上田井地区の遺跡
田井遺跡 所在地 美浜町田井字斎津呂 | |
西川と斎川との合流点の左岸にあり、日高地方では最初に発掘された遺跡である。昭和14年5月に田渕勝蔵氏が自宅前にサイロを建設しようと1m位掘り下げたところ、土器片が多数出土したので、翌6月に発掘調査を行った。この遺跡は、日高平野の縄文遺跡中、現在最も低位置にあって、海抜2m位の所にあり、このころ(約4000年前)から生活の場が水辺近くに移されたと推測されている。遺跡の時代は出土した土器から縄文時代の後期から晩期にかけての時期で、この時期の日高平野は日高潟湖から平野に変転する時で、各河川から流れ込む土砂が多く、川の両側に土砂が積み重なり、自然の堤防が各所にできて、川の流れも定まりかけたころではないかと推察される。和田・吉原・田井・浜ノ瀬がそれぞれ地続きになり、田井遺跡も斎川、西川の自然堤防上に成り立ったものと考えられる。 出土した遺跡は、縄目の無い縄文式土器であり、伴出遺物として、打製石斧・石鍬・装身具として碧玉製管玉・硬玉製管玉・丸玉等が発見されている。 遺跡の現況は、宅地化が進み、畑地もビニールハウスが立ち並んでいる。 ※平成19年9月、田井〜下財部線(オークワ北側の道路)の新設道路工事に伴い、 田井遺跡の発掘調査が行われました。 詳細は、田井遺跡発掘調査のページをご覧ください。 |
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田井遺跡全景 |
堂ノ前遺跡 所在地 美浜町田井字堂ノ前 |
昭和11年1月、大和紡績松原工場の北側の対岸で尾上橋の東南にあたり、西川改修工事の際に発見された遺跡である。場所は西川の下流に当たり、日高平野の遺跡のなかで最も低位置に存在する遺跡で包合層が標高2mにある。この遺跡の近くにある吉原三角点は昭和8年から昭和33年までの25年間に約40cmも沈下していることが陸地調査部の調査によって明らかになっている。 したがって、もともと高いところにあったものが地盤の沈下によって現在のような低位置となったのであろう。この遺跡も、自然の台地上にできた遺跡と考えられるが、その遺構・発見状況とに付いては全く不明で、採集された遺物は、弥生中期初めで壷方土器・碗形土器である。しかし現在はその所在は不明である。現在この遺跡は、西川の河床及び堤防したとなっている。 |
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堂ノ前遺跡 |
西沼遺跡 所在地 美浜町田井字西沼 | |
尾ノ上橋より北側100m位上流に架かっている寺田橋の東側堤防敷の地下で、昭和9年に西川改修工事中に発見された遺跡である。堂ノ前遺跡の北方約200mの所にあり、西川流域にある自然堤防上で、多数の弥生式土器が出土している。遺物は包含層は標高2mの低位置にある。採取された遺物は弥生時代中期の土器片で西川流域にある各遺跡の遺物と同時期で、もともと同一の遺跡で続いていたものと考えられる。現在は西川東端の川床及び堤防したとなっている。 | ![]() |
西沼遺跡 |
西川A(斎津呂)遺跡 所在地 美浜町田井字斎津呂 | |
この遺跡は、縄文後期の土器が出土した田井遺跡と同域で斎川から西川へ合流する地点の東側御坊市財部の堅田遺跡に続いている。 したがって縄文と弥生の複合遺跡で、縄文土器式土器の包含層は標高2mにある、弥生式土器の包含層は標高3mの位置である。採集された遺物は弥生前期及び後期の土器片で、西川流域の各遺跡と同様である。 |
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西川A遺跡 |
西川B(田井)遺跡 所在地 美浜町田井字久保田 | |
斎津呂遺跡の西側、斎川と西川の合流点の北、西川堤防下で西川改修工事中発見された遺跡であるが遺構等の発掘状況については全く不明である。採集された遺物は、弥生後期の土器片で、西川流域の各遺跡と同様その所在等については明らかでない。 | ![]() |
西川B遺跡 |
参考) 遺跡関係の記述は美浜町史より抜粋