セビーリャ
セビーリャ(現地の日本人ガイドはセビージャと言っていた)に着いたのは4時くらい。8月15日は聖母昇天祭という祝日でカテドラルではミサが行われるため入れなかった。外からカテドラル、ヒラルダの塔を見た。ヒラルダの塔は下の方の模様が細かくて美しかった。サンタ・クルス地区を歩いた。ここはユダヤ人地区で路地が入り組んでいた。壁の色に黄色と白などカラフルな色を使っていた。それが奇抜な感じがしなくて明るい感じがした。道を細くしておくと日陰になり涼しくなるからだそうだ。パティオ(中庭)がそれぞれの家にあり、入ってみると涼しかった。日差しが強く、乾燥したところにこういった造りは向く。熱い風はよけい暑くなる。日本のように湿度が高いとパティオのような造りだと風がなくなる分、よけい蒸し暑くなる。やはりその土地に適した造りというものがある。日本でも昔の家は風の通り道を考えて土間を作っていた。カテドラルの代わりにピラトスの家に入った。ここはスペインで一番美しい細粒タイルの館だそうだ。タイルの模様が美術科の参考になるだろうとデジカメで撮りまくった。それでもすべての模様を撮りきれない。それほど種類が多かった。世界史で有名だという人の胸像があったが、何せ私は高校で世界史を選択していないので知らない人だった。いつも日本史の代わりに世界史を選択しておけばよかったと思う。
スペイン広場に行った。ここは1929年の博覧会会場として建てられたそうだ。タイルの絵が美しかった。しかし広くて時間内ではほとんど見られなかった。暑かったので噴水の水がなんとも涼しげだった。カルメンの舞台、旧煙草工場のそばも通った。工場といっても装飾が美しかった。今の時代は機能優先で、昔の建物を見ると、なんとも余裕が感じられる。
セビーリャの近くにコリアデルリオという村があって、そこには「日本」という意味のハポン(Japon)さん達が住んでいるそうだ。村民25000人中700人がこの姓らしい。昔、支倉常長一行30人が伊達政宗の命を受けて、宣教師派遣をお願いしに、1613年、渡欧した。しかし、滞在中に日本ではキリシタン弾圧がひどくなり、支倉は帰国したものの30人中10人はスペインに残ることにした。というのも、全員洗礼を受けたキリシタンで弾圧を避けたかったからである。30人の内、19人が帰国、1人が死亡したそうだ。スペインでは姓は出身地を示すそうだ。その10人は「日本」を名乗ることになり、その末裔がハポンさん達なのだ。
予定では10時からフラメンコを見る予定だったが、時間が間に合うことと、ドライバーの就業規則で7時から見ることになった。私はフラメンコはバレエ「白鳥の湖」の一場面では見たことはあった(草刈民代さんが踊っていた)が、スペイン人が踊るのは初めて見た。添乗員さんも言うとおり、フラメンコは顔の表情が大事で、眉間にしわを寄せて踊るのがよい。スペイン人は目と眉の間が狭いから似合うが、日本人はこの表情を出せる人とそうでない人がいると思う。初めに観客1人ずつ写真を撮っていた。案の定、終わりに気に入った人は扇子と共に買ってほしいということだった。7ユーロだったから買ってもよかったのだが、写真が大きすぎた。アップの写真じゃなかったら買っていたと思う。私たちはワンドリンクだったが後ろの方の人たちはテーブルつきで上にハンバーガーらしきものをおいていた。まさか、ディナーではないとは思うのだが・・・。カッコいいダンサーもいたし、約1時間半楽しめた。
夕食は9時になった。遅くなっても外が明るいから何てことはない。

カテドラル

ヒラルダの塔
彫刻が細かくて美しい

アルカサル

ヒラルダの塔のそばで

サンタ・クルス地区(ユダヤ人地区)

オープンカフェが多く、
ちょうど昼ご飯を食べている人が多かった


細い路地が迷路のよう

ピラトスの家

あとから2階がつがれて建築様式が違うそうだ
細粒タイル
市庁舎とスペイン広場

市庁舎
ベンチにはタイルで絵が描かれている

3つ星のイスパリス。
窓がなかったが廊下の天井がガラス張りで明るかった

フラメンコショー入口。
タブラオ(小さな酒場)ではなく
観光客向けの会場だった。

席が離れていたのでこんな写真しか撮れなかった