編集・発行 雑賀光夫
このホームページは和教組のホームページが開かれれば大部分不要になりますが
個人でお書きになったものを紹介するのにおいていたほうがいいかもしれません。
E-mail:
saikam@naxnet.or.jpお手紙ください
「和教組70年代から80年代へ」
和教組の歴史と資料
1、田中書記長「経過報告」について
2、田中書記長「経過報告」(まだはいっていません)
和教組結成五十年を迎えて(1)
勤評前後 池田孝雄
和歌山の勤評闘争 池田孝雄
1、田中書記長「経過報告」について
雑賀から故田中元書記長の息子さんへ
|
先日、電話しました田中先生の原稿をお送りします。
はじめ日教組大会での発言原稿かと思い、それにしては長すぎるとも思っていたのです
が、表紙を読み返してみて、和教組大会での経過報告原稿だとわかりました。私が貴重だ
と思ったのは、はじめの数頁です。
このとき、和教組は日教組の全国統一行動を独自判断で戦術ダウン、いまの水準からい
えば「画一的戦術はあやまり」ですから、県内情勢の判断によっては当然あってもいいこ
となのですが、当時の日教組内では許されないことだったのです。戦術ダウンすることは、
すこし前まで日教組の中執であり平垣学校(左派・統一派)の級長といわれていた田中先
生にとって、日教組で決めてきた戦術をダウンすることは耐えられないことであったらし
く、「書記長をやめさせてくれ」とまで言われたそうです。
しかも、県教育委員会は、参加者全員に戒告処分。日教組の救援を受けなくてはならな
いことになります。
そこで、田中書記長は、日教組大会で自己批判演説をするのです。目を真っ赤にして…
…とも聞きました。そして、和教組の代議員は、夜は各県の宿舎をまわって、和教組への
救援を認めてもらえるように頭を下げてまわったといいます。
当時の日教組・和教組運動の歴史的制約の中での歴史の一こまには違いありませんが、
ぼくは、青年部のころ支部の書記長としてこの日教組大会に参加してきた吉川先生からも、
本部にきてからは西山嵩子先生からの何度も聞かされた、和教組の歴史の中で忘れられな
い一こまです。しかも、「画一戦術」というのは、歴史的限界といえる弱点をもちつつも、
それをめざして頑張る中で和教組はその後闘争力を強化していきました。
私はよく「勤評闘争の教訓とよくいわれるが、それとともに60年代の和教組の組織の
たてなおしと闘争力強化の教訓から学ぶ必要がある。」と言ったことがあります。その中
心点は、1987年和教組大会議案「和教組四〇周年の年」に簡単にまとめておきました。
こんな思いから、先生の原稿を活字にしたいという思いにかられるのです。これをワー
プロに打っていただいたら、この資料を核にして、田淵先生や西山先生にも何か書いても
らって、簡単な冊子でもつくりたいものです。和教組の事業ではありませんので、さしあ
たり手作りの物にしかなりませんが……。そのときは、この手紙をそのまま、冊子の前書
きに使えると思いながら。
田中先生
近く入れます
【座談会・1996.1.12開催】
和教組結成五十年を迎えて(1)
北条 力(元和教組書記長)
田淵史郎(元和教組委員長)
辻橋美代子(元和教組婦人部副部長)
川野 武(和教組青年部常任)
司会 雑賀光夫(和教組副委員長) (敬称略)
■ 敗戦前夜から、和教組の結成へ
雑賀 ご苦労さまです。きょうは和教組の先輩のみなさん方にお集まりいただき、
「和教組結成五十年」ということで座談会を開かせていただきました。わたしは和
教組副委員長の雑賀ですが、司会をさせていただきます。限られた時間ですので、
大事なところ、ポイントのところで、教訓が深められるような座談会にできたらと
思っています。
教職員組合の結成には、あの侵略戦争で教え子を戦場に送ったという反省からス
タートしたのでしょうし、その当時の切実な生活の問題があったと思うのです。そ
して『和教組四十年の歩み』のなかにありますが、ある支部の結成趣意書のなかに
「昭書の御趣旨にのっとり」とあるように「国体護持」という皇国史観をひきずり
ながら結成されたということも聞いています。
和教組が結成されたのは、ここにお集まりの先生方が教職につかれた前後の時期
だと思うのですが、その背景や体験を含めてまずお話いただきたいと思います。で
は北条力さんからお願いします。
北条 ぼくが教師になったのは昭和十八年(一九四三年)で、十八歳でした。その
頃は、みんな兵隊にとられて、教師が不足していました。新任式はお宮の境内で行
いました。ここにも神道主義・軍国主義があらわれています。その頃は、体格のよ
い子を予科練や満蒙開拓義勇団へ志願させるという指導が行われていたのです。終
戦間際には、予科練が学校に寝泊まりし白浜の海岸にタコ壷を掘っていました。こ
うした状況をみてぼくの親父らは「もう日本あかんな」と言うていました。その頃
には大阪から、空襲で焼け出された子どもらが疎開してきていました。終戦になっ
てホッとしました。
教師をしていていちばん辛かったのは、教え子たちの親が戦死し村葬をやったこ
とで、三十歳前後のお母さんが戦争未亡人になり母子家庭になったのです。
その頃の教師の月給では、米三升買えませでした。「弱きもの、汝の名は教師な
り」と言われていました。金儲けでよかったのは、塩焚きで、焚いた塩やサンマを
大阪の闇市へもっていくとええ金儲けになったのです。欠食の子どもも多くいまし
た。
こうした社会状況のなかで、和教組西牟婁支部の結成総会が朝来小学校でもたれ
ました。役員は、校長さんが中心でした。当時は、教育会の力が強く師範学校を出
てないと校長になれなかったのです。青年部では「助教の会」をつくって、身分保
障や教育界の民主化運動にとりくみました。そして初等科訓導の資格をとるのに組
合が力をいれてくれました。産休補充を義務づける運動や生理休暇制度にも組合の
婦人部を中心にとりくまれました。
雑賀 田淵史郎さんは、大阪から日高に来られたと聞いていますが。
田淵 ぼくは戦時中、ずーっと大阪に住んでいました。敗戦のときは、旧制中学の
五年生でした。本土決戦に備えて、日本刀をもって防空壕に逃げるという生活だっ
たのです。そんなある日親父が「この戦争負けるかもわからん」と言うたことに対
して、「日本は絶対に負けへん」とくってかかったことを思い出します。侵略戦争
などという疑問は全くもっていなかったし、日本は必ず勝つと信じきっていました。
小学校の頃に日中戦争が始まり、中学校二年生の時太平洋戦争に突入したのですが、
ぼくらが習った小学校一年生の教科書には「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」か
ら始まり、「ススメ、ススメ、ヘイタイススメ」が出てきて、中国(当時「支那」
と呼んでいた)のどこどこを占領したというては、日の丸の小旗をもって「万歳、
万歳」と言いながら旗行列をやりました。そうした教育が行われていたのです。国
家によって統制されたときの教育というものの恐ろしさを自分の体験を通して実感
しています。敗戦をなって、それまで心の支柱になっていたものが崩れ去り、何を
信じたらいいのかどう生きていったらいいのかボーっとした日々が続きました。そ
こで勉強したら何かわかるだろうということで進学しましたが、親父が定年退職し、
貯めていた金が封鎖になって五百円しか引出せない、物価はどんどん上がっていく、
持っていた土地や着物を売っての生活という状態のなかで、アルバイトをやって学
資を稼ぎました。そして農林省関係の職場でアルバイトをしていたとき、そこの組
合の分会長から西田哲学の話を聞き、哲学に興味をもつようになり唯物弁証法・唯
物史観を知り、今でいう科学的社会主義の独習をしました。
雑賀 つづいて辻橋さんお願いします。先程北条さんの話のなかに女性教師の権利
の問題として産休制度のことが出ていましたが、そのことも含めてお話して下さい。
辻橋 わたしは、戦前六年間小学校の教師をし、軍国主義教育を一生懸命やりまし
た。ある日元軍人がやってきて、血染の軍服を出し大声で「これは日露戦争の時に
着ていた服だ。こんなになっても生きている」という話を子どもたちにしたのを思
い出します。壇上からとびおり「分かったものは手をうて」というと、子どもたち
は一斉に拍手をするのです。わたしは、そんな教育に手を汚してきました。六年間
で教職を辞め、結婚して大阪で暮していたのですが、大阪大空襲にあい終戦の年の
三月に和歌山に帰ってきました。八月十五日終戦になったときは、正直ホッとしま
した。
再就職したのは、一九四九年(昭和二四年)でした。二年間幼稚園にいて、一九
五一年から小学校の教師になりました。夫が病気になりわたしが一家の生計を支え
なければならいということから小学校の教師を希望したのです。教育委員会の内示
は、当時は泊り込みで行かなければならないような伊都郡の僻地の天野小学校だっ
たのです。家族会議で話し合った結果、発令の前夜十一時三十分の回答期限のぎり
ぎりにΟΚの返事をしました。ところが翌日の異動発表では、自宅からほん近い紀
見小学校に発令されているのでした。組合の書記長さんと婦人部長さんが夜を徹し
て教育委員会と交渉して変更して下さったのでした。組合というものの有難さ、組
合とは何かということ知りました。
ところで産休制度の充実の問題ですが、この運動はわたしより年上の方々でやら
れたのですね。和歌山県では運動の成果として、産休の日数が国が決めた日数より
一日多い時期があったと聞いています。とくに産休補充教員の義務設置では、長い
年月の厳しい闘いがありました。戦争中分娩の前日まで勤務したことを思うと隔世
の感がします。
雑賀 戦争体験のこと、戦後すぐの学校の様子や教師の生活、そして教職員組合結
成に関わっての話がありました。そこで結成当時の組合は校長が中心で国体護持と
いうことがなお言われていたということですが、それに対して若い教師たちが、教
育界を民主化するという下からの新しい運動をはじめてきたということですね。
■ 二・二一ストから勤評闘争にでー西川事件、七・一八水害、偏向教育を経てー
雑賀 和教組の結成から勤評闘争までの間に、いろいろな出来事があったと思うの
です。二・二一スト、責善教育の始まり、西川差別事件、さらには偏向教育など、
その間の和教組運動における大事なポイントとなるところを少し出していただけま
すか。
北条 西牟婁支部でいえば、二・二一ストのときに全員集会をもったのですが、日
曜日に僻地からも、みんな手弁当で集まりました。集会は「ストて何なよう?」と
いうこから始まり、「うちの学校でヤギ飼うてんねけど、エサやってもあかんの
か」などの大論議のすえ、満場一致でスト突入を決定しました。
雑賀 ヤギにエサをやったらストやぶりになるのかということですか。
北条 そういうことです。そのときの日教組委員長は岩間正男さんでした。ストが
中止になったとき、伊井弥四郎さんがアメリカ軍にピストルを突きつけられながら
「一歩後退、二歩前進」と放送したのが忘れられません。あのときは、ストに対し
て親たちがどうのこうの言いませんでした。親たちも生活に困っていたし、教師の
生活をよく知っていたからです。
田淵 ぼくはその頃、まだ教師になっていません。就職したとき、月給だけでは食
えんので、ヤミをやったり内職をしたという話は聞いています。また組合を結成す
るとき、天皇制護持をつよく主張したのは日高支部だったということも聞いていま
す。
初めて日高支部の大会に参加したとき、椅子の上にたったりして大論議をしてい
ましたが、それは書記長選挙で争っていたのだということでした。当時は、組合と
教育委員会とで人事審議会いうのをつくり、そこで人事を決めるという仕組になっ
ていました。だから組合の意向が人事に強く反映していましたが、同時に不満人事
に対して、組合の書記長が説得するということもあったのです。ここでは書記長に
なることが、校長への近道であったのです。
ところでぼくが教師になった一九五十年は、朝鮮戦争が始まる年でレットパージ
の嵐が教育界に吹き荒れていました。ぼくは二年目に農村の学校に転勤しましたが、
そこで社会クラブの夏休みの宿題に農家の経営問題についての調査をさせました。
一年間の農産物の生産高を計算し、そこから肥料・農機具代・労働時間に見合った
賃金などの経費を差し引くと、すべての農家が赤字経営だという実態で、一家総労
働で生活を支えていました。それを和教組日高支部の地区文化祭に出展したところ
入選しました。冊子にしそのあとがきに一言「警察予備隊(自衛隊の前身)に出す
金があるなら、農家のために出したらどうか」と書いたのです。それが偏向教育だ
と県会の本会議で取上げられました。校長と一緒に県教育委員会の呼出しをうけ、
村上五郎教育長から「今後こんなことのないように注意してほしい」という文書
(口答訓告)が読上げられ、三月末に配転となりそれで終わりとなったのです。村
上教育長というは、レットパージに抵抗した人だったのです。わたしはこれを契機
に青年部活動に参加することになりました。
北条 和教組は、議員や教育委員などの選挙活動にも積極的にとりくんできました。
そこで教員の政治活動を規制するためにつくられたのが政禁法であり、そのあと教
育委員の公選制をやめ任命制にする法律がつくられたのです。
ところで偏向教育というと西牟婁では、『月報』編集長としてここにいる吉川薫
雄さんの社会科実践「働く人々」があります。
雑賀 吉川編集長、飛び入りでちょっと説明して下さい。
吉川 よろしいですか。あれは池田・ロバートソン会談(一九五三年十月)をうけ
て、教育二法案による教育の国家統制に向けて文部省が、京都の旭ケ丘中学校の実
践や山口の日記事件など偏向教育とする二四の実践事例を発表した(一九五四年三
月三日)のですが、そのなかの一つとなったものです。それは、子どもたちが地域
に出向いていって、山林労働や川がえ工事などに従事している人々を含め、色々な
職種の労働者の賃金や労働条件を調査し、それをもとに日本の労働者の労働実態に
せまり労働組合運動を含めての六年の社会科における実践だったのです。たまたま
助教諭の先生方の認定講習での公開授業でこの学習をしたのです。そこには県教委
の指導主事や地教委の委員長も出席していて、県の主事さんからは「山びこ学校」
のような教育実践だとお褒めいただきました。ところが和深村教育委員会の委員長
は偏向教育ということで文部省に報告し、文部広報で紹介され商業新聞で報道され
たのです。組合職場分会は、ただちに抗議行動を起こし、この問題が協議される教
育委員会協議会の傍聴を申入れました。協議会では、西牟婁教育事務所の栃崎博孝
指導主事さんが「この実践が偏向教育だというのなら、いまの教科書はすべて偏向
教育となる」と言って、和深村教育委員会の姿勢を厳しく批判したのでした。県会
でも村上教育長が「偏向教育ではない」と言明し、さらにはΡΤΑ総会でも「偏向
教育ではない」として教育二法案反対の決議を上げたのです。この闘いのなかで旭
ケ丘中の生徒たちから激励のハガキをもらいましたが、うれしかったですね。
雑賀 勤評闘争の数年前にそういう教育をめぐる反動攻撃との闘いが熾烈にやられ
ていたということですね。
ところでそのまえに、西川事件や七・一八水害があったわけですね。
北条 西川事件や水害の闘いのエネルギーが、勤評闘争へ結集していったのです。
雑賀 先日書記局で西川事件の話がでたとき、「西川事件て何よ」というのですね。
この西川事件について、北条さんから話してくれますか。
北条 和歌山県の同和教育は、非常に早い時期からやられてきました。ぼくの子ど
もの頃からやられていました。小学校の五年の頃、農家の蚕室でソロバンを教えて
もらいまた。夜学でした。ぼくが教師になった頃にも先生方が同和地区に出向き、
学校にこれない子に本読みを教えていました。お母さんたちには、タビの縫い方を
教えたりしていました。そして三月十四日が同和の日だったと思います。毎月十四
日には同和の話をしてくれまた。話の内容は直接部落問題ではなかったですが、童
話を読んだりして「仲良くしよう」というものでした。
ところで和教組は、同和(責善)教育を教育委員会に任せていたらあかんという
ことで加太大会で組織内に責善部をおくことを決め、初代の責善部長に松本新一郎
さんを選びました。ここから同和問題が教師にとって重要な課題となっていったの
です。西川県会議員による差別発言が大問題となりました。これが西川事件(一九
五二年二月二七日)です。県会議員を辞職せよといっても聞き入れず、同盟休校を
やりました。
雑賀 七・一八水害(一九五三年七月一八日)は、その翌年ですね。
北条 七・一八水害の救援活動には「和教組」という腕章をまいて参加しました。
美山村や塩屋へいったが「和教グミさんにはてたわさん」と言う。組と書いていた
のでヤクザと間違えられたりしました。和教組というのはおもしろいところで、学
校が焼けても救援隊をだしたり、子どもの非行問題を取上げた紙芝居をもって地域
に入ったり、あるいは中学生を対象にリーダー講習会を開いたりしてきたのです。
このように和教組は、地域活動に積極的にとりくみ地域住民との結びつきを大事
にしてきましたが、これが勤評闘争で大きなエネルギーとなったのです。さらに和
教組は、地評などの他団体の役員を積極的に引き受け地域の労働者との交流が深か
ったことも勤評闘争の力となりました。そしてこの力が七者共闘における中核とな
ったのです。
雑賀 青年部の川野さんは聞くばかりで申し訳ないが、もうすこし聞いて下さい。
勤評闘争のエネルギーは、突然生まれたのではなくそれまでの活動の蓄積があつ
たということですね。それではここで勤評闘争へ話をすすめたいと思います。
■ 勤評は、戦争への一里塚
北条 勤評は、はじめに愛媛で実施され、それが全国にひろがりました。池田・ロ
バートソン会談をうけて出されてきた政策の一つで、教師を骨抜きにし政府の言い
なりにしようというものでした。和教組は「勤評は戦争への一里塚」であり「勤評
は責善教育を破壊する」ととらえて闘ったのです。
田淵 勤評闘争では十か月の間に、全一日のストが一回、三・三・四割参加の三日
間ストが一回、半日(正午授業打ち切り)のストが二回、午後三時授業打ち切りの
ストが三回というようにストライキを七回もうっています。この闘いのなかで感動
したのは、女性の先生方の断固闘う姿でした。何回もストを重ねていくなかで、校
長や教頭が組合を脱退し中堅クラスが動揺し始めるのですが、女性の先生たちは動
揺しなかったのです。乳のみ子をかかえた困難ななかでも決められた活動をやりぬ
き、普段はハデなことを言わないがいざ組織をかけて闘うとなるとすばらしい力を
発揮したのが女性の先生方だったのです。
北条 勤評撤回を要求しての連日連夜の集会・デモに対して、右翼がトラックの上
からし尿をまくのです。それにもひるまず闘ったのが勤評闘争です。右翼からの団
体交渉にも毅然として対応し、右翼をして「てめえらには負けたよ」言わしめまし
た。
雑賀 勤評闘争の前段での「教育を守る県民集会」には、臨時列車を走らせたと
か?。
北条 国鉄の労働組合の協力で「どんぐり列車」という名で東牟婁から臨時列車を
走らせたのです。この県民集会では、全国民的闘争に発展させることを確認しまし
た。
雑賀 勤評闘争の山場で「勤評反対・民主教育擁護国民大会」が開かれ、全国から
三万人が集まり、大会後大規模なデモ行進をやったということですね。それから勤
評闘争では、いつも「赤トンボ」のうたが歌われたということですね。
北条 それは県教委が「実施しない」という態度を翻して「実施する」としたとき
の団体交渉に機動隊を導入して、集まった先生たちをごぼうぬきで排除にかかった
とき、誰からともなく歌いはじめました。無念さ・哀しさ・怒りという複雑な気持
ちが「赤トンボ」の歌になったんだと思います。
雑賀 さきほど女性の先生たちの頑張りという話がありましたが、職場での女性の
先生たちの闘いについて話してくれますか。
辻橋 当時の女性の先生たちは、「校長や教頭の顔色をみて」ということはありま
せんでした。わたしのいた職場では、毎日婦人部の職場会を開いていました。わた
しは伊都の婦人部長をしていたのですが、婦人部長が担任している学級の子どもた
ちに少しでも肩身のせまい思いをさせてはならないということでいろいろと気をつ
かい、テストの採点までやって、わたしを支えてくれました。
北条 統一行動に行かせないということで、多くの学校で父母がピケをはりました。
そこでもつよかったのが女性の先生たちでした。デモや集会でも女性教師の参加が
多かったと思います。
田淵 闘う先頭には、いつも女性の先生がいたし、活動家がいました。同和問題や
解放運動、そして民間教育サークルで育った活動家がいました。青年部活動で育っ
た活動家がいました。
辻橋 勤評闘争では、ストが続くなかで戦力が弱くなっていきました。それで毎日
毎夜のようにオルグ活動がつづけられ、婦人部もオルグに出ました。
田淵 勤評闘争では、和教組関係だけでも十五名が逮捕され起訴され、また免職七
名、停職十七名、戒告十四名の行政処分をうけました。県教委は、免職処分をうけ
たものが役員になっている団体は不適法団体だから、団体交渉に応じない、専従も
認めないという弾圧をかけてきました。校長や教頭に対して「和教組から脱退せ
よ」という組織破壊の攻撃をしてきました。この過程(一九六一年)でいわゆる
「学テ闘争」があったのですが、情勢分析のあまさから、方針通り学力テストを拒
否したのは橋本地区だけとなり、伊都支部では組織不信がおこり、組合脱退の攻撃
をうけ、和教組の組合員が、六千人から四千人に減りました。
■ 勤評闘争の教訓
田淵 勤評闘争は、多くの教訓を残しました。勤評闘争について学習を重ねるなか
で、「勤評は教職員の管理統制」にねらいがあり「職場を暗くする」という理解か
らはじまって、「教育の国家統制をねらう勤評反対」さらには「勤評は戦争への一
里塚」と言う自覚にまで発展しました。
教師(教育労働者)は、労働者としての要求と教育の専門家としての要求が統一
されたとき、はかりしれないエネルギーを発揮することを見事に証明した闘いでし
た。またストライキ闘争を重ねるなかで、労働者としての自覚が高まりました。し
かし同時にストライキの積み重ねだけでは、勤評を撤回させることができなかった
ことを知りました。父母との連帯、父母の期待に応える日常の教育実践の大事さを
知り、教育研究所を設立しました。また七者共闘で闘った勤評闘争の教訓が、統一
戦線で闘われた六十年安保闘争、七十年安保闘争にひきつがれていきました。
■ 教育会館建設の意義
北条 そうした困難な時期に、この教育会館を建設したのです。
田淵 会館の建設では、北条さんは立派でした。この頃の和教組は、闘争資金も不
足していました。だから会館の建直しには、いろいろと消極的な意見があったので
す。しかし北条さんは、そうした意見に対して「こんな時こそ、立派な会館を建て、
屋上に赤旗をかかげ、県庁と対峙する」といって譲らなかったのです。北条さんは
「いま和教組は苦しい。苦しいからこそ鉄筋の新しい会館を建て、和教組ここにあ
りということを示すことだ」と言いました。それでみんな賛成し、カンパを訴えた
のです。
北条 みんなよく耐えてくれたと思います。
雑賀 一九六十年代の宿日直廃止の闘いで組織は、組合員増に転じていくわけです
ね。
■ 教育互助会の運営をめぐってクーデター
北条 ここで一つ忘れてならないことがあります。それは教育互助会のクーデター
のことです。
雑賀 教育互助会のクーデターということはよくきくのですが、それはいつですか。
田淵 勤評闘争の翌々年の一九六十年でした。免職された幹部は互助会に入れない
といってきたのです。そこで互助組合運営審議会において、福井理事長ら教委側の
理事六名を解任し、高教組委員長の天野克巳さんを理事長にしたのです。
北条 教育互助会の影響力を考えたとき、その民主的運営をまもることが非常に大
事だと考えたのです。
■ 日教組の変質への怒り
雑賀 一九六十年代以降のことは時間の問題から後日にして、このあと日教組の問
題について話し合っていただきたいと思います。連合日教組は昨年の九月の大会で、
現行学習指導要領を容認する方針を決定し変節しました。戦後「教え子を再び戦場
に送らない」ことを誓い、平和と真実の民主主義教育の推進に大きな役割を果たし
てきた日教組であったと思うのですが、そうした日教組と和教組との関係などいろ
いろな思い出や今日の事態に対しての思いなど話し合って下さい。
北条 日教組は、高知大会・宮崎大会・岩手大会でその変質への過程をたどるので
す。ぼくは、日教組の歌「輝く朝の…」がものすごく好きでした。和教組が連合日
教組にいっていないことについて、和教組の若い人たちに感謝したいと思います。
もし和教組が連合日教組にいっていたら、きょうの「和教組五十年」の座談会はな
いです。連合日教組は、「日の丸」「君が代」に賛成しています。彼らの人間とし
ての良心、教師としての良心はどこへいったのかと言いた気持ちです。彼らは、戦
争になったらそれに協力していくでしよう。「教え子を再び戦場に送らない」とい
う誓が踏みにじられたことへの怒りが胸をしめつけています。
田淵 日教組は、サンフランシスコ講和条約や日米安保条約が締結されるあの時期
に、平和四原則を掲げて闘いました。総評を労働者の立場、平和の立場にたった労
働組合にするために日教組は、積極的な役割を果たしました。教育の国家統制に反
対し民主教育を守る面でも大きな役割を果たしてきたのです。それがころっと変質
しわけです。ここに日教組がもっていた弱点が出たと思います。その一つは、一党
支持であくまでも社会党支持に固執したことです。だから社会党が変質すると同時
に変質したのです。二つめは、機械的労働者論です。ストライキをうつことには積
極的でしたが、あくまでも機械的労働者論の立場からであって、教育を守るという
観点、教師のもっている専門性ということへの理解が弱かったということです。第
三には、反共ということから、統一戦線に対して背をむけ否定的な立場をとったこ
とです。
北条 和教組が日教組大会で闘った大きな課題は、政党支持自由での問題です。
田淵 和教組は、統一戦線による勤評闘争や六十年安保闘争の経験を通じて、他府
県に先がけて政党支持の自由の方針を打出しました。
雑賀 川野さんには、もっぱら聞いてもらったのですが、先輩たちの話を最近の青
年教師たちの活動と重ねてみて、感想めいたものでも出してくれますか。
川野 先輩たちがからだをはって闘争しいろいろな権利を勝ちとられてきました。
その上に今日のぼくらがあるんだということを実感しました。
子どもが生まれる前日まで仕事をしていた状況から今日の権利をかちってきたと
いうことを聞かせてもらって有難いという気持ちで一杯です。
いま県の青年部の常任をやっていて、授業が欠けたり学校のいろいろな行事参加
できないなかで辛く思うこともあります。でも今日の話を聞かせてもらって、もっ
としっかりせなあかんという気持ちになりました。
青年部の現状ですが、組織率が低下しています。若い先生で組合に入っていない
人も結構います。ボーリング大会でもをやって組合員を増やそうという話をしてい
ます。
先輩がかちとってきた財産を若いものが受け継いでいくために頑張ります。
北条 いま西牟婁で五十年の記念行事にとりくんでいますが、行事がおわったあと
の総括には、組合員を何人増やしたかを入れようと話し合っています。いま大事な
ことは、組合に引き寄せるのではなく、組合が相手の方に寄っていくことだと思い
ます。
■ 和教組の闘争力の回復
田淵 和教組は、勤評闘争から十六年後に全一日のストライキに圧倒的多数で突入
するという闘争力を回復し、十九年後には勤評和解で最高の内容(免職処分を事実
上撤回)をかちとりました。組合員も六千名となりました。このような闘争力を回
復してきた過程の教訓を話し合う機会をもちたいと思っています。
橋本小学校の井奥 先生が宿直中に何者かに殺害された事件が契機になって、
三年間にわたって日宿直拒否の闘いがありました。これは「宿直せよ」との職務命
令との職場での闘いでもあったのです。また一九六十年からはじまった公務員共闘
のストライキを含む全国的な賃金闘争が毎年続けられ、多くの教訓を残しています。
さらに県教委の人尊(同和)教育方針を廃案させる各地での闘いも大きかったし、
四八万人の署名を集め臨時県議会を開かせ三六学級の普通学級の増設をかちとった
教育連合の高校全入運動もありました。六十年安保、七十年安保は、当局を大きく
包囲する闘いであったのです。
こうした職場での闘いを基礎にしながら、地域での共同行動・全国統一闘争の積
み重ねが、和教組を鍛えてきたのだと思います。
雑賀 二回目の今日のような話し合いの場がどうしても必要だということですね。
北条 和教組が、権力と闘いながらここまで力を回復したことに誇りをもつことで
す。
■ 母親運動における和教組婦人部が果たしてきた役割
辻橋 ここで少し母親運動のことにふれておきたいと思います。和歌山県母親大会
も四十回になります。和歌山県の母親運動の中心になったのは、あの勤評を闘いぬ
いてきた和教組の婦人部でした。どんなに忙しくてもこれは手を抜くことはできな
いのです。この運動のなかで得た教訓は、地域に根ざした活動の重要性です。
雑賀 休憩もせず二時間半ぶっ通して話し合っていただきました。たくさんの教訓
的な話や現職の組合員への激励もいただき、中味のある座談会だったと思います。
でもまだ和教組の歴史の半分ほどを話し合ったにすぎません。このあとは編集部で
考えてもらうことにして、これで今日の座談会を終わりたいと思います。ありがと
うございました。
勤評推進の勢力
一九五八年六月三日、かねて和歌山県教委は七者共闘との間で「勤評の抜打ち実施はし
ない」という約束を破って勤評実施を決定した。五日、それまでにも何度となく不誠実な
態度を見せてきた県教委に対し、和教組の一斉休暇闘争をはじめ、共闘の各組織はハンス
ト、児童生徒の同盟休校(三日間)などの激しい戦術を展開した。
六日午後から和歌山市芦原隣保館で、七者共闘との徹夜の団体交渉では、勤評と責善教育
の関係をめぐって激しい論議が交わされたが、その間に教育庁の各課長や、委員の一人が
「勤評に疑問」を表明、共闘側の圧倒的な優勢のもとに、休憩に入ってた。
九日交渉の再開を前に、共闘側には責善教育と結んだ和歌山の実践をもってすれば、今日
こそ県教委から勤評実施断念の回答を引き出せるという期待も高まっていた。ところが西
川平吉教育委員長は「以後勤評に関する団交は打ち切る」と席を立ち、激高した共闘との
間に待機していた数百人の警官隊が割って入った。
後に考えればその前兆は早くからあった。教育論議でよろめく県教委を、かねて教組叩き
で著名な二、三人の自民党籍の県会議員が県議会で叱咤激励し、三月議会では給与条例に
勤評を盛りこんで支えたこともそれだったし、六月七日、和歌山県選出自民党国会議員六
人が連名で「(五月二二日の)総選挙に和歌山県では七五%の人びとが勤務評定を主張す
る自民党に投票」し「圧倒的多数が勤評に賛成している」のにそれを「阻止しようとする
事は天の声を恐れず県民多数の強い意思を不当に踏みにじろうとするもので教育者の良
識」を疑うとの声明を、九日、団交再開の日には和歌山県知事小野真次が、勤評実施のた
めに「私も及ばずながら積極的な努力を」という「県民の皆様へ」の訴えをそれぞれ朝刊
折込みで全県に配付したのも同様であった。
そして九日以降自民党を中心とした勤評実施、日教組・和教組粉砕の大合唱が県内各地で
沸き起こった。自民党青年部長玉置和郎(後総務庁長官、参議院議員・衆議院議員)がそ
の指揮をとったといわれる。
勤評の狙ったもの
自民党が正面に出てきた背景のひとつはかねて社会党の強力な地盤であった日教組の弱体
化であった。日教組はかねて国政から地方選挙まで選挙上手であった。一例を挙げると五
二年一〇月の総選挙に候補者を擁立できなかった和歌山第二区では、日教組中央執行委員
だった当時二八歳の辻原弘市を立候補させ、ベテランの世耕弘一に競り勝ち、以後長くそ
の一議席を維持し続けた。
日ソ国交回復と憲法改悪に政治生命をかけた鳩山一郎内閣(民主党)最初の国政選挙であ
る第四回参議院選挙で革新陣営が三分の一を占め、なかでも日教組は全国区四人地方区六
人を当選させ、五六年七月、憲法改正を重要な争点として打って出た総選挙では民主党が
第一党となったものの、再軍備反対、憲法擁護を掲げた左派社会党が前回の七二議席から
八九議席にと議席を伸ばし、改憲阻止に必要な三分の一の議席を占めたが、その影に日教
組の役割は大きかった。
この時期全国的に地方財政は困窮し、和歌山県でも教職員などの定期昇給は辞令だけ交付
されて実質の昇給は三ヶ月、六ヶ月、九ヶ月先でその間の昇給額は強制的に県に「寄付」
させられていた。愛媛県も同様で、五六年度教職員の賃金は「勤務評定」をもとに三割削
減を打ち出した。その愛媛県では教組が中核となって五一年の知事選で社会党の推薦候補
が当選し、国会議員の議席も四割は革新が占めるという革新色の強い県だったといわれる。
だから財政問題と教組潰しを絡めての勤評制定に愛媛県教組は「職場が暗くなる」「校長
の権限が強まり組織が分断される」と二年越しにねばり強く闘ったが、手段を選ばぬ権力
側の攻撃に屈し、教組は分断され、何時の間にか学力テスト日本一と保守層の激賞する県
になっていた。
再軍備と憲法改悪
少し遡る。五〇年朝鮮戦争が起きると直ちに日米支配層は日本の再軍備に着手した。しか
しまだ貧しかったわが国の再軍備は困難だったから、一口に言えば米国の余剰農産物を日
本が無償輸入し、その代金相当額を再軍備の費用の当てるというMSA協定を結んだ。そ
の交渉の過程で再軍備にあたって「いかなることがあっても武器をとってはならぬと教育
してきた教育上の制約」等四項目の障害を認め、「日本に愛国心と自衛のための自発的精
神が成長するような空気を助長すること」が課題と日米両国で合意された(池田ロバート
ソン会談『会議録』・同『議定書』)。以来再軍備と憲法改正を肯定する「空気を助長」す
る教育が自民党の長期的な戦略となった。
五六年三月、自民党は「日教組つぶし」と再軍備の戦略を結びつけて、国定教科書を狙
う「教科書法」案や教育委員を公選制から任命制に変える法案などいわゆる教育三法案を
準備、全国的に反対運動が燃え上がった。和教組も県地評など県内の民主団体と共に反対
闘争を展開、政府は五〇〇人の警官隊を議場に導入して教委法案を成立させた。教科書法
案などは廃案としたが、その後文部省令の改正などで事実上そのねらいを達した。
日教組が「勤評は戦争への一里塚」のスローガンを掲げたのは、勤評がこうした線上に
位置付けられたからであり、和歌山県教委は、如何に不誠実とそしられようと、教育論争
で完膚なきまでに叩かれようと、その実施を断念することは許されなかったのである。
ところで勤評闘争の大きな教訓は七者共闘であった。七者共闘以前、和教組は賃金闘争
などで和高教組、教育庁職組、県庁職組との四者共闘を大切にしてきた。
自民党政府は六〇年安保に備えて警察官職務執行法の改正案を衆議院に提出したが、警
職法反対国民会議がこれを阻止し、引き続き安保条約改訂に際しても安保条約改訂阻止国
民会議が結成され、県内でも各市町村段階に迄共闘会議が結成され、国民会議の全国統一
行動に参加し、多いときは三〇〇人を超える中央動員も行った。その背景に七者共闘の教
訓があったことは否定できなかろう。
だが安保批准は岸内閣の卑劣な手段で国会を通過したものの、岸内閣は瓦解した。その
後を受けて、かつて「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業の一人や二人死んでも」と放言
し、MSA協定の際には日本側の立役者だったた池田勇人が首相になり、吉田内閣以来の
強行路線を取らず、折からの高度成長の波にのって「所得倍増」をソフトに語り掛け、や
がて国民の間に抜き難い中流意識や、「金が万事」という意識を定着させていった。
そして他方では「人権」を強調して国民の意識の多様化を喧伝し、「無党派」が時流の
ようになって労働組合運動も著しく衰退し、組合員も大きく減じた。労働形態も大きく変
化して働くものの権利が十分保障されないパートタイマーやフリーターが増加していっ
た。こうした風潮と、かつて「日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような
空気を助長する」とした日米支配層の意図とは決して無関係ではないだろう。
勤評闘争以来四十余年、わが国の再軍備は進んだが、自民党政権は憲法問題をまだ実現
させていない。それどころか、自身の政党の基盤が怪しくなりつつあることはマスコミも
認めつつある。だからこそ教育課程、「君が代・日の丸」、「神の国」発言から教育基本法
改正等々、露骨なまでの文教政策が推進されようとしているが、それは一人その時々の内
閣の思いつきではなく、その底には憲法改悪を頂点とした一九五〇年代以来の一連の文教
政策の線上にあることは確かであろう。
二〇世紀後半のこの長いたたかいの主導権をこののちだれが握るのか、二一世紀初頭の
大きな課題であろう。
余談だが今、鳩山由紀夫氏は祖父一郎氏が率いたと同じ名の党を率い、同様憲法問題を
ソフトに説く。
勤評闘争前段
一九五六年六月一日教育委員を公選制から任命制に変える「新教委法」案は、南原繁東
大総長を始めとする二〇数大学の学長、六〇〇人を越す学者文化人、日教組を始め三〇団
体の反対を押しきって、政府・自民党が参議院議場に五〇〇人の警官を導入し強行可決成
立させた。この暴挙はわが国の憲法改悪を頂点とする一連の文教政策の出発点であった。
この年愛媛県では地方財政の窮乏を口実に任命制教委のもとで教職員に対する勤評が計
画され、激しい闘争が展開されたが、結局押しきられた。五七年二月後佐賀県教委も勤評
実施を決定、三・三・四割休暇闘争を闘ったがここでも押しきられた。
一方日教組は六月、第一五回大会を和歌山市で開催、勤評より賃金闘争を重視した運動
方針を提案、和教組は「父母は『敵』という言葉が使えるほど意識の高い先生を望むだろ
うか。子どもの頭をなぜてやる先生、このことを忘れては日教組への支持はなくなる」「現
場を忘れた中執の書いた方針案は読むに耐えない」と修正案を用意したが、賛成皆無で、
外野から保守系の和歌山県教育問題研究会が修正案支持を声明していた。
七月十二日、衆院文教委員会で辻原弘市議員(和教組出身)に内藤譽三郎文部省初等中
等教育局長は「勤評は実施しなければならない」と答え、九月二〇日、勤評実施に関する
文部省訓令を通達。翌日、県教委は地教委を通じて各学校長に勤評実施を通達、二五日、
日教組は最初の勤評阻止全国一斉職場集会を指令、和教組も参加した。
勤評への動きは急で、一二月一三日和教組・和高教組は勤評反対共闘会議を結成、県議
会では西川平吉教育委員長が「反対があっても勤評は実施する」小野真次知事が「勤評P
R予算は必要なだけとる」と答弁、二〇日、都道府県教育長協議会は文部省と緊密な連絡
のもとに「勤評試案」決定した。日教組は二二日臨時大会で、「こんにちの状態こそ民主
教育の非常事態であることを確認し、(略)ゆるがぬ団結と統一行動をもって勤務評定を
阻止し教育の権力支配を粉砕するため、ねばりづよく強力にたたかいぬく」と非常事態宣
言を発表し、阻止闘争強化のため臨時闘争資金五億円の拠出をきめた。
浸透する反対運動
年が明けた五八年一月一三日、両教組は県教委と団交を持ち、教育実践と勤評を結んで
県教委が答弁に窮するほど追及した。このころから各職場でも勤評と教育実践を結んで親
たちに訴える行動に出た。目の前の子どもの暮らしや教育の取組みと勤評を結び付けての
訴えは説得力があった。
二一日、和歌山市労働会館で開催された和教組第一四回臨時大会は、勤評絶対反対を堅
持し、最悪の場合は休暇闘争を含む統一行動で闘いぬくことを確認し、臨時闘争資金一人
一〇〇〇円の拠出を決定した。
二八日、朝日新聞は三十三年度予算に勤評調査費七二万円を計上していることを報じ、
二九日、県教委は両教組との団交で、「今後勤評の方法論については話し合うが是非論は
話し合わない」と表明、交渉は決裂した。
これに抗議して二月五日、両教組や解同県連は新宮市で県教委主催責善教育研究会(ワ
ークショップ)の拒否闘争を展開、県教委と「勤評問題は予算措置を含め白紙に戻して話
し合う」ことを確認した。
このころ県教委は高校の学区制を従来の小学区制から中学区制に変更し、五八年度入学
制から適用すると発表、県内の中学校連合PTAの怒りをかっていた。和教組も之に反発、
連合PTAと協力して二月九日「教育を守る県民集会」を和歌山市砂の丸広場で開催した。
今日のようにバス輸送などなかったから、国鉄労組などの協力で紀勢線、和歌山線ともに
臨時列車を仕立てて参加者を運んだ。参加者一万二〇〇〇人、大変な集会であった。紀南
からの参加は新宮発午前六時一〇分、弁当持参で東和歌山(現和歌山)駅着午後一二時四
五分、駅前から手に手に風船をもってブラスバンドの先導で童謡を歌いながら行進して砂
の丸に到着。集会終了後は和歌山(現紀和)駅を午後六時三十分発、田辺着午後一〇時、
その後夜行列車を待って新宮着はなんと翌朝午前五時であった。東牟婁地方の動員割当二
二〇人、西牟婁地方四〇〇人、高教組はこれとは別に組合員の動員を図った。
この集会の成功後、高校入試や学年末、人事異動等で勤評問題は休戦状態となっていた
が、三月二八日、県議会で自民党県議団が抜打ち的に県関係職員の昇給等は「勤務成績の
評定を参考にしなければならない」と給与条例を改正し県教委の後押しをした。
四月二二日、日教組は午後三時開会を原則とする郡市段階の要求貫徹大会を開催せよと
いう全国統一行動を指令。和教組はこれを実行するには地域によっては正午あるいはそれ
以前に授業を打切らなくてはならないから、二〇日の日曜日に振替授業を行い、二二日の
統一行動に参加するという修正案を用意したが、西牟婁支部は「振替交渉に費やすエネル
ギーを勤評そのものに費やせ」と再提案し、二二日午後三時市町村単位の行動で、全県一
斉に地教委交渉が行われた。
交渉に応じた殆どの地教委は、県が決定すれば実施しなければならないが、その前に教
組と十分話し合ってほしいというのが殆どで勤評については明確な意思表示が出来なかっ
たが、給与条例改正については一七地教委が遺憾の意を表明した。
緊迫する情勢
五月に入ると二〇日ごろ勤評抜打ち実施の情報が共闘側に伝わった。一三日には正式に
七者共闘会議が結成され、勤評実施の際、和教組は一斉休暇闘争、高教組は各職場代表の
ハンスト、解同・地評は子弟の同盟休校を確認。一四日教育委員会は勤評原案を決定する
ための委員会の予定だったが事務局案がまとまらず委員会は流会。十五日和大学生自治会
は勤評反対で学生大会。
一七日、両教組は教委と団交の予定だったが委員が姿を見せず、和教組組合員が和歌山
市内を駆け巡って夜遅く、京屋という旅館にいることを発見、組合員が多数押しかけたが
委員らは裏口から隣家に逃れて結局姿を見せなかったというとんだ「京屋騒動」があった。
二〇日、共闘の代表者との団交で教委は十七日の約束を破ったことを陳謝し、今後七者
共闘との交渉に応じる、本質論を討議する、抜き打ち実施はせず、地教委と十分話し合う
等を確認。
二六日には吉備町教委が「勤評は教育の邪魔になるから断固実施に反対」との意思表示。
二七日、最初の共闘との団交。県教委は「勤評が教育にマイナスということがわかった
ら其の時点で責任ある態度をとる」とする一方「給与条例で実施時期について制約を受け
るから約束を破ったと言われても困る」と発言。
二九日、二度目の団交で県教委は「勤評は教育効果を高めるために実施するものだから
責善教育を阻害するとは考えられない」という趣旨を文書で発表したが、それについて各
委員の意思統一が出来ていないことや、指導主事全員が勤評反対の意見具申をしているこ
とが明らかになった。次回団交を六月四日と決定。
六月三日、三度目の団交を控えて県教委は共闘側が「絶対反対」を唱える以上妥協の余
地はないと勤評実施を決定。世論も県教委の抜き打ち実施に批判が強まり、毎日新聞夕刊
は「非民主的な措置」と報じた。
激しい反対闘争
四日、高教組は各職場代表が、解同も和歌山市や海南市でハンストに入った。三日から
四日にかけて各地で地教委交渉が続き、有田市、広川、吉備、金屋各町が勤評反対、その
他県の態度を批判し、あるいは辞意を表明するところも続出したが、他西牟婁地方の各市
町村(除く江住村)太地、古座両町など態度を決しかね困惑を深めた。
五日、共闘はそれぞれの計画通りの闘争に突入、和教組は日高郡内の一部などを除いて
九五%の小中学校の教職員が休暇休暇闘争に入り、解同や県地評は三日間の子弟の同盟休
校に入ったため、小中学校の臨時休校も少なくなかった又和大教育学部の学生は八日まで
ストに入った。
五日夜、抜打ち実施以後行方をくらましていた教育委員が姿を見せ、団交が始まった。
六日午後三時半から会場を和歌山市芦原隣保館に移し、勤評と責善教育について論議が展
開され、和歌山市立西浜中学校卒業生の就職差別事件につき報告書を受取っていた宮井教
育次長が委員会にそれを伝えず、又それを承知していた委員の一人も何等解決への努力を
しなかったことが追求され、結局両人ともその態度を反省し、勤評への疑義を表明するに
至った。七日午後二時過ぎまで続いた団交で、教育委員会側の疲労は大きく、最終的に「抜
き打ち実施は謝罪する、勤評が差別を助長するとわかれば実施しない」という二点を表明
し、次回の団交を九日午後一時と決めて散会した。
日教組は全面的に支援すると表明し、文部省も調査のために職員を派遣した。あるいは
社会党が調査団を送れば同様自民党も調査団を送って、和歌山の勤評はもはや全国的な政
治問題化していた。そしてこのとき、共闘の指導者達の脳裏に「和歌山での勝利」の幻影
がちらついていたことは否めなかったろう。
八日、和教組は第一七回臨時大会、さらに強力な闘争で勤評阻止を誓い、大会終了後勤
評撤回要求県民大会(四〇〇〇人)を開催、共闘側は県議会が召集される六月下旬に、第
一波を上回る闘争を組んで一気に押しきろうと考えた。
再開された団交は、交渉の形式や、六日の委員の発言等をめぐって堂々めぐりとなり、
午後九時半、教委が団交打ちきりを宣言、と同時に警官五〇〇人が共闘の参加者の排除に
かかった。教育庁前の広場ではスクラムを組んだ参加者が「赤とんぼ」の歌を高唱しなが
ら、午後一〇時過ぎ涙とともに引き上げた。
この予兆はあった。七日団交の後西川委員長は記者団に「勤評実施の方針に変わりはな
い」と言い、同日朝和歌山県選出の自民党衆参両院議員六人の連名で「(五月の)総選挙
で和歌山県では七五%の県民が勤評実施の自民党に投票した」とビラを新聞に折込み、九
日には知事が「県教委を支持する」と同様ビラを配布した。あるいは内藤初中局長は「余
の信頼にこたえられるよう」と教育委員長に電報を送った。
そして一〇日から自民党の組織的な共闘攻撃が始まった。全県に宣伝カーが走り「丹頂
鶴の日教組」「日教組の御三家」と和教組、日教組へのアカ攻撃、教師のスキャンダル攻
撃等その激しさはすさまじかったが、その総指揮はのちに総務庁長官、当時自民党青年部
長玉置和郎がとったと言われる。
第二波闘争の展開
第一波闘争ののち和教組は組合員に「勤評反対」の小さな黄色いリボンを連日着用させ、
「七者共闘・責善教育・黄色いリボン」は和歌山の闘争の代名詞になった。
共闘は六月二三日から三日間第二波闘争に突入した。が闘争に反対する父兄の声が高く、
逆ストやPTA解散の挙に出るところも少なくなかったが、共闘側は歯を食いしばって闘
いぬいた。しかし和教組のスト参加者は七〇%台後半にとどまり、解同や地評の同盟休校
参加児童生徒数は県経済部労政課調では三日間延べ一万五〇〇〇人程度で、最も多かった
二五日でも九二校(二一・二%)七五五七人(三・九%)としている。
日教組は各府県教組に指示して多数の、オルグをおくり、二五日には全国統一行動とし
て午後四時までに市町村単位の「教育を守る集会」の開催を指令した。
高教組は第一波は二七人のハンストだったが、第二波は四・三・三割休暇闘争を展開、
和教組に比して参加者は多かった。地評傘下の交通関係労組も時限ストに参加、市民の足
に影響し、紀勢線では列車が何本か遅れるなど空前の大闘争となった。この日知事は共闘
代表と会い、「県教委との団交の橋渡しをしたい」と述べ、共闘はこれを了とした。
ところが二六日早朝、和歌山県警は和教組本部を始め県内七五箇所に数百人の警官を動
員して地方公務員法違反の容疑で家宅捜索を強行。共闘は知事の斡旋を拒否すると共に、
和歌山市を始め、各支部で抗議集会やデモが行われた。二八日夜も県内九ヶ所で不当弾圧
抗議大会が開催され、和歌山市ではデモ隊と警官隊が各所で小競り合い、両者がにらみ合
う中へ、右翼がデモ隊を挑発した。
民主教育県民大会
和歌山の闘争と相前後して大阪、岩手、広島、福島、高知、福岡、大分、京都等を始め、
全国的に勤評闘争が巻き起こっていた。
夏休みに入ると和教組組合員の多くに、和歌山県警は任意出頭を求め、校長の多くはそ
れに応じ、組合員は多少不安感を覚えながらもそれを拒否していた。
総評・日教組は八月十五日から三日間、和歌山市内を始め県内各地一九会場で、教師・
労働者・学生・父母ら四万七〇〇〇人の「勤評反対・民主教育を守る県民大会」を開催し、
勤評の本質や、経験交流、今後の闘いかたなどの意見交流を行った。十五日、集会ののち
和歌山商業高校で総決起大会を開き、「あのひどかった戦争のことを思い出しましょう」
に始まるアピールを採択、終わって街頭デモを行った。沿道の市民の多くがデモ隊に歓声
を上げたが、警備の警官とあちこちで小競り合いを重ね、両者合わせて二三人が負傷した
とそれぞれ発表した。
一六日、和歌山市城北小学校では、全学連・日教組青年部・婦人部・社会党青年部など
を核として分散会のひとつ「青年婦人学生大会」を開いた。以下『日教組二〇年史』を引
用する。
「(分散会が)終わり、参加者約五〇〇名は全学連を先頭に最後尾に社会党青年部がつい
て整然とデモに入った。その行進が和歌山市の中心部(ぶらくり丁付近=引用者)に入っ
たとき、右翼の自動車が突然先頭につっこんできた。それを待っていたかのように、最後
尾についてきた警察のトラックから警官隊が飛び降りてデモ隊になだれ込み(新聞報道は
警察との小競り合い中右翼が突っ込んだとしている=引用者)、右翼と警官があらん限り
の暴行を行い多くの重軽傷者を出した。この暴行中労働者、学生二名が検束されたが、デ
モ隊はやっと隊伍を整え、検束者の釈放を要求して西警察署前に座り込んだ。この時に、
再び右翼が乱入、警官隊も警棒を振りかざして突入、、頭を割られるもの、カミソリの刃
のようなもので傷つけられるもの、警察前は地で染まった。この暴力行為で病院に収容さ
れた者は、和歌山市教組の丸山書記長始め、一七名にのぼり危篤におちいったもの一名、
瀕死の重傷者三名、重軽傷者は一〇〇名をこえた」
警察と右翼のこの行動は二年後の安保闘争の予行演習にもみえた。
騒ぎの余波が一段落した八月二七日田辺市立高雄中学校で和教組第一八回臨時大会を開
催、「組合事務で教職員の身分を失っても組合員の資格を失わない」ことと「九月十五日
の日教組全国統一行動(正午授業打切り郡市段階の集会開催)に参加する」ことなどを提
案したが統一行動は大会で決定できず、次の闘争委員会で決定することとなった。
二八日夜、大会を終えて旅館に戻った幹部岩尾覚委員長以下執行委員一三人を和歌山県
警が地公法違反容疑で逮捕した。和教組は第二執行部を組織し、幹部の拘留されている和
歌山西署や海南署などに抗議と激励を繰り返した。
十五日の全国統一行動の規模は大きかった。和教組は正午、高教組午後三時授業打ちき
り。地評、解同は同盟休校を決定したが、第一波、第二波闘争には及ばず、和教組は八〇
%の参加と発表したが、午後三時以降の参加も合わせ六〇%弱、同盟休校に至っては一・
五%にも満たなかったようである。なかには父兄が朝から学校に集まって教師の参加を阻
止したり、組合員が年休届を出せないように校長室に陣取ったりしたケースもあったとい
う。
こうして闘争の帰趨は決まった。紙数もないので提出期の闘争や、勤評以後の数年間に
ついて触れることは出来ない。
この後和教組も高教組も、解同も苦難の数年が続いた。かつて「父母は『敵』という言
葉が使えるほど意識の高い先生を望むだろうか」としたような弱点を克服して、節を曲げ
ることなく闘い続けた結果、勤評は有名無実のものとなり、そして七〇年七月、最高裁は
地公法違反事件に無罪を宣告した。
それから三ヶ月後、県教育長は人間尊重教育に代わる新しい同和教育方針策定を明言し
た。以来三〇年、いま県同和教育研究協議会はその幕を引いた。
しかし、冒頭に述べた「わが国の憲法改悪を頂点とする一連の文教政策」とのたたかい
はまだ終わってはいない。二一世紀初頭のき厳しいたたかいであろう。
ページはじめにもどります