沖縄旅行記(2日目)
 クーポンには朝食がついていなかった。ホテルの付近にはコンビニはなかった。ホテルで朝食をとろうと、直接、朝食の世話をしているウエートレスに言ったら800円で食べさせてくれた。バイキングでよかった。
 国際プラザをチェックアウトして、一軒おいて隣のニュー沖縄へ行った。予約の段階でホテルを移らなければならないことになっていた。「もしかしたら朝早くてもチェックインさせてもらえるかも」、とフロントに言ってみたが、やっぱりチェックインは2時からだった。それで「荷物を預かってくれるか」と訊くと、それは承諾してくれた。
 那覇交通定期観光バスの中北部コースに参加するためにホテル向かいの松尾バス停(市内)に行った。8時50分頃乗車した。バスはオリオンホテル、都ホテル、日航グランドキャッスルで客を拾って行った。ガイドは浦添さんといってベテランで説明もとても上手だった。
 アーミー服を着た外人がワゴン車を運転していた。車両ナンバーはYだった。沖縄でアメリカ人が乗る車は、乗用車の場合は「Y」、軽自動車の場合は「A」、アメリカ本国で登録された場合は「E」だそうだ。
 バスは宜野湾市に入った。右側にずっとキャンプフォスターという基地が広がっていた。基地と道路の境目には柵があった。上がとがっていて簡単に入れない。基地は戦後、アメリカが銃を向けて強制的に土地を没収した。165万坪という広大な土地をアメリカは自由に使っている。
 左側にHANBYタウンが見えた。1972年5月15日まではここもアメリカの領地だったが、沖縄返還とともに日本側に返還された。
 北谷(ちゃたん)町役場は基地内に3年前に建てられた。北谷町の65%が基地らしい。昭和20年4月アメリカ軍が北谷町の海岸から上陸し、徐々に南部へ侵攻し、日本は8月15日敗戦となっているが、実質的に沖縄は6月に最南部糸満市で敗戦を喫した。
 嘉手納市に入った。両側に金網が張られていた。右側は嘉手納空軍基地、左側はゴルフ場のようであった。これもアメリカ専用である。我々が基地の中を通らせてもらっているという錯覚さえ生じる。嘉手納基地は3市町に渡り、広さ607万坪、甲子園800個が入る。嘉手納町はその82%が基地である。ちょうどF15イーグル戦闘機が降りてきた。空中給油機も留まっていた。F15イーグル戦闘機はマッハ2.5というスピードを出せて滑走路が短くてすむ。1機120億円。音の速さの2.5倍だから、爆音を出す。爆音公害で周辺の学校では授業の中断を余儀なくされている。嘉手納基地には4000mの滑走路が2本あり、極東一の空軍基地である。
 読谷村(よみたんそん)に入った。右側に2100万坪の広大な雑木林が広がっていた。ここは単なる雑木林ではなく、地下が弾薬庫になっている。核兵器も置いているらしい。地下トンネルがあって那覇までつながってるらしい。復帰前はガス漏れがないかどうか検知するために山羊が放されていた。沖縄では特別なときに山羊料理を食べるそうだが、地元民が山羊を捕りに雑木林に入って銃殺されるということがよくあったらしい。
 沖縄に基地が必要かどうか、論議されることが多い。アメリカにとっては以前なら対ソ連、今なら対北朝鮮、そして対イラクのための重要な基地となろう。しかし、そのために沖縄の人が犠牲になってよいはずがない。やっぱり難しい問題だ・・・。
 色々考えているうちに琉球村に着いた。ここには10:15から11:00までいた。沖縄各地から旧い家が集められていた。ハブショーを見た。ハブは硫黄が含まれている土地にはいないそうだ。沖縄本島は昔からハブの被害に遭う人が多くて、70〜80年前インドからマングースを輸入してその退治に使われた。それでハブはかなり減ったそうだが、今でも年間100人以上の人が被害に遭っているそうだ。マムシの場合はかまれて48時間以内に手当をすれば大丈夫だが、ハブの場合は1時間が勝負だそうだ。今はよい血清があるから、1時間以内に処置さえすれば、命を落とすことはない。










 沖縄で一番高級なホテル、ザ・ブセナテラスが見えた。このホテルの隣にある万国しんりょう館で2000年7月に先進国8カ国のサミットが行われた。そこには沖縄サミットに尽力した亡き小渕総理の胸像があるそうだ。サミット中は本土からも機動隊が護衛として行ったそうだが、さすが沖縄の夏、体力強靭なはずの機動隊の人達でさえ200名ほどが熱射病で倒れたそうだ。
 ハイビスカス、ブーゲンビリアが咲き乱れていた。朝顔もあった。沖縄では桜は1月半ばに咲き、桜のあと梅や桃が咲くという。本土とは逆である。
 名護市役所はデザインに特徴があって、3階建て鉄筋コンクリートのつくりだが、各階の上部に合計56個のシーサーが飾ってあった。56個というのは市にある集落の数だそうだ。
 国道58号線を北上していた。この道は復帰前は軍道1号線という名前がついていた。そういうわけで今でも年輩の方は1号線と呼ぶそうだ。左に砂浜が見えた。沖縄の砂は白っぽい。これはサンゴの死骸でできているからだそうだ。
 万座毛(まんざもう)に着いた。毛とは広い所という意味を持つ。像の鼻のような岩があった。300円で民族衣装を着た女性と一緒に自分のカメラで写真を撮ってくれるという商売をしていた。私は1人旅なので「ちょうどいい」ということで撮ってもらった。ここには11:20〜11:45までいた。
 
 さらに北上を続けた。沖縄海洋博の跡地にできた国営沖縄記念公園へ行った。広かった。水族館と洋蘭園がメインだそうだが、弁当を食べたら時間がなく、マナティの水槽を見たのと海岸に下りて少しブラブラしただけで終わった。ここには12:45〜14:10までいた。木曜日が休園ということで水曜日にこのツアーを選んだのだが、あえてここが休園日の木曜日にこのツアーを入れた方がよかったかもしれなかった。というのは、そうすると、記念公園の代わりに、世界遺産に入っている今帰仁城跡(なきじんじょうせき)に行けたからだ。記念公園は行かなくてもよかったのではと思った。

 

  珍しい木があった。モクマオウといってオーストラリア原産だそうだ。




 沖縄には神社仏閣が見られない。そのかわり、立派なお墓をよく見た。戦前は風葬といって亡くなったらその体を山に置いて自然に腐るようにしたそうだ。しかし、戦後、土の中に埋葬するようになった。3年経ったら骨を取り出してアルコールできれいにする(お洗骨)。現代は、火葬をして3年後に儀式をするそうだ。
 お墓は山や丘の斜面などに作られていて、戸がついている。大きい物だと中が8畳くらいの広さもあるという。天皇陵の小さい版だなぁと思った。大体500万円から高いもので3000万円もする。当然一軒の家だけで購入できる金額ではない。お墓は親戚一同のもので、その親戚一同のことを門中という。ただし、乳幼児で亡くなったり、自殺したり、離婚した人なんかはその門中の墓には入れない。隣に作った「不幸者の墓」に入ることになる。
 パイナップル園に行った。ここにはパイナップル畑が少しと、「ヘゴ」という大きなシダ、亜熱帯性植物が植えられていたが、いわゆる土産物屋さんだった。パイナップルは酸性赤土でよく育つ。苗木を植えて2年目に実がついて3年目で採れる。4年目、5年目も実が採れる。6年目苗木に植え替える。パイナップルは模様が大きいほど甘いそうだ。ヘゴは高さ3mはある大きな植物だったが、上部にくるりと巻いている部分があって確かにシダだということがわかった。ブーゲンビリアはよく見ると、葉の部分が綺麗に色づいていて内部に3つの小さな花があった。14:30〜14:55までいた。



ブーゲンビリア

ヘゴ



 沖縄では桜は1月半ばに咲き、その後梅、桃、ツツジが咲く。県花のデイゴは3月終わりから5月にかけて咲く。だから、この旅でもデイゴをたまに見ることができた。
 2階建て鉄筋コンクリートの家が多かった。デザインがどこか本土とは違うなぁと思ってよく見ると、2階ベランダの手すりに特徴があった。手すりが格子状になっているのだが、その格子が金属ではなくて壁と同じ材質で角ばっていた。以前インドかエジプトなんかで見たのに近いなぁと思った。
 石川市でちょうど田植えを終えたばかりの田圃を見た。2ヶ月くらい本土より季節が早いようだ。
 コザの東南植物楽園に行った。ここでよく覚えているのは池の鯉が私が近寄ったことによってエサをくれると思って口をパクパクしながら寄ってきたこと、睡蓮が綺麗だったこと、とっくりやしが多かったこと、もずくめん(315円)を買ったことである。16:00〜16:45までいた。

ゴールデンカップ

ビョウタコノキ

トックリヤシ

オオベニゴウカン



 ここらはコザと言われているが、1974年コザ市と美里村が合併して沖縄市になった。また、基地のそばを通って行った。点々と間をおいて鉄筋コンクリート製の一戸建てがたくさんあった。基地のアメリカ人とその家族のための住居だ。家の周りは芝生が広がっていて、庭も広い。彼らのために年間2800億円の「思いやり予算」と呼ばれるものがあるそうだ。彼らの家賃無料は言うまでもなく、光熱費も無料なのだ。だから使い放題。アメリカ本国へ1ヶ月帰っている間もエアコンがかけっぱなしという話もあるそうだ。その思いやり予算は我々日本人の税金から出ている。おかしい話だと思う。
 核シェルターの丸い塔があった。有事となればアメリカ人だけがここに逃げ込めるのだろう。
 沖縄には57000人のアメリカ人がいて、そのうち35000人が軍人である。サッカーをしている若い白人の女の子達が見えた。高校生くらいだろうか。ということは、沖縄には若い軍人だけでなく、40歳以上の軍人も多くいることになる。アメリカ人にとって沖縄は住み心地がいい所だそうだ。
 コザには嘉手納基地にいるアメリカ人向けに英語で書かれた看板を掲げた店が並んでいる通りがあった。5時前に通ったのだが、ちらほら外人の姿を見た。彼らの勤務は日本人に比べて朝早くから始まり、夕方は早く終える。だから5時はすでに仕事を終えた時間なのだ。
 プラザハウスに行った。ここは元は外人向けの店だったらしいが、今は外国製品を日本人向けに売っている。プラザのバッグを見てみたが、そんなに安いとは思えなかった。品薄のモンブランが2万円台であった。安いのかどうかもわからないし、最近はブランド品に興味がなくなっているので何かを買おうという意欲はわかなかった。ただ、綺麗なペンケースを見つけたので、それだけ買った(2500円で定価の50%だった)。
 鉄筋コンクリートの家が多いのはすでに書いたが、その家々の屋上にそれぞれタンクがあった。沖縄は山が低くて保水量が少ない。水不足になりやすく、断水がしょっちゅうおこる。それで各自がタンクを設置して断水に備えている。沖縄は台風の通り道になることが多いが、沖縄の人にとっては台風による被害よりも、台風がもたらす雨水を待ち望むという話には意外な感じがした。風速20m/秒で学校が休みになり、25m/秒で官庁、会社が休みになる。ガイドさんにとってはこれも嬉しいことだと言っていた。家の窓には格子がよくはめられていたが、物が飛んでくるのを防ぐと同時にどろぼうよけだそうだ。
 那覇に入って墓がたくさん集まっている場所があった。那覇の墓は分家墓が多い。これはそれぞれの家が買った墓のことだ。それでも1000万円くらいする。先に書いた門中墓(親戚一同の墓)は少なくなっているらしい。
 観光バスを降りる場所だが、グランドキャッスルの後は、客の希望を訊いてくれた。大方の人が市場の近くで降りた。私もそこで降り、市場の2階にあるすえひろ食堂で食べることにした。周りの客を見ると、この刺身を食べているグループばかりだった。どうやらこの店は、下の市場で買った魚介類を料理してもらう客を主に相手にしているようだ。注文をなかなか訊いてくれなかった。声をかけて、ソーキソバ、スクガラス豆腐を注文した。ソーキというのはあばら骨がついた肉のことだ。注文したソーキそばのソーキは骨の周りにあまり肉がついていなかった。ソーキソバは沖縄そばよりも値段は高いが、これなら昨日別の店で食べた沖縄ソバの肉の方が美味しいと思った。この店の特徴かもしれないが。スクガルスとはアイゴの稚魚スクを塩漬けにしたもの。これを豆腐の上にのせている。食べてみてその塩辛さは私の舌にはあわなかった。
 ホテルに戻った。朝、荷物を預けただけだったので、初めて部屋に入る。部屋は国際通りとは反対側だったので静かそうだった。昨晩、眠れなかったのでちょっと心配だったのである。
 仲田幸子(なかださちこ)芸能館で9時からのショーを見ようと9時半頃ホテルを出て歩いていった。ここは、民謡、舞踊などが楽しめてドリンクおつまみ付きで3000円。ガイドブックに載っていた地図が間違っていたので、店を探してぐるぐる歩いたが見つけられた。飲み屋が集まっているビルの地下1階だった。入ると、客は誰もいなく、民族衣装を着た女性が5〜6人いた。店の中はクラブみたいで、長いソファが置かれ、カウンターがなかった。1人で来たのは場違いのような気がした。どこへ座ってもいいと言われたが、遠慮して一番後ろのソファに腰掛けた。泡盛の薄い水割りを注文したら、ホントに薄すぎた。でもおつまみはボリュームがあった。ポテトチップスにかき揚げ、野菜の炒め物。お姉さん(というよりおばさん)が来て相手をしてくれたが、この人たちのお酒まで払わされたくないと思っていたので、適当に返事をしておいたら、後から来た別の客の所へ行ってくれた。若くて綺麗な女性がカラオケで歌っていた(下の写真左の人)。歌も姿もよかったので退屈はしなかった。その後、客がちらほら来たが9時になってもショーはなかなか始まらなかった。客が15人になったところでショーが始まった。このとき、9時20分。写真右の人が幸子さん。真ん中の人は艶っぽい歌声だった。左の人は幸子さんのお孫さんの仲田正江さん。とても美人。CDも出していて、テレビや泡盛の広告に出たり、外国に巡業に行ったりもしているそうだ。この芸能館は座長の幸子さん、長女、次女、孫の3代の女性が中心になっている。50分間のショーが終わった時点で店を出た。料金はぽっきり3000円だった。これは安いと思う。ショーもいいので他人に勧めたいと思った。