支部長は、吐き捨てるように言って、汚いソファーに腰を落とした。その日の赤旗に
「教師聖職論について」という「主張」が載せられたのである。内容のくわしい紹介は省
略するが、「教師聖職論を批判する場合、機械的に労働者論を対置して、精神的・文化的
な教師仕事の専門性・特殊性を軽視しては、国民の支持を得られない。」という警告であ
った。ここから、「教師とは何か」「教育労働運動はどうあるべきか」をめぐる「教師・
教育論」の討論がはじまる。
 ここで、「共産党が労働組合運動に介入」という宣伝をする論者に、申し上げておかな
くてはならない。「教師・教育論」は、共産党が、火をつけたというわけではない。最初
に、「教師聖職論」を、国民的争点に押上たのは、先に延べた田中角栄であった。このと
き、公明党は、「使命職」という新語を作り出した。社会党は、支持団体である日教組の
「教師は労働者である。」を無条件に支持していた。しかし、このことが国民的争点にな
ると、機械的に「労働者だ。」と言っていただけでは国民の支持が得られないという重大
な情勢が生み出されていた。そこでの共産党の問題提起であった。和教組執行委員会でも、
職場でも、大討論がおこった。
 のちに和教組書記長をつとめた雑賀氏は、こんなことを語った事がある。「七四年の教
師・教育論」の重要さが、身に染みて分かったのは、七七・七八年の和歌山市での「スト
ライキ参加者氏名公表問題」の時でした。日教組ばりのスト万能論を和教組が採用してい
たら、あの時、和歌山市支部は壊滅的な打撃を受けていたでしょう。」(・・・年定期大
会議案参照)
 その年、七月の和歌山市長選挙で、富士原前和教組委員長(四月から北又委員長に交代)
が、和教組や労働組合・民主勢力の総力をあげた奮闘にもかかわらす大差でやぶれる。そ
して、そのあと、和教組定期大会が開催された。大会で、和歌山市長選挙を総括した玉置
代議員は、「わたしたちは、父母との団結と口にはしてきた。しかし、選挙であれだけの
奮闘にもかかわらず大差で破れた。父母と本当に結びついていたのかどうか考えてみる必
要がある。」と、選挙結果から、「教師・教育論」を深めることを訴えた。
 大会で、おもしろいやりとりがあった。ある婦人の代議員(中村悦子さんではなかった
ろうか)が、質問した。「大会議案の『教師は労働者であるとともに教育の専門家である。』
というところ、ことばとしては分かりますが、もう少し具体的に説明してください。」
 当時の書記長・田淵史郎が、待ってましたとばかり二〇分近くかけた答弁をした。たい
ていの質問は、この程度の大答弁があれば納まるのが、和教組の悪しき伝統である。しか
し、その婦人代議員はなおも食い下がった。「丁寧なご説明ですこし分かったようですが、
まだストンときません。」そこで、北又委員長が登場した。
 「皆さん、磁石というものがあるでしょう。磁石には、プラスとマイナスがありますが、
切っても切れない関係にあります。プラスなしにマイナスはない。教師の労働者性と専門
性もそういう関係です。」それで、その場はおさまった。
 その後日談の方が重要である。その年の日教組大会は、東京の立川市でひらかれた。槙
枝日教組委員長の「ことばを正確につかう共産党が、聖職などということをいう意図は奈
辺にあるのか・・」というあいさつで始まった大会は、「教師・教育論」をめぐるヤジと
怒号の大会となった。この大会のロビーで、北又は、傍聴参加の雑賀にふともらした。「わ
しの和教組大会での答弁は、理論的に間違いがあるようだ。おまえ考えてみてくれ。」
 雑賀は、のちに学習会で、このやりとりを紹介して解説した。「磁石は、プラスが5で
あればマイナスも5です。しかし、教師の労働者性と専門性とは、そんな関係にありませ
ん。『ストは絶対イヤ』という先生でも、教師としての力量を持った人はいる。たとえ、
非組合員でもそこからは学ぶべきです。教師のふたつの側面は、磁石のプラス・マイナス
と違って、独自性を持っているのです。教職員組合運動は、それを独自の課題として追求
しなくてはなりません。では、全く関係ないのか。教師としての専門性を高めることを抜
きにして、教師の生活を守るたたかいも国民の支持を得られるはずがありません。どんな
にすぐれた教育技術を持っていても、教育の軍国主義化が進められるなかでは、その教育
的力量が教え子を戦場にかりだすために使われるということになります。独自の課題とし
て追求したものが大きく合流するというのが私たちがめざす和教組運動です。」
 北又・雑賀は、ともに学習協で労働学校の講師などよく務めた、いわば「親分・子分」
の関係にあった。北又は、「猿が人間になる」という話で「うちの書記長(雑賀)は、箸
をまともに持てない。あれは猿に退化しかけているのだ。」と言ってよく笑わせていた。
雑賀は、「北又委員長のマチガイ答弁」を全国に言い触らして歩いた。(その後「教職員
ありかた懇」の全国各地での学習会が開かれ、各地の学習会によばれて「教師・教育論」
の説明をする格好の材料になったのである。)雑賀は、当時の執行部の人たちをつかまえ
て、あの北又マチガイ答弁を覚えているかと聞いたことがあるが、よく覚えていたのは、
当の北又委員長だけで、大答弁をした田淵書記長(当時)も、記憶になかったようである。
 「教師・教育論」で、実践的に問題になったひとつは、当時社会問題になった「落ちこ
ぼれ(こぼし)問題」であった。「教育研究所」が、「一年生で一割り、二年生で二割り、
・・・六年生で六割りの勉強についていけない子がいる。」と発表してセンセーションを
呼んだ。「勉強の遅れた子には、放課後残してでも教える。」ということがいいのかどう
か、執行委員会でも論議された。日教組大会では、そういうことも含めた「学力回復」の
努力が報告されると、「補習の復活か」とヤジが飛んだ。槙枝日教組委員長が、そうした
学力回復の努力を大会あいさつで訴えたのは、数年あとの・・・年のことである。

(注)2000年になって、和教組執行委員学習会この話をした。あとから、間違いを指
摘してくださった方がいる。「磁石の両極は、プラス・マイナスとはいわない。NとSと
いうんだ」というご指摘であった。納得したことを述べてお礼に代える。


         


二、ストライキを含む多様な戦術

 「教師・教育論」の論議をふまえた新しい方針をふまえた実践は、多岐にわたる。前章
での「おちこぼし・学力補充問題」がそうであり、同和教育の新しい方針も、広い意味で
その一環であった。ここでは、労働組合の闘争戦術の面から、振り返ってみよう。

(1)教育対話集会の提起

 教育対話集会のとりくみは、古くて新しい。教育労働運動が父母の支持を得られないか
ぎり無力である以上、くりかえしとりくまれてきた。勤評闘争しかり、教育臨調反対闘争
しかりである。「講師・教育論」を踏まえた和教組運動がこの課題をとりあげたのは当然
である。「教師・教育論」というのは、教育問題が国民的争点になったことの反映である
以上、なおさらである。
 一九七五年のこと、数人の父母が、海草支部書記局をたずねてきた。隣の日方小学校の
父母で、「学校へ言いにくいことを聞いてほしい。」という。対応した田伏支部長は、「教
育委員会とまちがえて入ってきたのではないか。」と思ったという。こうしたことに現わ
れた教育への期待と不満を教職員組合が組織して自らのとりくみをすすめるのか、反動勢
力が組織するのかが問われていたと言えよう。
 和教組は、全県的に教育対話集会を提起した。とりくみは一様ではなかったが、一つの
職場からの報告を紹介しよう。
 「支部の方針にそって、対話集会をやろうということになり、PTAの会長に話にいき
ました。そこで、えらい文句を言われました。『先生らまえにわしらが地区懇談会をやり
たいと言うた時に、勤務時間の問題があるからと断ったやないか』という問題です。ひと
しきり文句を言われたんですが、『そいでも、こんど先生からこんな話を持ちかけてくれ
てうれしいんやよ』と言って協力してくれました」(野上中学校分会の報告)

(2)職場を基礎に・・・分会執行部の確立

 「多様な戦術」といっても「対話集会」といっても、労働組合運動の基礎は職場の団結
にあることは言うまでもない。分会執行部の確立が課題とされたのは1987〜8年のこ
とであった。「分会には、校長と対等の立場に立つ分会長と日常的の分会活動の運営にあ
たる分会書記長を置く。年間固定の分会執行部を確立する。」ということが強調された。
 日高支部は、僻地校も多く、小さい分会が多い。そんな場合はどうするのかという質問
がでた。○○日高支部書記長は、「分会執行部確立の方針は、徹底して貫くんだ。」と頑
張った。「一人の分会でも、この方針は貫きます。その場合、分会長・分会書記長兼任と
いうことになります。」
 こういう議論をしたという報告が執行委員会でなされたとき、執行委員は笑ってしまっ
たけれども、この徹底した態度は、日高支部の分会体制確立の数字を大きく引き上げるも
のであった。

(3)「私と職場の要求運動」

 分会体制の確立に魂をいれるとりくみが「私と職場の要求運動」である。一九七七年秋、
和歌山県地評(議長・北又安二)常任幹事会で、木戸副議長が「わたしの要求運動」を提
案する。和教組は、積極的にとりくもうとするが、すぐにはうまくいかなかった。一九八
八年の定期大会の「当面の闘争」で「私と職場の要求運動」が提起される。職場で集約し
た要求を「対政府要求」「対県要求」「支部・地区で解決するもの」「職場で解決するもの」
に整理してとりくみをすすめるというものである。
 徐々に要求集約がはじまった。当時、こうしたとりくみは、奈良県教組で前進しており
奈教組の大会方針は研究させてもらった。同時に、全国的にも千代田総行動・御堂筋総行
動・函館総行動・東村山総行動などが華やかに取り組まれていた。書記長の雑賀は「労働
運動」誌を引っ繰り返して総行動の研究をしたという。・・年の七月、学習協と統一戦線
支持組合が、大阪の労働組合幹部をむかえて、「御堂筋総行動」の経験を学ぶ学習会を開
いたことがある。雑賀は、その時の感想を次のように語っている。「総行動というのは、
自らの要求で取り組むものだから、たとえ雨が降っても頑張るほどの元気があるんだ、と
いう話をきいたが、どうしたらそういう運動を組織できるのかが良く分からなかった。」
この問題について、その後の和教組の運動を総括して雑賀は、「結局は、具体的な要求を
どれだけ汲み上げるかが問題だ。具体的な要求が明確になったとき職場組合員から驚くよ
うな創意性がうまれる。」とまとめている。

(4)「地区総行動の手引き」と「固有名詞のついた要求」

 要求集約はすすみはじめた。しかし、一九七八年度末の執行委員会で取り組みの総括し
たとき雑賀は唖然とした。集約した要求にもとづく地教委交渉に取り組んだ地区が清水町
などいくつかあったが、その数は十指に満たなかったのである。そこから、「要求に責任
を持つ地区・支部執行部」という課題が鮮明になる。「地区総行動」が・・・の大会議案
にとりあげられた。
 「地区総行動の手引き」は、その運動の産物である。一九八〇年六月二三日、執行委員
会のある日の朝、雑賀は、六時前に目を覚ました。「地区総行動の手引き」の構想が浮か
んだ。ザラ紙三枚に、書き殴ったものができた。書記局に出勤すると、西山嵩子副委員長
に「これをみてくれる?」とまわし、西山が、要求の具体例をいくつか書き込み、山本書
記に清書してもらった。この「手引き」は、今でこそ活字になっているが一年以上の間、
山本書記の手書きの印刷物のまま、なんどもファックスにかけて使われた懐かしいもので
ある。
 そのころの執行委員会で、西牟婁支部の○○書記長が報告をした。「西牟婁に小さい学
校で、母親から『小学一年生のこどもに、土曜日の帰りにパンとミルクを飲ませて帰して
ほしい』という要求がだされ、職場で話しあって解決しました。」その子は、山の上の家
から通学している子であった。執行委員会は、そういう具体的な要求が職場で解決され、
しかも執行委員会で報告されるということを高く評価した。日高から、おもしろい報告が
あった。「ある学校で、運動場の真ん中を、お百姓の人が車で通るのです。運動場を買収
したとき、そこに農道があったので、通行権があるのです。教育委員会交渉で、農道を別
につけさせて解決しました。」
 有田の○○書記長の報告。「今年は教育委員会と交渉すると様子が違う。要求が具体的
なものだからほおっておけなくて、教育長が学校を回ってきた。要求書を手にし、職員に
メジャー(巻尺)を持たして。」
 要求アンケートは、職場から地域に広がった。最初に、要求を総まとめした刷子をつく
って配ったのは、那賀の○○書記長であったが、○○書記長は、一人で三人の父母から要
求アンケートを集める運動を提起した。組合員は、運動会で学校にきている父母をつかま
えるなどして、アンケート集めた。日高支部では、春闘の統一行動で集会のあと地域に入
りで、アンケートを集める取組をした。
 話は前後するが、「地域要求アンケト」のきっかけをつくったのは、伊都・かつらぎ総
行動である。組織率の低い伊都で、なんとか迫力のある運動をと○○副支部長らは考えて
いた。解連の役員でもあった西岡は、教組・解連・新婦人など共同で「地域要求」を集約
し対町交渉にとりくむことを考えた。書きやすいように「○をつけて下さい」式のアンケ
ートの最後に「その外、何かありましたらお書きください。」という欄に、どっさり要求
がかかれていたのでびっくりしたという。いちばん多い要求は「ゴミの回収」の問題であ
った。対町交渉には、教組の組合員の数よりも多い参加者があったという。このとりくみ
を聞きつけた日高支部の書記長から、本部に電話があった。「伊都でアンケートやったら
しいやないか。そのアンケート送ってくれ。」「まだ本部ももろてないのや。」「なにして
るんな。頼りにならん本部やなあ。そんなら伊都から直接おくってもらうわ。」まだTE
Lファックスのなかったころのことである。(日高の書記長は本部に対してこんなぞんざ
いな口のききかたをしたわけではない。しかし、私は、支部の創意性を汲み上げて広げる
上での自分の感度の悪さを痛感したので、こんな具合に「作文」してみた。)

(5)日教組の画一的ストライキのおしつけに反対して

 機械的労働者論の立場をとる日教組は、画一的ストライキ戦術に固執していた。197
・年、東京都教組は、ストライキにあたってこどもの安全と保護にあたる「保護要員問題」
を提起していたが、それを日教組指導部は、「スト破り」と決め付けていた。一九七四年
からの「教師・教育論」論争からは、画一スト反対のわたしたちの立場を「教師聖職論・
スト回避論」ときめつけ、厳しい避難の声をあびせた。しかし、その反面で日教組主流派
県もふくめ、スト突入県と脱落県、同じ県内でも突入組合員と脱落組合員は固定化し、突
入率は低下していた。九州各県などの組織率低下は著しく、さらに救援資金はふくれあが
り、年間百数十億円という膨大な負担になっていった。いまこそ、教職員の特性を生かし、
全組合員のたたかうエネルギーを引き出す戦術が求められていた。
 和教組は、一九八五年の春闘から、「画一スト反対・ストライキを含む多様な戦術でた
たかう」という方針で日教組中央委員会や戦術会議にのぞんだ。それが否決され画一戦術
が決定されたときは、批准投票でも組合員の前に「反対」の立場を明確にし、批准結果は
一〇%台にとどまった。和教組が提起する「授業に食い込まない午後三時以降の戦術」に
ついては、八〇%台の高率批准を成功させていた。
 このころのストライキ闘争の記録を調べてみると「おやっ」と思うことにぶつかる。東
京・大阪・京都などの各県は早朝授業食い込みストに参加しているのに、和歌山が脱落し
ているケースが二件あることである。中央での「統一派」(のちの「ありかた懇」)の会
議の結論を雑賀がとりちがえてきたものであった。その一つは、「四〇人学級問題など定
数改善」の一九・・年一二月のスト。もう一つは、翌年春闘での退職手当改悪反対ストで
ある。
 退職手当反対ストについて、雑賀は、日教組戦術会議で次のように主張した。
「画一ストには、各県の状況によっては、今回のように賛成できないことがおこります。
第一に、その県の組合員の多数が突入して団結を強められる戦術かどうかの問題です。第
二は、そのたたかいが、父母・県民の理解を得られるようにするための教育運動などをど
こまで広げているかの問題があります。さらに第三に、各県内の政治状況のちがいがあり
ます。和歌山のような保守県と東京・大阪・京都のような革新自治体が最近までつづいて
きた地域で必ずしも同一戦術はとれません。和教組執行委員会は、和歌山の組織に責任を
持つものとして、この戦術には賛成しませんでした。」
 「スト万能論者」からは、はげしいヤジ。どこからも弁護発言なしにこの会議は終わっ
た。しかし、そのあとの統一派の会議で、「退職手当問題での第二波ストに、突入すると
いうことでいいのだろうか。」との議論がされた。中央執行委員の湯浅は、「雑賀氏が会
議で発言したことは、ほぼ正当なのではないか。」とのべ、第二波スト批准にあたっては、
統一派各県は、「画一スト反対」の立場をとった。雑賀は、ほっと胸をなでおろした。
 画一スト反対は、「ストつぶし」ではない。労働者としての要求実現への決意を示すた
たかいを、国民要求実現のたたかいと結ぶとりくみの探求である。日高のスト集会と住民
アンケートの結合は、その一つの試みであった。もっと一般的に行なわれたのは、ビラ宣
伝である。スト当日のビラということではないが、「うちの子、学校でついていけるのか
しら」というビラが一九七五年ごろに(情宣部長・松本公忠、松本は現場に近いところで
ビラをつくろうと海草支部へやってきた。雑賀と松本の現場での同僚である市原が協力し
てつくったビラである。)
 翌年は「ぼくにも分かるまでおしえて」というビラが出されている。機関誌協会の岡本
卓氏によれば、「えらい勇気を出して作ったビラやなあ。」と機関誌協会で話題になった
という。こうした、二〇万以上のビラを全県に配布する方法もあるが、もう一つ、地域ご
とにビラを作成するという方針がとられた。一九八・年のストライキにあわせて、地区
(班)ごとにビラをつくることが提起された。このとき和歌山市の活動家・○○が、雑賀
に言った。「本部はいろいろ思いついたことをいうてくるが、現場の活動家自信なくすよ
うなことをしたらいかん。ビラようつくらんと困ってるやないか。」よく似たことが那賀
支部の○○書記長が言ったことがある。本部で片面作り、裏面は支部で作るようにしたと
き那賀で一度だけ、裏面白紙で配ったことがあるようだ。「裏面ようつくらんで白紙のま
ままかせるなどというのは惨めな気持ちになる。」と。
 「よく読まれるビラとは何か、それは自分たちの具体的な要求を取り上げたビラだ。要
求を羅列しただけでも立派なびらになる。」スト当日配布されたビラの種類は三二種類に
およんだ。
 北山村でまかれたビラをみて、村長は頭にきたという。「村の道路を直してください」
と書いている。それは、村長がかねてやりたかったことだった。それを教組にビラにされ
てしまうと、村長が教組にいわれてやったことになるではないか。村長は村内の全部の校
長とPTA会長を呼び集めた。
 のちに、このことが和教組執行委員会に東牟婁支部書記長から報告された。「・・・・
・ビラをつくるのにも配慮がいる、という論議をしました。」その報告に対して「その総
括はおかしい。」という意見がでた。「この問題から学ぶべき教訓は何か。第一にも、第
二にも『具体的な要求を書いたビラは、町長をビリビリさせるほどの威力がある』という
ことではないか。そのことを五回ぐらい強調した後で『配慮』というようなことも少しは
言ってもいいが・・・」

(5)「封書ビラ作戦」と「統一労組懇の全県縦断行動」

 これらの取組の頂点に、一九八二年の「封書ビラ作戦」がある。臨調行革が本格的には
じまったこの年の九月、鈴木内閣は「公務員の人勧凍結」を閣議決定した。総評・日教組
は、「一日のストライキ」を提起した。「人勧は、公務員だけの問題ではない。多くの国
民に影響する。それを訴えれば、国民の理解が得られる。」どの公務員組合もそのことを
強調した。そのことは大切な観点に違いない。しかし、この年の七月、初めて「生産者米
価据え置き」が行なわれている。これは、人勧凍結の布石であった。そのとき、公務員労
働者は農民を支持してたたかったのか?
 わたしたちは、「人勧が国民生活と結びついていることを宣伝するとともに、人勧の穴
から世界をみるというようなことでなく、臨調行革は、国民総被害を与えるものだという
ことを明らかにして、被害を受ける国民各層の共同行動という観点でたたかうべきだ。」
と主張し、一発のストにかける戦術には賛成しなかった。それに代るたたかいは何か。その夏から準備が進んでいた統一労組懇・大運動実行委員会の「全県縦断行動」と和教組
の「封書ビラ作戦」である。
 「全県縦断行動」の経過は、「労働運動」誌の一九八三年 月号に、くわしいので省略する。
 封書ビラというのは、臨調行革に反対し、教育要求前進を求めるビラを本部で作る、支
部でも地区でもつくる、職場でもつくっていい、それに署名用紙をいれ、封筒に入れて父
母の宛名を書いて届けるという運動である。届けきれないときは郵送してもいいが子供に
持って帰らせることはしないことは明確にした。はじめは足が重かった。「なぜ全戸配布
しなのか。」「父兄名簿をつかうと守秘義務違反にならないか」など。秋年闘争方針を決
定する県委員会である支部長が、賛成演説をしてくれた。「これは大事な方針だというの
で、うちの職場で全隣地図を買ってきました。それで校区地図をつくったらたたみ二畳の
広さになりました。それに、生徒の家を赤ペンでいれて、地区毎に分担し・・・」
 実は、このはなしは後で聞いてみると支部長氏の「構想」だったようです。
 「心の通うビラ」と銘打った作戦は大きな反響を呼び、署名は・・・・も集まった。


         


補論・「スト参加者氏名公表問題」


 和歌山市の稲垣教育長は、タカ派としてならしていた。タカ派というのも実は弱いもの
である。稲垣教育長は、市教組との団体交渉に、PTA役員を同席させたことがある。労
働組合とのやりあいを「有力者」父母に聞かせれば、自分の方に有利になるという判断に
基づくものであろう。
 一九八八年の夏のことである。和歌山市役所の前に「スト参加者氏名公表」というベニ
ヤ板を張り合わせた看板がはりだされた。看板をたてたのは、右翼団体であり、二回目の
看板が立てられる前に、看板屋のおやじが教組に連絡してくれたので、どこの看板屋にだ
れが注文したのかまで明らかになった。
 はじめは「中学校の部」で、数日おくれて「小学校の部」であったろうか。その逆であ
ったろうか。いくつかの「赤マル」がついていた。「赤○は共産党員です。」
 「赤○」は、五つぐらいついていただろうか。共産党県委員会の岩城正男労対部長は、
それをみて頭にきて言った。「ばかにするな。市教組の共産党は、その何十倍もある・・・・」
 和教組・市教組は、ただちに抗議行動を組んだ。スト参加者氏名は正確である。市教委
が右翼に情報を渡したことは明白であった。和教組本部・市教組執行部合同の対策本部が
作られた。支部は、太田支部長・堀井書記長など執行部、本部からは、田淵副委員長・雑
賀書記長などが張りついた。
 雑賀・堀井が相談して出した方針・分担の一部を紹介する。
@共闘の支援を広げる            担当・太田支部長
A職場の怒りを結集し市教委交渉を繰り返す  折衝担当・坂下副支部長
B父母の理解を求める対話集会        担当・堀井書記長
 このとき、組織された教育対話集会は、和歌山市で勤評闘争以後、企画された最大の対
話集会運動であろう。各組合から、役員の地域別名簿が集められた。教育共闘が組織され、
その事務局長には、地区労の藤原事務局長があたった。・月・日、経済センター十階で、
教育対話集会を準備する会議が二百人規模で開かれた。その企画は、堀井・雑賀によるも
のだった。全体の意志統一の後、中学校区別にわかれて打ち合せがつづいた。その後いく
つかの地域で対話集会が重ねられることになる。この対話集会にも妨害が加えられた。市
が、公民館など公共施設を貸さないという暴挙を行なったのである。のちに市教組書記長
をつとめたKは、当時・・中学校にいたが、市教委がいったん貸した会場の使用許可を
取り消したため、急遽、市教組に会場を変更し、参加の父母を車でピストン輸送したとい
う。
 稲垣教育長は、PTAを利用しようと役員会を開いた。当時、最も民主的に運営されて
いたPTAの一つに、今福小学校PTAがあった。その会長の吉田教育庁職組委員長のメ
モで、わたしたちは、教育委員会がPTAをどう利用しようとしているのかを知ることが
できた。市教組は、PTA会員宛ての手紙の郵送をおこなった。手紙の作成には、田淵副
委員長があたった。
 たたかいは全国的にも注目され、共産党・社会党とも全国規模で調査団を送りこんだし、
市教育会館でひらかれた支援集会は、地区労の人たちで溢れるばかりになった。本州化学
闘争の直後である。県地評・地区労でも連帯・相互支援の気運はつよかった。日教組との
関係では、闘争資金を出してもらおうと、北又・雑賀が日教組で田中書記次長に会い、支
援を要請する。三役応接室というような部屋に初めて入った。三〇〇万円ばかり出してく
れたのではなかっただろうか。
 合同法律事務所には、大変お世話になった。最初は、「氏名公表看板」撤去の「仮処分」
である。みごとに仮処分が認められた集会で、岡本弁護士は、「不利益の損害賠償要求を」
とアジッた。その延長線上で・・・人の「不利益訴訟」(稲垣教育長の告訴・告発)とな
る。最初に警察で意見をのべたのは、岩城史先生であったと記憶している。勤評闘争でも
岩城史先生は証人として裁判所で意見陳述をしたことがあるが、こうした土壇場で勇気と
ねばりを見せたのは婦人の先生方であった。ただし、この「告訴・告発」は、のちに足並
みのの乱れも起こり、代表者による「告訴・告発」に切り替える。そして、「市教組・市
教委の関係正常化」の覚え書きを交わして取り下げたのではなかっただろうか。(正確な
資料は揃っているはずなので、しらべてほしい)
 労働組合の戦術上の問題として総括しておけば、この、スト参加者全員による告訴・告
発という戦術は、戦列を横並びに組んでいたという問題を持っていた。闘いというものは、
つねに戦列を菱形に組むというのが原則である。つまり、先進層・中間層・遅れた層の存
在を前提として、先進層が前に出て遅れた層をかばいながら全体を団結させなくてはなら
ない。スト参加者は、組合員の中では「先進層」ではあるが、権力を一人一人が告訴告発
するたたかいに直面するとき、そこには、三つの層がやはり存在する。そのことを無視し
た「一線横並びの戦線構築」というのは観念論である。そういう問題を含みつつも、多数
による「告訴・告発」は、大きな力になった。「氏名公表」は、一九七八・七九・八〇年
まで三回つづくが、最後の「氏名公表」のときには、稲垣教育長は、市助役となり、石垣
教育長が就任していた。稲垣の助役昇格は、形式的には昇格であるが、これ以上教育長を
させておいては教育界が混乱するばかりだという市長部局の政治判断が働いたものであろ
う。三回目の氏名公表で抗議を受けた石垣教育長は、困惑の表情を示した。その後、市教
組と市教委の間は、正常化にむかった。

 このたたかいの最中に、雑賀個人としては、大きな失敗をしている。永井元文部大臣が、
新南小学校に講演に来たことがある。そのあとの懇親の席で「氏名公表問題はおかしい」
ということが話題になったということを雑賀が小耳に挟み「和教時報」に、囲み記事で載
せた。それが事実でないというので、そのPTAから抗議を受けた。雑賀は、「たしかに
ある人から聞いたが、ニュースソースは言えない。」と突っ張ったが、永井氏が講演した
日がまちがっているなどの問題もあって、謝るほかはなくなってしまった。手土産を持っ
て北又委員長に一緒に誤りに行っもらったという失敗談を雑賀はどこかに書いている。

         

三、人材確保法案と主任任命制

1 人材確保法案と教員・学校事務職員の分断攻撃とのたたかい

 田中内閣が「教師の月給を二倍にする.」と宣伝しっつ、「教師聖職論」をぶったこと
はすでにふれた。その具体化が、「人材確保法案」であった。
 「人確法」にもとづく「給与改善」と「分断政策〕は、四回の人事院勧告に分けて行な
われる。
第一次改善(              年 月勧告)     給与七%            
第二次改善(              年 月勧告)     給与三% 主任手当  
第三次改善(              年 月勧告)     主任手当の拡大      
第四次改善(              年 月勧告)     部活動手当          
 日教組レベルでは、「人確法は竜饅頭だ。絶対反対でたたかえ。」という意見が出る。
しかし、給与改善を含む提案を、「絶対反対」でやりきれるはずがない。日教組は、「歯
止めの確認」をとって、人確法をめぐるたたかいは、地方レベルのたたかいに移される。
 人確法をめそるたたかいの最初は、教員と学校事務職貝の団結をどう守るかのたたかい
であった.「事務職員切り捨ての見切り発車だ。」と事務職員からの不満が出る。もとも
と、職場での事務職員の不満がこれをきっかけに噴出し、職場民主化の課題が明確になっ
たとも言える。和教組は、各支部数名の事務職員代表をまねいて、執行委員会との懇談会
も開いた。一九七五年の年来確定闘争は、「地方財政の危機」を口実にした「一号俸下位
切り替え」の攻撃がかかったたたかいであつたが、「教行格差」をどうちじめるかのたた
かいが組まれる。
 結局、事務職貝・行政職員には、「六短+三短と超勤二%引きあげ」が行なわれる。当
時、知事部局は、知事推薦団体になりさがった県職を優遇するための「差別三短」を乱発
していた。和教組・教育三者は、「差別賃金反対」を年末確定翠では強調していた。しか
し、今回、学校事務職員の賃金を改善するためにも、教育庁職員の賃上げのためにも、行
政職全体の賃金を改善することを要求した。田淵三者共闘事務局長は、「行政職独自の三
短を実施せよ。教員との格差をちじめるためのものだから、われわれは『差別だ』とは言
わん」と強調した。

 四、主任任命制反対闘争

1、和教組の主任任命制反対脚争と「梅日教育長回答」
 学校現場にタテの管理統制を強化しようという「主任制」導入がたくらまれた。和教組
は、タブロイド版四面の大型和教時報「主任任命制反対・・・」を発行し職場討議を呼び
掛ける。
 「主任任命制反対」という表現に、和教組のたたかいの観点が示されている。「学校職
場に、主任や係がいるということを否定しない。しかし、そういうものも含めて、民主的
な学校運営が大切だ。上からの主任任命という制度は、民主均な学校運営をぶちこわし、
教育と教職員への管理統制を強めることになる」
 書記長の田渕史郎が、ある会議で、中央の統表の会議の報告をした。
 「主任任命制反対嬰の絵括の観点は何か。主任任命制の実施をどれだけ遅くするかとい
うことに評価の観点をおくのではない。このたたかいを通じて、学校の管理統制を強化す
るというそのねらいを打ち破り、民主杓な学校づくりをどれだけすすめられるかにある。」
すでに、文部省令が改悪され、たたかいが地方段階でどれだけ歯止めをかけられるかに焦
点がうつされたときのことである。田渕は、付け加えて述べた。「このことを理解するう
えで、三池闘争などを経て、日本のたたかう労働組合運動が到達した、合理化反対闘争で
の原則的で柔軟な闘争指導の原則を学ぶことが重要である。」
 今後も何度か言及することになるかもしれないが、田渕と「原則的で柔軟な闘争指導」
は、切り離せない.田渕は、「勤評和解」(一九七五年)によって、「免職幹部」から「休
職専従」に変わる(岡本佳雄は現場教師にもどる)が、そのときの立候補あいさつに「(永
く役員をさせれもらって)原則性と柔軟性を身につけることができた。これを今後和教組
のために生かしていきたい。」という意味のことを述べている。もう一つ、つまらないエ
ピソードを紹介しておくと、のちに田渕が県地評議長なったとき、社会党の旗ひらきで、
全電通の反共幹部龍田(四、一七スト問題で反共に転向)とすれちがったとき、龍田は言
ったという。「田渕君、この頃は柔軟にやってるらしいな。でも『原則性をふまえた柔軟』
じゃ駄目だよ。」
 はなしを元に戻すが、田渕報告を聞いたとき、海草支部書記長であった雑賀は、家に帰
って「合理化反対闘争の教訓」をひもとく。雑賀が、ひもといたのは、「合理化反対闘争
の前進のために」「労働戦線の階級的統一をめざす、労働組合運動のあらたな前進と発展
のために……十大会六中総」(ともに日本共産党の文献)であった。「原則性と柔軟性」
という言葉を使うときこの二人の頭にはほぽ共通の概念が浮かんでいた。雑賀は、田渕が
この間題を解説するとき、やや団体交渉のテクニックに傾いて解説しすぎるという意見を
持ってはいたようだが、そういう微妙な理辟の違いも含めて、おたがいに考えていること
を分かりあえていたというのが、この二人の関係であったろう。
 当時の梅田教育長との問で、和教組・和高教の団体交渉が繰り返される。和教組・和高
教の関係は、かならずしもスキッとしていなかった.和教組は、田渕が報告した戦略目標
を明確にしていたが、和高教はどうであっただろうか.よその組合のことを勝手に解釈し
て論評することは差し控えるが、ひとつの場面を紹介しよう。
 両教組が、県教育委員会に「教育現場と主任の役割を聞かせる会」を開いた。後に紹介
する「主任のあり方について」の梅田教育長回答にもって行こうとする和教組の戦略の一
環であった。和高教の参加者は、県教育委員会を吊し上げる場にしようとした。「そんな
打ち合せじゃなかった」と田渕に耳打ちされて、組合員の説得にあたつた雨積和高教書記
長の姿が思い出される。
 またも脱線だが、雨積は、こんなことを言ったことがある。「田渕さんと書記長をした
ときは、しんどかった。歴戦の強者だもの。野田さんに変わってほっとした。年下の雑賀
さんに変わったときは、うれしかったよ。」雨積和高教書記長は、和教組書記長が、年令
にして、二段階十七年ぐらい一気に若くなる時期につきあってくれた和高教書記長である。
 こうした闘いをへて「梅田教育長回答」が、引き出され、たたかいは収拾する。その内
容は、今でも民主的な学校運営の基本として活用されている。中身のつめは、田渕書記長
と高橋教育次長(のちの教育長)があたった.高橋氏は、教育長をやめるとき、教育三者
による送別会をしてもらい、そこで議長の川端ライ三氏は「残り香のする高橋教育長」とい
う言葉を贈る。いろいろな意味がこめられた味わいのある言葉であるが、誠実なひとがら
で、内外から信頼があつかった。政治的には、自民党のボス、妙中正三の子分であったが。
田渕・高橋の関係というのも、立場の違いをふまえた上での、特別の信頼関係があった。
 高橋教育長についての余談をひとつ。高橋氏のパチンコ好きは、有名であった。一時、
教育委員会内での出世コースから外れた時期、昼休みはパチンコ屋にいりびたっていたと
も聞く。
 「休みの日は、汚い服をきてパチンコやるんよう。となりの人に『おいやん、何してる
人よう』ときかれると『織り屋へいってるんや.妙中さんとこよう』と言うておく。そう
したら、『不景気であかんけど、妙中さんとこらは、まだ仕事あるんやろなあ』と言われ
た。」教育長と言う顔をしては、パチンコもやりにくかったようだ。
 その高橋氏が、こういった事がある.「妙申さんに呼ばれて怒られたんや。お前はだれ
のおかげで教育長になってると思てるのか。自民党の教育長なんやそ。共産党の世の中や
ったら、おまえは教育長になられなんだんやそ。それやのに、おまえは教組の肩ばっかり
持つやないか。よう考えてみい。」
 その話を、和教組の委員長・書記長が入ってきたときの雑款で、だからどうという深刻
な顔もせずにしたものだ。パチンコ屋での話でもそうだが、高橋は、自分が妙中の子分で
あることを隠そうとはしなかった。それでいて、利権や権力欲をギラギラさせず、誰にも
誠実に接するところに、高橋の人間的魅力があった。
(注)妙中正一………自民党の有力県議。「知事が二人いる」とまでいわれたらしい。女
性教師攻撃の発言をしたこともあるが、「勤評和解」は、この人が腹をくくつて中に入っ
たから出来たのだともいう。
 さて、本論に戻って、主任制反対闘争は、地域でも、梅田回答の確認闘争が行なわれた。
それは、主任制実施ギリギリまでつづいた。ある日の本部執行委員会で、ある役員が「支
部はいつまでズルズルとひきずってるんだ。」と発言したことがある。「馬鹿なことを言
うな。」と支部書記長は反発した。「我々は、どんな確認がなされようと『主任任命制』
には、反対だ。ギリギリまでその旗を鮮明にして闘っことが、たとえ押し切られても民主
的な学校運営を職場で残す力になるのだ。」と。
 三池闘争が、「ホッパー砦のたたかい」に矯小化されていったことは、三池闘争の社会
民主主義的指導の弱点の象徴である。しかし、ホッパー砦のたたかいや「ホッパーにらん
で夜明けまで、無口のあんたが火を囲む、………」という荒木栄の「三池の主婦の子守歌」
は、ジーンと胸にくる。闘っても敗けることがある。敗けても財産を残さなくてはならな
い。しかし、ひとつひとつの節を闘いきらなくては、一片の文書を確認したからといって、
財産を残したとは言えないのではないか。当時の和教組組合員は、そのために最後まで奮
闘した。
 その年の、日教組定期大会には、北又委員長、野田書記長、雑賀書記次長等が参加する。
北又・野田のあいだで、こんな会話があった.「準備した発言は、やめとこう。日教組全
体はまだそんな雰囲気やない。二、三年たったら、あの確認はずっしり値打ちがわかって
くると思うが………」

2、職域での、主任任命制反対闘争
 職場での主任任命制反対闘争は、複雑であった。
 学年主任は、なんらかの形で置かれていたのだから、民主的に選出すればいい。問題は、
教務主任である。海南・海草で調べてみると、従来から教務主任をおいていた学校は三九
校中ひとつしかなかった。教務主任のやりそうな仕事は、「時間割り係」「現教主任」な
どいくつかの校務分掌に分かれている.職場の対応は、二つに分かれた。

 @従来どうりの公務分掌にしておいて、教育委貝会に報告用の「教務主任」を置くが、
実際はなにもしない。
 A「教務主任」にあたる仕事は、誰かがしていたのだから新たに教務主任というポスト
にその仕事を集める。しかし、管理的な仕事はしない。
 かなりのちになって和教組本部としてこの問題をとりあげ、「学杖の民主的運営を守る
ための学校現場の創意性」として評価する。@の方式は、一見、兵庫県教組などがとって
いた「主任不要論」と似ているように見えるが、従来から必要として置かれていた主任を
含めた合理的な枚務分掌を踏襲するのだから、「主任不要論」とは異なる、という評価を
したのである。
 もう一つ、もめた問題に、「保健主事問題がある」従来の和歌山県市町村立学校学枚管
理規則(準則)には、「保健主事は、教諭をもってあてる。」とする一項目がなかった。
県立学校管理規則には、この項目があったから、行政側から言えば整備の不備であったろ
う。高枚では、その管理規則にもかかわらず養護教諭が保健主事になることも黙認されて
いたようだ。小中学枚では、かたくなな地教委が、規則に固守し問題が起こつた。
 海南第一中学校では、ベテラン養護教諭の新谷先生が保健主事を努めていた。職場はそ
れで支障はなかったとして、主任制度が発足しても、従来どうりの方式を決めた。校長は、
三月まで、海草教育事務所所長をしていた森川であった。森川も職場の意向をみとめ、そ
のまま、教育委員会にとどけにいくが、「松尾教育長に突き返された。」としょげて帰っ
てくる。支部執行部が、松尾教育長に抗議すると、「別に突き返したのではない。あなた
が、事務所長として指導したことと違うのではないか、と言っただけだ。」と答えた.学
校現場をわすれた官僚的教育委員会の姿が浮き彫りになる。森川は、なやんだ。職場は、
支部書記長(雑賀)もはいって討議の未、「まじめな森川校長を辞職にまで追い込むよう
なたたかいは組むべきではない.」として、問題の本質を明確にしつつ柔軟な対応を検討
した。
 その後、下津町の養護教諭・小林先生は、保健主事になっているから、地教委の裁量で
どうでもできる問題なのである。教職員が五人しかいない小学枚にでも、かならず養護教
諭とは別の保健主事を置かなくてはならないなどという規則は、机上の作文にすぎない。
後に、この問題を指摘されて、県大浦教育長は、「養護教諭も、教諭やないか。」と口を
滑らせ、「それでええか」と雑賀につめられ、「いや、冗談だ」と取り消したことがある。

3、主任手当問題について

 主任制度につづいて、任命主任に、一日五〇〇円の手当を付ける主任手当が出される。
分断と管理統制のための主任手当に和教組が反対したのは言うまでもない。ところで、全
国多くの県で取り組んだ「主任手当拠出闘争」に和教組は、あまり積極的でなかったとい
う問題がある。すこし、えぐってみたい。
 全国的な統一派レベルの論争から紹介する。まず、拠出云々の論争の前段で、「主任手
当」に対置して、どういうスローガンを掲げるかの問題があった。当初、「主任手当をや
めて高校増設を」というように、主任手当などに出す金があれば教育予算にまわせという
スローガンが出される。それについて、「主任手当という、賃金・手当に属するものを削
って教育予算にまわせでは、全教職員の団結はできない。」という意見が出されたようだ。
そこで「主任手当をやめて、全教職員の賃金改善を」というスローガンが、提起される。
わたしは、このスローガンが的確であったかどうかに疑問を持っている。和教組の主任手
当論議は、この後者のスローガンの延長線上で進むことになる。しかし、後に見るように、
このスローガンは、全国の各県には受け入れられなかったようだ。
 和教組段階の論議にもどろう。和教組の会議で初めて主任手当が論議になるのは、一九
八七年度の県委員会の席上である。野田書記長は、「主任手当のあつかいをどうするのか。」
という質問に対し、「主任手当は個人の所得です。」と述べる。ただし、この時期には、
執行委員会でも常任会議でも十分論議はできていなかったと思う。 一九八八年三月ごろ、
翌年から書記長になる雑賀が、初めて中央の統一派の会議に出席して和教組の見解を主張
する。雑賀の主張は、「主任手当は、職場の分断と管理統制が目的です。たたかいの基本
は、そのねらいを許さないことです。拠出する・しないが中心ではありません。和教組と
しては、そのことをふまえて、主任手当の扱いは職場の合意に委ねることにし、拠出運動
はしません。」その意見をうけて、助言者として座っていたA氏が言った。「もし私が和
教組の書記長であったら、それじゃ困るんだなあ。どうしていいのか分からない。運動に
ならない。」
 雑賀は、それにもかかわらず、こう考えた。「世界の労働組合のなかに、金をやろうと
いわれて、返上という方針で団結できた事例があるのか。賃金要求の基本である『一律プ
ラスアルファ方式』(賃金格差があるとき、高いものを削れでは団結にならない。高いも
のも低いものも搾取されているのだから全体について大幅賃上げを要求し、あわせて低い
ものの底上げプラスアルファを要求する)からいってもそうだ。」そして和歌山にかえる
と会議の報告はしたが、「和教組の方針は変更する必要はないと思う。」と主張する。
 今から考えると、「主任手当をやめて全教職員の賃金改善を」というスローガンから、
雑賀の考えを貫いていたものは、「手当」の問題だから賃金闘争の理論から解明しようと
いう発想であった。このことは、教職員に特有の民主教育を守るエネルギーを軽視するこ
とになる。主任手当拠出などというのは、まさに世界の労働組合運動に例を見ない闘争方
式だあった。さらに和教組執行委員会には「管理職手当の拠出は、すぐにつぶれてしまっ
た。」という経験があたまにこびりついていたこともあった。しかし、管理職から主任へ
と大きく広げられたとき、民主的エネルギーの源泉が大きく広がることについての過小評
価があった。
 その後、和教組執行委員会は、たびたび手直しをはかる。そこで、「和教組の主任手当
について方針はまちがっていたのか。」と当時支部執行部で和教組方針の正しさを説得し
てくれた活動家層から反発が出る。田渕は「基本的に正しかった。その範囲内での新しい
提起です。」と解説するが、雑賀は、以上述べた「経験主義」の弱点をこの際えぐったほ
うがいいと考えている。
 しかし、このことはたいした問題ではない。主任手当を拠出しようがしまいが、そのこ
とで職場の団結にヒビがはいるわけではない。雑賀は言う。「和教組の方針はまちがって
いないのです。でも、Aさんの指摘が、今も心に残っています。『正しいけれども運動に
ならない』と私は言い換えて理解していますが・・・。ときどき和教組の方針は、正しい
と思うがどうしていいのか分からない。」と言われるときがある。観点はただしい、しか
し、観点だけでは運動にならないのです。観点は、正確・全面的に、しかし、運動の提起
は、おもいきって単純化することが大事なときある。「Aさんは、大変偉い人なので、ま
わりの人はなかなか食いつかないのですが、わたしはいつも食いついてボロクソに批判さ
れ、そこから栄養を汲み取ることが良くあるのですが、なつかしい思い出です。」
 主任手当のあつかいという狭い問題でなく、和教組方針の正しい観点と具体的な方針提
起の結合という課題が鮮明になる。「ストライキを含む多様な戦術」は、観点である。「封
書ビラ作戦」というのは、きわめて単純化した方針提起であった。


         

四、「多様な戦術」の新しい発展段階と「高度な指導性」


1、新しい発展段階と「高度な指導性」の探求

 「ほんりゅう」の一九八・年・月号に雑賀書記長の論文が掲載される。この論文は統一
労組懇総会での討論を聞きながら「深い感動とある種のあせりを感じた。」という感想で
始まっている。彼は別の場所でこういったことがある。「和教組の多様な戦術というのも、
対話集会、ビラ、署名、要求アンケートなど、ある時点までは和教組が号令をかけて進ん
だ。その頂点が、一九八二年の「封書ビラ作戦」であった。」
 なるほど、封書ビラというのは、和教組執行部が「よういドン」と号令をかけて始まっ
ている。しかし、その後の運動は、「和教組執行部の手から吹きこぼれる」ほど多様に発
展した。
 一九八三年、「ありかた懇全国総会」が和歌山で開かれる。この閉会集会で雑賀は、和
歌山の取組の報告をするが、そここんな趣旨の報告をした。
 「教育懇談会を大きく発展させた東牟婁支部は、まず教育臨調の学習を重視しました。
『労働運動』誌の都教組増田委員長の論文をマスプリして配りました。都教組作成の「教
育臨調」のスライドを八本もとりよせて活用しました。口の悪い奴は『都教組東牟婁支部』
などといっている。わたしは和教組の書記長ですから、あまりいい気持ちはしていません。
しかし現場組合員は、幹部のチャチな思惑を乗り越えて全国連帯を広げていきました。」
(報告の一部)
 その後のことだが「ヒロシマ・ナガサキからのアッピール署名」運動の報告を『労働運
動』誌に掲載したとき、雑賀は、同じく東牟婁支部の書記長と電話でやりあいしたが、東
牟婁の創意的な取組がわかったときシャッポを脱いだという意味のことを、やりあいの中
身も含めリアルに書いている。
「ほんりゅう」論文で、雑賀が紹介している「本部の手からふきこぼれる」とりくみを、
少し詳しく追ってみよう。


2、執行部の手から吹きこぼれる多様なとりくみ

(1)教育臨調反対の対話集会と「伝家の宝刀」論争

 「臨調行革の次は教育臨調だ」といわれはじめた一九八二年の「ありかた懇・長野集会」
は、「教育臨調反対闘争」を提起した。自民党は、五つの小委員会で教育反動化の検討を
していたが、その突破口として「教育二法」(教科書法案と教員免許法)を国会に上程し
た。
 和教組は、「教育二法を突破口とする教育臨調反対闘争について」という闘争方針をだ
し、組合員の討論とたたかいを提起した。戦後の教育反動化と民主教育をまもるたたかい
の分かりやすい年表もそえた討議資料は、良く活用された。ところで、その論議のなかで
出されたのが「伝家の宝刀論」である。一九八三年の春闘方針を決定する県委員会で、東
牟婁の県委員から、「われわれは、学習もした、署名も集めた。ところで伝家の宝刀(ス
トライキ)をいつ抜くのか。」執行部は、「政府自民党は、おおがかりな仕掛けで教育反
動化を企んでいるとき、もっと大がかりに父母と力をあわせて反撃する必要がある。」と
強調した。
 その方針を、思い切って具体化したのが当の東牟婁支部であった。書記長のMは教育
実践家でありアジテーターでもあった。かれは、「教育臨調反対を前面に押し出した教育
対話集会」を提起した。その年の五月、和教組は、宇野日教組中央執行委員を招き「教育
臨調反対闘争の活動者会議」を開催する。その場所で教育対話集会のとりくみが前進しは
じめたことに確信を持って報告したU支部副委員長の発言には「伝家の宝刀論」の影も
なかった。
 この年の二月頃、「教育五者連絡会」が結成され、和教組は、六月には「教育臨調反対
全県縦断行動」実施する。東牟婁の行動に参加した感動を、雑賀は「和教時報」に掲載し
ている。要旨、次のようなことである。
 「教育対話集会で報告者になったのは、一年生を担任している物静かなベテランの先生
でした。『ただしい教育と間違った教育という話をしますから、役員の先生、補ってくだ
さい』と打ち合わせ会で言っていた先生は、戦争体験の話をしたのです。女学生時代、空
襲の火の海の中を逃げ回ったこと。『それでも、私は戦争に負けるとは思っていませんで
した。それが戦前の教育でした………』教育が危ないとわかったとき、物静かな女性の先
生が、教育臨調の本質を語りかける。ここに、教職員のもつ民主的エネルギーの大きさを
見た。………(注)教育対話集会は、子どもの生活やさまざまな問題でとりくまれます。
いつも教育臨調の本質ということでやるわけではありません。念のため」
 その延長に、「七・一三教育臨調反対集会」が成功する。この集会は、演劇鑑賞会・元
ミール合唱団など文化活動家などの協力を得て、「こどもを守る歌」など盛り込んだ感動
的な集会となった。東牟婁支部の組合員は、学期末の忙しい時期に、片道五時間をかけて
バスで往復したのだった。
 先に紹介した、雑賀の「ありかた懇・和歌山集会」での報告は、その一ヵ月後のことで
ある。

(2)那賀の「地元高校受験のとりくみ」

 いつだったか那賀支部出身のM教文部長と雑賀書記長は、常任執務室で論争していた。
そばで、田淵委員長は、ニヤニヤしながら、黙って論争を聞いていた。雑賀の主張は、「中
学区制がしかれているという条件の下で『地元高校受験運動』という提起には無理がある。」
ということであった。Mは、那賀支部のとりくみを擁護した。ところが、雑賀が無理だ
と主張した、「地元高校受験・格差解消」が、一九八・年の四月から、見事に実現したの
である。事実を前に、雑賀はシャッポを脱いだ。
 たしかに、無理もある。私学がふえていく中で、その体制を守ることは大変である。し
かし、今後の推移がどうなろうとも、この大衆の創意によって生み出された偉大な挑戦は
大きな意義を持つものである。
 パリコンミューンに対するマルクスの態度やロバート・オーエンのニューラナークでの
試みを振り返りつつ・・・・。
(くわしい経過は、那賀支部作成のパンフなど参照)


(3)海南の「教育予算切り下げ反対住民過半数署名」
(海草支部からの報告参照)



(4)「ヒロシマ・ナガサキからのアピール署名」
 (「労働運動」一九八・年・月号に詳しいので省略する)


(5)日高の原発反対闘争や紀ノ川筋の和歌山線を守る闘いなど

         

五、原則性と柔軟性を結合した職場闘争指導


1、有田市の研修問題

 一九八五年秋のことである。婦人部全県地区代表者会議があったあと、婦人部長から報
告があった。
 「大会での発言ではないのだけれど、会議がすんでから『先生、ちょっときいて』とい
って相談をうけたんだけれど、有田市での研修を通じての管理体制が大変らしいよ。」そ
の内容は、文部省・県教育委員会の研修を先取りした研究体制がしかれているというもの
だった。「いちど有田へ行って調べてきてくれるか」と婦人部長のおねがいして行っても
らった。その報告は、大変なものだった。
☆年代別の二つの研修(「新低代研」「中堅教員研」)が押し付けられている。
☆有田市の財政状況(東燃におんぶしている)の講演がある。
☆「中堅教員研」では、研究テーマをもたされるが、ほとんどが道徳教育である。
☆研修会には、東燃の労務担当を講師に呼ぶ。      ′
☆「県外研修」というのがあるが、行き先は愛知県の豊田市になっている。
☆東然が社員研修として堺屋太一を呼んだが、その話を聞きにいけと研修参加著に指導主
事から電話がはいる。
 雑賀書記長はいう・「たまたま、琴の浦でバスをまっていたら、・有田市の知合いの先
生が車を止めてくれて、日赤病院までいくので乗りませんかというので乗せてもらって、
ね.気になっていた有田の研修問題のことを切り出したら、『大変なの、中堅教員研にだ
れに行かすかというので、教頭先生が授業中に教室へ来てれ、先生いってくれませんかと
頭をさげるの。行きたくないけど、どうせ一度はいかなくてはならないのならと、行くこ
とにしたけど………。組合はどう考えてるのかしら』現場の組合員がこんなことを考えて
いるとき、和教組執行委員会でそのことが議論になっていないと思うと恥ずかしさを感じ
た。おまえは誰に飯をくわしてもらってるんだ。現場の組合員にくわしてもらってるんじ
ゃないか』と自分を叱りつけた」と。
 そこで、雑賀は、三回つづけて有田市通いをする。
 有田地区の執行委員会は、箕島駅前の食堂の二階を借りて開かれていた。地区長・M、
書記長・Kである。本部書記長がのりこむのだから、支部書記長、書記次長も参加した。
 そこで改めて状況報告をうける。
 ある執行委員が報告した。「ぼくも、中堅教員研研に参加しました。有田市の財政のこ
とな′ど知らなかったので、けっこうおもしろかったけど………」他方、婦人役員からは、
この研修について婦人教員からどんなに不満が出されているかが報告された。そこから、
この研修の本質は何かという討論がはじまった。
 先に☆印で特徴を列記してあるから、お統みの方に辞レい説明はいらない。東燃城下町
である有田市の大企業主導の教員洗脳の研修である。臨教審や京都座会のメンバーである
堺屋太一が登場することからも、当時の全国的な企業戦略にのっとったものであることも
わかる。しかし、その研修内容は、雑賀個人で言えば興味もあり聞いてみたいものでもあ
る。そこで、「けっこうおもしろかった」という発言が出る。しかし、本質は、「けっこ
うおもしろい」ですまされる問題ではない。婦人教師が「ちょっと聞いてよ。こんなこと
組合で取り上げてくれないの」と訴えたことの方が、直感的に問題の本質を捕らえていた。
 さてどうたたかうか。相手は、東燃独占にむすびついた、海山千年のベテラン田中教育
長である.雑賀は質問した・「もう少し、学枚現場で起こつている不満や要求をきかせて
よ。」これに応えてくれたのは、やはり婦人の役員だった。現場の状況がだされた。「田
中教育長は、校長会でこんなことを言うそうよ・『五時になったら、先生らの駐車場が先
生らの帰る車で混雑する。勤務時間が終わったからといって、あわてて帰らんでもええや
ないか?』ひどいやないの」さらに、「研修会が終わった後、参加者のメモを提出させて
いる」という事実まで明らかにされた。
 ここで雑賀の頭にひらめいたのは、「言理化』反対闘争の基本」ともいわれる労勘組合
運動の原則であった。「そうだ、この問題も一緒だ」と雑賀はこころの中で叫んだ。「よ
し、いま出された問題で要求書に整理するから、それで職場討議をして、教育長交渉をや
ろう」
 ここひらめいた「『合理化』反対闘争の基本」とは、次のようなことである。
「『合理化』攻撃とたたかうにあたって、絶対反対だけで全労働者を結集できない場合も
あるし、力関係で跳ね返せない場合もある。そうした中で、『合理化』攻撃の本質を明ら
かにして絶対反対の旗を堅持しつつも、攻撃と職場組合員の対決点を具体的に明かにし、
具体的な要求にもとづいて組合員を団結させてたたかわなくてはならない」という問題で
ある。
 「有田の研修問頗」の本質は、財界主導の教育改革のための教職員への管理体制づくり
である。その攻撃は、職場組合員とのさまざまな矛盾を生み出している。その具体的な問
題と結び付けて、執行委員の活動家でさえも「けっこうおもしろかった」としかはじめは
とらえられなかった「有田市の研修問題」の本質に迫って行かなくてはならない。
 二回目に地区執行委員会では、雑賀が起案し、支部書記局で仕上げた、「間題の本質と
たたかいの方針」と「要求書」で職場討議と教育長交渉をすることで意志続一した。職場
討議を経て、多数の組合員が参加して市民会館で行われた教育長交渉では、さしもの田中
教育長も「車がこみあっている」発言について、「いらんこといって、わるかったかな」
といい、「メモを集めたのは、行き過ぎだった。」と認めた。「堺屋太一というのは有名な
人やと思ったので、先生らに聞いてもろたらいいと思っただけ」ととぽけたが、参加者か
ら厳しい追及をうけた。そして県外研修は、豊田市でなくても行きたいところに行けばい
いということになった。 
 その交渉をうけて地区集会が開かれた。地区集会でたたかいの経過報告をしたのはK
地区書記長。その方告の後、発言をもとめられた雑賀は、「地区執行部は、大切なことを
全部言ってくれたので私の方で付け加えることはありません」といつて、このたたかいと
執行部の奮闘を評価した。
 ちょうど日教組からオルグに来ていた碓田のぽる中執(のち日本共産党参議員比例区候
補)も参加したが「この地域ではいいたたかいをしてるんですねえ」と感想をもらした。
  しかし、雑賀は甘かった。これでよしと思って、あとは手抜きをした。ところが、この
あと「本人のの希望」ということで、かなりの活動家が有田市から湯浅へ放り出されたのである.
 岡本佳雄は、「和教組は現場のたたかいを指導してないやないか」といい、「いや、有
田市の問題ではこまではいってやった。」という雑賀の反論に、「おまえはちっともわか
ってない」と批判する。しかし、………。

2、黒江小学校の道徳教育研究会指定問題

 海南で県教研集会が開かれた、全体会の終わったときである。雑賀のところに、黒江小
学校の組合員があつまってきた。N前本部婦人部長、事務職員のUさんなどである。
「黒江小学枚の校長が道徳教育の研究指定を押し付けている。どうしたらいいのか。」と
いう相談だった。例によって現場の様子を聞く。「先生らおこっしもてるのよ。研究指定
の問題だけやないんやから。ここでギュツといわさなあかんから、絶対にけれという声が
中堅の女の先生の中に強いの。」
 そこで雑賀は質問した。「おこつてしもてるて、どんなこと?」
 「たとえば、子ビもの万引の問題があったの。私たちはその問題を教育の機会にしよう
として、父母と一緒に子どもたちに自分たちがしたことの意味を考えさせ、親と一緒に謝
りにいかせることなど論議していたの。ところが校長は………。」こんな話が一杯出され
た。
 そこで雑賀は提案した.「先生たちが、この研究会問題で枚長をギュツといわせようと
しているけど、本当に怒っているのは研究会問題だけではないんだ。研究指定押し付けに
象徴される子ども無視の教育がどんなにまじめな先生たちの教育活動のじやまになってい
るかを全面的に明らかにしてたたかう必要がある。そのことを全面的に明らかにすれば、
父母の日からみてもわれわれの正当性が明らかになる。そんな立場で、研究指定校押し付
け反対を軸にしながら要求を全面的に整理してみたらどうか.」
 前婦人部長は、さすがであつた。「わかったわ。わたし明日、午前中、年休とって書い
てみる。朝から支部でかくわ。」
 別紙のような、みごとな方針ができた.黒江小学枚の分会は、その方針で団結し、研究
指定はうけたものの、校長にあやまらせ、職場民主化を大きく前進させたのであった。

3、和歌山市の「勤務時間闘争」

 和歌山市の教職員の勤務時間は、「昼休みも拘束時間とする」という慣例が確立してい
た。労働基準法から言えばおかしいのだが、学校職場は、昼休みといっても事実上休憩に
はならない0小学校では給食指導をして食べるのが遅いこどもに付き合っているうちに昼
休みは終わってしまう。それなら、昼休みを「拘束時間」にして、その分早く帰れるよう
にするという訳である。冬時間であれば、学枚によっては四時前に勤務時間が終わる場合
があり、「実状に合わない。」という声もあった。これを、労働基準法にあわせて、実質
的に勤務時間を延ばそうというのが、「勤務時間問題」である。和歌山市教組の執行部は、
「全面拒否」では、父母・市民の理好も得られないと判断し、既得権剥脱反対を掲げなが
ら、教育委員会との間に検討小委員会を作り、協議にはいった。検討委員として、元和教
組常任の木下らが、執行部と連絡しっっ協議にあたった。しかし、苦労して作り上げたギ
リギリの妥協案が、市教組の分会長会議に提案されたとき、組合員から不満が続出した。
本部にも職場から電話が入った0現在教文部長の松本が、本部に来たばかりの年であった。
「市教組の会議で、これで纏めたいという提案やけど、みんな怒ってる。本部は、どう考
ぇてるの?」松本は、田淵委員長のところへ飛んでいった。「委員長、この問題はどう考
えたらいいんですか?」ここで、田淵は、闘争指導における「原則性と柔軟性」とは何か
の解説をする0 和歌山市支部から、「対策を検討する執行委員会を開くので、本部も来
てほしい。」との要請があった。雑賀は、田淵とひとことふたこと打合せると、和歌山市
支部へ出掛けた。 田淵・雑賀の間というのは、妙にツー・カーの関係があった。田淵の
名前で出された訴え文や新聞の座談会の発言がよかったと人に誉められ「あれは書記長の
代筆だよ.」と白状する場面がいくつかあったが、雑賀は「十年も仕えれば、この時には
委員長は何をいいたいかそらいの見当はつきますよ」と言って笑った・それほどこの二人
は、短時間お打ち合せで意志が通じ合えたものである。
 市教組の執行委員会では、書記長・川島は、急用で欠席、楠見が、代行して経過を報告、
協議に入る。いろいろの意見が出たのち、雑賀は、「少し整理させてくれ.」と、黒板に
板書を始めた。
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l、たたかいの基本方針
 @問題の性格 公務員攻撃のひとつ
        攻撃には反対する
 A情勢の厳しさもしっかりつかむ
 Bオール・オワ・ナッシングでは聞えない
 C勤務時間をめそる問題は、これだけではない
   研究指定校での長時間労働
   修学旅行のつきそいでの勤務は?
   実態と要求を全面的に明らかにする
 D職場の全組合員のたたかいにする
2、組合員から出されるかも知れないが、克服すべき意見
   @昼休み問題一本にしぽってたたかえ
   A執行部だけで解決してくれ
 3、具体的には、勤務時間の一方的改悪に反対
  する校長交渉を各職場ですすめるとともに、
   「勤務時間の実態調査」をおこなう.
………………………………………………………………………………………………
 以上が、田淵とのあいだで、打合せてきた「原則的で弾力な聞争指導」の勤務時間問題
への具体化であった.黒板にかかれた内容で執行委員会はまとまった.市教祖としての方
針の文章化には、津野支部長があたることになり、方針が職場におろきれた.
 半月ほど後、市教祖の会館にきた雑貨は、川島書記長とはなしあっていた.
 S「職場の勤務時間調査はあつまったかい」
 K「なかなかあつまらん.三分の一ぐらいかな」
 S「急なとりくみやからそれでもようやってるのと違うか.」
 そこへ入ってきたのが、青年部役員の神崎(今の支部書記長)であった.「えらいこっ
ちゃ.校長が今まで言うたことのないこと言うんや.『矩縮中やから、用事のないひとは
早く帰ってくれていい』と.
 こんなこと言う校長やなかったから、職場のみんなびっくりした.」
 雑賀はこの報告を聞いた瞬間に「このたたかいは勝つた.」と心のなかで叫んでいた.
「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」である.その後、市教委との交渉で、大幅な譲歩案が
しめきれ、今日まで残きれている協定が行なわれたのである.
 雑賀にとって、「和歌山市の勤務時間闘争」は「黒江小学校の道徳教育研究指定校問題」
 「有田市の研究体制とのたたかい」などとあわせて闘争現場で直接指導にあたった思い
出として忘れられないものとなった.
 「高度な指導性」のところでこんな具体的闘争指導のことを紹介したのは、このことと
「高度な指導性」がつながっているように考えられるし、看い執行部にそのつながりを考
えてもらいたいからである.