私の教職員組合運動と障害児教育
編集・発行 雑賀光夫


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私の教職員組合運動と障害児教育

永田一視先生の手記を紹介するにあたって          
        1,欧露で決意「教師になろう」
         2、助教諭連盟結成
          3、分裂主義者の野望粉砕
4、女性助教諭の身分確立
         5、免許法改正
         6、責善教育
         7、ろう学校職場民主化闘争
8、通学バスの獲得

私の組合活動(その2)



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永田先生の手記を紹介するにあたって

永田先生は、和歌山の障害児学校におられて、日教組中央執行委員になり、障害児教育 部長をつとめられた方です。数少ない日教組内の統一派役員として奮闘されました。日教 組から全教で活躍された三島さんの前任者です。 退職後、闘病されておられるとお聞きしていたのですが、突然、お手紙をいただきまし た。和教組50年の記念集会の直後でしたから、「和教組50年の写真集」が先生に手わ たったのかと思い、お手紙を読んでみますと、なんと10年前に「40周年」を記念して 作った冊子を読んで、送っていただいたものでした。 「50年写真集」をお送りするとともに、「ワープロのフロッピーをお送りください」 とお電話したところ「消してしまっている」とのことでした。そこで、スキャナーで読み とったものをフロッピーに入れていました。まだ途中までですが、時間を見つけて全文紹 介できるようにしたいと思います。 1998年5月                                雑賀光夫

1,欧露で決意「教師になろう」

 私は終戦直後ソ連の捕慮となり満州から貨物列車に乗せられ、約一ケ月を要して雪のシ ベリア鉄道を1万キロも西へ送られタンボフ州ラーダ第119捕虜収容所に入れられ、更に 翌21年夏夕夕一ル自治共和国エラプカ市第98捕虜収容所に移動させられ、合計2年10 ケ月捕虜生活を送った。冬は酷寒零下50度ても野外作業に酷使された。私の最低体感温 度は零下78度で、零下40度代になると「今日は暖いのう」と話し合った。夏は60度を 上回り、幾日か70度に達する日もあった。作業は道路建設、森林伐採、原木運搬、水道 管埋設、泥炭掘り、農耕作業、など収容所付近のコルホーズ集団農場ソホーズ国営農場、 ザポール工場、レスホース{営林署}などから労働力の要請があると収容所長が捕虜を提 供し、作業量に応じて適宜金を受け取っていた。日本人捕虜は全員将校であったので、国 際捕虜条約の「将校は労働に従事させてはならない」という条項を盾にとって「日本軍に は労働ではなく健康保持上の運動をさせている。従って賃金は支払わない」と称して西洋 諸国の捕虜には賃金を払っても、日本軍の分は全て収容所長のポケットに入れていた。  1946年4月下句ドイツ軍捕慮から「捕虜オリンピックを開催しよう」と言う申し入れ があった。当時収容所内には、日本人約1万、ドイツ人約4千、ポーランド人約8千、ハ ンガリー人約5千、チエツコ人約3千、フランス人約2千、ベルギー入約千、オランダ人 約千、ルクセンブ ルグ人約2百が一応鉄線の垣で区分はしているが外壁電流鉄条網の中で 同居していた。「よしやろう」ということになり、各国とも選手を出して5月1日収容所 内の運動場で挙行した。日本軍は予備後将校が多数で、太学・高専などで陸上競技部の選 手だった者も多く、選手団はトラックでもフィールドでもほとんど一位を取り総合得点で は圧倒的に優勝した。負けん気の強いドイツ軍は「西洋連合軍対東洋軍てやろう」と再度 試合を申し込んできた。5月20日二回目の試合を挙行した.これも圧倒的な差をつけて 勝利した。ドイツ軍は次に「サッカ.一をやろう」と申し込んできた。「OK」ということ でこれも大学や社会人て経験のある者をよりすぐって試合を行った。大差をつけられて負 けた。これを見物していたハンガリー軍から試合を申し込まれた。結果は見事な敗北。フ ランス、ベルギー、オランダ、チエッコ、なども申し込んできた。0勝10敗.最後にル クセンブルグも「試合をやろう」という。「負けてなるものか」と選手も応援団も必死に なったがこれも大敗した.このとき私は「日本人は個人的には優秀なのにどうして団体競 技は弱いのだろうか」と考え込んだ。「西洋人には手の指に「民主主義」という水掻きが ついていて一人一人の弱点を補い団体競技になると強力な力を発揮するのだろう」と合点 した。  収容所内では元気を出すため大声で歌を歌う。日本軍のは常に軍歌てある.ドラ声を張 り上げるが何時も斉唱てある。西洋人達が歌うと常に合唱になる.近所の村娘達が青年を 誘って歌っている歌も常に四部合唱である。キリスト教の賛美欧で鍛えただけではない。 ソ連ては「宗教は阿片てある」としてキリスト教を弾圧したので現在のソ連の若者は賛美 歌は歌わない.合唱はお互いに長所も短所も認め合い、その上て見事なハーモニーを構成 する.日本人は統一行動は常に同一行動を要求する。お互いの事情も能力も認めあおうと しない。同一行動の出来ないものを「脱落者」と決めつけて人民の持つ総合した力.を信 用しない。『帰国したら教師になり指に水掻きを付けた子供に育て上げよう』と決意した。

2、助教諭連盟結成

 私の自宅の前が小学校で校長が、拙宅に来て父に「お宅の息子さんに教育者になるよう 親御さんから説得して下さい」と言い始めた。父は私に百姓をさせようと考えていたらし いが次第に校長の説得に傾いて行き「教師をやってみろ」と言い始めた。1942年4月「生 石中学校教員を命ず」と言う辞令を受けて中学校の国語と社会を教えることになった。校 長は小学校と中学校の校長を兼任していたのである。  私の学歴と言うと箕島商業学校を卒業して満鉄の鉄道学院卒で、教員資格に関係ない。 教員には教育職員免許状が必要で、何も持たない私は臨時免許状を与えられ一応は授業は 出来るが資格は助教諭で賃金も安く学校でも見下げられていた。「上級免許状を欲しけれ ば、認定講習を受講すべし」と土日も祝祭日も全て休みを返上して受講させられた。講習 会場が遠いと旅費もかかる.安い賃金は旅費だけに費消する.生活費にはならない。何の ために教師になったのか分からない.受講者の不満が高まった。  県教組へ行き免許法改正を申し入れた.奥崎書記長が応対に出て「何を貴様ら文句を言 っている。今、賃金闘争の最中だぞ文句を言わず賃金闘争の勉強てもせよ」とケンもほろ ほろ、迫い返された。「組合が組合員の要求を無視するのなら我々は組合を脱退して独自 に県教委交渉を行ない資格獲得を勝ち取ってみせるぞ」と思い、受講生に相談した。全員 賛成で「助教諭連盟結成趣意書」に署名捺印して同時に組合脱退署名簿も作成した。驚い た県教組執行部は秋山法制部長を私の学校に派遣してきて「何をどうすれば良いのか教え てもらいたい」と言った。「第一は悪法免許法を簡素化して助教諭全員に早急に上級免許 状を取得させ教諭に昇格させること。第二に認定講習受講に要する旅費は県教委から支給 させること。第三に内容を精選して其に児童生徒の発育に必要なものに選択させること」 と答えた。要求の中で受講旅費支給の件は翌年から実現したが第一、第三の要求は実現し なかった。

3、分裂主義者・立身出世主義者北山敬一の野望粉砕

 当時和歌山県教組は和歌山市、海草耶、那賀郡、伊都郡、有田郡、日高郡、西牟婁耶、 東牟呂郡に支部を結成していた。有田支部は小・中学校を大地区に区分し、耐久、吉備、 箕島の三高校は地区に属せず高校部として支部に直結していた。耐久高校に北山敬一と言 う教員がいた。彼は和歌山師範学校同期の山口弘と結託して有田支部の乗っ取りを策した。 彼は自ら支部長に立候補し山口を書記長に立候補させた。彼の其の目的は次期参議院議員 選挙で和教組を基盤として立候補しようと企んでいたのである.当時参議院には自民党か ら徳川頼貞と社会党から荒木氏が出ていた。彼は荒木の後を狙っていたのである。私は彼 の立身出世主義を許せなかった。有田支部青年部は助教諭部と協力して北山の野望を粉砕 するため対立候補擁立を考えた。支部長に川岸義雄氏を担ぎ書記長に杉山青年部長を推購 しようとした。しかし杉山は絶対推薦を受けないと言う。立候補締切り時間が後十分とな り選挙管理委員長藤田校長が青年部の会議室へ督促に来た。やむなく書記長候補に永田を 推薦することに承諾させられた。支部大会は全員投票で役員を選出する.当日の朝、情勢 分析をすると少数差で破れる見込み。北山と山口はある中学校の教貫に前日饅頭を食べさ せ買収したことが判明した。青年部役員が当該中学校の青年部員に「鰻頭を吐き出して支 部長に川岸を、書記長に永田を投票せよ」と会議中青年部員を廊下に呼び出して説得した。 お陰て僅少差て我が方が役員に当選し、北山の野望を粉砕した。しかし北山はこれでへこ たれる奴ではない。すぐ徳島の林田と連絡を取り、支部内の三高校教員に働きかけ組合脱 退を画策した。当時、高校教員の賃金は学歴が同じならぱ中学校教員と同類であった。戦 前及ぴ戦時中は旧制中学校の教員は小学校教員より数段有利な賃金をもらっていた。賃金 に対する不満は高校教員に充満していた。この不満は政府の政策に起因している物である のに、日教組が高校教師の要求を無視しているのだと宣伝して組合脱退を扇動したのであ る。県下でも高校の教員が北山らの扇動に乗せられ組合を脱退した。数名の良心的な教員 が組織に残ったが、日教組に加盟している和教組から高校教員をほとんど全員連れて脱退 した北山は全高教{全国高等学校教員組合}を結成させ自らその書記長になり徳島の林田 を書記次長にした。数年後全高教は左右に分裂し北山は全高教を迫い出された。その後、 北山は和歌山県二区で自民党推薦の世耕弘一の推薦状を高校教員や中学校教員に送付して きたりしていた。和歌山県二区では当時私教組推薦・日本社会党所属の辻原弘市氏が活躍 していたが北山は辻原を落選させ世耕を当選させようとしたのてある。以後の北山の消息 を私は知らない。どこかで野たれ死をしただろう。

4、女性助教諭の身分確立

1953年岩尾委員長以下執行部は奥崎の大浦荘事件に関連して総辞職し、和田勇委員長 以下で執行部を構成した。同年12月県教委は女性助教諭のうち1948年3月高女卒の者に 「貴女は基礎資格に欠けるので明年3月て退職して貫います」と言う通知を発送する直前 で私の耳に入った。支部書記長は県教組執行委員を兼ねていたのて和田委員長に「事実を 承知しているか」と尋ねた。和田は「承知しているが致し方のない問題だ」と真剣に考え ていない。「通知を受け取る本人の身になってみろ」と勘にさわった私は有田支部青年部 長杉山寺君と相談して「該当者を守ろう」と決意し、二人は『辞職願』を壊中に入れ県教 委有田支局長・出水清一氏の自宅を訪問した。  「どうして、このような無茶な事をするのか?貴方が採用して今まで教育を担当させ、 今更、基礎資格に欠けるはないものでしょう。一体どうなっているのだ?」と詰問した。 局長は「こちらも困っているが改正された免許法で教員の基礎資格を旧制中学校卒として おり、旧制高女四年卒は該当するが昭和43年は高女の校長の裁量て三年卒にも卒業証書 を授与した。当人は高女卒と思っているが免許法では欠格とされた。これは国の方針だか ら致し方ないものだ」と説明した。「それはおかしい後で出来た法律は以前の問題は全て 解決出来るよう移行措置するのが常識だ。文部省が常識破りの法律を成立させ、現場でま じめに教育に従事してきた者に遡及するとは、けしからん.第一資格のない教師に教えら れた子供たちに卒業証書を授与する法的根拠を教えて貫いたい。しかも三月に退職しなさ いと言う手紙を年末も迫った今頃発送する無神経さに腹が立つ。我々二人の首を切って該 当者全員を救済して下さい。OKが出るまで帰りませんよ」と二人は支局長の自宅の座敷 に座り込んだ。奥さんも心配して「貴方なんとかならないの?あの二人は返事を聞くまで は帰りませんよ」と隣室でささやいている。「君たちの言うこと解かりました。本庁へ出 て善処するようがんばりますから今夜はもう遅いので帰り給え」{これ以上支局長をいじ めても仕方がないと思い二人は支部へ帰った。「よし辻原に相談しよう」と考えた。当時 辻原は日教組中央執行委員として法制部長を動めていた。電話で事情を述べ「善後策」を 相談した。「事情は解かった。詳細打合せのため、永田君上京してこい」と言う。「よし」 と決意して同年12月31日大阪駅から汽車に乗った。帰省客で座席は満席。やむなく新開 紙を敷いて便所に座った。一睡もせず東京に到着。交番で日教組本部を尋ね教えられた道 をとぼとぼと歩いて行った。当夜は雪で積雪20センチ。何度か滑りこけながらやっと教 育会館にたどり着いた。1月1日早朝会館管理人をたたき起こしてとにかく中へ入れても らった。  「誰か応対する中執がいるのてすか」「辻原に連絡済です」「今日は元旦ですし、この 大雪ては辻原さんでも出動しませんよ」「いや絶対米る」「そこまで言うのなら一度電話 してみなさい」  管理人は親切に電話番号を教えてくれた。「ハイハイ辻原です。お一永田君か、この大 雪に良く出てきたな、今どこだ、会館に入っているのか?すぐ行く。二時間はかかるから、 待っててくれ」督理人は「寒いからここへ入ってお待ちなさい」と玄関の受付ボックスに 電気こんろを入れて椅子を示した「すみません」私はその中に入り待つこと三時間。「す まんすまん、電車もタクシーも不通でねえ」  ようやく辻原に会えたので問題を切り出そうとすると「待て待て、去年まで値が法制を 担当していたが今年は槇枝が法制部長だ、奴の家に行き皆で相談しよう」と市ケ谷中良町 の岡山県人会館へ行った。当時槇枝は岡山出身の学生寮管理人を勤めていた。本題に入る と槇枝は「話は解かったこれは和歌山だけの問題ではない全国的な問題だ、日教組として も取り組まなければならない。君の言うとうり該当者だけの問題ではない。全国何千、何 万の児童生徒の学歴に関わる重大問題だ。日教組としても文部交渉に取り組むが、手取り 早く解決する方法が一つある。和歌山て模範的にやってみてくれるか」「解かりましたや って見ます」  {唯一の方法とは免許法で「大学入学資格取得者は旧制中学校卒業と同等資格とする」 と言う条文がある。どこか大学と交渉して大学入学試験を行なってもらう事にしようとな った。私には大学の目当でもない。槇枝は「それは他に任せOO大学通信教育部長と知己 だ。紹介するから直接交渉しなさい」  私は槇枝の紹介状を持ちOO大学通信教育部を訪問、事情を話して大学入学試験実施を 頼み込んだ。「多勢で上京されるのは大変でしょう、出張試験と言うことで私が試験問題 を持って和歌山まで行きましょう」「有り難うございます。では旅費と宿泊費は和歌山で 持たせていただきます」と約束して和歌山へ帰った。すぐ該当者に受験日時と場所を通知 した。事情を知らない受験者は「どうして私たちだけ試験など受けなければならないの?」 と不満だらだら、最初の試験は平均点56点で中には30点未満の者も居た。合格させては 大学の面目も立たない。好意に甘えて再試験をお頼いした。今度は事前勉強もさせたので かろうじて全員合格点をとった。こうして県下で総勢97名を救済した。和歌山での成功 は同一問題で困っていた他府県でも救済し、全国で約5千名の女子助教諭を救済すること が出来、子供たちにも学歴不足と言う迷惑を掛けずに済んだ。残念なのは当の本人たちは この事実を知らないことである。

5、免許法等改正

 助教諭の抜本的な救済は悪法免許法の改正以外に道はないと考えた私は、教育小六法を 買い込み研究を始めた。教育免許は戦前から「教育免許金」と言うのがあり、○○学校を 卒業すると小学校教諭の免許状が授与されていた。旧制大学を卒業すると中等学校教諭の 免許状を授与されていた。戦後六、三、三制が実施され、小学校は教科の区別なく、中学 校、高等学校は教科別の免許状が必要になった。更に盲・聾・養護学校教員には基礎免許 状と障害別の「特殊免許状」の双方を持たなければ障害児学校の教員にはなれないと言う 定めにされてしまった。免許法等と言っても「教育職員免許法」「免許法施行法」「免許 法施行合」「免許法施行法施行合」「免許法施行規則」「免許法施行法施行規則」「免許法 施行合施行短期」等々複雑に条文が入り組み何から手をつけて良いやらさっぱり解からな い。しかし取り組んだ限りどこまでも達成しなければ納まらない気性の私は大きな模造紙 に条文を全て写し取り関係する条文を朱記して法律の矛盾点を取りだし、改正するとすれ ばどこをどう直せば良いか改正点を青記した。この問1955年6月城崎で開催された日教 組第八回定期大会と前日の青年部大会に出席した。 助教諭の大部分は青年部に所属する ので問題の理解も早いだろうと思ったが、これは早計で青年部長は少しも助教諭問題に付 いて関心がない。それでも「免許法を抜本的に改正して助教諭問題を解決する」と言う運 動方針修正案を可決「大会代議員に出る青年部委員は大会に提案される日教組運動方針改 正案提案に賛成すること」と言う付帯決議も賛成多数で可決させた。  翌日から開催された定期大会に私も出席して、まず「免許法の矛盾点はどこか」と質問 した。法制部長は答弁出来なかった。すぐ修正点を書いた紙を議運まで提出した。  第三日に修正案について提案理由説明のチャンスを与えられた。「免許法改正は組合員 の半数以上の切実な問題で資格向上は子供の教育権を守る上でも大切である」と説明した。 運動方針の採決は修正案が原案から遠い物から漸次挙手採決を行ない最後に議長は「運動 方針の採決に移ります。ただいま採決された修正点を含み原案に賛成の方の挙手を求めま す。絶対多数。よって一号議案は修正点を含み原案通り可決決定しました」と宣言。  当時の小森法制部長(茨城県出身)は怠慢で9月開催の次期中央委員会で「免許法改正 の現状如何」と質問しても何一つ答弁できない。12月開催の中央委任会でも説明出来な い。翌1956年3月法制部長全開催の通知が来た。私は近畿ブロック法制部長会を開催さ せ「免許法等改正案私案」を提案、「フロックとして各県一致して日教組法制部長会で採 用させるよう努力をしよう」と呼びかけた。強力に賛成したのは兵庫県教組法制部長の西 八君で「実は兵庫県ても組合員の半数が免許法改悪の被害を受けている和歌山が提案して くれれば兵庫県は賛成演説を打つよ」と賛成してくれた。私は半紙二枚大の用紙に現行法、 改正案、改正理由を解かりやすく活字で印刷し、各都道府県へ三枚宛配布出来る枚数を持 って法制部長会へ出席した。当日は開催挨拶だけ日教組本部が行ない、議事は私が提案し た「免許法改正案」だけを審議し満場一致て可決決定した。小森法制部長は唖然としてい た。後に日教組委員長に出世した田中一郎氏が山梨県選出の中央執行委員として日教組に 出ており当時法制部に属した。彼は真面目な性格で、可決した改正案を勉強して「日教組 改正案」と位置づけ、文部省大学局教員養成課長と交渉を重ね「日教組案」を「文部省案」 として自民党文教部会の理解を得て衆議院へ提案、文教委員会も本会議も満場一致で可決 決定した。私の提案した改正案の要点は「在職年数の単位換算方式の採用」にあった。提 案理由として「教員は授業を行なう前に教材研究が必要である。子供達に理解させるには、 一時間の授業に二時間の教材研究を欠かせない。一日4時間の授業に8時間の教材研究を 行なう。年間1904時間の教材研究は一単位の認定講習受講時間で割れば約6単位に相当 する。1単位は付録として在職一年に付き5単位を軽減するのが妥当である」と永田流の 勝手な理屈を付けていた。  田中がどう説明して安養寺がどう納得し、各党の文教委員がどう囲されたか、法案審議 の模様は知らないが、ともかく免許法改正案は私の考えた通りに改正された。後日、教員 養成大学学長会議が私のインチキ理論に気がつき「在職年数単位換算方式は誤りで以前の 法律に戻すべきである」と言う意見書を文部大臣に提出した。しかし法律は一旦施行する と事実関係が発生するので再改正は容易でない。教員養成大学学長会議は見事に敗北した。

6、責善教育

 有田支部には小槇先生と言う責善教育の権威者がおられた。「善をすすめるは人臣の道 なり」を基本として和歌山県独自の教育論を展開していた。全国的には「同和教育」と言 っていた。未解放部落に対しての差別言辞に対してまず「確認会議」を開き「糾弾」に発 展させた。差別発言をした者には免職退職を迫る。  和教組は本部にも支部にも責義教育部を設置した。組合員でも差別発言をすれば免職に 追い込む。組合は組合員の身分を守るために結成されたものであるのに組合が組合員を免 職に追い込む役割を演じると言う矛盾が発生した。1947年の和教組加太大会は議論百出、 結論を得ぬまま流会となった。1956年○月西川差別発言事件が発生した。自民党西川県 会議員が県土木部の会合で同僚議員を差別する発言を行ない、これを聞いた旅館の女中の 告発で差別事件として発展した.部落解放同盟を中心として西川糾弾共闘会議を結成し、 連日辞職を求めて大衆行動て抗議したが一向に辞めない。知事から「退職勧告」を行ない 県議会が「退職勧告決議」を可決しても辞めない。最後に自民党県議団の勧告で県議を辞 任した。  直ちに補欠選挙に入った。共闘会議は御坊市の部落解放運動指導者を推薦して選挙戦を 戦った。西川は補欠選挙に立候補して保守対革新の一騎討ちとなった。共開会議は必死に なって戦ったが見事敗北。西川は再選された。選挙区内の部落の投票は大部分西川に入れ ていた。解同は反省を込めて総括を行なった。従来「差別」と言うと人民相互の差別発言 を取り上げ糾弾を行ってきたが、差別の本質は「構力及ぴ権力に追随する連中が人民の持 っている諸権利を剥奪したり権利の一部を制限したりすることで、この差別の反照として 人民相互間に対立感情を起こさせる権カ側のたくらみを総称する」とまとめられた。解放 同盟のこの卓越した方針は、残念ながらその後の解放同盟の指導方針として貫かれず朝田 善之助が解同を乗取て以後「一億マイナス300万=差別者」と言う勝手な理屈を打ち立て 横暴な行動をとるようになった。八鹿高校事件は差別糾弾に名を借りた暴力行為であった。  「同和対策事業」は部落の環境改善等では一定の成果をもたらしたが「窓口一本化」等 解同のお墨付を持たない業者を締め出し特定業者だけに不当且つ巨大な事業利益を得させ 「上納金」と称する賄賂を取り、解同の資金力を増大させ衆参両院議員も解同から政治資 金援助を受けて、解同の御機嫌取の政治活動ばかりを行なう政治家が増えてきた。教育研 究集会ても同和教育分科会で対立が激化した。障害児教育にも破壊的な理屈を持ち出し各 地で混乱を起こさせた。

7、ろう学校職場民主化闘争

 1955、56年私は和教組書記次長を勤め法制部長を兼任していたが免許法改正と言う念 願を達成したので学校現場へ帰りたくなった。その頃和教組執行委員会に非専従執行委員 として県立盲学校から浜端君が出てきていた。浜端君は「永田先生、現場に戻るのなら是 非盲学校へ来て下さい」と誘ってくれた。県教委に尋ねると「盲学校は定員一杯だ、聾学 校なら五人新採用がある。行くかね」と井上学事課長補佐の話。「是非お頼いします」と 頼書を出した。赴任して驚いた。襲児に水掻きどころか先生たち全員水掻きを持たない。 学級担任も教科担当も当人の希望を無視して、校長、教頭、学部主事らで「学校運営委員 会」と称するものを組織して当人には有無もいわさず押しつける。運営委員会ば各人の欠 点や失敗を取り上げ話題にしていた。  「よし教員全員に情熱を持った教育を保障しよう」と考えた。また用務員に「小父さん これを頼むよ」と私用を命じていた。「これも改善課題だ」事務長に組合加入を持ちかけ ると「嫌だ」と言う。「理由は前の分会長が事務長の賃金が高すぎると言って二号棒下げ られたと言う。私はすぐ県教委給与係長に交渉して事務長の給与を復元させた。その上で 事務長には「用務員に公務以外の私用は命じないこと」を要請した。事務長は快く了解し た。こうして学校教職員全員を組合に結集させ分会長選挙を行なった。私が分会長に選出 された。次に分会長の諮間機関として「人事対策委員」を全員投票て選出した。人望のあ る数名の委員が遠出され従来の運営委員は全員排除された。ついで全員から「学級担任と 教科担当及び学校運営業務分担について第一、第二、第三まで希望を紙に書いて提出させ た。校長には「校長は学校運営の最高責任者ですから、ご自分の最良と恩われる担当をお 示し下さい」と申し入れた。校長は教頭に相談して学級担任、教科担当、業務分担を示し てきた。私は「人事対策委員会は原則として全教職員の弱点、欠点は絶対当委員会の話題 としてはならぬ」と厳命した。個々人の欠点等は校長や教頭より日常教室を接している教 員の方が知悉しているものである。教頭は教員相互の噂話を総合して人物評価を行ない運 営委員会ては「あの教員は×××jと悪口を述べ当人の希望を無視して来た。「人事対策 委員会は言わば弁護士である。弁護士は例え殺人犯人でも良い点を見つけて無罪を主張し 情状酌量を訴える。人対は弁護士以上に当人の立場を弁護して希望を達成させなければな らない。これは我まま勝手を許すと言うのではなく、当人の教育に対する情熱を引き出し 熱心に教育に打ち込ます最低の保障である」と人事対策委員会の任務を提案して教職員全 員に了承を求めた。「甘すぎる」と言う批判も出たが、一番喜んだのは校長で「そこまで 教員の良心を信じてやれば、失敗する教員もなくなるだろう」と了解した。組合は組合員 の権利を守るだけではなく子供たちの教育権を守るものだと言う理解が父母達にも浸透し てきた。

8、通学バスの獲得

 盲聾学校は和歌山市に一校ずつ存在したので、児童生徒は遠距離通学を強制された。し かも駅から学校までは電車に乗らなければならない。満員電車で大人達の問に挟まれ揺ら れて来る。電車を下りると対向の電車や自動車がすれ違う。これまで人身事故なくよくも 来られたものだ「よしスクールバスを獲得しよう」と考えた。その頃小野知事の令嬢が松 ケ丘洋裁学校に遡っていることを知り浜端君が洋裁学校長に運動会の共催を申し込んだ。  かくして知事の令嬢と知己になった。ある日曜日幻灯のフイルムを提行して知事公舎を 訪問した。令嬢が応接室に通してくれた「お父さん今何をされておられますか」「父です か、父は今二階て昼寝です」「ではちようどよろしい。『下でこれから面白いものを見せ ますからご覧になって下さい』と呼んできて下さい」「では呼んできます」令嬢は二階へ 上がられた。まもなく知事は「面白いものって何じや」とつぶやきながら応接室に入って 来られた。「すぐ始めます」と幻灯を映写した。一枚目は盲児が大人達の間に顔を出して いる電車内の写真、二枚目は電車の後ろを反対側の歩道に渡ろうとして自動車が通過して いる写真、三枚目は曲り角で盲児が車に跳ねられそうになっている写真。数枚の写真は全 て事故寸前の写真ばかり。  「これで終了です」と当日は令嬢にお札を述べて引揚げた。数日後、秘書課長を通じて 「陳情」と称して県庁を訪問した。陳情団は盲聾両学校長、両校のPT会長、数名の母親 と私。知事室に通され机を隔てて向かい合った。  「今日の陳情は何かね」「実は両校にスクールバスを配置して頂きたくてまいりました」 私は一行を代表して用件を打ち出した。知事は「この野郎、君は先日娘をたらし込んで幻 灯を私の家に持ち込みせに見せたなあ」ご機嫌はうるわしくない。「ハイそうです。あの 写真の通り子供たちは通学に苦しんております。陳情書の通りスクールバスをお頼いしま す」「待て待て先般の水害で今県予算は水害復旧て手一杯じや。とてもバスを買ってやる 予算はない」「いえ新車を買っていただかなくても良いのです」「買わない方法があるか ねえ」「あります。県庁の車庫に一台バスがあります」「君は知っているのかねえ」「ハイ 見ました。あのバスを下さい」「駄目だ。あれは議会バスて議員が公用で使用している。 所有権は知事になく議長が所有している」「では議員さんが利用されるときは議員の優先 使用として御利用でないとき借用させて下さい」  「では議長に相談してやる。平越君を呼べ」秘書課長は退席した。しばらくして「知事 私に何か御用ですか」と県議会議長平越孝一氏が知事室にはいってきた。「平越君、君に 知恵を貸してもらいたい。実は、君の所管の議員バスを議員が使用しない時だけ、盲学校 ろう学校に貸してやってくれないかねえ」  「知事、私も高野目から汽車で通勤していますが、育児ろう児が車中で勉強をしており、 和歌山市駅で電車に乗り換える時には、通勤の大人達の腰にぶら下がったり押されたりし ている風景を何度も目撃しています。通学バスは大賛成です。すぐ各派代表と相談します」 と賛成してくれた。  数日後、私は知事に呼出された「ガソリンは県庁から支給する。バス運転手はどうする か」と聞かれた「両校の定員の中で教育委員会と相談して善処いたします」と答えた。両 校の給与費を半人分出し合って運転手を一人採用した。すぐ運行路線を決定。「和軟山市 駅」「東和歌山駅」を経て途中何箇所か乗降場所を定め、通学生の便利を図った。また遠 足や校外実習にもバスを使用した。バスを獲得すると父母だけ乗せて「バス獲得記念バス ツワー」と称して市内を一巡して父母に勝利感を味あわせた。バスは整備洗車のためろう 学校に常置した。運転手もろう学校の職員とした。時々議会事務局から「議員さんが使用 するからバスを返せ」と言う電話がかかってきた。電話口には必ず私が出て「了解しまし た。すぐ連絡を取って県庁へ回送させます」と答える「そこに置いてないのかねえ」「ハ イ只今校外実習に和歌浦まで行っています.帰り次第、直ちに県庁へ向かわせます」「そ れでは間に合わぬ。先生方玄関でお待ち兼だ」「相済みません。タクシーでも回しましょ うか」「もう好い先生方は議会の車に分乗しておでかけだ」「それはそれは誠に済まない ことをいたしました。明日各派へお詫びに伺いたいと思います。何時頃がよろしゆうござ 時すか」「来なくてもよろしい」「有り難うございます。お伺いいたしません」(電話はこ こまで、実はその頃バスを車庫で点検中。議会事務局は私の返事を疑っても、ろう学校ま で調査にこれない。 数回同じ電話のやりとりで議長もあきらめ「バスは進呈する。自由に使用したまえ」と 電話。校長と私は、改めて知事と議長にお礼に参上した。以上が通学バス獲得第一号の経 緯。  数年後、私が日教組特殊学校部長に当選して、文部大臣交渉で通学バス購入予算を新規 予算として計上させ、大蔵省主計局文教担当主事交渉で認可させ1950年6台、51年以降 毎年8台を予算化させた。20年後には全国で500台以上の通学バスが運行している。東 京都等では車椅子のまま乗降できる改良バスも実現した。
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