8月7日(二日目) 下関、小倉観光 釜山へ向けて関釜フェリーに乗り込む

朝、新門司港に着いた。続いて連絡バスに乗って門司駅へ。電車で下関へ行った。すぐだった。いつ海を渡ったのか気づかなかった。そして下関港を下見して、手続きの用紙に書いた。。

門司港駅へ行った。ここはレトロな町並を再現している。駅を始め、明治風の洋館がたくさんあった。案内のパンフレットに従って観光した。アインシュタインが滞在した洋館にはベッドや内装が当時のままに再現されていた。いくつかの洋館をまわり、跳ね橋も時間を待って渡ってみた。人力車が走っていた。

今度は小倉まで行った。小倉は大都市だった。駅前のそごうはとても大きかった。昼食を食べようと駅前をうろうろした。小さな通りを行くと、一銭洋食だったと思うが、そんなことを書いている店があったので入ってみた。例の洋食とおにぎりを注文すると広島風お好み焼きに近いものが出てきた。そばは入ってなかったけど。店から出て駅にもどる途中、ストリップ劇場があった。まわりを見ると、どうやらこの通りはあまり上品ではないということに気づいた。

森鴎外旧居に歩いて行った。なかなか見つからなかった。やっと見つけて観光した。歩き疲れていたので一服しようと、そごうの上の階に行った。しばらく椅子に座っていた。

小倉から門司港まで戻り、今度は船で下関側に渡った。小さな船だったが、なかなかよかった。港に行ったら客が結構居た。さっき来たときはほとんど居なかったのに。

椅子がなかったので手続きの時間まで階段に座って様子を見ていた。すると私と同じように一人で旅行している人が次々と私の近くに来て同じように階段に座っていった。私の隣の女の子は韓国人らしかった。持ち物や買い物袋から日本でショッピングしてきたように思えた。日本人の大学生バックパッカーは二人連れの子たち、一人旅の子もいたがみんな男の子だった。私は特異な存在のように思えた。担ぎ屋のおばさん達が荷物をどっさり持って並んでいた。半端な量ではない。これを手荷物として船内に持ち込もうというわけか。

手続きが済み、フェリーに乗った。今度は客が多くて寝場所がなかなか見つからなかった。客は韓国人のかつぎやのおばさんたちを始め慣れている人が多いらしく、わたしのような初心者がぼーとしてるうちに場所はほとんど埋まってしまった。それでも入り口に近いところに空いた場所があったので、ここにいてもいいかと隣のおばさんに声をかけたら、韓国人だったらしくわからない事をいわれたが、雰囲気でOKみたいだったので荷物を下ろした。でも、そのおばさんがくせ者だったのである。

そのおばさんの様子をよく見ると、担ぎ屋なのだが、船内が込んでいるにもかかわらず、一人で3人分くらいの場所をとっていた。そして、やおら荷物を広げはじめ、仕分けをはじめた。後らきた人たちが場所をあけてくれないかと頼んでも「ノー」というばっかりだった。でも本当に場所がなく困っている夫婦が無理矢理荷物を下ろそうとすると、すごい剣幕で怒り始めた。それでも奥さんの分は場所を確保した。私はいたたまれない気持ちになって困った。向かいに座っていた上品な中年男性が日本語でおばさんに説得を始めた。おばさんは韓国語で反論する。男性は日本語で。雰囲気でわかるのだろうが、おばさんは頑として動かなかった。夫婦の旦那さんの方は体を横にして奥さんの隣になんとか寝ころんだ。担ぎ屋のおばさんがどこかへ行くと、思い切り日本語で悪口を言っていた。私は気分が悪くなったが、それでも場所をとれたのでよかったといえるのだが・・・。

不思議に担ぎ屋のおばさんは私には親切で桃をくれた。そのため、よけい周りの人には悪いなあと恐縮してしまった。おばさんが居ないとき、周りの人は「あのおばさんは、あなたの事を娘のように思っているのと違うかなあ」と言った。

おばさんに拒否された夫婦は名古屋在住の在日の人らしかった。パスポートからわかった。名古屋から自分の車で来たらしく旦那さんは腰を痛がっていた。ますます恐縮してしまった。話の内容から里帰りみたいだった。韓国でも自分の車を運転するみたいだった。

風呂へ行った。洗面所には一面に洗濯物が干してあった。風呂は大阪ー九州の時の半分くらいの大きさしかなかった。話声から中に入ってるのは担ぎ屋のおばさんたちらしかった。一般客は入らないのだろうか?でも意を決して入った。落ち着かなかったので手早く洗って早々に出た。

甲板に出ると韓国人の若者のグループが写真を撮ったりしてはしゃいでいた。風が気持ちよかった。遠くに漁船が見えた。いつまでもこうして居たかった。

消灯時間がきたので、客室に戻った。みんな寝始めた。

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