1998年8月16日(日) オックスフォード大学 シェイクスピア

日本でツアーを予約していたので、8時半頃、ヴィクトリアコーチステーションへ行った。9時にエバンエバンスツアーのバスは51人の客を乗せて出発した。ガイドは日本人で歯切れよくしゃべってくれた。なかなかいいガイドである。見かけはムーミンのミーみたいで変わった感じがしたけど。

郊外の家はどれも同じ色をしている。変わった色にするのは違反らしい。そんなきまりがあるから、こういう景観が保てるのだ。日本もそうしてほしい。セミデタッチドハウスを見た。これは2戸1の家で道の反対側に庭がある。イギリス人の趣味としてよくあげられ、日本でも今話題の「ガーデニング」をしているらしい。らしいというのは道から見えないからである。2戸1の隣人どうしは仲が悪いのが常だとガイドが言った。田園地帯を走り抜けて行った。途中羊が多く放牧されていた。口だけが黒いスコットランド産が多い。山がなく丘がずっと続く。北海道と似た景色だ。本で読んで知っていたラウンドアバウトも所々にあった。イギリスでは4つ角では信号の変わりにこれを利用してスムーズに交通整理が自分たちでできる。信号よりずっと合理的だ。

1時間半位でオックスフォードに着いた。予想してたよりずっと建物は古い。こんな建物で今もエリート達は勉強してるのだ。浩宮皇太子が学んだマートンカレッジは1264年創設だそうだ。イギリスではどんなに位の高い人でも学力がなければ正式の学生にはなれないので皇太子は研修生だったそうだ。チャールズ皇太子も正式に卒業していないそうだ。その代わり、優秀な人は貧乏でもただで大学へ行けるそうだ。だから上層はすばらしいのだが、中間層の学力がいまいちなので実際企業で戦士になりにくいとガイドが言ってた。大学ではスペシャリストを育てるので専門を生かせる仕事にしかつかない。日本のようにジェネラリストを育てるとつぶしがきくが。失業率が高いのもそういうこだわりがあるからだそうだ。しかし、たとえば日本語を専門としたした人は必ずしゃべれるという。日本のようにフランス語専門でもしゃべれないということはないのだそうだ。

その後バスはコッツウオルズの北部の村に少し寄った。黄色い石の家がこの地方の特徴である。

そしてシェイクスピアが生まれたストラトフォードアポンエイボンへ向かった。まず彼の8才年上の妻アン・ハサウエイの生家へ行った。この家はわらぶき屋根で木造である。昔は木造の家が多かったそうだが大火災があって今のように石造りの家が多くなったそうだ。中の家具も60%が当時実際使われたものだ。昔の人は10cm背が低かったので天井も低い。彼女の家は裕福でガラスが当時から入れられていた。当時ガラスは貴重で、割れたらその部分だけ代えられるように細かく区切られている。そしてシェイクスピアの生家へ。彼の父は商売をしていて割と裕福だったのだが、政治に関わるようになり没落したそうだ。そのためシェイクスピアは金をもうけに妻や子をおいてロンドンに働きに出たそうだ。初めは俳優もしてたが脚本を書いて当たり、人気が出たのだという。生家の2階のガラスは落書きがされていた。今はできないようになっている。シェイクスピアにあやかろうとした、後に有名な作家になった人のものもあった。ここでもガイド本(2.5£)を買った。

帰りのバスは皆寝ていた。日曜の夕方だった為、ロンドンに帰る車が多く渋滞に巻き込まれ、ロンドンには7時頃着いた。ツアーチップとして運転手にそれぞれ1£渡した。

スコットランド銀行からワールドキャッシュで40£をおろし、フィッシュ&チップスを4£で買い、紙の皿にのせたままホテルへ戻った。たらのフライは美味だったが、チップス(フライドポテトの事)の量は多くて食べきれなかった。4£は高いなと思った。隣のピザ1.5ポンドの方がおいしそうだった。

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