語りつぐ和歌山の労働運動(第二部)

ようこそ!

なぜ和歌山県地評は存続再生したか 夢と希望を与える労働運動に 和歌山県地評五〇周年におもう
県地評五〇周年によせて 労働戦線再編前夜の県地評 統一労組懇から県地評再生へ
父母との共同「有権者過半数署名」 日教組「左腕」屈服! 「四〇〇日抗争」 私の思い出のたたかい
今皆とともに考えたいこと =勤務評定闘争から過ぎし日の思い出= 県地評婦人部の思い出 県地評婦人部 あれこれ
国鉄の分割民営化反対の闘いについて 県地評の思い出 不当労働行為をはね返し大きく成長
対話から本格的共同への息吹 編 集 後 記

「語りつぐ労働運動・第一部」

         


なぜ和歌山県地評は存続再生したか 田淵 史郎

  一九八九年、労働界が全労連と連合に分裂再編された時、和歌山県地評は、「社会党一
党支持」労組が離脱したとはいえ、京都とともにたたかう県地評として存続し、全労連に
加盟した。和歌山県地評が、当時の困難な状況の下で、県地評として存続再生できた要因
はどこにあったのだろうか。その一つは、和歌山県地評が、一九五二年結成以降、六〇年
代、七〇年代にかけて、たたかうローカルセンターとして先進的なたたかいの歴史を築い
たことではないでしょうか。
 和歌山県地評は、一九五二年「再軍備反対」「吉田内閣打倒」のスローガンをかかげて
結成された。その後、七者共闘会議をくみ、あの歴史的な「勤評反対闘争」(一九五八年)
を経て、安保反対共闘会議を結成し、「六〇年安保闘争」をたたかった。これらのたたか
いを通して県内に統一戦線支持労組が育ち鍛えられた。その後これらの労組が果たした役
割は大きかった。
 一九七〇年の県地評大会(冨士原裕議長、川口一男事務局長)は「全民主勢力を結集し、
憲法改悪反対、安保体制打破…など平和と独立、民主主義擁護のためにたたかいをつよめ
よう」のスローガンをかかげ「政党支持の自由」の方針決定し、大幅賃上げ「合理化」反
対のたたかいをつよめる一方、「いのちとくらしを守る県民会議」を結成し、国民的課題
をとりあげ、革新統一の運動にとりくんだすぐれた歴史をもっていた。
 もう一つは、その後、戦後第二の反動攻勢がつよまる中で、社会党(当時)の反対もあ
って、「いのちとくらしを守る県民会議」が開店休業(一九七九年)した。さらに、一九
八〇年の社公合意(安保容認、共産党排除)をうけ、総評の右傾化がすすみ、和歌山県地
評もその影響をうけて、共同闘争、統一戦線運動が困難な時期を迎えた。
 そうした事態を迎え、和歌山県でも「統一労組懇」を結成し、共同闘争をよびかけつつ、
独自行動を徹底して追求した。県地評のすぐれた歴史を継承し発展させる県地評内での論
争ととりくみをつよめる一方で、一致しない課題については、統一労組懇として独自活動
をつよめ、たたかうローカルセンターの大事さを内外に示した。
 そうした県統一労組懇の存在と果たした役割、原則的で柔軟なたたかいをぬきにして今
日の県地評は存在しなかったと思う。
 私は一九八一年十月から一九九〇年十月までの九年間、県地評の議長(和教組委員長)
として、故木戸孝和氏(県地評副議長・県統一労組懇代表)とコンビをくみ、和歌山県の
労働運動に貢献できたことを誇りに思う。こうして労働界が分裂再編されて一〇余年がす
ぎ、今年一月、県労働者福祉協議会の協力を得て、県地評と連合和歌山の「合同新春の集
い」が開催された。全国ではじめての経験である。これも和歌山県のすぐれた歴史の蓄積
の上で成功したものと思うし、全国の注目をあつめている。いま求められていることは、
労働者・国民いじめの政治がすすむ中で、県地評と連合和歌山が一致点での共同を大事に
しつつ、同時に一致できない課題については、県地評としての独自活動を追求することだ
と思うが、どうでしょうか。
 原則を忘れず、柔軟に対処することが大事だと思う。

         


夢と希望を与える労働運動に 阪中 重良

 四月ともなれば、工場の玄関に赤旗がひるがえっているのは、あちこちに見られる光景
でした。私の最初のメーデー参加は、一五才のとき、名古屋のメーデーです。八人ぐらい
が竹棒を横にして隊列を組み、交差点でじぐざぐデモをした記憶はいまでも鮮明です。フ
ランスデモがまだ許されていた時代です。当時、私は三菱電機モナ仕事をしていたのです
が、四月に昼休みになると労働歌が工場いっぱいに流れました。その労働歌は、働く者を
元気づけ、労働運動についてまだ無知だった私も、わくわくした気分にさせられたことを
覚えています。いまから思えばその年は一九五五年、総評が結成されてから五年が経過し、
たたかう旗色を鮮明にしてきた頃のことです。
 総評は弱点をもちながらも、その後、日本の労働運動に一定の役割を果たします。しか
し、たたかいが高揚すれば逆流も生まれるのが世の常。労働組合の右翼的再編の動きが活
発になり、一九八〇年の「社公政権合意」が決定的となって、総評・県地評の運動機能は
停止状態になります。
 必然的にたたかう組織の確立が求められ、統一労組懇の存在、そして、その活動がいよ
いよ切実なものになっていました。県統一労組懇の結成は一九八〇年のことです。初代代
表委員は川端磊三氏、初代事務局長は木戸孝和氏でしたが、今ではお二人とも故人となら
れています。
 統一労組懇のたたかいで、特筆されるのは、健保改悪反対の闘争と国鉄分割反対の闘争
ではないだろうか。私は木戸氏の後をうけて、県統一労組懇の事務局長を引き受けること
になるのですが、当時、国鉄分割・民営化反対のたたかいは、まさに山場を迎えていまし
た。攻撃の主眼のひとつに国労つぶしがありました。当局からの攻撃で、多くの仲間が脱
落していく、そのぎりぎりの段階で、国労組合員が「私は国労に残ってたたかいます」と、
まさに「生き方」の選択を吐露された発言には、身震いのする感動を覚えました。この二
つのたたかいで共通することは、労働組合だけのたたかいとしないで、国民的な共同のた
たかいへと運動を発展させたことです。それは、統一労組懇が結成されていたからこそで
きたことです。
 一九八九年。総評は解体し、労働戦線の右翼再編と仕上げとして連合がつくられます。
その一方で、たたかう労働組合の伝統を受け継ぐ全労連が誕生します。日教組は連合に参
加し、和教組や和高教は、他のたたかう教職員組合と共に全教をつくりあげます。
 私は、その結成に直接かかわり、いずれの結成大会にも出席できたことを光栄に思って
います。その後、和教組執行委員長を一〇年、県地評議長の任を六年間勤めさせていただ
きました。
 私は、本文の最初に、一五才の時の思い出を書きました。当時、総評の存在とその影響
は、マスコミでも大きく報道され、未熟な若い労働者であった私にも希望を与えるもので
した。
 全労連、全教、再生県地評は、誕生してすでに一〇年。もし、それらの組織が結成され
ていなかったらと思うといまさらながらぞっとします。結成していて良かったという思い
と共に、その全労連、全教、再生県地評が、労働者・県民にとって、ますます頼られる存
在として活動することになるのは、情勢からして必然だと確信します。欲をいえば、県地
評が、一五才の少年にも夢と希望を与えるわかりやすい存在として、結成五〇周年を節目
に大きく発展されんことを切に願ってやみません。
         


和歌山県地評五〇周年におもう 西村 純一


 和歌山市水道労組(和水労)も昨年十月に、結成以来五〇年の節目を迎えた。県地評と
和水労が運動面でもっとも濃密な関係を築いた時期を挙げるとすれば、一九七〇年代であ
ろう。この時期の県地評では、「七〇年安保闘争」「沖縄返還共闘」など政治闘争での中
核的役割を果たすとともに、広範な県民・住民の切実な生活要求課題での共同の運動とし
て、「命とくらしを守る県民会議」(いのくら県民会議) を結成し、そのイニシアチブを
発揮した頃であった。 和水労は七〇年代当初は、 和歌山地区労に役員を送り出し、これ
らの運動で和歌山市という地域を軸にその一翼をになっていた(いのくら市民会議など)
が、やがて政治闘争、 経済闘争の両面における共同の発展が、七四年の和歌山市長選挙
で県地評、和歌山地区労として候補者を擁立してたたかうこととなるにともない、県、和
歌山市一体の共同の事業と位置づけられ、和水労も積極的に「明るくする会」に参加して
奮闘した。結果は衆寡敵せず、 前県地評議長で革新統一候補でたたかった「富士原裕」
は、自民党現職候補に敗れ、 私達も苦い敗北感を味わった。 
 私達は、「役員段階で深刻な総括を迫られ、中央委員会で討議を深め、『敗北から何を
学ぶのか』真剣な議論を通して『草の根の保守に負けた』『今後の和水労運動は広範な市
民との連帯、草の根の運動を強化しよう』という結論を導きだし」「翌七五年春闘方針で
『賃金・労働条件オンリー型』から『仕事の見直しと改善』も労働組合の正面の課題にと
りくむこと、戦術としては『ストライキ至上主義』 から『ストライキを含む多様な戦術
の行使』『市民の支持と共感を得られる闘争型態の追求』など『市民との連帯・合意の課
題・運動の重視』を方針提起し、職場の組合員の討議と合意をめざす努力がそそがれるこ
ととなる」「新世紀を前に五〇周年を迎えた和水労運動」・「和水労第五三回定期大会議案」
から)。 
 この和歌山市長選挙後に、政党支持・政治闘争方針をめぐって、和歌山県地評内で意見
の対立が激化し、共同の闘争に逆流が生じ、県地評運動は大きな困難をかかえることにな
るが、和水労は七五年から故木戸孝和氏を県地評副議長に送り出し、県地評の再生めざし
て努力し、和歌山市で、その運動の一翼をになうこととなり、県地評と連携を一層つよめ
ていくこととなる。


         


県地評五〇周年によせて 杉原 弘親

 県地評五〇周年おめでとうございます。
 私たちは一九七〇年六月紀南生コン労働組合を結成してまもなく一四名全員が解雇され
ました。この解雇闘争がきっかけで私たちは県地評との最初の出会いとなったのです。
 当時、県地評には私たちを含めて三つの職場で解雇闘争を闘っていた組合を一つにまと
めて県地評解雇撤回闘争団支援共闘会議を結成し三組合の闘争を全面的に支援してくれた
のでした。
 この解雇闘争は、私自身をはじめ全組合員を大きく鍛えました。「一致団結」を合い言
葉に、お隣の町熊野の花火大会でビール、ジュースなどの露天商で大もうけして、ささや
かでしたが夏のボーナス変わりの寸志、熊野川河原でのキックボクシング巡業でのリング
作りや囲い張りのアルバイトで生活資金を調達など今思えば楽しい物語となっています
が、自らが長期に闘う体制を構え、そして、県地評・紀南労協の皆さんの支援によって全
面勝利をなし遂げたことでした。
 この解雇撤回闘争の勝利が今日の建交労紀南合同支部へと発展することになりました。
私たちは解雇撤回闘争から学び取った力を企業内組合の枠を発展的に解消し建交労(旧全
自連)へ加盟することになったのでした。
 私たち職場復帰と同時に新しい未組織の組織化に向けての活動が始まり積極的に取り組
みを開始することになるのです。ところがその後の闘い、がまた大変な闘いの試練になる
とは思いも寄りませんでした。
 私たちが直接闘った解雇闘争も含めて、大洋通運分会から海辺組分会に至る不当解雇闘
争は実に十二年間に及ぶものでした。この長期にわたる解雇闘争が私たちを鍛え磨き、権
利侵害の最たるものである「解雇」や「その他」のあらゆる権利侵害の攻撃を私たちの手
のひらに乗せられるまでに成長させたのでした。
 八〇年代の低迷の時期を経過する中、九〇年代に入ってから新規加盟者には、必ず学習
会を行うようにし「ついてこい」方式から「自らの力で闘う」力を身に付けるため、新規
加入者には必ず学習会を行うようにし組織化を手掛けたところ一四名だった紀南合同支部
が一時期二〇〇人近くの十倍をはるかに越えるところまでに組織化が前進しました。
この間、建交労県本部の歴代の委員長、木下美津夫氏、井上仁平氏、松田豊氏等の指導が
あったことは記述しないわけにはいきません。
 二十一世紀初頭の今年、一月に串本海中公園分会、三月に新生・海辺組分会の二つの職
場に新しい仲間を迎え分会を結成しました。私たちは絶えず前向きに活動を行っています
が組織拡大は増やし続けないと定年退職やその他の理由による自然脱退が生じます。
今、建交労は二十一世紀を中・長期的な計画に基づいて、今後の情勢を働く者の側に切り
開くための立場に立って労働組合運動を展望し、要求実現の組織力を大きくしていく為に
飛躍的な組織拡大を成功させ、県地評の運動に大きく貢献したいと考えています。
私たちは建交労県本部は広範な労働者・労働組合の結集、未組織労働者の組織化、民主的
政権を視野に入れた闘いを基本に二十一世紀を展望する課題を必ずなし遂げたいと考えて
います。
 今回の五〇周年記念を契機に県地評の一員としての誇りと県地評の発展強化に向けて建
交労和歌山県本部が一体となって奮闘する決意をのべて五〇周年のお祝いとします。 


         


労働戦線再編前夜の県地評 藤井 穂積

 一九七八年以降、労働運動も激動の時代に入っていった。この時期、政府・財界は「戦
後第二の反動攻勢期」といわれるほどの諸改悪を次々に企図・実現していた。一方、諸改
悪に対する国民の反発を抑える有効な方策として考えられたのであろう、野党・労働運動
の右より再編が進みつつあった。
 こうした事態の中で、一九七九年度から一九八二度年にわたり、高教組選出の県地評常
任幹事として多くの出来事を経験することとなった。当初は、未経験の雰囲気の中で、戸
惑いもあったが、幹事会での議論の口火は以前から高教組が多かったらしく、気がつけば
自然に同じ道を歩んでいた。中央での労働運動再編の影響はすでに和歌山県にも及び、「い
のちとくらしをを守る県民共闘会議」や「有事立法反対和歌山県共闘会議」など、全国的
にもめずらしい統一戦線的な部分共闘を軸としてまとまりを見せていた県地評は、この時
期、県内の労働運動をリードし県民世論を形成する行動に統一して取り組めない状況に陥
っていた。
 これ以前から、県地評の議案書は、総評の議案書をもとにして、三役会議で一致した内
容が常任幹事会で議論されるのが一般的であったが、一致しない場合も含めて、また、稀
には見落としも含めて常任幹事会の議案となることもしばしばであった。
 従って、この時期の常任幹事会の議論も一層白熱したものとなった。例えば、当時、年
金改悪が大問題となっていた。政府は共済年金・厚生年金・国民年金等を一元化すること
によって年金全体の改悪をもくろんでいた。総評はこれに妥協し、「二元化論」(共済年
金と厚生年金との統合)なるものを提起、事実上一元化への第一歩を許す態度をとった。
当然常任幹事会は大議論となった。国民年金の水準は低く、これだけではどうしても生活
ができない状況であり、他方で大企業は厚生年金基金をつくるなどその格差は歴然として
いた。問題は政府の年金給付切り下げと掛け金の引き上げを阻止し、国民年金の水準をど
のようにして引き上げるかであり、これを実現するためには国の財政のあり方をも大きく
変える必要があった。同時に、この問題は多数の国民と労働者とが一致できる課題であっ
た。情勢論から始まり、このような議論が延々と続いた後、たまりかねたように突如とし
て、当時の電通出身の副議長が叫んだ、「反対したら国家財政に負担が生じるではない
か!」と。さすがに現在の「連合系」役員も慌ててこの副議長の発言を止めた。
 一方、県統一労組懇や大運動実行委員会は、県地評の運動を大きく上回る諸行動を実現
していた。「連合」系役員からは、統一労組懇などのこうした行動を停止もしくはひかえ
るよう内々に話もあったが、一致点での共闘には消極的であった。おそらく立場を超えて
それぞれのポストにいた少なからぬ役員達も、この狭間にあって、過去の激しい闘いを経
て、統一行動に向けて頑張ってきたことへの思いや、「社共共闘、総評を含む幅広い統一
行動」への思いが心に残り、胸を痛めたことであったろうと想像する。


         


統一労組懇から県地評再生へ 雑賀 光夫

 和歌山県地評は、総評の最大の弱点であった特定政党支持(社会党一党支持)の方針を
とらない地方組織であったことは、田渕さんが書いておられる。
 労働戦線問題が複雑になると、そのままではいかなくなった。その象徴的できごとが、
一九七〇年代おわりの「いのくら県民会議凍結」である。その年の国政選挙、政党間では
当然、論争がある。日本共産党が社会党を批判した。そのことを理由に、社会党和歌山県
連が「いのくら県民会議で共産党とは同席できない」としたのである。政党間の争いを大
衆団体にもちこむ、道理に合わない無茶な話であった。
 ときの県地評議長・いのくら県民会議議長は、北又安二さん。北又さんは、この問題が
これ以上、県地評の不団結に拡大しないように「高度な政治判断で、いのくら県民会議を
凍結する」と提案した。それは、やむをえない判断であったと思う。
 私は、その提案をうけた会議を、いまでも覚えている。教育会館大会議室のロの字にな
らべた席の北側の席に私はついていた。二人ぐらい離れた席の新婦人の引地さんが「なっ
とくできない」とねばられたのを覚えている。当然のことである。こうした事態を経て一
九八〇年代に入る。ここで、全国的な労働戦線問題は、決定的な局面に突入していく。
 和歌山県では、「いのくら凍結」はあったとはいえ、県地評は、労働戦線問題もふくめ
「不一致点は棚上げ」を堅持していた。全国的には、総評が右転落の路線を突き進む中で、
統一労組懇が活動を展開する。和歌山県ではどうするのか。
 一九八〇年、和歌山県でも統一労組懇が結成された。「いのくら」を受け継ぐ「大運動
実行委員会」も結成された。その中心になったのは、県地評副議長であった木戸孝和さん
(和水労)であった。北又議長・木戸副議長が、役割分担をして、県地評の団結と統一労
組懇の独自行動を実現したわけである。この関係は、北又議長のあとをついだ田渕議長・
木戸副議長の間でも引き継がれた。
 大運動実行委員会が一九八二年から、全県縦断行動を実施した。その言い出しべえは、
私だったと思う。私がその提案をすると、木戸さんは言った。「雑賀はん、それはいい。
あんたその構想を方針に書いてくれ」と。その後、気づいたのだが、この言い方は、川口
事務局長から木戸さんが学んだのだと思う。木戸さんがよく言っていた。「川口事務局長
に提案すると、『そりゃいい。それを書いてくれ』といわれた」と。私も、和教組で若い
役員が積極的提案をすると、川口さん・木戸さんのまねをすることにしている。
 一九八二年の全県縦断行動の経験は、「労働運動」誌(一九八三年三月)に載せさせて
いただいた。当時の日教組の会議に出たとき、高知県教組の門脇委員長が「雑賀さんの論
文を、みんなに読めと言っているんだよ」といってくださった。全県縦断行動は、今も全
国に誇る運動である。
 その後のことだが、メーデーのあと、和歌山城の一角で、和教組常任・書記でお弁当を
たべた。そのとなりで、「連合」派の元県地評事務局長・地区労事務局長が宴を張ってい
た。私は、ビールをもって「やあやあ、お久しぶり」と「連合」派の宴を訪問した。その
とき、元和歌山地区労事務局長氏が、わたしにささやいた。「あんた、うちの陣営では『ス
ピッツ』と呼ばれているよ」と。「キャンキャンとほえるスピッツ」という意味である。
先日、元県地評事務局長氏にお会いした折、「ぼくは、スピッツとよばれてたんだね」と
申し上げたら、氏は「ワハハハハ」と豪快にわらっておられた。

         


父母との共同「有権者過半数署名」 片山 政造

 戦後第二の反動攻勢が荒れ狂い「臨調行革」・「臨教審路線」と対決する中で開催され
た一九八八年度の和歌山県高等学校教職員組合(和高教)定期大会は、知事・県会議長
・県教育長に宛てた有権者過半数署名を行うことを決めた。要請項目は、@四十人学級(職業科三十五人)の即時実現と生徒急減期における三十五人学級(職業科三十五人)の実現、
A大規模校(二十五人学級以上)の解消と高校新設、B規模の適正化、学校間格差解消と
近くの学校に行ける地元高校の育成、C教育予算増額と父母負担軽減の四項目である。 
 これに先立って、私達は、和歌山県の高校教育への公費負担が全国第四十四位であり、
父母負担が全国一高い(いずれも全日制)ことを 『和歌山県高校教育白書』で発表して
いたが、これは、高校教育への国や県の予算支出が少ないことと、教職員が出張旅費など
で父母負担に依存しているためであると考えられた。 また、和歌山県高等学校PTA連
絡協議会の協力で行ったアンケート結果によって、高校生の父母が、わが子を健康で友達
に好かれる子になって欲しいと願っていること、学校に対しては自立できる力や基礎学力
をつける指導を期待していること、行政に対しては四十人学級実現や高校増設などを求め
ていることが明らかになった。したがって、私達はこの署名運動を、ごく一部の職場を
除いては全県的なPTA役員等の積極的な協力により取り組むことができた。 
 一年四ヶ月かけて集められ、翌年十月十六日に提出された署名の総計は、 三十六万三
千四十四名(有権者の九十二・四%)で、この到達点は和高教運動史上最高であった。 
県会議長は 「三十六万という数字は厳粛に受けとめる」と回答、県教育長も 「学級定数
縮小は重要な課題である。中学卒業者急減期には、学級数・学級定員両面で対処していき
たい」好意的な態度を表明した。翌年度には、「進学率をひきあげつつ高校での学級定数
縮小を求める請願」が県議会の満場一致で採択された。こうして、私達の運動は、和歌山
県の独自措置として学級定員縮小を実現することこそできなかったが、中卒者急減期にお
ける高校募集定員及び教職員定数の削減を緩和するという点で重要な役割を果たすことが
できたように思う。この間に、和高教の支部体制は強化され、組合員は二千人を超えた。
この学級定員縮小の運動は、一九八九年度からは私学補助金増額運動と合流し、全国公私
立小中高校教職員・父母の「ゆきとどいた教育をすすめる三千万署名運動」へと発展し数
々の成果を上げることになる。尚、一九九一年三月には、全日本教職員組合(全教)と全
教加盟のわが国最大の高校全国組織である日本高等学校教職員組合が生まれる。 


         


日教組「左腕」屈服! 「四〇〇日抗争」 武内 正次

 日教組が右転落し、全教が結成されるとき、私は和教組の書記次長・書記長として全国
会議に多く参加する機会がありました。
 八九年十一月に全日本教職員組合協議会(旧全教)が結成され、九一年三月に旧全教が
日高教と組織統一し、全日本教職員組合(全教)が結成されました。各県ではさまざまな
たたかいが展開され、歴史に残る出来事であったことは確かです。しかし、この時期は、
日教組がすでに右傾化した中で、どう新しい組織を作るかというたたかいでした。でも、
八六〜八七年のたたかいは、日教組をまるごと右傾化から守るかどうかのたたかいでした。
そういう意味で、私はこの当時の思い出について述べたいと思います。
 一九八六年、時の田中日教組委員長が、自民党の「西岡武夫を叱る会」に出席し、「激
励」したことに端を発し「四〇〇日抗争」が始まりでした。西岡氏は、日教組が大闘争を
した主任任命制の立役者でした。田中委員長の責任を追及しようと、規約に基づく三分の
一以上の単組が中央委員会開催を求め、同八月、臨時中央委員会が招集されたが、日教組
「右派」は退場し、何も決めることができませんでした。九月に予定されていた第六三回
大会も、前日に田中委員長の独断により延期されました。そして、八八年第六四回大会を
開催するまで、日教組が四〇〇日(実際は六〇〇日)間、機能マヒとなりました。この背
景には、労働戦線の右傾化と、日教組内の「右派」「左派」の人事抗争がありました。
 八七年三月、神戸で第六三回臨時大会を開催し、全国教研開催と八月までの予算を決定
しましたが、八月以降、無予算・機能マヒとなりました。こうした状況の中で、九月、日
教組の事態を打開しようと、過半数の中執二一名、青年部専門委員一名が、全国代表者会
議をよびかけ、九月九日と二八日に、和教組なども参加し全国代表者会議を成功させまし
た。そして、二八日の全国代表者会議で、日教組山本副委員長を委員長代行に選出し、委
員長代行名で、十月定期大会の開催を招集しました。
 八六年以降、私はこうした会議に出席し、「右派」が退場や妨害を繰り返す中で、「左
派」の仲間が、とまどいながらも議事の進行にがんばっていたことを思い出します。三〇
才前半の若造が、議長をしている北海道の年配の役員に対し「議長ガンバレ!」と声をか
けたら、議長が私の方を向き、うなずいてくれたことを今でも覚えています。
 八七年九月の全国代表者会議は、私たちと「左派」、「右派」の一部をあわせ八割の単
組が出席しました。そして、規約に基づき、委員長代行を選出し、規約に基づき大会を招
集しました。私は「これで日教組も立ち直れる」と本当に喜びました。しかし、若造の無
知。一瞬にしてこの夢が吹き飛びました。
 八七年十月、このままでは、労働戦線再編(右傾化)が危ぶまれると、総評指導部によ
る、「社会党党員党友協議会(社党協)」を利用した攻撃が、日教組「左派」に加えられ
ました。その結果、「十月定期大会」は夢のごとく消え去り、八八年二月、福島で第六四
回大会が開催され、日教組が一気に右傾化していきました。
 八七年十月、もし「左派」の仲間が「社会党一党支持」の弊害を乗り越えていたら、今
日の教育反動化をここまでも許していなかっただろうと思います。今、日教組の「左派」
の人たちは、この時代をどのように振り返っているのでしょうか?


         


私の思い出のたたかい 上硲 行康

 私は、一九八八年秋から一九八九年秋までの一年間、和歌山県国公事務局長を努めさし
てもらいました。その中で、印象に残っているたたかいとしては、「階級的ローカルセン
ター確立に向けたたたかい」と「調整手当改悪反対のたたかい」があります。今回は、一
九八九年に人事院が改悪しようとした「調整手当改悪反対のたたかい」について書かせて
もらいます。
 それは、一九八九年五月二日人事院が、国公労連に調整手当見直し基準案を、正式に提
示したことから始まりました。
 人事院が行ったこの提示には、大きく言って三つの重大な問題点がありました。
 まず一点目は、国公労連への正式提示が五月二日にもかかわらず、八月勧告で決着したいとの、あまりにも一方的すぎる態度。
 次いで二点目は、見直し基準指標での民間賃金について、人事院の独自調査でなく、労
働省の賃金統計調査を用いようとしたことです。なぜ問題かといいますと、従来、人事院
は国会審議等で、調整手当見直しについては、人事院の独自調査で行うとしてきました。
それが今回、労働省の賃金統計調査を使用したことは人事院としての責任を放棄したこと
です。さらに、労働省の賃金統計調査の事業所規模は一〇人以上で、人事院の独自調査の
民間給与調査五〇人以上と矛盾していることです。加えて、労働省の賃金統計調査は、本
来都道府県別調査であるため、市町村段階のサンプルが少なすぎるのも問題でした。
 最後の三点目は、民間賃金指数を恣意的に重視したことです。そもそも「調整手当」と
は民間における賃金、物価及び生計費が特に高い地域で人事院規則で定めるものに在勤す
る職員に支給されているもので、民間賃金のみを重視することは、許されません。当時は
二〇都道府県一二四市区町地域が対象で二七万人以上に支給されていました。それが民間
賃金指数を恣意的に重視した、調整手当見直し基準案では六八市町が対象外になりました。
当時、和歌山県では、和歌山市が支給対象になっていましたが、見直し基準案では対象外
になることは、明らかでした。  
 この人事院の攻撃に対し、全国の公務員仲間から、怒りの声があがりました、調整手当
は、超勤手当や一時金の算定基礎給でもあるだけに、仲間たちにとっては重要な生活給と
なっていたものでした。
 一九八九年といえば、消費税が導入され生活を圧迫された年でもありました。さらに生
活を直撃するこの改悪については、断じて許さないとの思いから「とられてたまるか調整
手当」をスローガンに全国から、たたかいを集結させました。 
 この当時和歌山県国公は、各単組の結集も悪く、かならずしも活発な活動をしていると
は、いえませんでしたが、この調整手当改悪反対のたたかいの提起については、直ちに結
集してくれ、縦の取り組みである単組でのたたかいと、横の取り組みである県国公のたた
かいを、結合させることを、意志統一し、産別組織としての県国公を、中心としてたたか
いを展開しました。
 県国公としては、このたたかいで、従来からの課題であった和歌山県国公単独の近畿事
務局交渉を、六月五日に成功させ、戦いを大きく前進させることができました。結果、人
事院をして、見直し基準案を大きく後退させ、和歌山市の支給を存続させることができま
した。
 私が、このたたかいから学んだ教訓としては、いかに仲間の要求に基づくたたかいが、
仲間の団結を呼び、組織の強化、発展に繋がると言う労働組合運動の基本原則に、いまさ
らながら、再認識したことです。そして、このたたかいの成果が、もう一つの運動課題で
あった「階級的ローカルセンター確立に向けたたたかい」への運動の糧になったことは、
申すまでもありません。
 これが、私の和歌山県国公事務局長時代の、思い出のたたかいです。
 最後に、たたかいに協力してくれた仲間のみなさんに、感謝して終わります。


         


今皆とともに考えたいこと=勤務評定闘争から過ぎし日の思い出=
  石井 政英

 七月二日、その日のみんな(管理職の人も含む)の心は晴天であってほしい。何故か、
その前日は評定者(当局)が行なう勤務評定実施の日である。もし職場が、半封建的だと
したら管理職は職員(部下)に「君コ−ヒ−を入れたまえ」「煙草を買ってきなさい」こ
のようなことを言われたとしたら、一体どうだろうか。職務分掌にそのような事がなくと
も彼らは平気で言う。即ち職場に勤務評定が導入された「証」である。そして、次のよう
なことがあったとしたらどうだろうか。今日は期末・勤勉手当の支給日、誰となくトイレ
に走る。封筒の中味、数や如何に、同期生より多いか少ないか?皆に隠れて確かめるであ
ろう。金額の多少はともかくとして気持ちのいいものではない。
 何か上司に意見を述べたいことができた。言うべきかどうか悩むであろう。言えば後で
上司が自分に望む態度を考える。結局上司には何も言わずに家路につくこととなってしま
う。途中ストレス解消にと居酒屋に立ち寄る。それでなくとも寂しい我がサイフをはたい
て一杯を飲む、一杯の酒の味の空しさだけが残ってしまう。このようなことは自分自身の
ことであるとしても見逃してはならない問題である。何故か、それは「自分勝手、気まま」
でなく、当局の圧迫があるからそうさしたとすれば、決して許すことはできない。勤務評
定を職場に導入させた場合、もっとも危惧されるところである。それは公務員としての責
務を果たせることができるかどうかという問題である。
 生産者をはじめ消費者、そしてこれらに関連する中小・零細業者に対する奉仕の義務、
彼らに対して不利益となる政策が打ち出された時(減反政策、食の安全性)公務員として
また、労働組合として断固反対してたたかえるものかどうか、国民的規模で行動をおこさ
せることができるのかどうか。農民、消費者などの立場で悪政に対してたたかうのが公務
員と労働組合の責務ではないだろうか。
 「勤務評定とは何か」それはこのような攻撃に対して「見ざる、聞かざる、言わざる」
の公務員とその労働組合に仕立てあげるのが勤務評定の本質であることを皆で討論し、こ
れからも当局と納得するまで話し合い、たたかっていかなければと思う今日である。勤務
評定闘争、不当処分反対闘争、さまざまな職場闘争が今日まで積み重ねられてきた。長ら
く共にたたかってきた諸先輩は、既に、この世を去ったという人もいるが残念でならない。
先輩たちも自分のためと思い、同時に後輩たちに少しでも自由で民主的な職場を残したい
との願いを込め、精一杯たたかってくれたに違いないと思う。故人の死を悼み冥福を心か
ら祈り、また、わたしたちもこれからの世代に対し、明るい民主的な職場になるよう努力
しなければならないと痛切に考える今日この頃である。



         


県地評婦人部の思い出 梅田 律子

 一〇年以上の歳月が流れ、 現在それに関わっていないと、 忘れてしまったことの方が
多いのですが、私が県地評婦人部の部長をしていたのは、一九九〇年に再建されてから七
年間でした。そのころ高教組の婦人部の仕事をしていて、何度か再建準備会に出席してい
ました。参加者は多くても五名くらいだったでしょうか、ほとんど松本さん(当時和教組
副委員長)、船木さん(県地評書記)、私の三人だったと記憶しています。 
 一九九〇年五月一日のメーデーの後も、準備のために集まり、役員をどうするか、とい
う話しになりました。「事務局長は私がするから、 梅田先生は部長を」と松本さんから
言われ、どう見渡しても三人しかいない状態では、「えっー!」 と内心思いましたが、 断
われる状況でもなく、 何も分からないままお引き受けしました。何も分からない状態は、
 その後もずっと続いていて、松本さん、船木さんには、迷惑のかけっぱなしだったと今
でも思っています。 
 再建大会、働く婦人の和歌山県集会、 単組代表者会議等が行われていく中で、少しず
つ和歌山の女性労働者の状態が分かってきたように思います。 
 一九九一年の九月に行われた総会は台風が近づいていて、 暴風雨警報が発令されてい
るときでした。 成立するのだろうかとやきもきしたことなども、今となっては懐かしい
思い出です。和歌山の女性労働者の声を聞き要求を束ねていくと言っても、実際に行動で
きる人の数に限界があり、運動がそんなに大きく前進する訳ではありません。松本さんと
船木さんが、各単組婦人部を訪問して、趣旨を訴え、 会議参加の要請などをして下さっ
ているのを聞きながら、 ただレールの上に乗った行動しか出来ないことを申し訳なく思
っていました。 
 一九九〇年前後は、労働戦線をめぐって大きく情勢が変わっていく時期でした。県地評
は、 労働者の生活と権利を守り、たたかう労働組合として、住金の「不当労働行為」「役
選介入」や日赤組合員差別に取り組んでいました。 日赤の看護婦さんが、 婦人部の役員
として活動してくれるようになり、日赤労組を励ますとりくみを側面から支援出来たのも
そのころでした。 
 男女雇用機会均等法成立後、 私たちが案じていたように、 労働力が必要なときには、
女性の社会参加を前面に打ち出し、母性保護を抜きにした「男女平等」で働かせ、リスト
ラが進むと真っ先にパート化されたり整理の対象にされています。働く女性をめぐる状況
はこの不況下でますます厳しくなっています。 
 県地評婦人部の存在がいっそう必要なこの時期、 組織の一員として出来るだけのこと
はしたいと思っています。 

         


県地評婦人部 あれこれ 松本 真澄

 私が県地評婦人部の仕事をはじめたのは一九八三年でした。労働戦線の右翼的再編問題
が厳しくなる中、実効ある雇用機会均等法の制定を求める婦人運動が全国的な高まりを見
せていました。結成間もない統一労組懇婦人部がこれらの運動をリードしていました。私
は統一労組懇婦人部の学習交流集会で学んだことを、水道労組の有馬さんらに相談し、和
歌山でどう取り組むかを考えました。はじめ、水道労組婦人部で学習会が開かれました。
和教組婦人部や和高教でも学習会が組織され、労戦問題とからめて運動が広がっていきま
した。
 このような流れの中で県地評婦人部は総会を開いても成立せず、私は西川事務局長から
引き継いだ仕事を「事務局長代理」という名前でおこなっていましたが西川きんも正確に
は「事務局長代理」だったので「代理の代理」と、冗談をいってました。とにかく、水道
労組や全司法、日赤病院労組、高教組、和教組、そして労組懇の書記をしていた船木さん
たちとにぎやかに取り組みをすすめていました。
 八九年県地評が再生されました。労働運動の新しい息吹を反映して、「はたらく婦人の
県集会」、九〇年五月一日婦人部再建大会をひらきました。私はようやく「代理」がとれ
ました.婦人部長に和高教の梅田さんがなりました。
 この頃、パートや民間職場の女性労働者の問題が話題になりました。「民間職場にアタ
ックをしたいね」ということで、公園前や長崎屋、丸正の前などでビラまきをしたことが
あります。私は公園前をうけもちました。勢い込んで出かけたのですが、バスからおりて
くる女性はちらほら、残ったたくさんのビラを持ち帰りました。今から考えれば、計画性
のない無謀な取り組みであったと苦笑ものですが、当時の私たちの意気込みを反映したも
のとして記憶に残っています。
 関電の女性差別問題も忘れがたい思い出です。妊娠中で制服があわなくなり、私服で仕
事をしていた女性社員に、上司が「着る服がないのなら裸で歩け」なとの暴言を吐いたこ
とを職場新開「鉄塔」が告発しました。「能力別」を口実にした新たな女性差別が問題に
なっている中で、時代遅れともいえる露骨な女性差別事件です。私は県地評の事務局長と
一緒に関電の仲間から、くわしく話をきき、婦人部のニュースで広めましたが、もどかし
さで歯がみするおもいでした。「職場たたかう労働組合があり、しっかりした婦人部があ
ること」の大切さを痛感しました。この問題は朝日新聞でも取り上げられました。また日
本共産党の村岡県会議員が県議会でとりあげました。
 九一年二月に取り組んだ湾岸戦争反対の女性だけの集会も忘れられません。県地評婦人
部が呼びかけて、国際婦人デー実行委員会で取り組みました。なにぶん初めての経験で、
どうなるのか想像もつかず「一〇人でも、二〇人でも、行動をしたことに意義がある」と
意思統一しました。当日はことのほか寒い日でした。本町公園で待っていると、エプロン
をつけたりプラカードを持った女性が集まってきました。女性だけのデモが珍しかったの
か、丸正前やぶらくり丁で盛んな激励を受け、元気いっばいシュプレヒコールをしました。
梅田婦人部長は、「婦人部は職場のカナリア」ということばをよく口にしました。鉱夫た
ちは、カナリアを持って坑道にはいります。環境の悪化を一番敏感に察知するのだそうで
す。真の男女平等の社会が実現するまで、婦人は美しく元気なカナリアであり続けたいも
のです。


         


国鉄の分割民営化反対の闘いについて 洞  佳和

 「不当差別は許さないぞ」「人活指定の基準を明らかにせよ」響きわたるシュプレヒコ
ールにブルブル体が震えるだけで何も言えない電気区長。国鉄の分割民営化を翌年四月に
控えた一九八六年(昭和六一年)十二月十四日「国鉄分割民営化反対紀南共闘会議」の人
活反対集会です。
 その年の七月頃から「人活センター」が設置され国労や全動労(現建交労)の役員や活
動家から仕事を奪いました。
 「余剰員を有効に活用する」と言う名目で毎日毎日文鎮(レールを小さく切って磨く)
造りや草むしり、ペンキ塗りをさせました。当時の国鉄では、人活イコール清算事業団(新
会社に採用されない)と言うのが常識となっていました。「人活に指定されたくなければ
国労を辞めよ」「新会社に行きたければ国労を脱退せよ」と毎日毎日攻撃がかけられまし
た。
 人活の設置と時を同じくして組合員の脱退が相次ぎ、最盛時二七万人いた組合員がJR
発足時には三万人まで減りました。
 「本日は私たちの為にこのように多くの人が集まって下さいまして本当にありがとうご
ざいます。どんなに苦しくても国労の旗のもとに団結して頑張ります。そしてクビになっ
たら裁判で闘います」挨拶は初めてと言う青年労働者の泣きながらの決意表明に集会は大
きく盛り上がりました。
 翌日出勤すると彼は私をさけているように思われました。彼を誘い喫茶店に行きました。
「許してください、私はもうだめです」「あいつらに負けたと思うと悔しいです、でもも
う終わりです」「国労を脱退すると言ってしまいました」昨日の集会終了後家に帰ってか
ら、自分の両親、奥さんとその両親、合計五人から朝の五時までせめられたそうです。
「自分の意地を通すのは勝手や、そやけど嫁や子供はどうするつもりや」「四月からの生
活設計をどうするつもりや」と…。
 五時から今まで彼はどんな気持ちでいたのだろうと思うと私はもう何も言えませんでし
た。涙を一杯溜めた丸い目、瞬きのひとつひとつまで今でも脳裏に焼き付いています。多
分一生忘れる事が出来ないとおもいます。
 「まっとうな人生を歩みたい」「仲間を裏切りたくない」と思いながら一〇〇名に余る
仲間が自ら命を断ちました。
 私は中曽根内閣とその手先となって国鉄の分割民営化を強行した者に対して、心の底か
らの怒りを覚えると同時に絶対許さないと誓いを新たにしました。
 JR発足後闘争団支援のラーメンを誰よりも沢山買ってくれたのも彼でした。「心は金で
買えない」とよく言いますが全くそのとおりだとおもいます。
 「お前ら誰や。何しに来た」JR発足当初国労の三役が挨拶に行った時の和歌山支社の
態度です。それから一五年「脱退を強要するな」「不当労働行為はやめろ」と支社に抗議
のデモをかけたのも一回や二回ではありません。
 地域の仲間の協力を得てトイレの無い電車や突発便問題では大きな成果をあげました。
今年(二〇〇一年)の賀詞交換会では「一致する問題では一緒にやりましょう」と西労組
の委員長とも握手をかわしました。職場では要求が渦まいています。西労組の人とも必ず
統一が出来ると確信します。共に頑張りましょう。


         


県地評の思い出 井笹 浄子

 五十周年おめでとうございます。
 日赤労組は一九四七年に結成され、厳しい医療闘争の中で数々の権利をかちとって来ま
した。特に先輩達の保育所運動は、県地評の婦人部のみなさんと共に何度も県議会に請願
に行く等、二十五年余かかって現在のあすなろ保育所が設置されました。
 ここ十数年の医療の変化はめまぐるしく、高度化、複雑化される中、看護の密度も濃く
人手不足は慢性化し、職場では矛盾や不安は増大しています。
 一九八八年私達は、第三次救急救命センターの充実、看護婦増やして、働き続けられる
環境をつくる等の要求を掲げ五万人署名運動を展開しました。一方病院当局の攻撃は露骨
になり組合敵視政策は功を奏していました。
 私たちはこのままでは職場を守れない、患者さんを守れないと、一九九二年地方労働委
員会の提訴にふみきりました。差別に泣きねいりせず、人間として正当に評価される権利
を主張しよう、組合員として、一人一人の労働者が生き生き働く事のできる職場を作ろう
と。
 このたたかいは五年八ヵ月に及び、和解作業は九ヵ月かかりました。終結するにあたっ
ての議論は今でも忘れることはできません。「組合とはなにか」を一人一人が答えを出す
必要がありました、闘いを始める前よりエネルギーのいる事でした。その時の議論が今の
私たちを支えていると思っています。
 苦労もありましたが、人間として生きる事、人の痛みがわかる事など感動した事の方が
多く、たくさんの事を学びました。そして合理化をすすめ、内部留保をつくる当局の経営
姿勢を明らかにする中で、医療労働者としての責任も痛切に感じました。
 このたたかいの中で生まれた夏まつりも地域の人たちの応援をうけ、今年八回目を迎え
ます。勇気をもって立ち上がった申立人と、支えていただいた市野先生、小野原先生、争
議団のみなさん、民主団体のみなさん、地区労・県地評傘下の労組のみなさん、医労連全
日赤の仲間のみなさんの力が一つになった闘いとして、誇りに思っています。
 たたかいを終えた後、少しずつですが要求を前進させ、組合の存在をアピールしていま
す。「たたかえば道は必ず開ける」ことを肝に銘じ今後も力の限り頑張りたいと思います。

                                        
         


不当労働行為をはね返し大きく成長 里崎  正


 和歌山県地方労働組合評議会結成五〇周年おめでとうございます。
 一九八九年、和歌山県地評が再生し、新たな階級的ナショナルセンター「全労連」が結
成されました。その翌年、一九九〇年九月二十二日、私たちも和歌山県地評への加盟を採
択しました。当時、来賓の挨拶を頂いた県地評の雑賀事務局長が加盟特別議案を見て「加
盟してくれるんや。うれしいな、そんなこと知らなんだよ」と、さっそく加盟の手続きを
いただいた記憶があります。
 加盟に対し慎重な意見もありましたが、財政的基盤も整え、湾岸戦争の中で、自衛隊の
海外派兵が議論されている情勢の中で、くらしを守る立場にたち他の産業の労働者と連帯
の立場に立つ事を議論し、皆の合意を得る事ができました。
 長時間労働の中で職場に隔離されていた青年労働者が、県地評・地区労に常に結集する
中で、「車両通勤禁止問題」、「店舗開店に向けたボランティアの強制問題」、「残業の申告
制度の問題」など、労組執行部への対する不当労働行為を跳ね返し、大きく成長させてい
ただきました。本当に、ありがとうございます。
 消費不況の長期化で、生協では赤字経営となっています。この中で、総額人件費を削減
する構造改革が、人員の削減、パート化、委託化としてどんどんすすめられてきています。
職場では、過密労働やサービス労働の横行でゆとりがなくなっています。労働者の悩み、
不安、あきらめを、労働組合として真正面から受け止め、性急な改革の強行に対しては、
毅然として対応していく決意です。
 また、「働くルール」を確立し、労働者への犠牲転嫁を許さない闘いを県地評の一翼と
して担えるように奮闘していきたいと思います。


         


対話から本格的共同への息吹 松江  仁

1,全労連の総対話と共同十万人オルグ大運動の提起にこたえて

 一九九七年全労連第十六回で「総対話と共同・十万人オルグ大運動」が方針として掲げ
られました。和歌山県地評は同年八月末の定期大会で九七年春闘で取り組んだ大規模アン
ケート運動の取り組みの経験のうえにたって、「職場・地域での切実な要求結集とあらゆ
る労働者・労働組合との共同を広げるために、全組合員参加の職場労働組合運動の確立を
の取り組みを基礎に、組合員十人に一人の活動家づくりに取り組みます」との方針を決定
しました。この方針に基づき十月には、一九八二年以来実施している国民要求実現和歌山
県大運動実行委員会の全県キャラバンを行い、一九九八年二月には労働法制と医療制度の
改悪に反対する初めての春闘キャラバンを実施しました。これらの取り組みをつうじ、十
万人オルグ大運動についての議論を重ねてきました。その中では、支部・分会の役員とオ
ルグとの関連はどうなるとの意見もあり、九八年の定期大会では、未加盟組合などへのオ
ルグを中心として、和歌山地区労三十人、その他の七地区労各十人のオルグ集団の確立を
めざすとの方針を掲げてきました。以後、年二回の全県キャラバンを実施し、毎回県下八
地域を八日間の日程で、毎日県本部役員十人程度、各地域の地区労役員を中心に五〜十五
人の参加で、二〇〇〜三〇〇〇の未加盟労組を訪問し、「要求アンケート」やその時々の
課題での署名への協力、地労委委員の推薦依頼などの協力を訴えてきました。
 二〇〇〇年六月の和歌山県内の雇用労働者数は三五万二二〇〇人、組合員数六万八〇五
八人、うち県地評一三三組合一万三一八五人、連合三一〇組合四万一九九九人、その他の
上部組織八九組合六九九七人、上部組織無し八九組合六〇四〇人(県商工労働部調べ)と
なっています。この間の取り組みの中で、署名や学習会への参加など何らかの形で協力し
てくれた組合は八〇組合にのぼり、そのうち連合加盟組合は二七組合です。連合を含めた
全ての未加盟の一六・三%、連合を除く無所属組合では二九・七%にあたります。

2,組織の壁はなくなりつつある

 二〇〇一年春闘キャラバンでは、「働くルール確立署名」への協力を中心に、一〇九人
の参加で一五九組合と九〇カ所の事業所を訪問しました。働くルール署名への協力要請で
は、検討させてもらいますとの回答はあっても、拒否する労組はほとんどなく、ある連合
加盟の役員は後日地区労に電話があり、「署名用紙が足らないのでもっと送って欲しい。
良いことなので連合加盟労組にもっと持っていくべきだ」と激励されました。毎年二回の
キャラバンでの訪問により、要求の切実さや組合運動の厳しさなど同じ労組役員としての
苦労話しなどが取り交わされるようになり、メーデーでのお互いのメッセージの交換や民
間労組交流会など対話から共同の取り組みへと発展しつつあります。現在までに働くルー
ル署名は十六組合より五六〇筆返送されてきています。
 また、このキャラバンではサービス残業根絶や大企業の民主的規制などの問題で労働組
合のない中小企業の経営者訪問を行いました。医療・福祉関係を含めて全県で九〇事業所
を訪問、企業の海外進出による逆輸入や不況による経営の厳しさなど話しがはずみました。
新宮市の地場産業である木材会社の社長は、訪問した自治労連単組役員に対し、今後の木
材産業のあり方や市のあるべき方向など二時間も話しつづけ、ある地域の従業員一〇〇人
を擁する食品会社の女性社長は、商社がインドネシアに子会社をつくりその分売り上げが
減少した、苦しい中賃上げをしてきたが、赤字を出せば融資を止められるし、今年の賃上
げをどうしようかと悩んでいると率直に語りました。各地域の参加者は、地域の経営者と
親しく話しをするのは初めてであり、自分の住む地域産業の実態を知るよい機会になった
と感想をはなしていました。今後地場産業や地域経済問題についての住民運動を組織して
いく上で大きな意義をもつ取り組みとなりました。

3,固定したオルグで頼りにされる地区労に

 和歌山地区労(組織人員約四〇〇〇人)では、県地評の方針をうけて、地区労常任幹事
や専従、単組役員など三〇人が和歌山市内の未加盟三〇組合を分担、一組で二〜三単組を
受け持ち系統的に訪問活動を行っています。署名への協力要請や集会・学習会への案内な
どを行う中で協力組合が増え、いざとなれば地区労に相談に来るという状況が生まれてき
ています。紀北信用金庫労組は破綻・吸収合併という状況の下で県地評に加盟、地労委に
仲裁裁定を求めるなどの運動を行い組合主張をほぼ取り入れた裁定を勝ち取りました。ま
た。地元資本の自動車販売会社が自己破産し、当該労組が地区労に加盟、団体交渉等を重
ねるなかで退職金全額支払いを実現しました。このように、何事かあれば地区労や県地評
に相談をという状況が生まれてきていますが、企業閉鎖などに至る前に加入を促進する取
り組みが求められます。
 また、この固定したオルグは、国労は関連労組と私鉄、教組は福祉施設、医労連は病院
労組、市民生協は流通関係、建交労は運輸関係と分担しており、産別でも共同が広がりつ
つあります。医労連が和歌山市内の病院労組懇談会を開催したり、市民生協労組が百貨店
労組とパートの組織化問題で交流するなどの取り組みが生まれています。

4,本格的共同の追求へ

 この間、地域を中心とした取り組みとあわせて、県地評加盟の各産別でも未加盟組合と
の共同が前進してきました。三月県内のある地域で「市町村合併を考える住民の集い」が
開催されましたが、主催は自治労連加盟の市職と隣接する自治労加盟の三町職実行委員会
でした。当日は自治体労働者をはじめ各議会の議員や一般住民など一九三人が参加し、熱
心な討論が行われました。これは役職加算などの賃金問題に始まり、ゴミ処理の広域化な
ど一自治体労組では対応できない課題が増大し、問題解決のためには地域的な共同が求め
られていることを示しています。この市職ではねばり強く近隣町職に働きかけ、内部の情
報交換を中心とする交流を積み重ねながら、堂々と住民に参加を呼びかける集会を開催す
るところまで共同を発展させてきました。また、県農労連では、従来から県内三〇をこえ
る単位農協労組すべてに、賃金闘争を中心とする働きかけを行ってきました。数年前から
単位農協の合併がはじまり、賃金体系や労働条件の統一問題をめぐって指導を求められ、
そのなかで農労連加盟を実現してきました。昨年秋にも一地方の合併にともない、二一二
人の合併労組が一括加盟しました。加盟に至らなかった合併農協労組でも、加入はできな
いが「顧問料を払う」「相談料を払う」ので引き続き指導して欲しいと協力関係が強めら
れています。
 以上のように、対話と共同の運動は地域と産別が一体となった運動で前進しつつありま
すが、以下の方向で本格的な共同の運動を前進させる必要があると考えています。
 第一は、一致する要求の実現をめざす取り組みです。様々な課題で署名への協力など部
分的な共同を積み重ねてきましたが、これらを「働くルールの確立」や市町村合併・地方
行革問題などの課題で、無所属組合や連合加盟組合を含んだ名実ともに共同の運動として
発展させることです。
 第二は、県労福協の運動は新たな質的発展をしつつありますが、これは労働者福祉に限
られており、解雇規制や不払い残業の根絶、男女格差是正と地域最賃引き上げなど一致す
る課題での共同闘争に発展させることです。
 第三は、これらの取り組みを通じて、一七八組合・一万三〇三七人にのぼる県地評・連
合未加盟組合の県地評・地区労や産別への加入をダイナミックに推し進めることです。
 第四は、これらの取り組みとあわせて、真の共同を前進させていくためにも地労委委員
をはじめとする各種委員の連合独占という状況を改善させることです。
        (「労働運動」二〇〇一年十月号より転載)


         


編 集 後 記

 県地評五〇周年にあたり「五〇年史年表・写真集」と「たたかいの記録」を出版するこ
とを計画しました。「年表・写真集」は、四月に発行できましたが、「たたかいの記録」
がおそくなりました。
 前半は一九八〇代に「和歌山民報」に連載された「語りつぐ労働運動」から転載させて
いただきました。「和歌山民報社」のご協力にお礼申し上げます。ページ数の関係で、お
一人で何回か執筆されたものは、一文にさせていただきました。後半は、新たに執筆をお
願いしたものです。
  今回の出版とあわせて「県地評ホームページ」に掲載したいと思います。それなら、「語
りつぐ労働運動」で割愛させていただいた手記も掲載できるでしょう。また、その後のた
たかいの記録も、掲載していったらどうだろうかという思いを申し上げて、原稿集めの詰
めの甘さのお詫びに代えたいと思います。
                (雑賀光夫・滝 寿行)