海南風土記(第71話からおわり)未
和歌山民研「月報」紀州お国自慢(和歌山県保険医協会)未
寛永の頃(三三〇年前)饅頭笠に脚絆ばき、腰に刀をさして紀州から江戸通いを
して漆器を商っている人があった。どこか気品のある豪商の旦那の風貌をもってい
た。現代東京は日本橋に地上四階地下一階の壮麗な角田ビルの発祥はこの時代に逆
る。
その頃既に内海では木村平右衛門さん、黒江では松田二さんの先祖が活発に紀州
漆器の販路を求めて江戸へ積出していた。
黒江漆器はその起源が天正十三年(三七〇年前)根来寺の廃滅にはじまるという
が、寛永の頃すでにこの盛況があるとすればこの説もどうやら疑問がはさまれる。
輪島では五〇〇年前紀州黒江の人に伝授されたといい、ロクロ師の研究からそれ以
前よりすでにこの業があったという新説が出て、未だに確証はないが、僧坊二千七
百の大根来寺の衆徒の中幾人かが黒江に来て在来からあった漆器の業に就いたと見
るのが至当であろう。清兵衛さんは紀州人らしい豪快な商魂をもってぐんぐんと進
出をはじめた。後の紀の国屋文左衛門も彼に影響されたにちがいない。二代目清兵
衛さんの代には江戸に店舗をもった。又紀州候の産業庇護もあり四代を経て現在に
至った。下津小学校に石像を寄贈された現代の清兵衛さんは下津の名門、門脇家の
出。「ウオセ」の家号は不動の信用をもって全国漆器業界に重きをなしている。
日限さんのお参りした人は帰りに味淋屋(松本)のミリン粕と馬傘を土産に買っ
て帰るのが常であった。
元禄年間から漸く盛んになって来た名高、日方の雨傘は保田紙、高野紙の強靭さ
が何よりの強みで、「紀州の八丁傘」の名で全国にひろまっていた。明治に至って
岐阜其他の産地が品質に改良を加えぐんぐん進出をはじめたので紀州傘に危機が訪
れた。
この時、名高に住む山下力松さんが子供絵日傘を思いついたのであった。力松さ
んは大の競馬好きで毎年十月一一日春日の馬場で行われる「馬かけ」の見物はかか
したことがなかった。馬は大人だけではない。子供も、ようやく物心がつく頃から
ウマ、ウマと言って親しむものである。この馬を絵日傘にかいたらきっと売れるに
違いない。彼は一心に走る馬の姿態を研究した。何千何万と描いて見た。数をかく
というものは恐ろしいもので筆の「なれ」は専門の画家といえども真似の出来ない
ものがあった。
今全国で民芸品の研究が盛んになりつつあるが下野国益子の絵土瓶、江州の大津
絵、紀州の馬絵は数多く描く巧妙な技と洗練された美しさで知られている。
青木梅岳さんも力松さんに是非絵を絹にかいて残すようすすめたが、遂に傘以外
にはかかなかった。今の山下敏夫さんは三代目、初代の名をはずかしめないように
と懸命に努力されている。
昔は夏の夜の凉台によく怪談がはじめられた。その頃井引田圃に火の玉が飛ぶと
専ら噂されていた。
井引の森は海南駅東方の田圃中であるが、この地名については数々の説がある。
一説にこの辺は元大野水門(オノミナト)と云い、神武天皇の上陸地点で、皇兄五
瀬命の御葬事をおえられ喪に服された。即忌服(イブク)の転訛であると云い、又
井田から田圃の水を引いたから井引だ、い草が多く生えていたからこう呼ぶのだと
いろいろの説がある。ここは昔天照大神を祀った霊地であった。
或夜この近辺を通った人が人もいないのに不思議なイビキ声を聞いた。神のイビ
キに違いない。井引の語源はそこからおこるとも云われている。
この井引の森から西へずっと松原があった。井引の松原を略して井松原というの
であるが、天正年間の古戦場で永正寺の過去帖に討死二百人とある。その死骸の引
取る者なきものはそのまま放置されていたが、その亡霊が三百数十年この辺りにさ
まよっていて火の玉と見えるのであろうといわれている。誠に今の時代から見れば
考えられないことであるが、心霊学の研究家達はよくこの亡霊が出て来て話をする
という。
柿本人麿が新婚旅行に海南へ来たのは文武天皇の第二年、彼が三十四才の時であ
った。最初の妻軽娘子(かるのおとめ)を亡くし、第二の妻羽易娘子(はかいのい
らつめ)を娶った次の年にあたる。
それから三年後文武天皇の駕に従って再びこの地を訪れた時は妻は早くも世を去
っていた。
「古へに妻と吾が見しぬばたまの黒牛潟を見ればさぶしも」
この歌の意は前に妻と一緒に来て眺めたこの黒江の浜を今再び来て見ると妻はは
や亡くなっているので淋しさが身にしみるということになる。
人麿の住いは大和国宇陀郡墨坂であったが、明るい紀州の海にたまらなきあこが
れを感じたのであろう。彼は又名高の浦で
「紫の名高浦の愛子地(まなごづち)袖のみ触りて寝ずかなりなむ」と詠んでいる。
共に万葉集におさめられている歌である。
その頃の海南の浜は温山荘のひょうたん山は海の上に浮び、黒江の弁財天は沖の
小島であった。池崎山は今の毛見崎のように海岸にあり、海南駅の東あたりまで海
が入り込んで来ていた。したがって熊野への道路は大野から小中、鳥居を通って青
木梅岳さんの邸の前から藤白神社へと行ったのである。
嘉永七年九月十五日昼前何国の船ともわからぬ黒船が一隻熊野沖にあらわれた。
「スワ黒船が見えた」一大事と紀州の沿岸一帯非常警戒線がしかれた。翌朝既に黒船は海南の沖に姿をあらわした。
その時の手配の中毛見浦から藤白の北境までは加納平次右衛門があたり台場は毛
見崎と観音崎に置かれた。又藤白の北堺から桜尾の鼻までは佐野伊左衛門が受持ち、
冷水浦と露浦に台場をおいた。また我が国の運命を決する重大な時として軍規はき
わめて厳粛で、外船に対しては終始穏容公正の態度をもつよう言いわたされたので
あった。
黒船は日高郡塩屋浦に投錨して一夜をあかした。幸い海南へははいって来なかっ
たので一同胸をなで下ろしたが、村人は非常な緊張振りであった。中でも佐野伊左
衛門を佐けて大野中の中山利左衛門は、騎馬で何回自宅と毛見の台場の間を通った
かわからなかった。
黒船は大阪に寄り帰りに加太浦に投錨後下田に向かった。
南紀の地は由来佳山美景に富んでいる。中でも和歌の浦、黒牛潟、藤白は文人墨
客の言を極めて絶賞するところであった。
南画の大家、桑山玉洲は「余暇ある毎に近傍の玉津、加茂の梅渓、琴の浦等の幽
すいの地に逍遙し親しく雲煙出没の形態を窺ひ、常に画眼の啓発に努めたり」と云
う。加茂の梅渓は小南の梅林とも称し、南部の梅林が今日の大をなさざりし以前、
紀州の梅の名所として紀伊名所図会にも掲載されているが、現在一本も梅樹の影を
見ない。惜しいことである。幸い琴の浦は往事と趣こそ異なれ現代その美景を保っ
ている。
さて玉洲は桑嗣燦(そうしさん)という紀州の人。池大雅に学び本邦画人中の異
才であった。その弟子野呂介石、又黒牛名高の地を愛し、共に鳥居の木村家に遊ん
だ。
今でもその筆のあとが同家に残っている。そのようなわけで嗣燦の作品が海南の
旧家で相当残されていたが、現在玉洲が日本美術鑑賞界において高く評価され、そ
の殆どが流出してしまったと云ってよい。(嗣燦と号する人、紀州人にもう一人あ
り、画風やや近似している為混同することがある。)
海南市の文人中先ず指を屈するなれば僧全長がある。名高専念寺第十四世の住職
であるが、其の著作は二十三巻に及び海南郷土史研究は彼に負うところ極めて多い。
延享四年(一九〇年前)入寂し、その墓は名高の専念寺に在る。
又木村大譲は通称平右衛門、文政元年(一三九年前)の生まれ、木村見山は元保
十二年(一一九年前)の生まれであるが、共に郷土の文人として又紀州の代表的墨
客として名が高いが、その墓は如来寺は日限さんの西隣り(市教委事務局の千葉先
生のお寺)で木村家代々の菩提所、浄土宗鎮西派に属し、狩野泉渓斎筆涅槃像軸が
秘蔵されている。別項で述べた桑山玉洲の墓は和歌浦宗善寺、野呂介石は和歌山護
念寺に、又黒江中言神社に度々来り絵をかいた岩瀬広隆は万精院にその墓所が在る。
木村成蔭はこれらの紀州文人の墓所を詳細に調査されているが、彼は歌人として
其の名高く、「藤白のみ阪はすてし筆の跡に千代も消せぬ名は残りけり」の歌をは
じめ四〇八首を残して居り、元和商の先生をされていた木村愉一氏は「木葉集」と
して其の遺詠をまとめられているが、成蔭はその父見山詩集「愛静居詩稿」を刊行
した翌昭和二年、五十九才で永眠。如来寺に大譲、見山とならびまつられている。
「清水、久野原、三田(見た)とはいへど知らぬ小峠を遠井(問ひ)まわる」
こんな俗謡がある。海南と山の保田(通称オク)とは往時関係が深かった。その間
を結ぶ県道はいわゆる龍神街道で日方―重根―阪井―野上―神野市場―遠井辻峠―
清水という線で、神野市場からは分かれて高野街道となる。
奥有田で出来る産物はすべて馬の背中で遠井辻峠を越し神野市場から牛馬車で日
方に運ばれて来た。
室町時代には名高の一角(岡芳菓子店付近)に広大な市場があり、これらの産物
がここに集められ幾内は申すに及ばず四国、九州から牛馬の類まで舟で輸送されて
交易されたのである。市は毎月六度開かれ極めて賑やかであったが、徳川頼宣入国
以来この市も和歌山に移り、さびれて行った。
それに代って江戸期に日方の商店街が次第に発達し、龍神街道を通う荷馬車の帰
りは栄通りの卸問屋で買った荒物の類が山積されていた。
山の保田から紺のかすりにすげ笠さした女達は日方へ嫁入りの晴着を買いに来た。
遠井辻峠の山頂近く清水が流れ落ちて旅人の渇をいやしているが、ヒシヤクに日方
のウエダ薬局とかかれているのが子供の頃の記憶に残っている。
当紙(注・海南新聞)海南太平記中のウエダ薬局の新戦術の一つであろう。海南
の商人は竜神街道にそって奥へ奥へと進出して行った反面奥から海南へ移住する人
が多かった。同じ薬局で例をひくなれば東浜の白百合薬局の主人はこの清水の人で
ある。龍神街道も清水以南の城ケ森越えは訪う人もなくさびれて行った。
海南市の三巨木といえば、黒江御坊の大楠、藤白神社の老樟、それに幡川薬師の
古杉であろう。
その中黒江御坊の大楠は、樹高十二間、樹令六百年というから黒江漆器の起源よ
りずっと古い。
藤白神社の老樟の中、東側の楠神社の背後にあるものは四株かたまり何れもまわ
りが一丈数尺に及んでいる。これは元この四株を合わせたよりも更に太い樹があっ
たのを切った後に芽を出した四本が現在のものであるというから樹令ははかり知れ
ない。その他にまわり二丈のもの一丈八尺六寸のものなどがあり、この社は誠に森
々として歴史の古さを物語っている。又幡川の古杉は四〇〇年の古さであるが、高
さは十五間、周囲二丈一尺、明治十八年の暴風雨に上部が折れたが、樹勢はまこと
にさかんである。
冷水の八幡宮境内には老椋が多くその中、幹の周が一丈以上のものが五本もある。
椋では中野上小学校の西、椋木にかなり大きいのがはえているがそれでも樹令は五
十年位、且来八幡の馬場にあった松の樹で九十七、八年、日方茶屋浜の大楠で一〇
七年であるから数百年という巨木はそうざらにあるものではない。
藤白峠の地蔵堂の横から少し西南に行ったところにコンコンと水のあふれ出てい
るところがある。
第三十五代舒明天皇が熊野へ行幸の途次藤白峠でいたく咽喉がおかわきになった。
当時峠に茶屋はなく、奉供していた役の行者が峠から少し下ったところの巌に加持
祈祷をすると忽ち清凉の水が湧き出て天皇大いによろこばれたという。この水は今
も尚たえず付近に桜の大樹があるので以後桜の井と呼ばれ峠の人々の飲料水となっ
ている。
その時天皇は記念として小松を引きぬき印をつけて藤白坂の谷に投げ熊野から帰
りに再び生えついているか見ようと仰せられた。この松は後生長して「投げ松」と
呼ばれていたのを後、巨勢金岡の故事以来筆捨松と呼ばれるようになった。
当時の熊野への道路は安原の薬勝寺から山手を通り、(今は廃道)且来くも池に
出、春日神社の西、日限山下から鈴木屋敷の上を通り藤白坂、更に加茂のカブラ坂
から宮原へ直行又迂廻をさけて糸我坂をこえて湯浅にというように多少の坂道はあ
っても最短コースを通っている。そして参道至るところに泉を見出し小憩をしたも
のと見える。
この程玉置勇氏から「狐陋尺牘」外数冊の木村家の古書を拝領して思ったのであ
るが、明治七年に出版したという木村大譲先生の本が誠に新しく且つ丈夫である。
これはその紙の良さによるものであろう。三ツマタ紙に印刷され絹糸でとじた優
雅な和綴は誠によいものである。
私は日方の紙屋の子として生まれたので、子供の頃から紙に親しみ又自らも紙を
漉いたことがある。大正初期に海南を訪れた牧水の歌に「たてまわす紙の障子のあ
かるくてこころかなしきけふのひとりい」というのがある。ガラス戸では味わえな
い日本紙の美しさである。
日方に備忠、鍵作、且来平、醤油楠(武)等紙屋が多かった。黒江でも名手藤、
岡本、名高の吉田等多い。これらの店で扱っている紙を見ると高野紙、保田紙など
当地産の楮を原料としたものは勿論、讃岐や備中産、引合、杉原、奉書から山代や
岩国の半紙など極めて種類が多いが、何れも雁皮三ツマタ楮を原料としている優雅
強靱なものである。また新婚の枕辺の音無紙も店頭にならべられていた。
これらの紙はすべてカット図に示すように板に貼りつけ天日で乾かすのであるが、
私の父(玉井近之亟)はトタン板で乾燥器を作り、一応成功して大野中で小さい製
紙工場を営んだことがあった。
「丁か半か、そら丁が出た」落武者達が振る賽コロを小僧の徳松はじっと見つめ
て居た。時は慶応四年一月初旬、鳥羽伏見の会戦に大敗した落武者は御三家の紀州
を頼って殺到したが藩ではこれを入れることを忌み、やむなく海南へ流れ込んで来
たのである。日方に宿泊したのは忍藩の人々であったが、一月十六日朝早く今市か
ら須賀の方へ向かった。沿道の人々は皆これを恐れて戸をしめ声をひそめてその過
ぎ去るのを待っていた。一行は名高の宇野辺氏の前に来た時に表の戸が五寸程あい
て中から小僧がのぞいて居た。年は十四、名は徳松、半年程度前にここに奉公に来
たのであった。徳松はすぐ落武者に引っぱり出された。
「おい小僧、酒を買って来てくれ」
一行は縁台に腰を下ろして徳松の買って来た酒をぐっと飲むと今度は財布から金を
出して来たバクチを始めた。徳松はじっとそれを見ていたが、賭博の面白さをはじ
めて知った。徳松はその後海南の大親分山崎徳松として泣く子もだまる程の存在と
なった。落武者はそれから塩津、大崎、下津の辺からそれぞれ関東へ帰って行った。
黒江北の丁にヤスンパだとかコモイケなど古い地名が沢山残っている。ヤスンパ
は今本道から少し上の旧道となってしまったところであるが、道中の休みばで紀州
の殿様も御休憩されたところ、コモイケは今は埋立てて人家が建っているが、前は
淋しい池であった。
寛文三年(二九四年前)六月この池の辺りに数万の蟇(かえる)があつまって大
合戦をやったと紀伊国名所図会に出ている。戦い終わって累々たるその屍の処置に
困り、これをコモに入れ池の中にすててしまったという。それ以来この池をコモ池
と呼んでいる。
ところでこの蛙合戦というものは前に帝展で竹内栖鳳の絵に見たことがあるが、
極めて少ないものらしい。続日本記に弥徳帝御巻、神後景雲二年七月、肥後の八ツ
代郡で広さ七丈程のところに沢山のかえるが集まって戦いをし、日暮に至っても去
らなかった、と書かれているが、こも池の戦も「その声天にひびき物にこだまし物
すごきこと譬えるものなし」といわれているからまことに壮観であったことと思う。
紀伊国名所図会に「琴の浦は毛見崎より舟尾の境までといへり―この地の砂石の
こらず紫石にして他のいろなし、ここを歩くに自然と琴の音ありよってこの名あ
り」と事実毛見崎に露出している紫石が波に破かれてこの辺一面に散らばっていて
波の音が心なしか琴をかなでるひびきがする。
この情景を久世正富先生が歌に詠まれて新万葉集にのせられているが、古来多く
の文人高士によってその景勝の美をうたわれている。「春風に浪のしたふる琴の浦
かもめのあそぶところなりけり」と仲正が詠み、前大納言為氏は「あま人のたく藻
の煙りなびくともこの浦風をいかがたのまん」とうたい、又記念としてこの紫石を
拾って帰る人が多かった。
この石は硯石としては申分なく赤間関硯よりも品質よしとされ、故人では片山由
兵衛さん(三田常蔵さんの兄)が硯作りの名人であった。江戸末期には一時紀州公
がその採掘を禁じて保護したこともあったが、今は自由に拾うことが出来る(但し
大量に持去る場合は漁業組合の許可を要す)
この浜にある島は矢の島として通っているが、紀伊風土記には野島ともかかれ今
温山荘園の中にとり入れられている。
藤白の第二、第三トンネルの辺りから藤白峠へかけての地を燒尾と呼ばれている。
これについてこんな話がある。
藤白の浜にある大きな石地蔵をどうして峠に運んだものかと、この大事業に手を
こまねいていると一人の山うばがやって来てこれかをつぎあげ坂道をのぼりはじめ、
途中、地蔵を背から下ろして一服していると、あたりのかや柴が焼けて来たと云う。
以来「焼けおふ阪」と云っていたのが燒尾となったと僧全長が言っている。この阪
は椿の地蔵から峠の地蔵までの間十八丁あるが、昔は籠かきがいて人を運んでいた。
ところが中に悪徳の者もいて婦女子の客とあれば道のりをいつわって暴利をむさぼ
っていた。
それを僧全長(名高専念寺十四世の住職、元禄の頃の人)が無縁の石地蔵を集め
て来て一丁毎に祀り道中の安全の守護をすると共に里程標の代りとしたので、爾来
籠かきの不正が消え去ったと云う。この地蔵はその後いつとはなく散いつして残り
少なくなったので今は有間皇子の墓のそばに集め合祀している。
数年前日本中の雑賀と名のつく人が一緒になって雑賀一族会なるものが出来た。
海南市でも名高のブリキ屋さんをはじめ黒江でも同性を名のる人が五、六軒あり、
横須賀のさいか屋百貨店、バレリーナで売り出している東京の雑賀淑子さん等なか
なか大勢あるが、すべて和歌山の雑賀党のわかれで藤白の鈴木家と共に饒速日命の
御孫千翁命から出た豪族である。
天正五年八月十六日この雑賀党が織田信長と日方の井松原で大合戦をやった。稲
井内蔵之丞は今市に仮城をかまえ信長に味方した。他に日方の田島、名高の宇野部、
黒江の尾崎(当時は日方の神田)井田の井口等悉くこれに加勢した。
これに対して雑賀党の大将雑賀孫市にくみしたのは日方の石倉、大野の中山をは
じめ野上、山東、貴志、加茂谷の諸豪ことごとく加わった。
真夏のこととて汗だくの戦い。今市城からはフンドシ裸で刀一本振りまわし飛び
出して来た。池の谷の荒五郎はその滑稽な奮戦振りが今に古老の話の種になってい
る。この戦いは結局今市の日方勢が大敗となり相当な死者を出した。永正寺の過去
帖に記載されているものでは死者敵味方あわせて二百人となっている。
(雑賀会の事務所は有田市本町二雑賀伊一郎方)
南方語で上陸のことをナグサという。名草は渚(ナギサ)から出たと云う以外に
南方諸島からインドネシアン(原馬来人)が日本島のうまし国をよき所と認め移住
して来てこのところに上陸したのだと云う説がある。この説によると名草山を中心
として名草姫名草彦をまつる十幾つかある神社の殆んどがその御神体は人形である
と云う。人形と云うのは南方民族の人形芝居(ワーヤンと云う影絵劇)に用いるも
のであるが、先年、安原の吉原の中言神社の御神体を調べると、この人形が沢山出
て来た。冬野の神社で御神体をぬすみ見した人の話では押絵のような人形であった
と話していた。この南方民族説は多少の疑問があるが、仲々面白い。ところで黒江
の中言神社の御神体は何であるかは長く謎とされているが、秘かに聞くところによ
ると真黒い石であるらしい。
同社は元、黒牛潟の大明神と称し黒江の鎮守の神として住民の尊崇するところで
あったが、文和三年(六〇〇年前)中言神社を勧進してその末社となったものであ
る。それで人形が見当たらないわけである。天照大神の生み給うた五男三女の神々
のことを八王子と申し上げるが、この八柱の神がはじめに祀られていた。そして黒
牛大明神としてその象徴である黒牛岩を神体として入魂して納めていたのであろう。
南野上(海南)と小川(野上)の境をなす黒沢山はその美しい眺めとツゲの群落
で最近はハイキングコースとして有名になった。明治初年には浜口梧陵と仏人のカ
ール・カツピンが騎馬で、この地を訪れ絶賛したという景勝の地。その山頂から少
し南に下ったところにカキツバタの自生している沼地がある。ここのカキツバタは
春秋二回開き天然記念物になっている。徳川中期の頃、この辺に親子のきこりがす
んでいたが、或る日親は大蛇に喰われてしまった。その子は何でもこの復讐をしよ
うと和歌山の刀鍛治に三又の鉾(みまたのほこ)を打たせ、それを携えて蛇たいじ
に行った。数時間に及ぶ格闘の末、ついに双方共にたおれてしまった。
村人はあわれに思い子供の為に墓を建てその霊をとむらい、又池のそばには小祠
を作って蛇をまつることにした。
この時用いた鉾はいま野上八幡に奉納されている。
尚この池は一名底なし池とも呼ばれ、或る時この池に落ち込んだ馬の死骸が数カ
月の後に生石口の唐戸瀬橋下の洞から出て来たという。
常世の国から橘の木を積んだ船が海南市の西の端、橘谷の浜に着いた。第十一代
垂人天皇の御代のことである。
田道間守公は勅を奉じて十年の歳月を費やし漸く神仙の秘区(中国であろうか)
からみかんの苗木を求めて帰りついた時は天皇は既に崩御なされていたのである。
みかんの樹は山を越え、加茂郷に樹えられたが、田道間守公は天皇の墓の前に泣き
に泣いて遂に死んでしまったのであった。田道間守公を祀る橘本神社の宮司前山孫
吾氏は先年、文化勲章の授賞者、日本画家の鏑木清方画伯に祝いとして橘の苗を贈
ったところ、画伯は非常によろこび早速それを写生しフクサにそめて友人知己に贈
り前山氏の許にもおくり届けられたのであった。
紀勢線で冷水をすぎトンネルを一つこえるとちょっとした小島のある美しい絵の
ような岬が見える。ここがその橘谷で、ここを最後として汽車は海南にお別れして
下津町区域の塩津になるわけである。
「夏の夜を女ばかりの寄宿舎にぬす人入りてしづかに逃げぬ」
これは歌人の日比野道男氏の作である。
或る夜女子師範に盗人がはいった。幸、一女生徒がこれを見つけたので被害はな
かったが、生徒は一人としてねむる者がなかった。宿直は化学の先生でそしてアラ
ラギ派の大家の日比野先生であった。先生も勿論眠らずに監視をつづけた。
「闇の夜のいや長くしてぬす人の逃げたる後をなほ恐れをり」
いく首もの歌が浮んで来た。先生は最初海南中学校の国語の先生として赴任された。
たしか大正十四年であったかと思う。
そのころ創立間もない同校は最上級が四年生で、山本薬局の山本勝三さんやミリ
ンの松本武一郎さん、有名人では朝日新聞の衣奈多喜男氏などがおり、三年生には
田中織之進さん、海南高校の琴浦馨さん、初島中学校の岩尾覚さんという面々、二
年生には市役所の高尾厳さん、二中の硯武男さん、一年生は実に可愛いくて新調の
ダブダブの服を着た玉置勇さんや、巽小学校の山内英雄さんなどがいた。
「終点に電車を降りて慌しく夜ふけの町をわが帰りゆく」―先生が名高にお住まい
の時の作である。
海南の土産物の一つに紀文盃と云うものがある。黒江南ノ浜の小稲商店で製造さ
れているが、その起源は古い。承応元年十月二十五日のことである。
「海は高鳴る暴風雨(あらし)は吼ゆる、おどる飛沫に白帆は映ゆる」梅中軒鶯
童の浪曲ではないが、紀州みかんに生涯の運命をかけた紀ノ国屋文左衛門が、いや
がる船頭連中に賽コロを取り出し、「一が出たら船を出す、ほかの五つは何が出て
もそこえほうり出した百五十両をお前達に十両づつ進上しよう」と天にまかせた賽
の目、これを酒盃に応用したのがこの紀文盃である。紀州候は殿中の酒興にこれを
愛用したという。
海南の土産物はこの外にみかん盃、馬傘、寺下氏創案の紀州雛、日方の山西さん
の海苔饅頭「磯の香り」などあるが大野の賜硯堂の「みかん羊羮」も忘れてはなら
ない。
賜硯堂の先祖は紀州候からその文筆の功により端溪の名硯を下賜されたので、こ
れを記念する為その後家号を賜硯堂と命名して、今日に及んでいる。
硯といえば海南市に日本一の大硯がある。巾三尺、長さ六尺、一畳敷位もあろう
か。藩主頼宣公の命により、金岡の故事を記念する為筆捨松のうしろに立てている
が、今はつる草に埋もれて見えなくなってしまった。
花市というのはどこにもあるが、下駄市は日本中でも珍らしい。
陰暦七月十四日は黒江の下駄市である。川端筋は非常な賑わいである。
いろいろの出店が立ちならぶ。その中でこれは買ってよかったと思うものの一つ
に、折タタミ式のノコギリがある。腕にイレズミをした爺さんが盛んに講釈と実演
をやりながら鋸をたたいて売っている。今年も名高庄助さんがそばに坐りこんで、
「この鋸は本当によく切れる。千円ののこぎりよりずっとよい」と人々にすすめて
居られた。私も毎年必ず一本づつ購い求めることにしている。
この爺さん曰く
「わしも各地の縁日へ行くが下駄市というのは黒江だけである。これは昔、地方か
ら来ている漆器業の若い職人さんが盆休みに郷里へ帰るのに主人が新しい下駄を買
ってはかせた。
ところが黒江は職人どこで商店がない。やむなく日方まで買いに行かねばならぬ。
そこで日方から下駄屋が出張して来て市をやったのがはじまりで、次第にそれが盛
んになり他の出店もこれに加わり今日のように盛んになったのである。」と。
千八百年前のことである。人皇第十四代仲哀天皇の御代、天皇と皇后が熊襲征伐
を計画した時に、伊勢の海神が皇后の夢枕に立たれ「熊襲より海の彼方の新羅(し
らぎ)を征服せよ」と御託宣があった。
皇后はこれをお信じになり新羅を征伐なされ、その帰りに珍しい白菊の花の苗を
戦利品と共に持ち帰った。安原小学校の校庭に御船山という塚があるが、これは神
宮皇后が家来の武内宿彌(安原の生れ)と船を埋めた遺蹟である。白菊は安原から
海南、吹上の各地に播殖せられ、吹上の白菊の名で人々の間に愛玩せられた(日本
の菊のはじまり)。その後支那産の輸入菊もこれに加わり、九品寺や中言神社で菊
の品評会がお行われるようになった。文化文政の頃には江戸の菊人形の真似をして
ツルカメや屋形船の細工物をやる人も出て、幕末に日高角兵衛(伊織氏の祖)とい
う名人もあらわれた。明治に入ると谷口伊助、谷田卯三郎(海映前)吉野閑山(関
配前の表具師)等が文人作りを研究し、続いて矢倉慶之助、藤田賢一の諸氏による
秋香会が登場して現在に至ったのである。
海抜三千尺の生石高原にどうしてあんなにすすきが生えているのであろう。これ
は等しくハイカー達の不思議がるところである。日本中どこを探してもこんな美し
いすすきの高原は見当らない。又、すすき原がなかったら生石山もこんなに有名に
ならなかったであろう。往時は早春の頃になると生石の山焼きが遠く海南からも見
られた。八十才を超える古老であればこれを知っている。
雑草中、火に最も強い根株をもつのはすすきである。焼野からすすきだけがぐん
ぐん繁茂した。このすすきはカヤ屋根をふく材料なのである。今でも生石山の西麓、
五西月村(さしきむら)にカヤマといって屋根ふき用のすすきを取る為の山原があ
る。紀北の家々の屋根のカヤは殆んど生石高原のすすきでまかなわれていたのであ
る。このすすき原には又副産物がある。庭園の袖垣に使うよく伸びた萩の柴は、こ
のすすき原の中に育った萩の木で仲々高価に買われていく。東浜の有田屋旅館の老
主人は五西月村の出身で大工で腕を鳴らした人であるが、この萩柴で袖垣を作るこ
とがうまい。
すすき原には他にいろいろの雑草がある。なんばんぎせる、にがいちご、すみれ、
まつむしそう、おしだ、おみなえし等、これらはすべて火に強い植物ということが
出来る。
もう生石山のすすきもそろそろ白い穂を出していることであろう。
日方浦の海運がはなやかなりし頃、南ノ町あたりは船頭相手の茶屋が多かった。
県下で公娼の許されていたのは由良の糸屋港と串本の大島であったが、日方は純な
るお茶屋で、寛政の頃、加畑屋治五平が小宿として日方船をやっていた頃は下橋の
丸やの鮮魚店さんも川口の酢屋さんのところもみんな大きなお茶屋であった。
それとは対照的にそのうしろの辺りは今でこそ広い電車通りが出来、海南のメイ
ンストリートではあるが、当時極めて小さい家が目白押しに立ちならんだ細民街で
年中バクチを打っていた。
バクチに負けると鍋釜まで取り上げられてしまうので、常にこれを借貸ししてい
たから「鍋釜借貸しの所」という別名を頂戴していた。
彼等は勿論無学文盲、自分の名すらかくことが出来なかったので、必要があれば
同じ町にすんでいる長沢留八先生のところへ頼みに行くのであった。
長沢先生は日方東橋の辻さんのところに住まって居たことがあるが、金銭には一
向無頓着でひたすら文筆を楽しんでいたので、遂に貧乏が底をはたいてこの伊勢屋
敷へ移って来たのであった。
或る雪の降る日、例によって長屋の一人が長沢先生のところへ這入っていくと、
先生はてっか火鉢を股の間にはさんで夏じゅばん一枚でふるえていた。そしてこち
らを向いてこんな歌を作ったと言って示して見せた。
「伊勢屋敷ぶどうの棚に雪つもりわが身を見れば夏の装束」
黒江漆器はハンダ下地が多い。砥の粉をニカワでねったものであるが、それをど
うしてハンダというのか知っている人は少くない。
東浜で「大九」といえば太田竹次郎さんのお家、この人の祖父は大和屋九平とい
って大きな折敷屋であった。
家号は「大工」と間違える人もあるが、大和の大と九平の九でなければならない。
この人が太田安吉といって子供のころから家業の手伝いをやり、十八、九の頃は遠
く四国方面とも取引していた。
あるとき阿波の半田(はんだ)でトノコと膠で下地をしているのを見てこれは面
白いと、早速家へかえってやって見た。その頃はニカワも京上や三千本の上等を用
い、トノコの分量も少なくし、ホルマリン処理をしたからハンダも非常に強かった。
彼はまずこれを重箱に応用してみた。そして一昼夜水に浸して実験をしてみたがビ
クともしなかった。以来この半田の下地を見習う人が次第に数をまし、また粗悪品
もでてきたので、紀州漆器の名声を落すことをおそれ、半田製品を黒江の港の広場
(今の信用金庫のところ)で焼きすてたことがある。半田は又日方の古物商シココ
さん(森本氏)が仏壇の製造に使っていたのを見習って漆器につかいはじめたとも
いわれている。
海南市の海岸は早くから塩田が開かれていた。
名手源兵衛氏所蔵の古文書による延宝二年七月(二八三年前)川幡六兵衛氏外十
数名が藩候の開設の許可を願い出ているが、その時の保証人は日方の大庄屋尾崎清
太夫(現在黒江の尾崎氏の祖)で、その範囲は船尾、日方、城山、新浜、藤代、比
丘尼山となっているから海南市の海岸一円である。その中藤白一帯は有田新九郎が
開いたので有田屋浜といい、今釜屋と呼ばれているところは塩釜のなったところで
ある。
又船尾の塩田は河内国の川幡氏等が開いたので河内浜と呼ばれている。この河内
浜はその後名手源兵衛氏の所有となり、ここに名手氏の子供の頃まだ盛んにやって
いた由。愈々塩田の終末をつげる時、記念として幾枚かの写真が森本写真館の手で
撮影され、同氏の所に大切に保存されているが、同塩田を語り伝える貴重なもので
ある。又塩田の平釜に素焼土瓶でわかした湯のうまかったこと、又塩田のあとに和
歌の芦辺屋が鯛やチヌをかこって飼っていたそうであるが、その頃の思い出を名手
氏は話してくれたが、今はこの辺は海南一中が建ち昔のおもかげがない。
浜田考蔵氏、揚塩進氏、林喜兵衛氏、小嵐清氏、隅田修二氏の祖も塩田を経営し
ていた。
寒い朝はどんどを焚くのが何よりの楽しみである。
日方のマーケットのそばに扇屋嘉兵衛の子孫でオギカという瀬戸物屋があったが、
子供の頃この家の裏で瀬戸物につめてきたワラをたいてあたった。このオギカの老
主人は大変物知りで子供等にいろんな事を教えてくれたが、ある朝ドンドにあたり
ながら、「おいさんドンドて何故言うんよう」と聞くと次のように説明をしてくれた。
「昔朝廷では正月十五日に青竹をたばねて上に天子さまのかかれた扇子や短冊を
結び一年中の厄除けに焼いたものである。民間でもこれにならって正月十五日にシ
メ縄を焼く習慣ができた。これをトンドとかドンドと言ったので、たき火もドンド
というようになった。」と。古くは「オエサン、ダナサン、シメナワクザンセ、ト
ンドヘアゲル」と子供達はうたいながらしめ繩を集めて廻ったそうだ。
褝林寺(幡川薬師)の古文書の中に一冊の年貢帳がある。虫のついた古いボロボ
ロのものであるが、同寺の住職、阿部諦英師が丹念に調べたところ海南郷土史の研
究に極めて貴重なものであるばかりでなく、日本の荘園の研究にも重要なものであ
ることがわかった。これを聞いた東大では早速県を通じてこれを借りに来、約半ヵ
年かかって全部のこらず写し上げた上に一頁々々写真に撮影して今後の研究に資す
るそうである。
阿部氏はこの年貢帳によって地名の誤びようを沢山指摘されている。例えば皿池
は新池(さらいけ)であること。この年貢帳は表書きに三上庄大野郷年貢帳、応永
七年庚辰正月と記されているから五五七年前のものであるが、さら池は新池と記さ
れている。何れ項を改めてかくことにするが、この年貢帳は今、褝林寺文書と共に
大きな文箱に納められ、箱には「天保参稔六月調之」とかかれている。この時にこ
うしてあつめて保存していなかったら今頃は恐らく散いつしてなくなっていたので
あろう。大野の春日神社の文書は秀吉の南征をおそれて高野山に預けたが、そのま
ま火災に遭って焼けてしまった。禅林寺文書は日方の大庄屋の尾崎家文書と共に郷
土研究に極めて大切な文献である。
幕末の頃の話である。日方の石倉さんと花屋さん(東浜の長沢氏の曽祖)が長保
寺の会式に浜中の門脇さんへよばれて行った帰りのことである。藤白峠に差しかか
った時はそろそろ亥の刻に近かった。その時ふと池の汀でしきりに頭に藻をかぶっ
ている狐を見た。「おやッ狐がだましに来よるぞ」二人は手にもった御馳走の包を
しっかり握った。やがて下の方から桃割れに振りそでの娘の子が上がってきた。 「やい貴様狐やろ!」と大喝したところ娘は「そうよ。でもあなた達をだますの
でないの。今下から来る男の人をだますのだから見ていて頂戴]という。間もなく
一人の男が登って来た。狐は急にヒョウキンな恰好をして踊り出した。男はさも面
白そうにその踊りに見とれていたが急に娘はかき消すように姿が見えなくなった。
そこで男は狐にだまされていることに気づき二人のそばへ寄って来て言った。「こ
ら、おぬしら二人は狐やろ。叩き殺してやろうか」と二人はびっくりして「何を言
う。わしらは浜中から日方へ帰りの者じゃ。この人は石倉、わしは花屋というもの、
ほうれ風呂敷にこの通り名前をそめぬいているやろ、土産の御馳走をこれに包んで
いるのじゃよ」と答えたが、その男は仲々信じない。「本当に御馳走を包んでいる
のか」というから二人は風呂敷包をといてはっきりと証拠を見せてやった。そのと
たん、男の姿は消えてしまった。「あれ?」二人は顔を見合わせて、そして風呂敷
包を見た。御馳走はそっくりなくなっていた。はては二重にだまされていたのかと
はじめて気がついたという話。