語りつぐ和歌山の労働運動(第一部)

ようこそ!

1、平和の灯がかかげられた頃(有田)          北又安二     2、うたごえは平和の力             いわはし・よしお 3、知を育て愛をはぐくんだもくよう学校  山田 晃
4、和歌山方式の統一戦線…いのくら   川口一男 
5、煙樹が浜の松切り反対闘争   山田幹雄 6、勤評反対かぞえうた    奥 鈴雄
7、父母と手を結んだ勤評反対   佐々木賢太郎 8、トラックに立った勝利の旗 −運輸一般田辺運送労組 井上仁平 9、7・18大水害の救援闘争、地域にも民水対結成      橋爪利次
10、花開く 婦人運動−田辺・西牟婁−畑田幸子
11、国鉄職場でもスト−勤評闘争  中平喜祥 12、米原潜くるな!!−神戸港大集会へ−中 啓男
13、屎尿(しにょう)共闘から始まった湯浅革新町政    廣崎高一 14、電産型賃闘から春闘へ−交通労働者の回顧−      上野寿雄 15、青バスか赤バスか−交通労働者の「合理化」反対闘争   上野寿雄
16、国鉄・マル生反対闘争   樋尻雅昭
17、建具労組の誕生と闘い     沖 実蔵 18、沖縄共闘 その日に      岩城正男
19、平和と生活を守る県民大行進    富永智文 20、松沢炭鉱閉山反対の闘い−60年前後 紀南の労働運動−  大田照男 21、戦後初期の産別・全逓のたたかい−2・1ストの前後− 茂野 嵩
22、全逓3月闘争と政令201号−戦後初期の産別・全逓のたたかいA−    茂野 嵩 23、レッド・パージ前後−戦後初期の産別・全逓のたたかいB− 茂野 嵩 24、スト権奪還のたたかい  楠林生悟
25、スト参加者「氏名公表」の攻撃との闘い  堀井雅文 26、覇権主義と激しくたたかう−日中友好など国際連帯運動−   橋爪利次 27、和高教・有田地域共闘会議の「学力テスト反対闘争」   栗原昭三

「語りつぐ労働運動・第二部」へのリンク

         


1、平和の灯がかかげられた頃(有田) 北又安二 


 ところは耐久中学校。林、高垣、川口、佐藤君など若手の元気な教師が大ぜいいて、隣
りの広小に幸田君がいました。初期責善教育をはじめたころで、松本新一郎(現和解連名
誉委員長)、前川正男(元教師・画家)、北一夫(元県教育委員)先生や立命館大学の北
山茂夫教授に三木一平さん(故・元全解連副委員長)なども見えられて、何かと指導して
いただいていました。故村上五郎県教育長も来られて議論したり、活気ある職場でした。

 そうしたころの一九五○年。トルーマン米大統領が、朝鮮戦争で負げがこんできたため
に「原爆を使う」といい出し、わたしたちはストックホルムアピールの署名活動にとりく
みました。この署名は世界中で四億近く集まり、トルーマンを思いとどまらせる力になり
ました。また、和歌山市で開かれた平和集会にも田上久信さん(元共産党県副委員長)ら
と参加しましたが、小松原通り辺りのお寺の堂へ坐ったトタンに警官隊に囲まれて、怒号
の中でアッという間に解散させられたこともありました。平和運動への第一歩でした。

 翌一九五一年には、対日講和条約と安保条約が調印されましたが、「国を売りにいく吉
田(首相)をアメリカヘやるな」などのステッカーを夜の夜中にはりに廻ったことも懐し
い思い出です。
 何しろ、アメリカの直接占領下で、反戦平和なども占領政策違反(政令三二五号)とい
うことで弾圧された時です。堤、佐々木という刑事が、何くわぬ顔で職場へ釆たり、駅な
どで張り込んでいましたから、大変厳しい時期でした。確かな展望などはなかったが、ヨ
ーロッパレジスタンスの話に感動したり、かじりかけの社会主義に未来をみて「われら、
いま少数なれど行かん…」という意気があったと思います。
 やがて、一九五四年。ビキニで第五福竜丸が被爆し、これを契機に全国で原水爆禁止運
動がひろがりました。有田では、朝比奈靖司(現和歌山生協病院院長)、柳谷新次(元印
刷業)、松宮順一(元高校教師)さんらが中心になって運動がひろがったのです。朝比奈
先生の「原爆と放射能」の講演(教育会館)、林克也(軍事評論家)を招いての集会など
がもたれました。一九五二年までは占領軍命令でヒロシマ・ナガサキに関する調査研究や
報道が一切禁止されていたので原爆や死の灰の恐ろしさをはじめて知った人も多かったと
思います。
 こうして一九五四年十月には朝比奈実行委員長のもとで、「第一回原水爆禁止有田平和
祭」が湯浅中学校講堂でひらかれました。岡本同志社大学教授の話、花柳流社中の踊り、
日東紡有志のオテモヤン、歌声サ−グルの′エ爆許すまじ等々、多彩で会場に人が溢れ
盛大な≠ワつりになりました。後援は有田タイムズと那耆(なぎ)新聞社。費用は十五
〜六万円、地元商店をはじめ多くの人々のカンパでまかなわれました。その後三年間三回
もたれましたが、世界大会より一年早くもったところに大きな重みがあったと思っていま
す。

 一九五五年は、原水爆禁止第一回世界大会が開かれましたが、三度被爆した日本国民の
力であったと思います。日本母親大会もスタートしました。有田の母親大会は教委も協力
し、郡婦連との共催で「手をつなぐ母親の力の大きさ」に参加者は涙を流して感動してい
たのを覚えています。
 あれから二十余年。日本か世界に誇るこの二つの大会を、いつまでも大切にして、いっ
そう発展させたいものです。
        (元県地評議長、現県平民懇代表世話人)



         


2、うたごえは平和の力    いわはし・よしお



 そんな大集会が、よく和歌山でやれたものだと、今だに不思議な気がするのが、原爆十
周年原水爆禁止和歌山県民大会でした。
 一九五五年といえば、まだ花入がめずらしい時代でしたが、会場では打上げ花火が次々
と打らあげられたり、記念の日本手拭いが売られたり、特設ステージではいろんな文化団
体が出演し、バレエ(洋舞)も二団体が出るなど、幅広い集会でした。バレエの実物をみ
たのははじめてだという人たちも多く、夢見心地の大集会のフィナーレは「原爆ゆるすま
じ」の大合唱で最高潮に達しました。
  和歌山のうたごえ運動は、一九五四年に最初の県下の交流会(第一回和歌山のうたごえ
祭典)をひらき、ビキニ被爆への国民感情を結集した「原爆ゆるすまじ」の歌を県下にひ
ろめてきました。一九五三年に朝鮮戦争がおわり、五四年にベトナム・ラオスがフランス
軍をやぶって独立したことも、世界の平和運動に大きなはずみをつけていました。日本の
平和運動も大きくもりあがり、第一回原水禁大会や第一回母親大会が一九五五年にひらか
れるなど大きな転機の年だったからこそ、こうした大集会がひらけたのでしよう。
 原爆十周年和歌山県民大会は、向の芝の県営球場(現在は紀三井寺ですがこのころは現
在の県立体育館の西側)で開催され、球場のまんなかにステージが設けられました。まだ
この頃はミール合唱団が創立されていませんでしたが、和大歌と踊りの会が中心になって
「それでも私は行くのよ」というオペレッタをもって参加しました。困難を克服してたた
かいに立ち上がる女性を描いたもので、この集会のために私たちが集団でつくりあげまし
た。
 当時、革新的な学生運動の中で、重視された活動の一つが帰郷活動でした。東京で活動
していた学生が、大学の長い休みを利用して和歌山へ帰り和大歌と踊りの会の中心的な役
割をはたしていました。
 私も、滋賀県彦根市で滋賀大オンチコーラスの創設に努力したり、彦根ではじめてひら
かれた原爆展に解説員としての任務を果たしたり、労働組合や文化団体によびかけて彦根
平和祭を成功させたり、近江絹糸の人権争議の応援に連日出かけていったり、彦根湖合唱
団の一員として第一回滋賀のうたごえ祭典を成功させるために努力したり、多忙な活動を
するかたわら、和歌山へ帰った時は、和大歌と踊りの会に参加して、帰郷活動をつづけて
いました。一九五三年から五五年にかけては、「うたごえ運動」が都市から地方都市、さ
らに町村にまでひろがっていきました。「原爆ゆるすまじ」の歌を、校長先生に教えても
らったという人たちもいて、私たちをびっくりさせました。うたごえ運動の創始者、関鑑
子さんがレーニン平和賞をうけたのもこの頃で、すばらしい発展をとげた日本の平和運動
とそれをもりあげてきた「うたごえ運動」の大きな力が国際的に評価されました。平和友
好祭に参加した世界各国の代表が、日本語で「原爆ゆるすまじ」をうたったのもこの頃で
した。
 こうした運動のもりあがりの中で、翌一九五六年にひらかれた第三回和歌山のうたごえ
祭典は和歌山市民会館(現在の市役所)でおこなわれ、満員の盛況となつました。初参加
の和歌山ミール合唱団は、砂川基地反対闘争の中で生まれた組曲「砂川」を演奏し、県下
のうたごえの仲間に大きな感動を与え、文字どおり和歌山における中心合唱団としての役
割をはたしました。こうした運動の中で日東紡、全電通、和歌山バスなど多くの労働者の
歌ごえサークルがあいつぎ誕生し大きな役割りをはたしました。


         


3、知を育て愛をはぐくんだもくよう学校  山田 晃




 働くものとしての生き方を学びたい、青年部の活動家を育てたいなどの要求から学習サ
ークルをつくろうと県地評青年部婦人部で活動していた国労、全逓、日赤の仲間が話し合
い、三カ月間の準備ののち一九七二年一月二十七日に第一回を開いたのが、学習サークル
「もくよう学校」だったのです。「もくよう」学校は、その名前の通り毎月第二、第四木
曜日に開いていた関係で自然とその名前がつきました。「もくよう学校」は学習サークル
というよりも講師に来ていただいて「働くものの物の見方・考え方」や「働くものの経済
学」等を系統的に学ぶという労働学校的性格をもっていました。今でこそ学習協が主催す
る立派な労働学校がありますが、当時はなかったため労働学校ができるまでがんばろうと
話し合っていたものです。
 初代の講師は通称ヤツさんこと北又安二先生で、先生が作った教科書にもとづき哲学を
六カ月、経済学を六カ月大変楽しく目を輝かせて学習したものです。その後、現和教組書
記長の雑賀光夫先生、和大の森川博教授等々の講義を受けて学習しました。
 「もくよう学校」は約十年続いたのですが、このように長く続いた秘訣は、仲よく団結
した準備会があったからだと思っています。毎回、学習会を開くのに必ず事前に準備会を
開き、職場の仲間への参加のよびかけやニュース、誰に声をかけるか、討論しやすい机の
配置はどうかなど…。学校が終ってからは反省会を近くの喫茶店で開き、取り組みの反省
や次回の準備にむけて喫茶店が閉まるまで話し合ったものです。 また、自分たちの職場
だけでなく他の職場の仲間にもよびかけようと、南海電鉄、建設省、島精機、本州化学、
NHKなど手がかりのあるところへ積極的にオルグをし、仲間をふやしていったのです。
 学校、準備会を重ねていくうちに学習会だけでなくレクリエーションもということにな
り、紀伊風土記の丘をはじめとして高野山、青山高原、合歓の里などでの一泊学習会、喫
茶店を借りての歌声喫茶、スキーツアーや映画会、夏はビヤーガーデン、年末はヤングフ
ェスティバルというように三カ月に一回は行事を組んで楽しんだものです。
 学校、準備会、レク、実行委員会というように三日に一度は顔を合わすような状態であ
りました。当然、こういうなかから恋愛も生まれ、年間に一組は新しいカップルが誕生し
ました。カップルのほとんどが合員制結婚式であったため、その結婚式を成功させるため
に、仲間が演ずる構成劇、二人のなれそめや生いたちを八ミリ映画にとったり、式の前日
ともなれば料理づくりや劇の練習、会場準備とだいたい徹夜が常識という状態でした。
 このように学習の合い間にレクを取り組むというよりもレク等の行事の間に学習がある
というのが「もくよう学校」の実態でありました。
 今から思えば、たたかう青春が結びつけたあつい友情と団結がそこにはあり、実に行動
的でいったん決めたら成功させるために全力をあげるというバイタリティがふきでていま
した。これらの活動を通して多くの活動家が誕生しました。今も年末に同窓会という形で
一泊忘年会を楽しみ当時をかみしめ、明日への糧にしている次第です。
              (国労南近畿地本執行委員)


         

4、和歌山方式の統一戦線…いのくら  川口一男 

                                               
 私が国労南近畿地本役員から、県地評事務局長に就任したのは一九六五年の県地評大会
であり、それから七二年大会まで、七年間にわたって、お世話になりました。
 当時、地域共闘は、なにをするところか、なにをせねばならないのか、など真剣に模索
をつづけたものでした。
 私の県地評時代は、ちょうど「高度経済成長期」にあたり、労働運動も高揚期で、マス
コミから「むかし陸軍、いま総評」などと評されるほど社会的影響力もあった時代でした。
 この七年間で、とくに印象ぶかいのは、やはり「沖縄共闘会議」(一九六七年結成)と
「いのちとくらしを守る県民合議」(一九七○・一○・三○結成)の結成と活動です。 
  「沖縄共闘会議」は「日韓条約粉砕、ベトナム侵略反対県共闘会議」の活動をうけつ
ぎ、六○年代後半から七○年代にかけての時期の安保廃棄をめざす県段階での共闘組織で
あり、沖縄の即時、無条件、全面返還を要求してたたかいました。
 「いのくら県民会議」は、広く、県民要求をとりあげ、それぞれの議会や自治体に、県
民のナマの要求をぶつけていく活動を行ったのです。いずれも、県地評のよびかけで、社、
共両党、労組、民主団体を結集した組織でした。
 全国的に安保共闘が再開されないまま、重要な政治課題が、せいぜい一日共闘でお茶を
にごしていた時期に、安保共闘のクルマの両輪ともいうべきこの二つの組織が恒常的に組
織され、ずっとつづいたということは、たいへんな成功だったと思います。
 いまふりかえってみて、和歌山方式ともいうべきこの二つの組織は、私見によれば地域
統一戦線組織として位置づけることができると考えています。
 だが、この二つの組織のカジとりは、とりわけ両組織の事務局長の任を担っていた私に
とっては率直にいって、たいへんでした。そりゃそうでしよう。中央でまとまっていない
ことを、そして各府県でもできていないことをやっているのですから。加盟団体のなかで
も、表向きはともかく、舞台ウラでは、いろいろあったにちがいありません。
 しかし、私は敵が団結して、さまざまな攻撃をかけてきているのに、味方がバラバラに
たたかっていたのでは、とうてい勝ち目がない。和歌山方式で正しいんだという確信を持
っていました。なぜなら°、通の敵にたいし、共同してあたることは、古来人類に与えら
れた知恵であるからです。
 とにもかくにも、ここまで運動が積み重ねられてきて、既に、¢蜿Oが真理をつかんだ
のです。なかなかなことで、あともどりはできなかったのです。
 もう一つ忘れられないのは、この両組織が郡市段階にも、きっちり組織されていたので、
地域住民運動の広がりを背景に、七○年十一月には湯浅町で、県下ではじめて、革新町長
を誕生させました。連日、全県的動員により湯浅町を革新一色の政治宣伝で塗りつぶした
記憶は、いまでもまざまざと思い浮かべることができます。そして、湯浅町につづいて、
御坊市でも、那智勝浦町でも、革新首長の誕生をめざした全県的なとりくみが行われたの
です。地域統一戦線組織の再生をはかることは、この面からも、今日のさしせまった課題
だということができます。       (元県地評事務局長)                 
         


5、煙樹が浜の松切り反対闘争   山田幹雄


 ¢セ平洋から吹ききたるで始まる美浜自衛隊基地反対闘争の歌が、松林の間に作られ
たピケ小屋の内外から聞こえた。時は一九六一年(昭和三十六)二月。平和と民主主義と
生活を守る日高共闘会議(略称・日高平民生共闘)が、美浜町の農漁民からなる松切り反
対闘争と統一し団結して、一カ年におよぶ長期のはげしいたたかいを展開することになっ
た。 この年は、一九六○年の安保反対闘争の翌年であり、政府は正に安保体制の一翼と
しての自衛隊基地建設のために田園の防風林として先祖から大切にされてきた美浜の煙樹
が浜の松を切り倒すことを計画した。しかし、ここは国有地と言えども、松の木は、その
お蔭を受けている周辺地域住民のものであった。
 松切り反対闘争は、平民生共闘に結集する労働者団体を立ち上がらせた。共闘を表明し
た組織は、電通、全逓、和教組、高教組、南海バス、市職、県職、農林、臨鉄、合同サー
ビス、大ハツ、国税、教委、医労、自労の各労働組合で、連日連夜の動員に加わった。

 ところが、十月二十日未明、町当局が警官隊を動員して、抜き打ち伐採を強行。二百四
十一本の松を切った時点で、地元民と労働者の抗議の座りこみによって一時中止させた。
このたたかいで勢いを得た地元民二百名は十月三十一日、ムシロ旗やノボリを押し立てて、
町内デモを行なった。さらに公民館を対策本部として、現地にはピケ小屋を建てて、連日
連夜のたたかいになった。夜は待に冷えがきびしく、たき火をして交代で寝ずの番をした。

 そして、地元民と安保反対県民会議、日高共闘会議が合同して「保安林伐採反対対策会
議」を結成。委員長に池内真三氏(故人・地元代表)、副委員長に的場鹿五郎氏(安保共
闘県民会議議長)、村上六三氏(故人・日高共闘会議議長)、事務局長に深海竜彦氏(平
民生共闘事務局長)を選出し、労働者と農民の団結は一層固いものになった。
 美浜自衛隊基地設置は、防衛二法の改悪と第二次防衛五ケ年計画によるもので、小松島
ヘリコプタ一基地、由良の潜水艦基地と結ぶ紀伊水道の軍事基地化の一環としてすすめら
れたものである。県民会議の呼びかけに答え全県下から延三千名にのぼる労働者が現地に
おもむき、ビラ配り、署名活動に参加した。十一月十日には、保守の牙城美浜の町に、高
々とアカハタをかかげて、県民会議の総決起大会が開かれた。平民生共闘傘下の労働者も
また、職場におけるさまざまな困難をのりこえ、この一大政治闘争に最後まで動員を継続
した。 次にかかげるのは十二月二十八日、平民生共闘が地元にまいた宣伝ビラの内容で
ある。
 「松切り反対のたたかいは、日本の軍事基地に反対し、日本の平和と独立をからとるた
めの偉大なたたかいでした。このために、私たちのたたかいは、全国の平和を愛する人々
の支援を受けてきたのです。また、このために日本人民を支配しているアメリカと日本の
大金持ち、その下請けである県町当局はこのたたかいが発展するのをもっともおそれて
補償問題やアカ攻撃で松の問題と基地の問題を切りはなすことをねらっているのです。
……」。
 結局、松切り反対闘争は、この十二月末をもって、地元民の要求を入れた補償によって
挫折させられ、戦列がくずれたかに見えたが、労働者はこのたたかいを経てますます日米
安保条約の危険性を見破り、核戦争阻止、核兵器廃絶などの現在的課題に取り組む素地づ
くりができたのである。(元日高平民生共闘会議副議長・現御坊市議会議員)



         


6、勤評反対かぞえうた    奥 鈴雄


  一つとせ 人も知ってる勤評は           
   艮主教育 やぶるもの    そいつぁ こわいわね
  ニつとせ 二た目と見られぬ議会での        
   多数の暴力 あかるみへ   そいつぁ けしからん
  三つとせ みんな知りたいこの勤評         
   最後の目的 どこにある   そいつぁ ききたいね
  四つとせ よろしいそれは政党が          
   教育弾圧 するつもり    そいつぁ あぶないね
  五つとせ いつでも話そう教育論          
   力でおさえて よいものか  そいつぁ 無謀だね 
  六つとせ むつかし理論もさりながら        
   無茶な挑戦にゃ 腹が立つ  そいつぁ むりもない
  七つとせ なくして下さい月給の          
   上げ下げ教師が 狡(ずる)くなる        
                 そいつぁ いけません
  八つとせ やっぱり校長や職員が          
   励まし合うのが よい姿   そいつぁ よくわかる
  九つとせ このまま過ごせば教育は         
   生徒を捨てて 上につく   そいつぁ すておけん
  十とせ 尊い職務だ先生よ             
   父兄や子供と 手をつなげ  そいつぁ ほんとだね

 ≠ゥぞえうたは勤務評定反対共闘会議情報一九五八年(昭33・6・1)号に掲載さ
れている。想い起こせば昭和三十二年年末に西川県教育委員長が勤評実施を言明するや直
ちに七者共闘会議が結成され、年明けて二月、臨時列車どんぐり号で県下各地から参加し
た七者共闘の県民大会が大規模に挙行された。(七者共闘は、和教組、和高教、教育庁職
組、地評、県職、部落解放同盟、和人学生自治会)。間もなく、三月二十八日勤評条例可
決。県教委は七者共闘との交渉で六月四日の団交を確認しておきながらその前日の六月三
日、抜き打ちに勤評制定公布したのである。

 「勤評かぞえ歌」は、全国拠点となった和歌山勤評に関心を深める社会人に対して、広
い範囲にぐっとわかりやすく、いつでも口ずさめる合言葉として、浸透していくことを願
ったものだった。
 ひそかに考えていたのは、一般社会人にとっても、他府県の人々(和歌山へは記者団を
はじめとして関心を持つ大勢が流れ込んでいた)にとっても「勤評と差別の論理」はどう
も判りにくいことが肌に感じられたので、大衆行動には端的にわかりやすい合言葉や歌が
どうしても必要だ。その想いがいつも念頭を離れなかったからである。

 「赤とんぼの歌」が素直で悲壮な教育への真情をあらわすならば、「かぞえ歌」ははず
んで明朗な、教育の危機への警鐘をあらわすものと考えられないだろうか。子供もわかる、
女性もわかる、いや子供や女性、この人々にこそほんものかにせものか、を見分ける最高
のキイを錆びさせずに肌身に持っている人々なのだ。

 この人たちに判りやすい合言葉を入り口として、巧みにカムフラージュした権力者の難
解な仕組みを次々に解きほぐしてゆくものを手渡したい。この思いが、深夜、一気に≠ゥ
ぞえうたになった。
 六月の第一波ハンスト、和教組一斉休暇闘争、高教組四・三・三割動員闘争、から八月
の勤評闘争支援全国集会。さらに、八月末から九月へとつづく和教組と和高教への弾圧−
岩尾覚委員長(故人)はじめ和教組幹部十二名、片山政造和高教書記次長(現委員長)ら
の不法逮捕と抗議の渦…°ホ評かぞえうたは日本の教育をめぐるあの激動の日々の中か
ら生まれたものである。
       (元和高教副委員長・現伊太祁曽神社宮司)




         


7、父母と手を結んだ勤評反対   佐々木賢太郎




 勤務評定制度の導入(一九五八年=昭和33)という事態にたいし、朝来中学校の教師
集団は職員会議を開き、連日、論議を交わした。「勤評は民主教育をすすめる本校の教育
方針に反する」「勤評の考え方は教育の中に差別と矛盾を激化させ、教育基本法をふみに
じる」「教師のなかに対立を生み、職場の民主的人間関係が破壊され、子どものためにな
らない」「子どもたらの仲間づくり、集団づくりを大切にする責善教育に反し、親の信頼
を失う」−等々の議論が何日もかかって慎重におこなわれ、最後に職場は統一して「勤評
反対」決議をおこなったのである。
 さて、勤評反対闘争のとりくみの一端を紹介すると、朝来小・中学校の職場合同による
地区懇談会を全町三十カ所でこころみることにし、子どもの教育を中心にして勤評反対を
訴えた。
 中年校では「なぜ勤評に反対するか」の学校二ュースを出したり、学年通信、学級文集
等によって父兄あての情宣を強化していった。例えば三年生で学級文集「雑草の仲間」(竹
中輝夫=現三川中学校長)、「畦の仲間」(佐々木)を出している両学級で父兄会を開催し
たところ、両学級とも全員参加した上に勤評反対署名をしてくれ、さらに、参加した父兄
全員(約七十人)で地域へ署名活動に入り、二つのクラスの父兄だけで三百五十名もの署
名を集めてくれた。(これは、当時としては大変な数でした)。ある自民党員の親は「わ
しら立場上、勤評賛成せんなんけど、先生たらの考えが正しいと思うので内緒やけど署名
捺印すら」と一言って記名してくれたり、また「内緒やけど遊戯場で『わしの子の先生ら
差別の教育をするのは間違い言うて勤評に反対しやんね』名を書いたってくれ」と署名を
集めてきたりした。また、自労の親が放課後、ビールを一箱さげて「先生ら差別に負けた
らあかん、勤評反対がんばれ」と訪ねて来てくれたり、たくさんの父兄が職場へ激励の手
紙を送ってくれたりした。
 小・中職場合同での父母との地区懇談会では、話の素材として、子どもの作文や詩をえ
らんだ。例えば「米の検見の話で、米の等級で審査員に一級酒三本待っていった年は一等
になり、翌年は一本にしたら三等になった」という作文や「大溝掃除に母親たちは溝に腰
までつかつて作業をして一日三百円の日当、父親たちは土堤からゴミや草をとって一日五
百円の日当−なぜ男女の貸金差をつけるのか」という子どもの詩の訴えなどを題材にして
語り合い、差別は人間を分裂させ、生きるよろこびを失わせることを確認し合った。
 中学校だけの地区の会では「子どもと勤評」を課題にして父母との学習会をもった。話
の中心に例えば学級の二人の子どもの短文をすえた。
 ひとりの作文は「父親(石工)が珪肺にかかって*コは石工にやるな、生命守れん石工
は悲惨だと叫ぶ」もの。ひとつは「砥石山の石の爆発を依頼した人間を批判し、爆発師
である父親に対して生命を守るために爆発師をやめよ、と訴える」もの。−この子どもた
ちの訴えからスタートして「生命とくらしを守る」ぎりぎりの話し合いを深めた。
 「いのちが守られ、生活が守られる政治こそ民主政治であり、みんなの先生の協力で子
どもの学力のおくれを克服し、差別なく子どもの能力の芽を伸ばす教育こそ民主教育だ」
と腹の底からうなづいて、親たちは、これを阻む勤評制度に反対し、私たらと手を結んで
立ち上がってくれたのである。
                 (元朝来中学校教頭)



         


8、トラックに立った勝利の旗 −運輸一般田辺運送労組 井上仁平



 一九五九(昭和34)年一月二日に田辺運送労働組合の結成大会が行われましたが、私
は参加しませんでした。当時、一月二日といえば商売人は¥演ラの日で、市内の集配の
仕事をしていた私は早朝から景気よく¥演ラを積んで新年のあいさつをしながら配達を
しました。昼ごろ仕事は終わるのですが、めずらしく所長が「第一小学校のグランドを借
りているし酒も用意しているので、野球をやろう」と言うので、寒さしのぎに酒を飲みな
がら野球をしました。その時はなにも思いませんでしたが、結成大会へ参加させないため
に、ケチで通っている所長がグランドを借り、酒や酒のアテを用意していたのです。

 はじめは、会社の言う事を聞いて、まじめに仕事をしておればまちがいないと思ってい
ました。労働組合が賃金体系を確立するなかで、自分は人一倍まじめに仕事をしているか
ら賃金も高いと思っていたら、仲間の中でも低い方でした。¥樺キにダマサレタ。「労
働者の味方は労働組合や、組合についていこう」と心に決めました。労働組合ができるま
では、給料をもらうとそっと内ポケットに人れていた仲間が焼き鳥で一杯酒を飲みながら
賃金明細書を見せあって、今度の春闘ではどんな要求を実現するかと話し合うようになり
ました。
 六○年安保闘争の時期、職場の仲間と地評西牟婁支部を中心とする集会・自転車パレー
ドなどへ参加するなかで、労働者としての権利意識が高められてきました。一九六二年春
闘で労組は全自運の産業別統一闘争に参加を決定、これを拒否する会社の態度に抗議し散
度のストライキを決行、営業車にビラをはり、全自運と地域の仲間の支援を受けてたたか
いました。高まりを恐れた会社は、会社派幹部と一体となって赤攻撃。「全自運は赤や。
このまま進めば会社がつぶれる」と宣伝を強め、一部幹部と談合を重ねながら一九六四年
十一月八日、十八名が組合を脱退し第二組合を結成しました。会社はこれを保護・育成し
ながら、全自運の活動家の首切り、配転などつぎつぎに攻撃をかけてきました。地域共開
も困難な時期でしたが、この田辺運送の分裂攻撃(西牟婁地評)とホテル古賀ノ井の首切
り(西牟婁地区労)反対の闘争を県地評(川口一男事務局長)、西地評、地区労の三者で
「全自運・古賀ノ井相互支援共闘会議」が結成され、反撃に転じました。
 和歌山、御坊、新宮の各地区労の全面的な支援で決起集会、抗議集会、支援カンパ、第
二組合員への復帰工作など多彩なとりくみが行われました。
 配転、首切りのつづく中で、家族の説得が大変でした。「首を切られるだけでも恥ずか
しいことやのに、そのうえ会社にタテついて裁判なんて村八分にされる。そっとしておい
てほしい」と言う家族を説得し、家族集会などを行いながら家族ぐるみのたたかいを進め、
地域の母親大会に参加するかあちゃんも段々と増えていきました。
 地労委裁判闘争で≠スとえ負けても職場で勝とう¢g合の主人公は組合員だ。職場に
労働組合をつくろうをスローガンに、組合民主主義を徹底してとりくみをすすめました。
野間友一、吉原栄三両弁護士に全力投球で支えてもらいました。労組への不当介入と解雇
撤回の長いたたかいは、ついに全面勝利しました。(地区労一九六六年、不当労働行為の
停止命令、和地裁七○年、会社側請求棄却、謝罪)−「全自運田辺」の新しい出発がはじ
まりました。
             (運輸一般和歌山地本委員長)




         


9、7・18大水害の救援闘争、地域にも民水対結成      橋爪利次

 一九五三年(昭和二八年)七月十八日、県下を襲ったいわゆる「七・一八大水害」は、
死者・行方不明一千六十六人、家屋の全壊流失八千六百戸、罹災者二十六万二千人にのぼ
る未曽有の大被害をもたらしました。
 水害が発生するや共産党と解同(全解連の前身)、全日自労が各地で立ち上がり、県段
階では二十日、共産党、社会党、日中友好協会が協議をして、県地評(鈴木嘉八郎議長)
に対して水害救援の共闘を申し入れました。
 県地評の加盟もあって二十二日に県民主団体水害対策委員会(「県民水対」)を結成。
事務局長は川村仙二氏(和歌山経理専門学校長)、私が専従の教宣部長に、ほかに明石節
子さん(現徳常姓)ら二人の若い専従事務局員で構成。事務局は、全国と海外からおくら
れてくる救援資金、山のように集まる物資、何百人、いや何千人ともいわれる全国からの
復興救援隊と医療班の受け入れにテンテコまいでした。
 八幡村(現清水町)は四百三_の降雨、花園村には三千bの天然の巨大ダムができるな
ど天地がひっくりかえったような災害で、有田郡だけで死者・行方不明一千名を超えまし
た。こうした川が決壊し、道路が崩壊した惨たんたる有田川や日高・熊野川上流の被災地
へ、全国の救援隊や、われわれ県民水対のメンバーが救援物資を背に決死隊のような気持
ちでかけつけました。
 京都、大阪、兵庫、奈良からは医薬品をかついだ医師と看護婦の民主医療班もあいつぎ
現地にはいりました。これを恐れた自民党ボスや警察がやっきになって妨害しましたが、
「赤い医療班」は住民から喜ばれ、「共産党の京都平和診療所」という医療班が乗り込ん
できて、被災者の医療に当たっていたが、この医療班の入れ替わり立ち替わりの来訪には、
$害のお蔭で初めて注射をして貰えますという患者もあって村民は大喜びだった」(有
田タイムス社「七・一八水害誌」)とその歓迎ぶりを語っています。
 被災地の共産党細胞、教組分会、部落解放同盟(現全解連)、自由労組などによる地域
民水対もまた不眠不休の活動をつづけました。
 こうした活動の一方で、「共産党に牛耳られている民水対を脱退せよ」の反共攻撃が県
地謡内で強まり、八月二十二日の県地評第三回幹事会はこれにおしきられて、民水対脱退
を決めてしまいました。当時「統一戦線」「統一戦線」とこの共闘を喜んでいたわれわれ
にとって、一カ月目の崩壊はなんともいえない残念なことでした。
 県民水対本部は、城内の労働会館を追われ、帝国座の近くに移転しましたが、労組では
教組、自労、和歌山市職などが県民水対に残り、活動をつづけました。県下の民主的医療
機関の草分けである中の島診療所もこの民水対活動との関連で誕生しました。当初、御坊
市につくる予定でしたが変更になったのです。民水対の組織と活動は県下の「統一戦線発
展への大きな基礎ともなった」(『前衛』一九八四年八月号「県党史」)わけで、そのあと
の勤評闘争にも大きな影響をおよぼしました。 
                   (日本共産党和歌山県委員会政策委員長)                    
         


10、花開く 婦人運動−田辺・西牟婁−          畑田幸子


 長い戦争の苦しみから立ち上がった日本の母親たちが「核戦争の危険から子どもの生命
を守ろう」と世界によびかけ、世界母親大会開催準備の中で一九五五年東京で第一回日本
母親大会が開かれ、胸のつかえをはき出す涙の大会となりました。この報告会が全国各地
で大小無数にもたれ、田辺市でも報告会が各所で盛大で、その後すぐ田辺母親大会開催準
備がPTA、婦人会、未亡人会、労働組合によって急速にすすめられていきました。
 $カ命を生みだす母親は、生命を育て、生命を守ることをのぞみますの母親大会のス
ローガンは、すべての人が認め、教育委員会も大会の後援やスローガン入りの手拭販売も
積極的でした。
 しかし母親大会は、涙を流した大会から、回を重ねていく中で話し合いから学習、調査、
行動する母親たちが、一九五八年の勤務評定、つづいての安保条約改定反対行動に自主的
にふみ出し連日、自主的に反対闘争に参加していきました。この事態を重くみた自民党は
母親大会対策を検討し、文部省通達で各教育委員会へ母親大会不参加工作等不当な攻撃が
指示され、実行委員会からPTA、婦人会、未亡人会や一部労働組合までもはなれ、母親
たちは混乱させられました。第四回県母親大会(一九五九年)の開催前日に会場使用不許
可をしてきましたが、実行委員会や、不当ないやがらせに怒りをもやす母親たちの努力で
急拠会場を変更し、堂々と大会を成功させた感動の県大会(和大経済学部)は、私の生涯
胸にこがりついています。田辺市でも「母の会」なる別組織がつくられ、母親大会アカ呼
ばわりや教師への不当配転含む弾圧が強まり、他方、市当局は官製の婦人の社会教育活動
の予算を増大して積極的に育成していきました。
 だが$カ命を守るためにもうだまされないと勇気ある母親たちは田辺市母の会総会に
出かけ勤務評定、安保条約がどんな内容で何をねらうかを発言。「愛する子どもたちに平
和を手渡そう」と訴えたものでした。
 教育現場への反動化もつよまり、今まで中心にお世話下さった教師も無理が生じてきま
した。母親大会の総括で「要求運動を日常化していくには組織された婦人労働者の役割り
が決定的だ」と話し合われ、西牟婁地評婦人部確立の気運が高まりました。
 一九六○年十月、地評婦人部が誕生し、婦人部長が地評常任委員に加わりました。この
準備の中で当地方ではじめて国際婦人デー田辺集会にとりくむことができ、今日までひき
つがれています。
 地評婦人部は、各単組婦人部だけの結集でなく、婦人部がない婦人労働者にも呼びかけ、
交流や学習、共同行動をすすめ、働く婦人の地位向上にとりくみつつ労働組合家族会結成
や家族会との共同闘争も発展させていき、労働組合の団体交渉にも家族参加を実現させた
ものです。
 一九六四年、西牟婁地評が不幸にも分裂し、西牟婁地区労がつくられました。しかし、
地区労へ行った全電通労組婦人部から西牟婁地評婦人部に合理化反対闘争支援の申し出が
あって、昼休みデモ行進や市内ビラまきに参加し、全電通婦人労働者をげきれいしたもの
です。また、地評婦人部は婦人団体とも協力共同を強め、地域の要求実現にたくさんの成
果を得、地評未加盟組織との交流も深め、西牟婁地評を身近なものとしていきました。地
域の母親大会では大きな位置を占め、西牟婁地評は全組織から貴重なカンパがよせられ、
母親運動は西牟婁地評の運動方針に正しくくみこまれています。
(元西牟婁地評書記、田辺・西牟婁母親大会副実行委員長)

         


11、国鉄職場でもスト−勤評闘争  中平喜祥


 「勤評は戦争への道」というスローガンでたたかわれた勤評反対闘争(一九五七〜五八
年)。和歌山では国鉄労働者も、県地評と民主団体による「七者共闘」のメンバーとして
たたかいました。
 地域では、署名活動や教師のストライキに呼応する同盟休校を組織しながら、教師のた
たかいを支援しました。なかにはストライキをするかどうかをめぐって、徹夜で、若い婦
人の教師などは泣きながら論議する学校もあって、こうした地域では教師と行動をともに
してたたかいを激励していました。それは、おそらく和歌山で労働組合が地域で組織的に
活動するはじめての実践であったと思われます。
 国鉄の職場では、教師のたたかいに連帯し、「勤評」を強行しようとする権力に抗議す
るためのストライキの準備にとりくんでいました。
 その頃、私たちはこうした職場でのたたかいを、居住地での「生活点」のたたかいに対
比して「生産点」のたたかいとよんで、両者を統一して階級的労働組合としての役割を果
たすことをめざしていました。
 当時の国労和歌山地区協議会の執行委員会は、時限ストの指令を地方本部へ要請する決
定をしました。その頃の執行委員はほとんどが社会党員、共産党員で、日頃はある面では
対立しながら活動を競いあっていた仲でしたが、この時は主張の強弱はあってもストライ
キでたたかうことで一致しました。その時の感動がやはり大きかったのでしよう。執行委
員会が開かれた組合事務所の窓から見えていた夕暮れの駅構内の風景が、今も不思議に印
象に残っています。
 一九五八年六月二十五日、和歌山駅、紀和駅、新宮駅で始業時から一時間の時限ストに
入ることになりました。
 当時は、ピケで組合員の就業を阻止するストライキが威力業務妨害として刑事弾圧の対
象にされていたので、いわゆる「自主参加」方式に転換しつつあった時期でしたが、自主
参加といっても陰に陽に介入してくる当局の攻撃に抗しての参加ですから、組合員によほ
どの意識がないとストライキを成功させることはできませんでした。
 当時、和歌山は勤評闘争の全国的な拠点になっていたので、支援単組や学生組織の現地
本部などがあって、国鉄の職場にも組合の関係者や全学連の学生たちが出入りしていまし
た。そして、学生たちの一部は、ストライキの準備に忙殺されている私たらのところヘ「す
ぐに職場集会を開いて抗議の決議をして下さい」などと現実ばなれのしたことをいってき
たりしました。
 その時の全学連の現地指導者が、今、悪名高い「臨教審」の委員などに名をつらね体制
側の「評論家」になりさがっている香山建一だったのですが、あらためて彼の本性をみる
思いがします。
 こうした情勢の中で私たちは和歌山駅でストライキにはいりました。
 その日は、いつもなら通勤の電車を降りてそれぞれの詰所に向かう勤務者が、妨害のた
めに立らならんでいる当局者の前を通って真っ直ぐに改札口を出て、駅前の組合の集合場
所に集まっていきました。こうして、最後の参加者を確認し終わったときの高揚した気分
と、その時たまたま私の近くにいた地方当局の現地責任者が「さすがだなァ」とつぶやき
ながら苦笑していた表情が鮮明によみがえってきます。
 この国鉄の連帯ストについては、当時来和していた共産党の茨木良和さん(故人)と荒
堀広さんから「フランスなみだからなァ」と激励されたりして、私たちは、当時労働運動
の先進国とされていたフランスを引き合いにだされたことでずいぶんと気をよくしていま
した。
 ともあれ、こうした国労のたたかいも、勤評闘争をつうじて労働組合の相互連帯、共産
党、社会党をふくむ民主団体の共闘にそれなりに貢献し、二年後の歴史的な六○年安保闘
争にひきつがれたものと思っています。
         (当時・国労和歌山地区協議会書記長)
         


12、米原潜くるな!!−神戸港大集会へ−中 啓男

 一九六三年六月二十三日、米原子力潜水艦「寄港」反対全関西大集会が、神戸港の近く、
生田川公園で開かれた。和歌山県代表団六百余名、全関西から約三万名が参加した。
 大集会では、大会宣言を採択のあと、神戸第六突堤アメリカ領事館前のコースでデモ行
進がおこなわれ、アメリカ原潜ポラリスくるな!日韓会談粉砕!沖縄を返せ!等のシュプ
レヒコールが神戸の街中にこだまし、大会参加者の胸を熱くしたものである。
 この集会は、平和委員会・故末川博氏(日本平和委員会関西ブロック代表、立命館大総
長)のよびかけによって、各府県平和委員会を中心に平和諸団体の独自行動として取り組
まれたものである。
 和歌山県では、安保反村県民会議が存続していたが、このよびかけに応えての取り組み
は困難であったため、県平和委員会が中心となり、労組、民主団体、個人によびかけ参加
することとなった。
 和歌山県平和委員会は当時、朝比奈靖司会長(現生協病院院長)や柳渕泰助氏(日本平
和委員会理事)ら献身的な指導者のもとで活動した。会費を納める会員は三百名余であっ
たが、集会のあるところ平和委員会の旗があり、一部では一千名をこえる組織と思われる
ほどの活力をもっていた。会員も多様で、和歌山市を見ても、牧師、宮司、住職、教師、
学生、銀行員、労働者と実に様ざまであった。
 この時期私は、岩城正男氏(当時高教組書記次長)、岩尾巴允氏(当時興紀相互労組書
記長)らとともに、県平和委員会の事務局を担当していた。したがって六・二三集会県代
表団事務局を受けもつこととなり、全力をあげて取り組んだ。 この集会参加にあたって
私たちは、船で和歌山港よリ直接神戸港に出向くことを実行委員会に提案し、各団体の賛
同を得、早速南海汽船にチャーターを申し入れた。南海汽船ではこのようなチャーターに
応じるのは初めてのことでもあり、はじめは難色を示しつつも○Kとなった。
 ところが、参加申し込みがぞくぞくと届いている最中、突然南海汽船より「チャーター
を断念してくれ」との申し入れがあった。私たちは「いったん契約したものを今さらなぜ
か」と抗議し、交渉をおこなった。断りの理由が不鮮明(後で明らかとなるが)であり窮
している模様であったが、量終的に再びOKとなった。六月二十三日早朝、和歌山県代表
団六百余名が、一九六○年の安保闘争の伝統を受け継ぎ、和歌山県代表と赤で染め抜いた
黄色のはちまきを巻いて和歌山港に集結し、民主団体代表や代表団家族に見送られ上港し
た。船で出発する時のドラの音と汽笛、そして送る者と送られる者の打ち振る手、独得の
感動と高ぶりを覚えたものである。
 出港して間もなく、初めての船旅で船酔いする人もいたが、特別な支障もなく船中での
交流を深め、和歌山県代表団の任務を果たし得たと思う。
 その後、私たちとの交渉の窓口となった南海汽船の責任者が帰りの船中で語ったところ
によると、私たちのチャーターを断ろうとしたのは、右翼からの執拗な攻撃を受けていた
こと、また、万一にそなえ、杯を交わしサラシを厚く腹に巻いて代表団に同行したことを
明かしてくれた。私たちの熱意を受け入れ、悲壮な決意で応えてくれたこの人たちに、思
わず心の中で頭を下げたものである。
 このときから十二年後の一九七五年以来、神戸港は非核の証明のない船は一隻も入港さ
せていない。
       (電通労働者・当時県平和委員会事務局員)
         


13、屎尿(しにょう)共闘から始まった湯浅革新町政    廣崎高一

 人間が何処からともなく湧きだしてきて湯浅町の蔵町の選挙事務所の前を埋め、喚声が
町内に響き渡ったのは一九七○年十一月二十日の夜のことでした。県下で最初の社共統一
の革新町長として当時、湯浅広川地区労働組合協議会(地区労)議長だった寺西清氏の当
選が判明した時のことです。それから十八年。湯浅の民主町政は五期目に入っていますが、
このかつて湯浅の歴史にない民主町政、しかも二十年という長期政権を生みだした民主勢
力の力は、寺西清氏が当選する以前から様々なたたかいの中で養われてきたものでした。
安保闘争、みかんと米を守るたたかい、二川ダム反対闘争など数々の全国闘争、地域闘争
が着々と育ててきたのですが、地区労が町長選挙をたたかうひとつのきっかけとなった話
があります。
 それは町長選挙の前年から始まった尿尿(しにょう)の汲み取りについての民主化闘争
とも言うべきたたかいの中でおこりました。町にはボス的で力の強い業者と無認可で弱い
が親切な業者がいて、強い方が弱い方の業者をつぶしにかかっていました。地区労の組合
員から、親切な業者を助けて何とか認可を取らすことが出来ないのかと言う訴えが、たく
さん地区労の役員に出されていました。地区労は有田地労連(有田都市の地区労の協議会)
や社、共、民主団体に呼びかけて屎尿共闘を結成し、当時の野島湯浅町長に対して弱い業
者を認可するよう要請行動を積み上げていました。共闘会議の議長は小林史郎(現共産党
県議)、副議長は寺西清(現町長)、事務局長は私でした。
 その日は小雨が降っていました。野島町長は病気ということで自宅で休んでいました。
寺西清氏と私は休んでいるという野島町長宅を訪問し、弱い業者に営業を認可するように
要請しようと言うことになりました。夕方だったと思います。私たちは野島町長の部屋に
案内されました。寺西清氏は弱い業者が営業を続けられるように認可をして欲しい。その
ことが町民の声であることを訴えました。しかし、話し合いは平行線をたどり、噛み合い
ませんでした。双方ともだんだん興奮してきました。声も大きくなりました。話し合いを
始めてどれぼどの時間が過ぎていたのか憶えていませんが、野島町長が声を荒らげて「お
前等が町長になって認可したらええやないか」−表現は違っているかも知れませんが、こ
のような意味のことを言いました。寺西清氏も「ほんなら町長になったる」という意味の
応答をして話し合いは決裂しました。
 私たちは野島町長宅を出て有田教育会館(当時は湯浅の駅の近くにあった)にもどりま
した。まだ、興奮は残っていました。当時私が和教組有田支部の専従書記長をしていた関
係で、地区労の事務局も教育会館の書記局の中に置かれていました。寺西清氏は、ソファ
ーの代用品にと書記局に置いていた日通労組から地区労に寄付された自動車の後部シート
に腰を埋めて、私に向かって「広さん、町長に出る玉ないか」と言ったのです。「探した
らあるんとちがうか」というような答えを私もしたと思います。
 その日から地区労は、一年後に控えた町長選挙へ向けての玉探しを始めたのです。
 「玉」探しは半年以上、あっちこっち苦労を重ねたあげくに地区労議長の寺西清氏に落
ちついたのですが、当時の地区労は今の地区労の半分しか組織人員はありませんでしたが
よくたたかい、すぐれた行動力を持って楽しくたたかっていたと思います。屎尿共闘もそ
の実践のひとつだったわけです。
        (現和教組有田支部長・有田地労連議長)

         


14、電産型賃闘から春闘へ−交通労働者の回顧−     上野寿雄


 私の労働運動は一九四八年の和歌山鉄道労組(現南海電鉄貴志川線)の賃上げ闘争から
はじまりました。和鉄労組(一二七名)は一九四六年十一月に結成し賃上げ闘争に入り、
四七年一月大阪で結成された私鉄総連=関西地連に加盟し、産別会議の十月闘争(一九四
六年)で電産(日本電気産業労働組合協議会)が獲得した当時としては画期的な賃金体系
を柱に、最賃制と退職金制度の確立のたたかいをつづけていました。
 一兵士としてシベリア抑留を経験、四七年末に帰国、和鉄に入社した私には、この賃金
理論−生活給を主体とした電産型賃金は、永く持っていた俸給・給料・賞与という封建的
な賃金論の概念をうち破る新鮮なものでありました。
 ♂ス処で働いても、買う米代も同じ、煙草代も同じだ、$カ活できる賃金獲得と輸送
の民主化確立は、戦後の私たち交通労働者の使命だという若さに燃えた気負いがありま
した。私たちは企業の枠をこえ、一九四八年四月に私鉄総連が私鉄経協に締結された中央
労働協約を武器に、県内の和軌・野上・有田・御坊(のちに能野・明光・竜神・南海のバ
ス労組も加入)の各労組と各種の統一闘争を展開いたしました。(別表資料)
 一見すると、十年間行事化されたようなスト状況ですが、私たちは上部指令や幹部ひき
まわしストをやったのではありません。事務スト・改集札ストなど柔軟な戦術をもったり、
終電車が入庫してから翌朝の出庫まで駅近くの神社で全組合員の討論をやって沿線労組に
連帯を訴え、住民の楽しみである大池遊園の花火大会開催応援に団交をうちきって闘争委
員が参加し、輸送が終わって徹夜の交渉を再開し中央のオルグを唖然とさせたり、通勤者
同盟の申し入れに安全輸送サービス向上運動(四七年三月)や、五三年七月の大水害には
夏期手当ストを中止、被災地への救助活動に参加するなど、職場と組合員に依拠する組合
民主主義のなかでかちとったストであります。
 戦後、澎湃と起こった労働組合運動を「ポツダム労運」と呼ぶ人もありますが、私は和
軌(六百名余)を除いてすべて百名前後の小組合の私鉄労組が、有鉄、野鉄の民主化闘争、
御坊臨港、明光バス、南海バスの解雇反対闘争をたたかい抜いた団結と闘争心は、戦前日
本の初の労組「日鉄矯正会」から、高野山篭城の西部交通労組(大阪市電)や南海同志会
(労組)、また、もぐら戦術の東京地下鉄の労働運動にうけついできた交通労働者の伝統
がこの時期に噴出したものであると思います。
 一九五二年十二月の明光バス越年資金闘争で、支援労組とピケをはる組合員に会社雇用
の暴力団が襲いかかり、バスを運転しようと乗りこんだのに対し、白鉢巻の女子車掌が泣
きさけびながら、バスを持ちあげた逞しい姿が涙とともに瞼にうつしだされます。
 戦後初期の労組運動の輝ける星であった国労のあの不死身の闘魂が、同じ交通労働者私
鉄バスの仲間のなかにも、なお脈々と流れていることを私は確信しております。
(当時私鉄総連関西地連会計監査・和歌山鉄道労組副委員長)
 ◇◇産別会議の十月闘争とは◇◇
 一九四六年八月、産別会議の結成直後、国鉄、海員の首切り反対統一ストにつづき同年
十月、産別会議による「合理化」政策粉砕・賃金引き上げの統一闘争が集中して展開され
た。東芝にはじまり、新聞放送、全炭、電機、化学、印刷出版、映画演劇の相つぐスト、
最後に電産が政府妨害をはねのけて、五十四日間の波状停電ストで勝利の終結となった。
この力は翌年の歴史的な二・一ゼネストへと発展していった。


         


15、青バスか赤バスか−交通労働者の「合理化」反対闘争   上野寿雄

 戦後の経済復興を朝鮮戦争特需でなしとげた日本の独占資本は、米占領軍政策(国際石
油資本の新市場育成と産業エネルギー源の掌握)による自動車産業の急速な発展に応じて
道路運送法を制定、「一路線一企業」主義をあらため自由競争を煽動した。このため、和
歌山鉄道の沿線に和歌山軌道のバス路線申請がなされ、これに対抗して和鉄もバス官業を
開始した。
 和歌山市の安原岡崎地域や鳴神和佐地域の乗客は、車体の色で青バス(和軌)、赤バス
(和鉄)と呼びあった。それが観光バス・タクシーの兼業競争となったため、大阪陸運局
の行政指導もあって、和軌の和鉄吸収合併が発表されたのは一九五七年七月であった。
 私鉄総連の産業別統一闘争の旗をかかげてたたかってきた和鉄労組(一五○名)ではあ
ったが、年末一時金などの支給は正月を旧暦でおこなう沿線の者は翌年に支給を受けると
か、観光バスの譲渡代金が入るまで一部支給が延期されるなど、賃金、退職金や福利が和
歌山軌道労組(六○○名)より低かった。
 私鉄総連は一九五二年に、資本家的「合理化」に対する闘争方針=「一人の首切り、一
銭の賃下げ、一片の労働強化もゆるさない」を決定していた。和鉄労組はこの方針を軸に
スト権を確立し、各種のスト戦術や終電後の全員集会(九月九日伊太祈曽神社)を背景に
団交を重ね=低い労働条件を和軌並みにする、退職金精算せず勤続年数を引き継ぐ、傍系
転職を拒否したタクシー運転手がバス運転手になるための大型免許を企業の責任で取得さ
せる=という私鉄の中でも画期的な条件をかちとり、和軌労組と組織合併をおこなった。
 この闘争の芽が四年後の一九六一年、近鉄資本の県内進出に対抗した南海電鉄の和軌道
吸収時の反合理化闘争に開花したと私は思う。南海電鉄は一九四九年の労働組合法改悪を
機に「アメリカ型労働協約」をおしすすめ、賃金体系に職階制賃金を導入、車掌廃止のワ
ンマンバスなど一連の労働条件を低下させていった。和鉄合併と勤評闘争、六○年安保闘
争に参加し鍛えられた和軌労組(一、二六○名)は、労働条件低下反対の二十四時間スト
を九月五日に決行。南海電鉄労組と私鉄総連関西地連の三者共闘会議を結成し、柔軟戦術
=出入商人を電商会に組織し、和市小学校連合旅行の観光バス部門スト除外など=で世論
をひきつけながら交渉を重ね、遂に「労働条件・年休・賃金等で将来差別的取り扱いをし
ない」など(通勤時間の関係による希望退職者がでたが)一名の首切りもゆるさず反合理
化闘争を終結した。
 この経験が南海電鉄労組に浸透し、和歌山軌道線撤去反対闘争に生かされたのではなか
ろうか。一九六九年六月に軌道線を撤去しワンマンバス輸送に代替する南海電鉄の合理化
案に対し、@組合員の生活と権利、雇用を守るA市民の足を守る民主的交通政策の実現、
のため「市電を守る会」と協力しながら、和歌山、海南両市で市電撤去のノボリや風船配
布、自動車パレードなど多彩な行動を展開した。また、共産党(北部地区委員会)は「市
電撤去やめよ、運賃値上げ反対、市民の足を守る政策」をかかげてたたかいをはげました。
 県、和歌山市・海南市議会は「撤去やむなし」の不当な決議をおこなったが、市民の足
を守るこの闘争でも労組は「人員整理はいっさいおこなわない」「異種配転は職業訓練費
用を補償し、職階は下げない」などの要求をからとり組合員を守った。
(元和歌山鉄道労組副委員長・現県勤労者学習協会副会長) 
◇◇和歌山バス労組◇◇
【註】その後一九七六年四月、南海電鉄の「合理化」によって和歌山地区の大部分が「和
歌山バス」として分離され、和歌山バス労組が発足した。同労組は直ちに私鉄総連に加盟、
全国の中小バス労組の中心バッターとして、¢蜴走{奉仕の交通運輸攻策をやめさせ、国
民のための交通を確立しようと奮闘し今日に至っている。


         


16、国鉄・マル生反対闘争   樋尻雅昭

 生産性向上運動と末端管理者も含め当局が総がかりで分裂攻撃を加えてきたのは、一九
七○年の末から一九七一年の末までの約一年間のことである。「マル生」という奇妙な呼
び名は、国鉄本社が各地方局へ発信した文書の中で生産性向上運動のことを と表現して
いたことによる。
 当時の国労は、五万人合理化反対のたたかいの中で現場(交渉)協議権を確立し、団結
は強固であった(全国的に四分の一〜三分の一の組合員を失いつつも、支部以上の役員で
一名もの脱落者を出していない)。
 磯崎新総裁のもと国鉄再建のためにと生産性向上運動が、本社、地方向けに能力開発課
を設置し全国的に展開された。 これは、単にいわゆるパイの理論だけでなく「生産性と
は何より精神の状態である」と精神主義的色彩の濃いものであった。こうした中で青年層
の一部を中心にマル生グループが育成され、和歌山では「明日への会」として活発に動い
た。こうして七一年のはじめ頃から、助役試験合格者等の準管理者層、マル生グループか
ら脱退がはじまりだす。
 あの当時、一番印象に残っているのは、脱退者の続くなかでたたかわれた七一春闘であ
る。大幅賃上げと共にマル生反対、不当労働行為に抗議して和歌山、田辺両機関区で十九
時間のストライキが打ち抜かれた。このとき、その闘争の先頭に立ったのが当時、支部委
員長、機関区分会長であった児玉辰雄さんだった。当時、私は地方本部の専従役員として
このたたかいに参加したのだが、国労組織の命運をかけて緊迫した雰囲気の中で、ドンと
分会事務所に腰をすえて、それでいてきめ細かく分会役員を指導して一名のもれもなくス
トライキを成功さした児玉さんの印象は、今も鮮やかである。修善寺大会で辞任した山崎
元委員長も本部派遣執行委員として、このたたかいに参加していたのも思いだす。
 このストライキは、賃上げが確定しても続けられ、「不当労働行為はしない」「昇給、
昇格等の利益誘導による組合よりの脱退を奨励しない」の確約とともに、分割・民営化闘
争の中で大問題になった「雇用安定協約」をかちとって集約された。
 しかし当時は、この闘争に対して七月七目、解雇、免職六十八名(児玉さん、当時地本
書記長の山口芳次さんを含む)二万五千余りの処分を通告するとともに、マル生攻撃はや
めるどころか強められ脱退者は増え続ける。当時、和歌山駅連区分会では三百五十人の組
織から約八十名、地方本部では九千台の組織が六千台を割る事態になり、全国的にも七名
の自殺者が生じる。
 こうした中で開かれた函館大会で、中川委員長の「座して死を待つより、立って反撃を」
という、国鉄労働者にとっては有名な決意表明がおこなわれる。そして、その後たたかい
は急速に広がりだす。政党、民主諸団体による調査団、天王寺管内の厚生年金会館でのマ
ル生大会(十月二日)には大動員をかけ実力で流会さす、児玉さんの解雇無効の裁判闘争、
等……。たたかいの輪を広げる中で、マスコミもこの問題を大きく取り上げて報道するよ
うになり、国会でも千葉局の「不当労働行為は上手にやれ」のテープ間題などが追及され、
社会的にも当局側が孤立しはじめた。そして最後の決め手になったのは、年末闘争と結合
してストライキをかまえたことである。当時の政局は、年末の沖縄返還協定批准の臨時国
会が焦点としてあり、それとの結合をおそれたのである。こうしてマル生闘争は勝利する。
児玉さんの解雇も七二年の六月に当局は撤回することになる。

             (現国労和歌山県支部書記長)

         


17、建具労組の誕生と闘い   沖 実蔵


 私は串本で生まれ、十六才の時から建具職人となり、和歌山市へ出てきて働いた。戦後、
召集されていた海軍から帰り、昭和二十三年に復興期の和歌山市で再び建具職人となった。
 その頃、市内には建具の職人・見習工は三千人ほどいた。ほとんどが零細家内工業で親
方一人に職人二〜三人の店が二百五十軒ほどあった。その上に大きな問屋が坐って零細業
者を搾取していたから、それがまた職人にはね返ってきていた。
 賃金は安いし、社会保障もない。仕事でけがをしても医者代を自分で支払わなければな
らない。≠アれではいけないと有志で労働組づくりを始めたのが昭和二十五年(一九五
○)、朝鮮戦争直後のことである。一年後の秋、中の島の志麻神社で「和歌山建具木工産
業労働組合」の結成総会を開くところまでこぎつけた。
 当時はビラを作って配るという考えも浮かばず、工場を廻って口頭で訴えた。さて、当
日フタを開けてみると十五、六人の職人が集まってきた。ところが≠まりにもすくない
と皆が腹を立ててしまい、組合長(中谷小三郎さん)が♂散を宣言してしまった。
こうして、労組は誕生一年で終わってしまった。
 それから二年後の昭和二十八年(一九五三)十一月、私をふくめて七人の仲間が組合再
建のために集まった。黒沢明の映画をまねて℃オ人の待と呼んだ。新しい組合は「和歌
山建具労働組合」と名づけた。七人で手分けして市内に散在している建具工場をオルグす
る毎日がはじまった。錦町にあった「里村建具」には十数人の職人が働いていたが、私は、
毎日、昼休みに一週間通いつづけて訴えた。十三人の職人がいっぺんに加入してくれた時
の喜びは、いまも忘れられない。嘉ケ作(かけづくり)の店(山崎建具)では油谷という
青年が私の話に共鳴して皆に訴えてくれ、十五人がまとまって加入してくれたりした。こ
うして九カ月ほどで約五十人の組合になった。
 当時、委員長の私は四十二才だったが、女房、子供もある人間が仕事を放ってのオルグ
で収入は減ってしまうし、家族には苦労をかけたが、妻が辛抱して私を支えてくれた。
 翌年(昭29)九月、和歌山城内の「労働会館」で結成(再建)大会を開いた。こんど
は、慣れない謄写板の原紙切りで苦労しながら組合ニュース′囗Jをつくり、工場へ配
って歩いた。¢g合へ入ろうと入るまいと、まず集まろうじゃないかとよびかけた。大
会当日、なんと四百五十人が集まってきた。ホールが満員の人であふれた。二百五十人が
組合に加入した。私たちは意気大いに上がり、早速、要求実現のため親方たちの「和歌山
建具事業協同組合」へ団交を申し入れた。要求の中心は、「二割の賃上げ」と「労災・健
保の適用」である。
 ところが、相手が団交を拒否してきたので、十月に二回(9日・29日)の要求デモ行
進をおこなった。中の島の組合事務所前に百名が集まり、市内の建具業者を軒なみ廻りな
がら延々十キロの要求行進を敢行した。労働歌は≠ォけ万国の労働者というメーデー歌
しか知らないから、同じ歌ばかりくり返して、プラカードかついでデモった。申請した地
労委も調停にのり出すし、中労委(中央労働委員会)も調査に乗りこんできた。争議は長
びいたが、日鋼室蘭の二百五十日、近江絹糸の百八十五日のたたかいをはげみにして、負
けてたまるかとがんばりぬいた。百五日間!遂に、賃上げは五%だったが、私たちが$l
権闘争としてたたかった中心要求=労災保障と健康保険の適用をかちとった。
 昭和三十一年(一九五六)に、建具、襖材、理容、製靴、皮革、家具の六労組で「和歌
山小企業労働組合評議会」(小労評)を結成した。
               (元和歌山建具労組委員長、現医療生協・長寿会会長)


         


18、沖縄共闘 その日に      岩城正男


 一九七一年九月十八日、県教育会館に職場、地域、学園の代表(三四団体四二名)が集
まり「日米沖縄協定」に反対する全県的な統一行動に立ち上がることを決めました。「沖
縄の即時無条件全面返還要求和歌山県共闘会議」(略称・沖縄共闘)の全県活動者会議で
す。一週間後、沖縄返還要求実行委員会(沖縄返還同盟と民主団体の共同組織=略称・沖
縄委)による沖縄行進(紀南・紀北2コース)がスタートします。以来、翌七二年六月二
十五日、施政権返還後初の沖縄県知事選挙で革新統一候補(屋良朝苗氏)が勝利する日ま
で♂ォ縄共闘の日々が続いていきます。
 
* 一九七一年六月に調印された「沖縄協定」は、沖縄の施政権を返還するのみで米軍基
地を存続させたまま「沖縄の核つき基地つき返還」によって、本土の沖縄化・安保条約の
実質的改悪を強化しようとする危険で屈辱的なものでした。県下の労働者階級と民主勢力
は沖縄共闘に結集し、全国の仲間とともに秋の臨時国会に向けて安保闘争以来の大規模な
たたかいを展開していきます。
 十九次にも及ぶ統一行動の特色を見ると、
●まず、学習による決起に力が注がれ、県学習大集会(二回、千五百名)や都市学習連鎖
集会がとりくまれ町村単位へひろがります。また、日高での十日間に及ぶ集中署名行動や
那賀で「8の日」行動など宣伝、署名、カンパを結合、これを代表に託して国会へ……と
いう活動形態が定着しました。署名計七五、三九八名。

●国会の山場へ向けての全県統一行動は九月二回、十月三回、十一月には数日おきに六回
という密度で集会、デモ、ストライキを敢行。青年・婦人は、まず教組青年部、民青らの
「青年決起集会」(千八百名)で点火。ついで県地評青婦部、民青、社青同らによる青年
婦人実行委が結成され、十、十一月と連続する独自の統一行動と決起集会(九百名・二千
名)へと発展します。
●国会請願代表団の派遣は計十次、五九一名に。沖縄共闘の統一代表団(五次)三二一名、
沖実委独自(五次)一一六名、労組、民主団体独自一五四名です。(代表派遣登録団体は
十三地域共闘、八七団体)。沖実委が沖縄共闘の統一代表団に参加し、成功させつつ、さ
らに独自の代表団派遣を五次にわたっておこなったことは特筆されます。また、全電通労
組は沖縄現地へ向けて一○八名の代表団派遣を成功させました。
●県沖縄共闘の指導部は富士原裕議長、川口一男事務局長のもと六者で常任幹事会を構成
(県地評、共産党、社会党、沖実委、沖縄連、和地区労)。共産党からは米田実氏(統一
戦線部長)と私が任務を担当し、事務局(県地評におかれていた)にはりつきました。川
口一男県共闘事務局長を軸とする県共闘の常幹が毎週一回の原則をも上まわり、国会を前
後する四カ月間で二十一回、全県活動者会議五回(通算八回)にわたっていることを見て
も職場、地域、学園での闘争のひろがりと密度がうかがえます。
 和歌山県沖縄共闘会議は国会での「沖縄協定」強行批准後も翌七二年、さらに七回の全
県統一行動、オペラ「沖縄」公演、沖縄への選挙支援代表団(五名)派遣などにとりくみ
ます。そして六月、自民党佐藤内閣の退陣につづき、沖縄県知事・県議選で革新勢力が輝
かしい勝利をかちとるまで活動の火を持続していきます。
 この共闘の力が翌一九七三年、「小選挙区制反対県共闘会議」のもとで勝利の記録を刻
んでいきます。
   (当時県沖縄共闘会議常幹・日本共産党県労対部長)

         


19、平和と生活を守る県民大行進    富永智文


 その日は一九五九年十二月一日、午前九時頃、晴れでした。
 新宮市役所前で四者共闘(和教組・和高教・教育庁職組・県職)や地評の皆さんの見送
りをうけて、二百五十キロメートルの道程を一路和歌山市に向けて徒歩行進が出発しまし
た。その責任者の私は三十三才。同行のフジハラさん(姓名を正確に思いだせません。原
水協の仕事をしておられた)は宣伝車の運転と宿泊地での安保反対の十六ミリ映画上映の
技師を兼ねておられました。
 この年の前年、私たちの七者共闘会議(県地評・和教組・和高教・教育庁職組・県職・
和大学生自治会・部落解放同盟{現和解連})は勤評反対をたたかい、権力のその悪しき
意図を挫折させました。だからこそ、この年の権力の報復もまた厳しかったのです。
 和教組が免職者を抱えていることを理由に「不法な団体」として、一切の団体交渉が拒
否され、和高教には特に人事異動による組合分裂が謀られました。その上に県当局は赤字
団体に転落しないためと称して、教職員の定期昇給さえもストップしようとする姿勢を見
せてきました。
 一九五九年は、和歌山県政が一体となって組合攻撃を強化し、その中で組合脱退者が続
き、組織も激しく動揺しました。しかしこの年は、安保条約に反対する闘争が日本全国に
展開されつつありました。和歌山県でも八月二十七日に社共両党の加入した「安保改定阻
止和歌山県民会議」が結成され、六○年の安保反対大闘争を展開する主体的条件が整備さ
れていました。
 この時代状況を背景にし、四者共闘会議が組織の団結と権力の不当性を訴えるために「定
期昇給完全実施」と「安保改定反対」のニつの要求をかかげて、「平和と生活を守る県民
大行進」と名付け、縦断行進を実施することになったのです。四者共闘の事務局長であっ
た故天野克巳和高教書記長(当時)が提案したものです。原水協が一九五八年から始めた
新宮−和歌山の縦断行進の経験に学び、その時期の事務局長であった岡野茂雄氏に行進プ
ランの助言をいただきました。
 この縦断行進を「通して歩く」のが私になった理由は簡単です。私は独身であり、一番
年も若かったからです。
 十七日間も要した行進ですが、場所とか人の記憶が明確でありません。ただ、夜の演説
会で、はじめのうちは定昇実施と安保反対を平等に訴えていたのに、日がたつにつれて定
期昇給の話を段々としなくなり、安保反対の話に集中するようになっていったことを記憶
しています。十二月十八日午後、市民会館に到着し、行進の感想として「定期昇給実施の
ためには安保反対が必要です」と報告しました。
 そこで、故成田知巳社会党書記長(当時)の記念講演がおこなわれました。四者共闘に
県職のみなさんがおられ、戦後民主主義のために共にたたかっていました。それも「今は
昔」。その時代をたたかった人たちは、高齢者と呼ばれる時代になりました。その皆さん
が青春を賭けて創り上げ背負ってきた戦後民主主義を、自分で足蹴にしている人や、権力
の侍女たる学者から足蹴にされていることをどう考えますか。私にはそんな人物がばっこ
する今日がゆるせません。
  (元和高教副委員長、現和歌山県政を語る会事務局長)


         


20、松沢炭鉱閉山反対の闘い −60年前後 紀南の労働運動−  大田照男



 新宮市から熊野川に沿って車で約三十分、能野川町宮井は、いま静かな山村の営みが続
いている。宮井は瀞峡を流れる北山川と紀伊半島を縦断する十津川の合流点でもある。そ
して、その川は昔から交通の便に活用されていた。
 また、宮井の周辺には数カ所の石炭発掘の跡がある。和歌山県側に志古炭鉱、松沢炭鉱、
明治炭鉱があり、三重県側に小船炭鉱があった。
 昔、この川で労働争議がおこり、石炭積み出しでストライキが発生したという。
 戦後の労働組合運動の一つの高揚期であった一九六○年前後、紀南地域でも中小企業労
働者の組織化がすすみ、警職法反対、勤評反対、安保条約廃棄、「合理化」反対などをた
たかい、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政策に抵抗する運動が発展していった。
 しかし、この労働者・国民の大きなエネルギーを結集した安保反対闘争を米・日支配層
は黙って見過ごすことはなかった。彼等の得た教訓は労働者・国民の中に分裂・分断の策
動を持ち込むことであった。ライシャワー路線・反共主義の害毒が労働組合運動に持ち込
まれ、総評の一部にも毒が流されていった。
 紀南地域でもその策動が総評オルグと電通労組の反共組合幹部によって持ち込まれた。
 一九六二年の全鉱三菱妙法鉱山労組の反共攻撃を背景にして会社側の「合理化」がすす
められ、一九六三年にかけて紀南労協脱退などの分裂策動が集中した。
 紀南労協が、この分裂に反対して断固、労働者・労働組合の団結・統一の旗をかかげて
たたかいを展開している最中に、松沢炭鉱の閉山が打ち出された。
 しかも、一九六三年五月二十八日、「六月一日から閉山」という通告をうけて、松沢炭
鉱労働組合がたたかいに立ち上がったとき、分裂策動は頂点。紀南労協傘下数組合の脱退
通知が六月一日に出されてきた。
 六○年安保問題と同時に、アメリカ帝国主義のエネルギー世界支配の手が日本にものび、
石炭産業の斜陽化がすすめられ、多くの労働者が「合理化」の儀牲となっていった。
 松沢炭鉱の閉山も石炭斜陽化政策の流れの一つであった。たたかいのはじまったとき、
一一○人余りいた組合員が終結時点で三十二人。しかも、三年にわたるたたかいをねばり
強く続け、量終的には炭鉱の再開をかちとれなかったものの、一定の解決金と土地・建物
をかちとり、地域に根をはって生活と権利を守るたたかいが続けられていった。
 また、このたたかいのなかで、地域の労働者にも$カ活・権利はたたかって守るとい
う大切な遺産を残したことは確かである。
 この現地のたたかいをささえ、県地評傘下の労組や県下の民主団体によって、「松沢を
守る会」がつくられ、全県的な闘争の支援やカンパがとりくまれ地域の産業と労働者の雇
用を守るためにたたかったことは特筆される。
 このスケールの大きなたたかいのなかで、資本家・平井太郎(元郵政大臣)を相手にし
て互角にたたかい、その奥のアメリカ帝国主義と日本独占資本の大きなニつの敵を明らか
にしてたたかいの柱を立てたことは貴重な成果と教訓をひきだし、地域、地方、全国的に
広がっていった。
          (紀南地区労働組合協議会事務局長)
         


21、戦後初期の産別・全逓のたたかい−2・1ストの前後−  茂野 嵩




 「わたくしはいま、マッカーサー連合国最高司令官の命令により、ラヅオをもって熱愛
なる全国の官吏・公吏・教員のみなさまに明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実
に、実に、断腸の思いで組合員諸君に語ることをご諒解ねがいます。わたくしは、いま一
歩退却、二歩前進という言葉を思いだします。わたくしは声を大にして、日本の働く労働
者、農民のために万歳をとなえて、放送を終ることにします。労働者農民万歳!われわれ
は団結せねばならない」という全官公庁共同闘争委員会議長の故伊井弥四郎氏の泣きなが
らのラジオ放送を組合事務所に集まった組合員たちが男泣きしながら聞いたことを、昨日
のように私は鮮明に想い出します。
 産別会議を先頭とする一九四六年の十月闘争の大きい前進のなかで全逓、国鉄、教員、
国・地方公務員など全官公庁労働組合連絡協議会に結集した二百六十万の労働者が「最低
生活を保障する賃金をよこせ」を共同目標として全国津々浦々で闘争を展開していました。
 たたかう労働者を「不逞の輩(やから)」呼ばわりする吉田首相はその要求に耳を傾け
ようとしないなかで、一九四七年二月一日午前零時を期してゼネラルストライキ(二・一
ゼネスト)をもって要求貫徹までたたかいぬく決意をし、私たら全逓も職場要求での日常
闘争を積み上げ、職場を基礎にスト能勢を確立していました。
 全官公二百六十万だけでなく、民間産業を含めて五十四団体、四百万の労働者が全国労
働組合共同闘争委員会(全闘)に結集し、労働者の意気まさに天を衝く感がありました。
 こうした日本の労働者の決起におそれたアメリカ占領軍最高司令官マッカ−サー元帥
が、ゼネスト禁止命令を出し、ついに一九四七年一月三十一日午後九時二十分、スト突入
二時間四十分前に、さきの伊井共闘議長のラヅオ放送となったのです。
 この禁止命令は、ポツダム宣言や極東委員会の「日本の労働組合にたいする十六原則」
の蹂躙であること、しかも何一つ要求は解決されていません。アメリカ占領軍と吉田内閣
にたいする私たらの慣りと不満はいっそうつのり、たたかう決意をさらに固めました。
 その直後、新憲法下最初の四月の総選挙で社会党が第一党上なり、保革連合の片山内閣
が成立しました。一定の労働者が一定の期待をいだきましたが、ことごとく裏切られまし
た。
 当時私は、大阪中電外信課におり、支部の執行委員をしていました。私たち大阪中電支
部は、一人ひとりの切実な要求をかかげて、各課ごとに、あるいは青年部や婦人部、また
支部として局長と集団交渉を深夜まで行ったり、時間内に中電六階の食堂で職場集会を開
くなど、あらゆる形態の聞争を支部として自主的にねばり強くくりひろげました。占領軍
や片山内閣は「山描スト」などの攻撃を加え、弾圧の意図をむきだしにしてきました。
 私のいた外信課には、占領軍の軍人が乗り込んできて常時監視をしていました。その目
の前で席を離れて六階の職場集会に参加するわけですから、個々の組合員も相当な勇気と
階級的自覚を必要とするものであったと思います。
 その頃から社会党員やその支持者、職制組合の一部などの反共・反全逓の勤きが表面に
出はじめました。後の全電通片山甚市(元社・参院議員)など当局の支援をえて「剿(そ
う)共連盟」なるものをつくり、その中心になっていました。
 私たちは、組合の会議や職場集会などでも論争をやり、宣伝戦でも大いにたたかいをす
すめてきました。
(元全逓和歌山地区本部委員長、現日本共産党名誉幹部会委員)

         


22、全逓3月闘争と政令201号−戦後初期の産別・全逓のたたかい2−    茂野 嵩



 私は一九四八年一月に和歌山県湯浅郵便局に転勤し、戦災を受け有田郡金屋町に疎開し
ていた家族とやっと同居することができました。片山内閣が公務員労働者に押しつけてき
たのは、一、八○○円べ−スという実質戦前の半分という大幅賃下げでした。
 当時、全逓は「物価安定を基礎とする最低賃金制の確立」要求を掲げ強力にたたかいま
した。その内容は(イ)適正物価による生活必需物資の完全配給、(ロ)これにもとづく
地域給の確立、(ハ)生活必需物資の基準を一日二、四〇〇カロリ−とし、エンゲル系数
六〇パーセントとするというものでした。全逓和歌山地区本部も各郡市ごとに最低賃金を
算定して大阪逓信局に要求を提出しました。(一九四七・一一)ちなみに、和歌山市で独
身者三、七八八円二○銭、五人家族一四、三九五円の要求をしています。
 同時に職場の切実なもろもろの要求を掲げ職場を基礎にたたかい団結をかためました。
 そのたたかいのなかで政府は二、九二○円ベースを提起してきましたが、全くのめる回
答でなく、これに反対する全国的な三月闘争が一気に燃えひろがりました。
 一九四八年三月五日、湯浅郵便局支部は二十四時間ストに突入しました。私は支部長に
なって初めてのストライキで電話をつなげ、電報を受け付けよなどの対応に追われ、アイ
口をつきつけらわる一幕もありました。県下では九支部がストに突入、全国的には二月二
十四日から三月二十日の間に延べ九○四支部、延べ二四七、七五四人の組合員がストに参
加し、全逓組合員はこのたたかいのなかで大いに鍛えられました。
 三月十日、片山首班内閣が総辞職して、芦田内閣にとたらいまわしがおこなわれ、労働
大臣に社会党の加藤勘十氏が就任しました。
 三月二十九日GHQが、全国的におこなわれた全逓の地域ストライキを禁止する覚書き
を発表しました。三月闘争を指導した全逓の幹部が相当数逮捕され軍事裁判にかけられ投
獄されるという事態もありました。
 私は三月闘争の直後から全逓和歌山地区本部書記長や委員長として組合専従者になりま
した。
 当時は、県庁前の交差点付近にあったアメリカ軍政部のライオンズ中佐に呼び出され、
明らかに全逓運動にたいする干渉も受けたこともありました。
 七月三十一日に芦田内閣がGHQのマッカーサ−元帥の書簡にもとづいて「政令二○一
号」を公布し、日本の労働者階級の先頭に立ってたたかっていた二六○万の全官公労働者
から団体交渉権とストライキ権を剥奪しました。
 昭電疑獄で崩壊した芦田内閣のあとを受けた吉田内閣のもとで、十一月三十日「政令二
○一号」にもとづいて公務員法改悪が国会を通過しました。
 GHQや政府の高圧的な弾圧に勢いづいた反共右翼社会民主主義者は、二月に「産別民
同」を発足させ、全逓再建同盟を結成して、反共、反全逓のデマ宣伝と分裂策動をつよめ
攻撃の鉾先を産別会議や全逓、共産党に向けてきました。
 一方、当局は¢ホ等の団交は認めない、労働協約は無効、それにもとづく専従者は認め
ない、職場に復帰しないものは行政処分にするなど弾圧を急激につよめてきました。
 私たちは、それらの弾圧や反共、分裂策動とたたかいつつ、℃オ、三○○円、二・八カ
月分の生活補給金を支給せよ、吉田内閣打倒、国会即時解散要求を前面に、あくまでも
職場を基礎に、地域の共同闘争をつよめていきました。
 しかし、たたかいが困難になるなかで、地区本部の専従者として残ったものは、処分を
覚悟した、真に労働者の生活と権利を守り、日本の独立と民主化を願うものだけになりま
した。
(元全逓和歌山地区本部委員長、現日本共産党名誉幹部会委員)


         


23、レッド・パージ前後−戦後初期の産別・全逓のたたかいB−  茂野 嵩

 「今日からあなたは当局の職員でなくなっています」。「転勤になったということか」。
「郵政省の職員でないということです」。「首切りか、理由はなにか、辞令を見せよ」。「理
由はあなたの胸に手をあてて考えてもらえばわかるでしょう」。
 これが、一九四九年八月十二日の定員法の名によるレッド・パージの時の私と局長との
対話の一コマです。全く不当解雇以外のなにものでもありません。
 四九年四月四日、団体等規正令を公布し、五月三十日公務員定員法を成立させたアメリ
カ占領軍と日本政府は、この定員法によって戦闘的な活動家、幹部を事実上レッド・パー
ジすることをねらっていることが予測されました。
 私たちは、組合の団結の強化、地域の共闘の強化、なかでも国鉄などとの首切り反対の
共闘態勢の確立にとりくんできました。しかし、首切り通告の前後にいままでの日本では
考えられなかったような一連の謀略事件が米日支配努力によってひき起こされました。
 七月五日の下山国鉄総裁の轢死事件、七月十五日の三鷹電車区の無人電車暴走事件、八
月十七日の松川列車転覆事件などが発生し、共産党員や労組幹部によってひき起こしたと
いう政府の反共宣伝、マスコミの大々的なキャンペ−ン、同時に占領軍や当局と結託した
「民同」「全逓再建同盟」など右翼社会民主主義者の反共分裂攻撃のために、闘争態勢の
力を十分発揮することなくこの間に国鉄一○万人、全逓二六、五○○人など官公労働者の
大量解雇を許す結果になりました。和歌山でも全逓だけで約二○○人が、その他国鉄、全
財、県庁などでも相当首切られました。
 レッド・パージ後、当局は解雇者は組合員と認めない、解雇された幹部のいる組合とは
交渉に応しない、組合費は給料からチェックオーフしない、など組合活動の破壊にのり出
し「文句があるなら首を切るぞ」という高圧的な態度でのぞんできました。また「全逓再
建同盟」などは、大量首切りの前から「全通は共産党にひきまわされている」「共産党の
支配から組合を守る」「再建同盟に入ったら首を切られない」などといって署名活動など
やったり、彼らが指導権をとっている支部では組合費の上納をストップするなど、私たち
の組合活動への重大な妨害をしつように展開しました。また、首切り後は「首を切られた
ものは組合員でない」と当局の攻撃に呼応して、たたかう労働者の背後から鉄砲を打つな
ど、アメリカ占領軍と日本政府の大量首切り、レッド・パージに手を賃したことは明確な
事実です。
 私たち首を切られた地区本部の役員は、解散してしまった組合の再建、組合費を上納せ
ず単独組合だといっている支部、第二組合の全逓従組に加入したという支部に連日オルグ
に入りました。組合費の納入が減少し給与もほとんど支払えず、家族を養うために一日土
木工事に行っては二、三日オルグに行くなど、極めて困難な組合活動を続けました。
 一九五○年二月二十六日、田辺市香南寮に全逓労組支部(一○)、単独支部(七)、全
逓従組支部(一…当時従組に加入は一支部だけ)の一八支部四○人の代表を集め、中央へ
の所属はそのままにして、単独支部も含め要求実現のため和歌山県一本の協議体を組織す
ることを全逓労組から提案し、全体の賛同を得て準備会を発足させることができました。
しかし、その後当局と全逓従組(再建同盟)の分裂攻撃、全電通の組織化などのために協
議会が実現せず、一九五○年末に戦後全逓結成以来、和歌山市京橋の和歌山電話局内にあ
った和歌山地区本部の事務所を維持することができず閉鎖のやむなきにいたり、全逓和歌
山地区の組織が事実上活動を停止しました。
 終わりに当たって、最後まで全逓に所属してたたかった支部、幹部の皆さん、また、最
後まで困難ななかでともに頑張った地区本部専従者のみなさん、産別・全逓の輝かしい歴
史をつくり上げたことを誇りをもって社会の進歩のためにともに頑張りましょう。
(元全逓和歌山地区本部委員長、現日本共産党名誉幹部会委員)


         


24、スト権奪還のたたかい  楠林生悟


 国鉄が、中曽根内閣の強権のもとに解体(分割・民営化)されて早くも一年余が過ぎる。
その過程のなかで、直接もっとも大きな痛手をこうむったのは、何といっても国鉄内の労
働者の圧倒的部分を組織し、これまでわが国の階級的労働運動の中核的役割を果たしてき
た「国鉄労働組合」であり、今もなお筆舌につくしがたい苦闘が続いていることは多言を
要しない。
 それはさておき、本稿のテーマにそくして国鉄時代の県内における労働運動の中心軸を
概括するなれば、すでに記述された「勤評」「マル生」とならび、一九七五年(昭和五十
年)十一月二十六日から十二月三日まで、実に八日間全国的に全列車をストップしてたた
かわれた「スト権スト」を項点とした「スト権奪還」のたたかいを除外することは出来な
いであろう。
 この「スト権奪還」への、すなわち一九四八年(昭和二十三年)七月二十三日、当時の
対日占領軍総司令官マッカーサーが、芦田首相に宛てた超法規的ないわゆる「マ書簡」に
より、官公労労働者の「スト権」が政令二百一号公布とともに全面的に禁止されて以来、
実に四十年になんなんとする長い歳月、国鉄労働者は、他の官公労の仲間とともに、この
無法かつ理不尽にそして一方的に奪い取られた§J働基本権の回復にむかって、それこ
そ踏まれても蹴られてもそのつど起き上がるという不屈のたたかいを挑みつづげた。
 そのたたかいの特徴的な足どりを若干年表風に抽出すると、
 ○一九五三年(昭和二十八年)年末闘争で、初めて休暇(三割・十割)戦術を採用。そ
れまでの合法?闘争の枠を抜けだす。
 ○一九五六年(昭和三十一年)より、春闘が始まるとともに職場大会という呼称の時限
ストに発展する。
 ○一九六一年(昭和三十六年)公労協が十二年ぶり公然とストライキ宣言をおこなう。
 ○一九七一年(昭和四十六年)より全職場でスト権確立投票がおこなわれるようになる。
 ○一九七五年(昭和五十年)八日間にわたる「スト権スト」を決行。
となる。わけても、この中で、和歌山の国鉄労働者にとって忘れがたいのは、全国のトッ
プを切った一九五三年十二月一日から三日間、東和歌山駅連区分会(分会長・中平喜祥氏、
現医療生協専務理事)が、東和歌山駅(現和歌山駅)でたたかい抜いた三割休暇闘争であ
り、ついで和歌山の現場役員(故・児玉辰雄氏、当時和歌山機関区分会長)が初めて解雇
処分を受けた一九七一年の春闘における十九時間スト、そして史上空前の「スト権スト」
につきるのではなかろうか。筆者も、その中の三十年、東和歌山駅での三割休暇闘争を皮
切りに、一貫してこのたたかいの渦中にあり、退職して五年経つ昨今でも折にふれ、その
当時のスト指令を受ける毎、首を覚悟した鮮烈な憶いがよみがえることしばしばである。
 歴史のいたずらは、結果として、国鉄労働者の「スト権奪還」の悲願を「民営化」とい
う仇花に転化実現させてしまったが、禍い転じて福となす真の「スト権奪還」の最終ラウ
ンドはこれからである。いや、もうすでに始められているというべきだろう。

              (元国労和歌山操駅分会長)

         


25、スト参加者「氏名公表」の攻撃との闘い  堀井雅文



 一九七八年四月二十五日、和教組は春闘全国統一行動に参加した。その前夜、四月二十
一日、和歌山市の稲垣教育長は、中学校長会の席上、「教師のストは違法」「処分すべき
は当然」「4・25スト参加者の氏名を公表する。」と発言、市教組の組合活動をはげしく
攻撃した。
 教育長のおどしにもかかわらず、千名近い市教組組合員は、三時行動開始の4・25全
国統一行動に整然と参加した。
 この教育長発言に呼応し、七月七日、まず、統一行動参加者小学校の部の立看板が、つ
づいて、七月二十日、中学校の部の立看板が市役所前に立てられた。たてたのはいずれも
「教育正常化促進会議」(代表・関佳哉)を名のる右翼であった。
 九月に入って、教育長はスト参加者名薄を教育公報にのせ、一五、○○○部をPTA役
員に配布するにおよび、この問題は頂点に達した。
 当時の和歌山市の教育行政は、劣悪な教育条件、貧弱な学校施設の改善や教育費の父母
負担軽減などに目をやるのではなく、和歌山市教育の「低調な原因は、あげて、教組にあ
る、活発な組合活動にある」と公言して、組合敵視政策をとりつづけていた。
 その象徴的なものに、採用の際に、三人の保証人が連署して、「教職員としての義務を
果たすよう、十分、指導監督し、責任をもって保証します」という保証人制度があった。
 新しい教職員は保証人から「組合に入るな」「組合の人とつきあうな」と、がんじがら
めにされた。このように教職員の管理統制ばかりに、異常と思える程、力を入れていた。
        ○         ○
 「スト参加者の氏名公表」を手段として、市教委、右翼らが一体となった民主教育破壊
のこの攻撃にたいして直ちに、全職場が抗議行動に立ち上がった。和教組全郡市の仲間た
ちと労組、民主団体の共闘がひろがり、和歌山地裁仮処分の決定(教職員の名誉と団結権
の侵害であり、違法)をかちとり、舞法な立看板を撤去させた。
 PTAでは役員への「公表ビラ」配布に際し、「本来中立であるべきPTAをこの問題
にまきこむのは反対」というビラをまいてくれた役員。会長の目の前で「受け取れません」
とつっかえした親や、破っすてて抗議の意志を表わした副会長などの姿が私達の自信を生
み、たたかいの正しさの確信となった。
 このたたかいは、はしなくも市教組運動の克服すべき点をも明らかにした。
 その一つは、教師のもつ二面性(労働者と教育者)を正しく捉えるのではなく労働者性
のみを強調する傾向であり、もう一つは校長、非組合員、父母との一致点(よい教青を進
めたい)をみつけ、力をあわせるのではなく、違いのみを強調して、校長、非組合員、P
TA敵視論にともすればおちいりやすい傾向であった。
 私達は「氏名公表」とのたたかいは、父母の信頼、子ども達の心を稲垣教育長に奪われ
るのか、それとも、私達の側にぴったりとひきよせておくことができるのかのたたかいで
ある、と位置づけた。私達の背後には父母と子ども達がいる、との確信のもと運動の弱点
をこのたたかいの中で少しずつ克服しながら、要求白書運動や、父母との地域懇談会など
を組織した。
 そして、父母と子どもの願いにこたえる毎日の実践を通して、日常的な父母との結びつ
きをさらに強めた。
 「氏名公表」のたたかいから十年たった今、和歌山市の教育行政は少しずつであるが、
かわりつつある。保証人制度は八七年五月、完全に撤廃された。教育費の父母負担軽減は
三カ年で三億円の予算化(三カ年をすぎた今もつづいている)がされた。市教組と市教委
による正常な話し合いが復活し、不当人事の排除をはじめかなりの教育要求が実現し、市
教組のたたかいは着実に前進している。
             (和教組和歌山支部副支部長)

         


26、覇権主義と激しくたたかう−日中友好など国際連帯運動−   橋爪利次

 国際友好組織として県下で最初にできたのは日中友好協会で、しばらくして日朝協会、
日ソ協会が誕生した。
 中国革命が勝利し、中華人民共和国が成立したのは一九四九年十月一日である。百余年
にわたる帝国主義の侵略と支配を脱し、社会主義の道にふみだしたことはアジアと世界に
重大な影響を与えずにはおかなかった。
 新中国との友好と連帯を旗印にした日中友好協会が結成されたのは五○年十月で、野坂
参三、平野義太郎、内山完造氏らがよびかけた。しかし社会主義中国誕生に衝撃をうけた
政府・反動勢力とアメリカ占領軍は、中国との交流を妨害し、中国の新聞・雑誌を普及す
るだけで逮捕する事件さえあった。協会は「中共の第五列(スパイ)」「アカ」と公然と
攻撃され、会員の就職、結婚にまで干渉された。
 和歌山県では共産党員と有志の手で五一年に和歌山支部準備会、五二年一月二十九日に
正式に発足したが事務所が見つからず、はじめに福丁の和歌山経理専門学校、県庁職員組
合、北の新地の和歌山華僑会館など転々とした。勤評闘争のときは和大教育学部下の教育
会館「トンガリぼう子」の部屋にいた。
 和歌山城内にあった労働会館でひらいた「結成記念の夕」には、私服警察のうろつくな
か、中小企業者や町工場の労働者、建具職人も混え六百人も参加した。初代支部長には和
大の金持一郎教授、新中国ヘの関心は徐々にひろがり、県教組の加入、県地評も協力、地
域でも教組支部が支部結成の中心になりだした。また、中小業者や保守派県議らも参加し
てきた。
 日中友好協会は、日中国交回復国民運動、経済・文化交流、在華日本人の引き揚げ、中
国研究の中心センターとなり、中国側には「中日友好協会」ができた。
 一九六六年に中国で文化大革命が発生し、わが国への覇権主義的な乱暴きわまる干渉が
開始された。中国側は「反ソ」と毛沢東路線への追随、武力による革命方式への賛同を強
要してきたのである。良識あれば当然拒否すべきであるのに、協会本部の、主要役員がこ
の干渉に追随し自主性を放棄するばかりか、協会を脱走し、別組織の「日中友好協会正統
本部」なるものを結成。和製紅衛兵として、毛沢東バッチを胸に、毛語録を唱え、限りな
く毛沢東への忠誠をちかうという恥ずべきことをおこなった。
 和歌山県は、全国で唯一「分裂」をまぬがれた大組織(会員千二百人)であったので、
私は本部事務局長に選ばれた。ところが就任三日後に、全国の脱走派(正統本部)、在日
華僑、ニセ「左翼」暴力集団らに協会本部が三年近くも組織的に襲撃されるという「善隣
会館事件」が発生、数百人の負傷者を出したが、日本のマスコミ報道は一段記事で、「善
隣会館でトラブル」だけ。日本社会党はこの事件を、中国のいうとおり「日共がひきおこ
した」というデマに同調。日中脱走派に組みし、中国の文化大革命を賛美し、毛沢東をた
たえた。
 県下では副会長であった社会党の村上六三元県議は一九六七年五月の中芝順副会長追悼
会で「県連は正しい、私は分裂はきらいだ」と言明したのに、一方で日中脱走派の中央の
中心人物の三好一らと会い、和歌山の脱走派組織化に手をつけ、その年の秋に「県正統本
部」の旗上げをした。いまでは共産党を除き自社公民各党と財界の反共・親中国組織にな
ってしまった。しかし中国では、文化大革命が破綻し、そしていま「これが社会主義国か」
とマユをひそめさすような、アメリカと日本反動勢力との「同盟」関係にある。脱走派は
これにいまなお追随しているのである。これに反して真の友好の旗をかかげた日中友好協
会は、県下でも着実に前進しているのである。日朝協会もまたいま、北朝鮮の干渉とたた
かい、真の友好に奮闘している。
(日中友好協会県連副会長・日本共産党和歌山県委員会副委員長)
         


27、和高教・有田地域共闘会議の「学力テスト反対闘争」   栗原昭三


 昭和三十六年九月二十六日、文部省は全国一斉一学カテストを強行した。
 勤評制度で教育支配の外濠を埋めた自民党政府は、つづいて民主教育の内容そのものに
攻撃をかけてきた。能力主義によるエリート育成をねらった昭和三十五年学習指導要領実
現のための全国一斉学力テストである。
 当然、この「人的能力開発政策」に対し、日高教、日教組は組織を挙げてたたかわざる
を得なかった。和歌山県内高校関係では、七校が英語テスト校に指定された。勤評処分で
満身創痍の和高教(和歌山県高等学校教職員組合)は、こうした民主教育の危機に直面し、
県教委に対する中止交渉、公開質問状、職場での指定返上交渉など、その年七月以来のた
たかいを重ねてきたが、勤評以来文部省の直接指揮下に入った和歌山県教委の姿勢はかた
く、遂に拠点闘争に絞らざるを得なくなった。
 前日二十五日、田辺定と熊野の二拠点職場のたたかいで一定の収束をみた学テ闘争の焦
点は、吉備と箕島定時割の二校に移った。
 二十六日の朝、吉備高校は緊迫した雰囲気に包まれていた。この日は秋空が特に青く、
第二室戸台風でうけた老朽校舎の被害の跡で傷々しかった。和高教の動員者は食堂に集ま
り、天野書記長から、節度をもって行動するよう指示をうけた。
 私は当時箕高定時制に勤務していた。学テの前年、自らのたたかいで学級閉鎖を阻止し
た生徒会は、学力テストの指定と押し付けに対しても「私達はモルモットではない」連夜
討議してボイコットを決定していたので、安心して吉備の闘争に参加出来た。私の任務は、
勤評、安保以来県下一の地域共闘の力量を持った有田地域共闘会議の動員体制を組むこと、
学テの本質を地域住民に訴えることだった。由来、吉備町民には「吉備高校はわがらの学
校」という一体感があり、この日馳けつけたのは「吉備高を差別したら承知せん」という
地元の人びとであった。
 吉備高でテスト対象とされた家庭科二年生は、英語は一年で終了し二年ではやっていな
かった。「授業もやってない生徒をテストして、何の為のテストか」と天野書記長に鋭く
迫られても井上校長は「上からの命令で」と答えるだけ。しかしこの時すでに校長は警察
の出動を要請し、校舎の陰には五十名の武装警官が森閑と待機していた。井上校長は更に
退去命令を紙に書いてはりつけた。
 だが、テストは担当係の放送器機操作ミスで、結局実施不能に終わった。これが後に「動
員者の妨害によりテスト不能」と捏造される。
 翌月十月二十一日、県教委は天野書記長、岩城書記次長の免職、冨永書記次長停職六カ
月、動員者十二名減俸という苛酷な行政弾圧を以って和歌山の教育史をまたも血でいろど
った。
 岩城正男氏は当時を振り返って言う。「私達が直面していたものは、学校を学校らしく、
教育を教育らしくしたいという、必要最少限度の要求以外の何者でもなかった。だから私
達は、それを踏みにじる権力を許せませんでした」と。
 現在(一九八八年六月)、吉備高校の校舎は一変した。校舎は語らず、人もかわった。
天野書記長もいまはいない。しかし二十七年前、民主教育の危機を守るためここに集まっ
た和高教と有田地域共闘の歴史は、消えない。その頃をはるかに上まわる臨教審路線との
たたかいに直面して、学テ闘争から引き出せる教訓は大きい筈である。
            (当時箕島高校〈定時制〉教諭)