シェムリアップで知ったこと

ガイドさん

シウ・リケアンさん。ニックネームはアン。25歳女性。ガイドは男性だろうと思っていたので女性で嬉しかった。女性のガイドは少ないのではないかと聞くと、その旅行会社20人のうち女性は3人ということだった。戦争が終わって10年。観光客が増えていてガイドになりたいという人が多く、日本語の勉強をしている人も多い。アンさんは日本語を塾で勉強した。先生は日本人女性。塾は行きたい日に1時間、今でも月に2回ほど通っている。日本語を勉強して3年というが、かなり上手だった。

笑顔

アンさんは両手を体の前で合わせ、とびっきりの笑顔で迎えてくれた。日本人はおじぎをするが、カンボジアは笑顔がその代わりになるそうだ。アンさんが町中で知り合いと会っても、両方とも笑顔だった。皆、仲良しこよしなんだな。

アンさんからみた日本人男性

アンさんは日本人男性と結婚したいと言っていた。優しいからだという。カンボジアの男性は優しくないらしい。伝統的に男尊女卑が残っているみたいだ。

今回のカンボジアツアーについて

今回、私は雑誌ab-roadで一人催行のツアーを見つけて申し込んだのだが、カンボジアに着いて一人のツアーということがわかった。最初、トラブルがあったが、一人のツアーというのは振り返ってみればとてもよかった。自分のペースで観光でき、観光日程を変えることまでできた。具体的には3日目に予定のものを1日目に変え、2日目に予定のものを3日目に変えた。それで一番しんどかったクバルスピアンをあとにできた。翌日、筋肉痛になったからこれは正解だった。また、アンコールトム、アンコールワットもじっくり余裕を持って見ることができたし、夕日、朝日を見る日を空を見て決めることができた。ガイドさんとも色々話ができ、カンボジアについて理解が深まった。
唯一、悪かったことはこういうことだ。シェムリアップに着いたとき、ガイドを捜した。空港の敷地を出て外までスーツケースを引きながら捜しまくった。しかし、見つけることができなかった。そのうち、現地人ガイドや運転手が声をかけてきて、ホテルまで5$で送ってやるとか言ってきた。空港の外で、空港職員の証明書を首にかけている人が言ってきたので、一瞬、言葉にのってホテルまで連れていってもらおうかと思ったが怖かったのでやめた。また空港出口の所に戻ってどうしようかと思っていると、1$で旅行会社に電話して訊いてやると言ってきたので訊いてもらった。そして電話をかわってもらった。相手は日本人なのでスムーズに用件を伝えることができた。そして今から空港に出迎えに行かせると言ってくれた。電話を切ると、案の定、2$と言ってきた。ここで負けるものか!と思って「No,No,No!1$」と何度も強硬に言ってやったら向こうは1$で折れた。ちょっと安心して待っていると、私と同じように、待っている日本人家族がいたので、「ガイドがこないんですか?」と奥さんに訊いたら「そうなんですよ。小さな旅行会社に申し込んだら、自分たちだけだったみたいで、こうなっちゃったみたい」と言った。旦那さんは「東南アジアはこういうことがよくあるんですよ」と言ってノキアの携帯電話で旅行会社に連絡していた。そして私に携帯電話を貸してくれ、もう一度訊いてみるように言ってくれた。有り難かった。あと15分くらいで迎えに行けるとの返事をもらった。旦那さんにどこからか電話が来たので聞いていると、どうやら旦那さんはタイかどこかでで働いている人みたいだった。旦那さんが使っているノキアの携帯電話は、外国でよく使われていてエジプト人のガイドも持っていた。ビジネス用の機能がとてもよいと聞いたことがある。そのうち、その家族に迎えが来た。「大丈夫ですか?」「大丈夫です。ありがとうございました」と言って別れた。そうこうしているうちに私にも迎えが来てホテルまで行ったら女性ガイドのアンさんが来ていた。
あとで何度も現地旅行会社の日本人の方から電話をいただいた。日本とカンボジアの旅行会社のうちどちらのミスかと訊くと、カンボジアの方らしかった。ガイドが来ていなかった理由はこうだ。初め、飛行機がとれず到着時間が12時過ぎにの予定になっていたらしかった。キャンセルが出て8時50分着の飛行機がとれ、日本からカンボジアに連絡を入れたのだが、その変更がカンボジア側ではされていなかった。それでミスのおわびということで1日目昼のドリンク代をサービスしてもらった。

カンボジアツアー一般について

高いツアー、安いツアー色々あるが、アンさんによると、現地の旅行会社が手配するツアーは食事内容、観光すべて同程度だそうである。言うなればホテルのランク、飛行機の値段、客集めの方法で差がつくだけのはずである。

道路事情

町中を通る大きな道はフランスがお金を出して舗装したものと、日本がお金を出したものがあった。市街地はアスファルトで舗装していたが、郊外に行くと赤土のままだった。

バイク

バイクは非常に多い。ホンダの110ccバイク(日本で言うカブ)。サイドミラーをつけると田舎者とバカにされる。女性は横乗り。3〜4人乗りはザラ。ヘルメットをかぶっている人はほとんどいない。免許不要で早い人で中学生くらいから乗り始める。高校生も通学に使う。
町中ではペットボトルにガソリンを入れて売っている。1リットル60円ぐらい。

車はさほど多くないので渋滞することはない。日本製、それもトヨタが多い。乗用車はほとんどカムリ。日本でそんなにカムリは見ないのに何故だろう。私は1日目はカムリで、2日目以後はハイラックスサーフに乗せてもらった。郊外はまだまだガタガタ道が多いのRV車でよかった。
ナンバーがついていない車がけっこうあった。税金を払っていない車だそうだ。それでも乗れるのだが、事故を起こしたとき、たくさんお金が要るそうだ。私たちの車もついていなかった。ドライバーさんは運転がうまいので事故を起こさない自信があるのだろう。

乗り合いバス

小型トラックの荷台に乗って値段は交渉制。

結婚、家族

以前は女性は16歳くらいで結婚していたが、今は23歳くらいが平均。見合いをして母親が決めた相手とする場合が多い。恋愛は親に隠れてしている。クバルスピアンに2人でハイキングに来ていたカップルは、市内で会っていると親に見つかってうるさいかららしい。離婚は少ない。一回離婚すると、その人はよくないということで再婚できにくいから。
男性が奥さんの実家に入り、女性の一番下の弟妹が結婚するまで女性の親と同居する。アンさんは4人姉妹なので、3姉妹の夫婦、女性達の両親、そして末っ子が一緒に住むことになる。私は、日本における嫁姑の難しい関係を思って、
「夫になる人は辛抱がいるんじゃないですか?」と訊いた。アンさんは、
「そう、辛抱がいると思います。でも、女性は子どもを産むとき、自分の母に世話をしてもらうから、その方がいいのです。自分の家で産むので。」と答えた。そして日本はどうかと訊くので
「日本は今は病院で産みます。昔は女性が男性の家に入り、その親と一緒に暮らしたが、今は少なくなってきています。どちらの親とも一緒に住まず、自分たちだけで住む人が増えています。」と答えた。またアンさんの「小さな子どもを連れてくるのは日本人だけです。なぜ預けてこないのでしょうか?カンボジアでは近所の人にでも預けられます。」という疑問に
「親と一緒に住まないうえに、近所とのつきあいも薄くなっています。だから預ける人がいなく、カンボジアなんかにまで小さな子どもを連れてくる人たちがいるんです。」と答えた。

結婚式

何度も結婚の記念写真を撮っている場面に出くわした。市内の色々な名所で記念写真を撮るのが常で、一行が乗る車の前はリボンで飾られ、人形がボンネットに乗っているものまであった。アンコールトムの前で美容師さんに化粧を直されている新婦がいたので近づいてみると、その夫となる人はアンさんの知り合いの日本語ガイドさんだった。それで一緒に記念写真を撮らせてもらった。美容師さんは若い男性だった。アンさんは「あの人はオカマです。私も2回あの人にドレスを着せてもらいました。」と言った。よく見ると、その美容師さんは眉を細くして化粧を薄くしているようだった。それに肩までの長髪。ブーツカットのジーンズをはいていた。カンボジア人の男性で長髪の人は他に見なかった。でも美容師の腕はよいのだろう。普通、男性で美容師になる人はいないそうだ。
昼間はひたすら写真を撮り、披露宴は夜、新婦の実家で行う。披露宴を行っている家を見たが、薄暗い中やっていた。

アクセサリー

カンボジアの女性はみんな金のアクセサリーをつけていた。女の子は生まれるとすぐピアスをしてもらうそうだ。女性でアクセサリーをつけないということは変なのだそうだ。女の子はいつもピアスをつけている。日本はピアスをつけて学校へ行くと叱られるとアンさんに言うと「文化の違いですね」と返ってきた。そういえばインドで物乞いをしている女性でも足にまでアクセサリーをつけていたっけ。私は狙われたらいけないと思ってカンボジアにはアクセサリーを1つも持っていかなかった。この話を聞いて持ってきてもよかったんだと思った。

日本人の子ども連れ

私はシェムリアップを観光して、「ここは小さな子どもを連れてくるところではないなと思った。子ども連れを見ていると、階段を登ったりするのに、ガイドに預けていた。ガイドは慣れているからたいしたことないと思うが。ベビーカーつきながらの観光って、かなり制限があるんじゃないだろうか。もう少し大きくなってからでもいいんじゃない?と思う。

教師と生徒

クバルスピアンにアンさんが中学生の時に教えてもらった数学の先生と、その生徒(15歳くらい)がデートに来ていた。その先生は40歳以上で独身。ナンパが激しくて、毎年恋人は変わる。父親はポルポト時代に殺され、母親はアパートを何軒も経営してお金持ち。教師をしなくても充分生活できる。女の子は可愛かった。周りのクラスメート達はそのことを知っていてイジメられたりするが、お金持ちと結婚できるなら頑張る。恋愛は自由。

学校

子どもの30%は学校へ行けない。小学校は年間20$払わなければならない。小学校は7〜11時、1〜5時の2部制。教室が足りないかららしい。
観光地では物売りの子ども達が多かった。学校へ行くために買ってくれと言われたこともあった。
学校の先生のサラリーは月60$。アンさんはガイドを1日して20$もらうと言っていたから、先生の給料の安さがわかるというものだ。生活できないから塾でアルバイトをしたりするそうだ。ちなみにプノンペンのガイド料は1日30$。アンさんによると、ガイドは多いときは月に20日以上仕事が入るが、少ない月では10日ほどなので収入は決まっていない。収入は国民の中では平均的だと言っていたが、ガイドになりたがる人が多いということなので、本当は高収入の部類に入るんじゃないだろうかと思った。

遺跡観光のしんどさ

シェムリアップには約300の遺跡があるという。私の感じでは、この小さな町にこんなにたくさんの遺跡があるということに驚きがあった。その中でも有名な遺跡ばかりを見て回った。しんどい事が何回かあった。順番に上げると
@クバルスピアンへの山道
ガイドブックには40分と書いていたが、私たちは麓から上まで行くのに1時間かかった。日本みたいに整備されていない。日曜に行ったのでカンボジア人達もハイキングに来ていた。彼らもしんどそうだった。アンさんによると
「カンボジア人も一生に一度行くくらいでしょう。自分もガイドをやめたら行かない。行くのにしんどい割に遺跡が少ないし」とのこと。
Aアンコールワット中央塔への急な階段
斜度70度、上の方は幅が狭く、靴を横にしなければならない。私はアンさんの手すりがついた階段は降りる人で混んでいるから、この階段を上ってください」という言葉を信じ、意を決して上って行った。途中怖かったが降りるわけにもいかず、下を見ず、重心を前にして上った。あとで手すりのついた方から降りたが、手すりを持って上っていく人もいた。
日本人観光客は年輩の人が多かったが、中央塔へも上るのだろうか。
Bプノンバケンの丘
夕日を見に上ったが急な坂道だった。象に乗って上る道もあるのだが、おおかたの人は自分の足で上っていた。ここも足下が悪く、帰り道、日本人ツアーのお婆さんが足をすべらせていた。

遺跡修復

アンコールワットをはじめ、多くの遺跡は修復途中である。足場を組んでいたが、その足場の種類でどの国がお金を出しているかがわかるのだそうだ。たとえば、フランスは竹、日本は灰色の金属、イタリアは茶色の金属。作業をする人はカンボジア人。竹はやっぱり危ないそうで、日本のものが一番しっかりしていているそうだ。足場を組んではいるが、実際に作業をしている遺跡は少なかった。お金が足りなくてなかなか進まないそうだ。

木が覆う

タ・プロムはガジュマルの木が覆いつくしている。遺跡の表面は砂岩で、砂岩というのは水を含みやすいのでガジュマルがよく育ったらしい。

物価

外国人に対する値段というのがあるようで何でも1$。たとえば缶ジュースは1$。一度あるレストランで出されたメニューには2000リエルとあった。1$は4000リエルなので2倍で売られたということだ。屋台ならもっと安いはずで、ガイドブックに焼きうどんは1000リエル(30円)とあった。

電気事情

停電はしょっちゅう起こる。すぐに復旧するが、エアコンは切れてしまうので夜中に何度も暑さで目が覚めた。そのたびに電源を入れに行った。
綺麗な街灯があったが、電気はついていなかった。電気代が高いのでお祭りの日しか点けないないそうだ。

水事情

バスタブにためた水はいつも茶色かった。水はどこでも井戸水を使っているそうだ。ホテルでは洗顔用のミネラル水を置いてくれていた。

医療

皮膚がただれている女の子がいた。薬が悪くなかなか治らないそうだ。
全身やけどでケロイドになった男の子が観光地にいた。ケロイドで顔が変わっていた。もし日本なら移植でもっと綺麗にできるのじゃないかなと思って可哀相だった。

料理

総じて美味しい。特に気にいったのは、焼きそば、焼きうどん。スープも美味しかった。どんな料理でもタイのように辛くなく食べやすい。日本人なら誰でも気にいるのではないだろうか。
私は今までココナツジュースを美味しいと思ったことがなかった。しかし、クバルスピアンで飲んだココナツジュースは美味しかった。ココナツは1つ1〜2kgだそうで、一人で飲むには多いと思った。このとき飲んだココナツジュースとそれまで味わってきたココナツミルクの料理やジュースは別物のような感じがした。
食事で小さいバナナが出てきたのでアンさんに「カンボジアのバナナは小さいですね」と言うと、小さいのと大きいのと2種類あるらしい。オールドマーケットでニラとココナツミルクをつけて焼いているバナナがあったので1$出して食べてみた。生で食べるバナナと全く違う味、ちょっと酸っぱい感じがした。
中国系の人が多く住んでいるので中華レストランも多い。ちなみに中国人やフランス人との混血も多いそうだ。

住居

高床式住居がほとんどである。ココナツの木で骨組みを組んでいる。風通しがよくなるし、雨期でも水に浸からない。台風や地震がないので、簡単そうな骨組みでも大丈夫みたいだ。家は開けっぴろげで中の様子が丸見え。床の下にはハンモックを吊っていて昼寝をよくしていた。出かけるときでも鍵なんかかけずそのまま。
シアヌーク殿下とその王妃の写真を飾っている家を多く見た。アンさんに訊くと王様は尊敬されているそうだ。日本はどうかと訊かれたので「日本では家に天皇の写真を飾っている家はほとんどない」と答えた。「天皇の写真は店に売っていないのか」と訊かれたので「売っていないしし、売っていても買う人はほとんどいないでしょう」と答えた。
カンボジアでは農業を生業にしている人が国民1200万人中の80%。クバルスピアンへ行く途中、農家の様子が見えた。街の方の家は瓦を使っていたが、農家は茅やヤシの葉の屋根がほとんど。葉の屋根は毎年拭き直さなければならないそうだ。お金があれば瓦にするそうだが、貧しくてそうもできないそうだ。
トンレサップ湖へ行く途中、ガタガタ道を車でひっくり返りそうになりながら走った。ある所まで来ると、とても小さな家ばかり並んでいる集落があった。使用人が集まっている集落だそうでとても貧しいのだそうだ。しかし、よく見ると、テレビを見ている家があった。電気は自家発電だそうだ。アンテナが屋根の上に立っていた。そういう家には大勢の人が集まっていた。

動物たち

豚、鶏、牛、すべて放し飼い。アンさんに牛と水牛の大きな違いを教えてもらった。水牛はバカで自分で家に帰ってこないが、牛は帰ってくるそうだ。また、牛は味が良いので食べるが、水牛は不味いので食べないそうだ。どちらも田を起こすのに使っている。私が旅行した時期は乾期の最後の方だったので食料となる草が少なく、牛たちはやせ細ってあばら骨が浮いていた。

警官のアルバイト

ワッペンを5$で売りに来た。アンさんによると、売れたら無くしたといってまたもらうからよいのだそうだ。そういえばエジプトの警官も勝手にガイドをしてあとでお金をせびりにきたっけ。

プレヤラク村

バンテアイスレイまでの途中に、高床式住居が集まっている所があった。帰りに車を止めてもらって写真を撮った。しかし、ここは観光地化されているらしく、子どもの物売りが寄ってきてしまった。なんかガックリきた。せっかくクバルスピアンまで行ったのに、観光地でない素の農家の写真は1枚も撮らなかった。あとのまつりである。

地雷

カンボジアといえば地雷を思う人がほとんどだろう。内戦が10年ほど前に終わったとはいえ、まだまだ地雷が埋まっている。その犠牲者を目にすることも当然あるだろうとは予想していた。観光地ではやはり腕や足のない人がお金をもらおうと座っていた。中には笛を吹いたり、太鼓をたたいたりしている人もいた。国自体がまだ貧しくて福祉にまで手がまわらないのだろう。大変だろうとは思う。私は一度も寄付しなかった。アンさんは最終日のオールドマーケットでお金をせびりにきても渡さないでくださいと言った。一度あげるとしつこいのかなと思ったが、どうしてなのか問わなかった。

地雷博物館

最終日の午後は、予定ではオールドマーケットでの買い物だけが入っていた。買い物は好きなので、いくら時間があってもよいと思っていたが、一通り見て、買い物をしたら、時間が余った。それで、アンさんの所へ行ったら、まだ早いので地雷博物館へ連れて行ってくれることになった。そういう所があるとは知らなかった。アキラさん(カンボジア人)の地雷博物館で行ってみると日本人の若い男女が何人か現地の子ども達に日本語を教えていた。ボランティアだそうだ。そこで寝泊まりしているそうだ。アンさんによると、お風呂に入れないので日本人にはしんどいのではないだろうかとのこと。ただ食べ物と住む所は与えられるので、お金のない学生にはいいかなということだった。アキラさんはその日の朝、アメリカへ行ったそうで会えなかった。若い奥さんと子どもがいた。アキラさんは子どもの頃、ポルポト派の兵士にならされ、地雷をたくさん埋めたが、英語の観光ガイドを経て今は地雷撤去をしている。そして撤去した地雷を博物館に展示し、本を買ってもらって地雷撤去の資金としている。私も写真集、冊子を10$で買った。それなのに何年か前、政府の職員がやってきて、勝手に展示していた地雷を持っていき、新しく作った戦争博物館に展示したそうだ。そこでは説明はなく、ただ展示しているだけだそうだ。それで入場料もとっている。

日程と費用 写真