雑賀の実験室

パソコン片手の旅行記
編集・発行 雑賀光夫

どこへ行くにもパソコン片手。海外旅行では電圧で苦労
ニュージランドにいくときは、変圧器を買いました。
       
E-mail:
saikam@naxnet.or.jpお手紙ください

パソコン片手の旅行記

        
        Our way  to Indonesia
         ニュージランド「行革」視察の旅(第一次草稿)
          Y・Sドイツへの旅
アメリカ紀行・オレゴンへの旅

        
        
        

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ニュージランド「行革」視察の旅(第一次草稿)

(1)この原稿は、同行したみなさんにごらんいただいて、わたしの聞き違いを指摘
 していただくための原稿である。
(2)質問には★をつけた。どの質問も短くしているので、相手側の説明とこんがら
 がることもなかろうと思われる。?までが質問である。
(3)わたしが口を挟んだ点や、疑問点、聞き取れなかったり相手の説明がちぐはぐ
 になっていると思われる点に*で書き込みをしたので、チェックしていただけ
 れば幸いです。

ニュージランド「行革」視察の旅(第一次草稿)

                         (一)

 和歌山県機関紙協会理事会で、中北事務局長から機関紙協会主催の「ニュージ
ランド『行革』視察があるので誰かだしたい」という提案が出された。ニュージ
ランドという国は、最近になって「行革」・規制緩和を断行し、借金国から脱皮
したと言う宣伝が行われている。新進党の若手議員が「ニュージランド『行革』
物語」という本まで発行している。在日ニュージランド大使などが財界に招かれ
て講演しているのを読むと、夢のような成功物語である。本当にそうなのか。そ
の国に住んでいる皆さんにお会いして確かめてみようということである。希望者
を募ったら、結局、「理事長が行け」ということになって、全教大会終了から一
日おいて十四日、出発とあいなった。
  視察団のメンバーは、機関紙協会理事長・新聞労連委員長の北村肇氏を団長に、
機関紙協会関係者の他に、多かったのは郵政関係者である。(郵産労・全逓革新
派・弁護士)ほかに、私と同室だった全商連の谷さんもいた。十人のこじんまり
した調査団となった。

  関空から成田にとぶ。この場合は国際線だという。成田でみなさんと合流する
から荷物は成田までとし、機上の人となる。成田で荷物をとりに行こうとしたら
「あんたは、関空で出国したから入れない」といわれ、JALの職員のお世話に
なって手続きをするカウンターにいく。ここで「和歌山のSさんですか」と突
然声をかけられる。見知らぬ人だが、「京都の全逓の神谷です」と名乗られた。
関空からのって、同じ運命に会ったのであった。カウンターでも面倒を見てくれ、
神谷さんの携帯電話が威力を発揮し、旅行会社・旅行団本体と連絡が取れる。一
人だったらどれほど心細い思いをしたことか。

  成田からの飛行機は割合すいていた。私は、中央の非常口前の最前列席である。
足を延ばせる。一人で窓際をふくめて三席占有でき、しかも、離陸・着陸時には
美しいニュージランドスチュワーデスと向い合わせに座れる。特別待遇ともいう
べきものであった。着陸時に「写真をとってもいいですか」と聞いたら、顔をか
くして何か言うので、諦めかけたら「オンリー・ワン」という。それで一枚取ら
せてもらった。外国では、「肖像権」というのがきびしく主張されるのだそうだ。
第一日目の夜、みんなではいった飲み屋の女性が美しいので、団員が「写真を取
らせてほしい」といって、断わられたくらいである。ちなみに、その飲み屋では
生ビール小ビンとピーナツを注文して、一人400円であった。これで写真など
所望するのは、無理だったのかもしれない。
                          
  話が前後したが、ウェリントンの空港につくと、どっかで見た人が握手で出迎
えてくれた。なんとニュージランド平和評議会議長のジェラルド・オブライエン
さんではないか。同ウェリントン委員長のバーニー・リチャーズさんも一緒であ
る。日本語の名刺をさしだし「明後日、みなさんとご一緒します。皆さんが日本
に帰られるより少し早く、私も日本に行きます。」とおっしゃる。原水爆禁止世
界大会参加のために、早めに来日されるのであった。「また、みなさんいい天気
を持ってきてくれました」ともおっしゃる。前日のウエリントンではひょうがふ
り、空港は一時閉鎖されたのだそうだ。
 ここから、通訳と案内の智恵子シンガーさんと合流した。  オブライエンさん
と分かれて、ホテルにつく。

                          (二)

 16日、いい天気だ。朝食の後、同室の谷さんと朝の町を歩いてみましょうか
と表に出る。大蔵省などの官庁街をまわって港まで行った。谷さんはなかなか土
地感のいい人で、方向音痴の私とは違って、「こっちが港でしょう」と確信を持
って案内してくれた。政治的にも確信を持って大衆を案内している人と見受けた。

1、美しい女性書記長を訪ねて

 最初の訪問は、労働組合評議会(CTF)という。大きいナショナルセンター
(CTU)が半減した過程でできた新しい中央組織だと聞いた。女性書記長Ma
xim Gay さんなどの労働組合幹部が迎えてくれた。
☆  まず、女性書記長Maxim Gay さんの報告から
  1988年以前に、建築など民間の人達でつくっている労働組合センターと先
生や看護婦など公務員の組労働合センターがあった。1988年に二つの組合が
解散し、CTUという新しいナショナルセンターを作った。しかし、組合の大き
いところが大きな決定権をもち、小さい組合は不利な運営が行われたので、CT
Uに入らなかった組合やCTUからだ脱退した組合でCTFを作ったのです。
  1991年の総選挙では、国民党が勝つと予想されており労働者は不安でした。
国民党の勝利で、賃金の伸びも悪くなり、福祉のあるものは25%もカットされ
ました。
  雇用契約法という悪法が出されたので、全国でストライキをおこそうと話し合
いましたが、CTUはたたかわず、失敗しました。それで、CTUから離れるよ
うになった。
  CTFは、11組合で発足しましたが、今は17組合で、3万人、組織労働者
の中で10〜12%です。CTU(30万人)よりは小さいが、民間組合が多い
のです。平均で労働者が7人の小企業が多いのです。ドライバー、サービス(ホ
テル・キッチン)、清掃などの組合があります。
  エンジニア・プリンティングの組合は伸びています。CTUに残っているエン
ジニア技師の組合は伸びています。金属組合だったのが、木材加工、食品など含
むようになったからです。
  1991年の雇用契約法によって、労働組合の組織率は、66%から25%に
下がりました。強いのは、高校の先生の組合で97%の組織率を持ち、強い交渉
力をもっています。
  雇用契約法で、個人契約になり団体交渉は不可能になりました。雇用契約法を
国民の60%が支持しているという報道は、本当ではありません。二つの雇用者
団体がありますが、かれらは「雇用契約法は、これでも不十分だ。首切りできる
法律にしたい」という考え方です。
  前回の総選挙で、65%の人々が、雇用契約法の見直しが必要だと言っていま
す。しかし、ニュージランドファースト党が国民党との連立に巻き込まれている
ので困難なのです。
  二年前から、新しいキャンペーンをはじめました。
  Job of justice,Wage of justice
というものです。
  労働者がどういうことを望んでいるかを聞いて、労働者の会合をもっと開いて
いこうとしています。
  ストライキが不法ということになっていますから大変です。また、輸入品への
関税がへらされ、刑務所でつくった商品が市場にだされてきますので、製造業で
は大変です。
  労働大臣は、雇用団体のメンバーであった人で、労働者を弾圧しています。

☆国際部の男の役員から
(1)CTUに対して、労働者との対話やキャンペーンがたりないという批判が出て
います。
(2)私たちの労働組合をもっと大きくしていく必要があります。CTUからCTF
に移ってくる組合がありますし、組織率が65%から25%に低下している中で、
未組織の組織化が必要です。また、労働組合ということを知らない若い労働者を
教育していくことが必要です。

☆エンジン関係の組合幹部レバート氏から
  (* フライドチキンの広告そっくりで大柄な人だった)
  雇用契約法は、雇用者団体が国民党に働きかけた。労働者の反応は、もちろん
反対だ。どうして負けたかといえば、CTUは全く後向きだった。労働者の団結
がたりなかった。○○レイバーが残っていたら勝っていた。我々は、国中でスト
ライキを起こすということだった。敗れても闘わなくてはならないと態度を取っ
たが、団結が足りなかった。 
(* ここで私は、「日本の労働組合運動は、弾圧や分裂をたくさん経験してき
  ています。ニュージランドでは、今回がはじめてなのではないのですか」と
  質問してみた)
  ニュージランドでは、労働組合運動はかなりイージーな立場でいた。労働党が
あったから、首相・労働相など政治のトップとのつながりがあった。労働者はす
べて組合に属さなくてはならないなど決めることができた。
  経済のミラクルなど言われるが、金持ちはいっそう金持ちになり、労働者は苦
しくなっている。
☆郵政関係の組合のレナード氏から
  できて一年半、大きい組合と同じことをやっている。労働者にまだ大きな変化
はない。規制緩和で民間が参入してくる。これからだ。民営化はしないという約
束になっているが、民間が入って来るから同じことだ。
  解雇に対して労働組合が何をしたかと言われると、全く失敗した。コミュニケ
ーションワーカーズは壊滅した。人へらしをしてもサービスを落としてはいけな
いというので、25%の人が仕事で怪我をしている。民間から人を入れて反組合
的な仕事の仕方を持ち込んできている。
☆Maximeさん 「カローシということばを、日本から習っています。」
☆国際部長
  小さい企業が大きい企業に吸収された。それでも、あたらしい小さい企業もで
きている。大きなチェーンストアが海外から入ってきているが、小さなブチック
も増えている。GSTについて、政府の代わりに税金の取り立てをさせられてい
るという苦情が小さい店からある。
  学生の労働が増えている。たとえば、午後3時から10時まで、時間給4〜5
NZ$でこずかい稼ぎで働くのだ。その分、大人の仕事が奪われていく。
  労働党の時代は、組合は首相とのつながりがあり、国中の労働者とつながりが
あった。苦情をいうことができた。いまはできない。
★配られた労働組合の新聞に、「ILO87号、98号条約批准」というスロー
ガンが掲げられている。牛久保弁護士は
  Job of justice,Wage of justice
というスローガンは、ILOの大切なスローガンだということを延べながら、な
ぜ今まで、この重要なスローガンが批准されなかったのかと質問したが、私の質
問した点もふくめて、「労働組合運動の強い国」というかつてのニュージランド
の評価が根本からゆすぶられることになった。

2、16日午後は、ニュージランド・ポスト社を訪問する。

案内されたフロアには、幹部の個室になった執務室がならんでいる。会議室のよ
うな部屋で、アドリアン・ハワードさんはオーバーヘッドプロジェクターを準備
し、なれた操作手順で説明する。彼は、新進党議員の「ニュージランド行革物
語」にも登場する、ポスト社のスポークスマンらしい。
・職員は、12000人から6000人に半減した。
・生産性は、二倍向上した。
・郵便局は、1987年の906から1994年には245に減ったが、スーパ
ーなどのポストセンターが4800ヶ所もできた。
・コアである郵便事業の比率が67%から89%にふえ、エージェント(代理事
業)が減った。電子郵便(データメール)がふえた。
・郵便物を集める仕事は、郵便局の280台の車を使って、450人の下請け労
働者にやらせている。その中には、12〜15時間も仕事をする労働者も出てく
る。ポストから郵便物を取り出すとき、バーコードをつかって中央でチェックで
きるようにした。
・二日以内に郵便が届くように、メールセンターでは、95%の労働者が夜勤し
ている。
・人べらしでポジションのなくなった人には、10月の給料を余分に払った。再
訓練、希望退職、強制解雇もあるが、組合は反対しなかった。再就職のためのカ
ウンセリングやサポートをした。
  要するに、企業化による「合理化」で「ローコスト・ハイパワー」が実現して、
効果的に仕事ができるようになったという訳である。その結果として、郵便料金
の国際比較が示されたが、ニュージランドは安い方から3番目、一番高い国は日
本だった。
 わたしは、「これだけ短期間に仕事の効率化をされたのですから、世界の郵便
事業の研究をされたのでしょう。参考になったのはどこの国ですか?日本の郵便
事業についてのご意見があればお聞かせください」ときいてみた。「イギリスや
アメリカの勉強をしました。日本のことは機会があれば勉強している。国際コン
サルタントというのがあって、30カ国ぐらいが、私たちのやり方を勉強してい
る」とのことである。

  郵産労の田中さんは、「日本の方が『合理化』はすすんでるんじゃないの」と
つぶやいていたから、大した「合理化」ではないのかもしれない。では、日本の
郵便料金はなぜ高いのか。研究課題は広がる。
  なおこの視察には、郵政関係者が4人も入っていることはさきに述べた。だか
ら、公式訪問先にポスト社がえらばれたのだが、郵便問題は常に調査団の共通の
関心になった。ニュージランドについた最初の夕方、郵政関係のみなさんは、夕
食前にコンビニの中にある「ポストセンター」(切手やハガキを売り、郵送の業
務もあつかう)にとびこみ、人間のお尻を型どったハガキなど「民営化」の産物
を買い求めてきて研究していた。最終日の農場へのオプショナルツアーでまで、
私たちは、バスの中から各戸に備えている郵便受けについての観察までしたので
ある。

3、労働党国会議員・Guraham Kelly氏との会見

☆自己紹介
  10年間、国会議員をしています。その前、15年間は、労働組合の仕事をし
ていました。事務、電気製品、店で働いている人の組合などです。
★行政改革、規制緩和の国民への影響はどうでしょうか。労働党の支持基盤への
影響はどうでしょうか?
  行政改革、規制緩和は、労働党をほとんど破壊しました。それはひどかったの
で、労働組合が存在できるかどうか疑問でした。行政改革というのは部分的にや
れることではないので、玉手箱のふたを開けたら、煙が出てしまうまでどうにも
ならない。
  1984年に労働党が政権についたとき、国の経済は24時間以内に破産する
常態でした。それまでは、外国からの借金で将来景気がよくなることも期待しま
した。オイルショックと英国のEEC参加で、それが崩れました。それまで95
年間、英国の牧場という立場で大量の食物を90%英国に輸出していました。い
ろいろな規制のなかで、朝鮮戦争のころには、OECDで三番目のこともある。
1984年、労働党が政権をとったとき、ドラマティックな変化が求められてい
ました。選挙公約にはいっていなかったが、ロジャー・ダグラスが規制緩和をし
た。輸出への関税をとりのぞいた。
  それまで、バター、ラムなど売ろうとしたが、シンガポールなどは欲しなかっ
た。ウールをソ連はほしかったが、高くて買えなかった。安い新製品を入れたこ
とで、経営は困難化  輸出奨励対策を撤去した。
  ニュージランドの国家公務員の機構をリフォームした。ニュージランドの産業
を変化させた。改革をやって、国営企業の多くの人が、職を失った。労働者が一
番被害を受けたので、労働党の支持がへっている。
  改革は、やるべきことではあったが、その範囲・急激さで、低所得の家庭が被
害を受けている。

  グラハム・ケリー氏は、「玉手箱」の話を、アラジンの魔法のランプに置き換
えてもしゃべった。どこかでそんな比喩を読んだことがあると思ったら、マルク
スの「共産党宣言」の一節だ。
  「近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の魔物をもはや統御しきれな
くなった魔法使いに似ている」(国民文庫P34)

                 (三)

  17日は、午前中があいたので、谷さんを先頭に消費税や「改革」の受けとめ
を市民から直接きこうという企画をたてた。また、郵政関係者は、郵便局まわり
を企てた。そのあと、有意義な交流となる。

1、街頭での聞き取り
  谷さんは、活動的である。ガイドもふくめて、人をつかまえては、「GST
(消費税12、4%)は、国民にどう受け取られているのか」と聞いて回る。こ
の日の午前中は、ホテルを出たところの靴の修理やさん、雑貨やさんなどを回る。
「GSTは、政府が集める税金を肩代りして集めさせられるので大変だ。」とい
う感想は共通している。しかし、今回の改革について、「いいんじゃないか。電
話や郵便は便利になった。」という感じの受けとめかたであった。
 町を歩いて、日本人が経営するみやげ物屋へ寄って、取材する。シェパードと
いうお店である。ここの御主人は真鍋新次さんといって、和歌山市小松原に生ま
れ(私が名刺を渡したのでわかった)橋本で育った方で、ニュージランドにわた
って17年、三つのみやげ物店を経営する成功者である。「安い品物はニュージ
ランド製品ではありません。ほら、メイド・イン・チャイナでしょう。札を外し
たらわかりませんが、うちの店では、札をつけたままにしています。」とみやげ
物の買い方まで教えて頂く。
  御主人は言う。「最近、景気はよくありません。大きなスーパーが進出してき
て、つぶれた商店があります。」谷さんは、「まるで日本で取材しているような
錯覚に陥った」という。さらに御主人の話。「みやげ物店だから、規制緩和前か
ら土・日曜日でも店を開けたんですが、かつては、土・日曜日に店員に働いても
らおうとしたら大変でした。労働組合のオルグがやってきて、説明をしなくては
ならないんです。」
  ここらの一般市民からみた労働組合の「強さ」の中味が、今回の「改革」を考
える上で重要だと思った。
  真鍋さんはさらに続ける。雇用契約法ができて、最低賃金(7ドルという)以
下の4〜5ドルで働かせる店があります。レストランなどでは、移民を安く働か
せています。
  私たちは、取材させて頂いた御礼に、この店で買物をした。あとから仲間がい
うのには、私たちが主なみやげ物を買った大橋巨泉の店よりもシェパードの方が
安かったというから、ニュージランド旅行をする人は、立ち寄ってほしい。

2、スーパーマーケット労働者のオルガナイザー(Meg Cooksley)を迎えて

  商業・運輸な度にかかわる労働組合(NDU)代表です。
  Kマート(オーストラリア資本)で、契約の交渉が2週間前から中断していま
す。雇用契約法は、労働者に反するものです。会社から団体交渉するからという
ので、新契約の交渉をはじめます。従業員は団体交渉をつづけたいのですが、K
マートは個人契約にしたい。しかも厳しい条件です。労働組合を契約から残そう
としている。労働時間について、7日前に伝えれば、週20時間、50時間など
いろいろできるというものです。それが個人の店にも波及する、家庭破壊になる。
70セントすくない給料で新しい人を雇おうとしている。ダニーデンに9月1日
にオープンするKマートで、既に従業員を雇っているが、7月31日まで団体契
約は有効であり、いま結ばれているものと同じであるべきだと要求しています。
  オークランドの経営側から再交渉しようと申し入れがあったのですが、団体交
渉かどうかはっきりしません。従業員を迷わせるやりかたです。呼ばれたので行
きますが、期待していません。
  Kマートは、二年ほど前から売上が落ち込んでいる。Kマートの労働者は、
11の店舗に1800〜2000人で、NDU組合員は87〜88%です。ある
職場では、フルタイム(週40時間)が5人で、パートが110人です。でもそ
の中には、39、5時間のひとくさんいます 
 職場毎に、選挙・推薦などでできるだけたくさんの代表(5人ぐらい)を選ん
でもらいます。組合費は、週25時間以上働く人で4ドル、10時間以上24時
間のひとで2、95ドル、それ以下は2ドルです。給料からチェックオフされま
す。
  かつては労働組合にはいることが強制で、5万人の組合員がいました。雇用契
約法契約法と「合理化」で人員が減っていますが、これから活動が活発になると
思っています。
*  国際担当役員が、私のノートに図解してくれた。

      CTU   NDU    TUF
                suspend    relationsip

  NDUは、CTUから抜けて中立組合となり、TUFと友好関係を持っている
と言うことだろう。

3、マオリの人たちをたずねて

 17日、午後1時10分、マオリ人の集会所マラエを訪問する。集会所で出迎
えてくれたのは、オブライエンさんとリチャーズさんである。ジンさんという年
輩の女性が熱心に説明をしてくれた。

  ここの酋長は平和主義者だったのです。ジンさんの部族は、太平洋のナポレオ
ンといわれるほど闘ったけれども、戦争で負けて土地を取られてしまった。しか
し酋長は戦争をせず出て行ってくれとだけ言ったのです。
  その後、タイワギン条約が結ばれ、150年間の平和的な話合いで、土地が返
されてきています。
  集会場にはいったばかりの部屋は、ほぼ正方形に仕切られ、柱に彫物がしてあ
る。トーテンポールみたいなものだ。一つの柱に人の顔がいくつもあり、目には
あわびの貝殻が光っているものも多い。それぞれの柱が各部族を表しているんだ
という。「ここは体内を表しています。柱が肋骨です。外では争っても、この建
物の中では、争ってはいけません」という。
  さらに建物の中にすすんだ。何があるのだろうと期待してはいると、がらんと
した講堂にすぎない。観光客むけのもようしをするのだろうか、舞台には簡単な
舞台装置があり、照明器具がある。

  さて、マオリの合併組合(Central Amalgamated Workers Union)のJakso
n Smith氏との会見である。オブライエンさん、リチャードさんも同席さ
れる。リチャードさんは、もともとこの組織のドライバー組合の一員だったと自
己紹介された。
  ジャクソンさんは、話し始めた。
  私がお話するのは、雇用契約法がマオリとその家族に与えた影響のことです。
現政府は、世界に財政改革・規制緩和の宣伝をしているが、私たちはそれに賛成
ではない。大きなビジネス、外国のビジネスは、現在やっていることが都合がよ
く、賛成している。しかし、労働者と家族にとっては、現在の経済政策は、不利
になっている。
  オブライエンさんが国会議員だった1960〜70年代には、失業率は低かっ
た。それ以後、失業率が上昇し、とくに女性とマオリは不利になった。ニュージ
ランドは小さい国だが、失業者は18万6000人だが、実際は女性をいれて2
5万人になる。100万人労働者の中での25万人というのは大きい。
  マウリへの影響は、他の労働者一般と変わりはない。しかし、他の労働者にく
らべてマオリ労働者と家族にとっての影響は大きい。マオリは大家族だから。一
般論として行政・財政の改革は、マオリにとって不利だと考えられているが、上
層部の人は、不利でなく利益を得た。
  とくにオークランドの北・南・東海岸では不利な立場におかれ、失業率は多分
50%に達している。
  雇用契約法は、全ての改革の一環として考えて下さい。たとえば、福祉国家を
破壊する法律、地方政府を破壊する法律、公共企業を破壊する法律などの一環な
のです。
  森林・郵便局・電機が売却され、失業者が増加しました。大きな資本が求める
ものとマオリの価値観は矛盾します。マオリの価値観というのは、大きな家族を
大切にするものです。そういうわけで、マオリが警察沙汰になったり、ドラッグ
に引き込まれたりするものが増えました。若者の中で、暴力団・テロリストに加
入するものが増えています。この国を離れて、30万人の若者がシドニーに住ん
でいます。このことについてこれ以上話したくありません。
  ニュージランドは、昔から植民地政策で民族が混じった国ですが、新しい資本
によって、フランス・ドイツ・イギリスの植民地になりつつあります。
★農業補助金が打ち切られて、都市へ流出してるのでしょうか?
  農業の補助金がなくなったことが、マオリが地方から都市に出て行った原因と
は言えません。マリオに限らず農民は金利が高くて、牧場を捨てて都市に出て行
きました。そこで働いていたマリオも出て行ったのです。財政改革が原因ではあ
りません。
★AWUNZとは、どんな組合ですか?
  Aはアマルガム(混合)という意味で、どんな職業でも入れるということです。
運転手が多いです。11000人の組合員がいて、CTUに属しています。マオ
リが多いが、それだけではありません。
★国会議員が4人保障されていると聞いたが、ほかにもマオリの国会議員はいま
すか?
  15人います。彼らは、今度の改革を支持した。頭が弱いいんです。
  改革で一部の裕福な人は恩恵を受けています。そういう人が影響力があって国
会議員になっています。そういう地位の人は、労働者から出ていることを忘れて
います。黒いスーツを着たら、昔のことを忘れてしまうんです。
  農業関係が悪くなったのは、一つには、金利が高かったからです。英国のEE
C加入が、もう一つの理由です。牧草地であったのを森林に変えたいというのも
あります。牧場主は世界の需要に影響をうけます。農業補助金が撤廃され、世界
の補助金を受けている農産国と競争しなくてはなりません。
★こんどの改革は選挙公約になかったし、グハハムケリーも、その内容を知らな
かったと言っていますが………?
 グラハムケリーが「ふたを開けてみたら、………」と言っているのはうそっぱ
ちです。
  だれも、まさか福祉国家がロジャー・ダグラスなどに破壊されるとは思ってい
なかった。
  マオリの議員は、昔は労働党から出ていましたが、ウインター副首相は、ニュ
ージランドファーストから出ています。この党は、国民党から分かれたのですが、
いま連立政権を組んでいるんです。
★マオリへの差別はありますか?
  どの国にも差別はあるでしょう。この国には他国にみられるような極端な差別
はありません。私は、この国で人種差別をしていない人間だと思っています。
  ミックス結婚がすすんでいます。マリオが、白人と議論をして意見が合わない
とき、人種差別ではないかと言い出すことがあります。
  マリオは、コミュニストです。老人をいたわるという伝統があります。
☆ワイタギン条約で土地とともに水の権利など返されてお金が入るといいますが、
どういうふうに使われるのですか?
  北のワンガノイという町でマオリでない国会議員が「1億7000万ドルもも
らってどうするのか」というので、「給料をもらって何に使ってもいいでしょ
う」と言いました。
  これからどう使われて行くかわかりません。魚の加工工場、奨学金など部族の
リーダーで決めるはずです。タイマイという部族は、大変大きなお金が入るので
すが、私の部族はそれほどでもありません。
  リーダーが、個人の利益に使わないとは言えません。これはどこでも起こって
いることです。
★「改革」にたいして労働組合として、どうたたかっていくのか?
  困難だけれども、たたかっていかなくてはなりません。両極に分かれていって
いるスピードは世界第二です。1984年まで、ニュージランドには貧困者はい
なかったのです。今では、33%が貧困者です。
  政治的なものを変えなくてはできません。可能性があるのは労働党です。国民
党も可能性があります。私は、安全な議席から国会議員に出ないかといわれたこ
とがありますが、断わりました。
  労働組合がまとまっていません。労働党が政権をとっても元に戻すことはでき
ません。しかし、進路を変えていくことは必要です。このままでは、私たちは外
資の奴隷になってしまいます。こういうやり方は、日本でも世界のどこでも、労
働者と家族の生活を破壊することはたしかです。                         
  日本にいったことはありません。みなさんとゴルフをしたいですね。この国で
は、15ドル(約1200円)で、ゴルフできます。
(北村さん〈団長〉………ニュージランドでのゴルフはいいが、日本では、ゴル
フは自然を破壊します)

  このあと、市内観光をして、飛行機でオークランドに向かう。オークランドの
ガイドは、道子さんである。

               (四)

  7月18日、ニュージランドでの第四日、最大の町・オークランドでの最初の
行動である。

1、女性が知性的な国
 労働組合の指導者・Maxine書記長の紹介で、オークランド大学法学部J
ane Kalsey教授(女性)におあいできた。教授は、労働組合の指導者
と違って、丁寧に言葉を選びながら話した。

  Maxineとは、いいお友達です。ここオークランド大学では、アジアとの
交流が盛んになっています。過去2年、地域の経済団体などの訪問がありました。
ニュージランド「行革」の厳しい部分を研究していますが、「行革」による国の
変化について話をする学者がいないし、話をすることが一般的ではありません。
好まれないのです。
 ニュージランドの生活に影響する変化について、海外の行政が同じ方向に動く
のではないかと関心を持って訪問する人もいます。
  私は、一年の半分は海外で改革の裏側を話しています。みなさんが関心を持っ
ていることを重点的に話したいと思います。

  1984年、労働党の時、経済政策がどうなるのか、国民は知らされませんで
した。労働党の人は、経済についての知識がありませんでした。活動的な人たち
は、社会福祉・外交・反核などにたずさわったからです。
  社会政策と経済政策のつながりを十分理解する人は、いませんでした。経済政
策にたずさわっていた人たちは、どうしたらいいかわからず、戸惑いを持ってや
っていました。
  2〜3年かけて、人々は経済がどう動くのか、試行錯誤していました。そして
経済が余りに早く動くので、歯止めがきかなくなったのです。その理由は
@人々が生活をどうするかを考えなくてもいい状態(福祉国家)
A政府代表のグループは、改革プログラムをたてざるをえなかった(それのみし
か思い付かない状態)
    * この辺のメモの意味がわからない
  変化・改革のためのプログラムづくりは、1970年代末からはじまりました。
1984年までは、改革したくない、受け入れない状態でした。
労働党のロジャー・ダグラスは、政府関係団体との連絡を取り、中央B(*これ
何の記号かわからない)関係者、大手企業団体もプログラムにかかわっていた。
  どうしたらいいかよくわかる人たちが、改革をすすめていった。
   (*わかるのか、わからないのか?)
 同時にすべての政策で改革をしないと文句が出ます。
  社会的・経済的影響がさまざまでてくるが、途中で止めることはむずかしい。
労働党政権であると、さらにむずかしい。
  労働組合はかつて労働党の一部でした。労働組合として、自分達の政権を汚す
(*批判するという意味?)ことができない。他の政党を支持することができな
い。労働組合派、反核など労働者と一緒にすすめていた。経済的なことについて、
おとっていた。ニュージランドの労働組合は、そんなに強いものでなかった。
  労働党の政権が、市場での改革(*このあと、メモできず)
  労働組合は強くなかった。労働党の一部であり、政府に反対して何かをするの
でなく、政府にコントロールされていた。労働組合は、政府・雇用者と協力的で
あって、攻撃的という部分が少なかった。長期のストライキは少なく、成功例は、
あまりない。
  「行革」で、市場・経済がビジネス化し、失業率が上昇し、これまでの労働党
支持者の信頼が低下しました。その変化によって利益を得た人たちの政権ができ
ました。その改革の中で、労働・社会部分での大きな改革は(*あと、メモでき
ず)
  1990年、失業率が上昇した。労働党が積極的な発言をしなかった。
そのあと、NG(*これを何のマークにしたのか自分でわからない)
雇用契約法で、労働組合の勢力が衰退した。
 CTUのリーダーたちは、国を上げてのゼネストはしないと決定した。個々の
組合は抗議したが………。労働党もCTUも、困難に陥れてしまった責任がある。
自分たちがまちがったことをしたと言えばよかったのに、何もせずに国民の信頼
をなくした。労働党は、6年あったらできたのにという言い訳をしている。
 労働党の政策は、今の経済改革をキープし、CTUは、労働党を支持している。
CTFは、労働党の経済政策に反対している。あくまでもTUFは、さまざまな
産業(*メモできず)   
  悪い影響を受けた労働者の代表、左派からみると、労働党とCTUは、困って
いる人をサポートしていない。CTFやアライアンスなど他の政治団体は小さく、
労働党・CTUに代わる立場というものがないので、維持されている。経済改革
は聞かされたほどの結果が出ていない。経済状態は今年に入って悪い状態にもど
っている。GDPは3カ月でマイナス0、5%、貿易収支は輸入の方が多い、失
業が増えている。労働生産性は、雇用契約法以前より下がっている。
★この改革がニュージランドの独立(*自立というべき)につながるのか?
  ニュージランドは英連邦に保護されてきた。輸出に頼ってきた。独自の産業が
限られている。産業を築いていくというゴールを目指していかなくてはならない。
改革をサポートした人たちがいうのには「いろいろ選択の幅が広がった。変化を
起こす力が与えられた」という。それは、ある人にとってはただしい意見だ。そ
ういうことをいえる人は、教育がある、蓄えがあるとかうまくやっていける人に
ついて言えることだ。反対に、貧しい人、教育を受けられていない人、社会から
外れている人については、当てはまらない意見だ。
  改革は、私たちの国に、二つの層を作り上げた。福祉国家というが、政府の責
任としてしようとしない。
  今の政府がいうには、「今だけのことだ。おちついたらみんな利益がある」と
いう。しかし、その保障はない。
  この12年間、はじめの7年間は経済はよくなかった。次の3年間、政府のい
うことが本当と思えるほど、経済がよくなってきた。今また、経済が落ちこみぎ
みになっている。
★中小企業と消費税について?
  GSTについては、日本と同じ様な反対の意見がありました。
  連立政権は、中小企業のために1000万ドルの予算を組む約束をしています
が、商工会議所はなぜかそういうことを求めていないといいます。

2、病院では居眠り

  午後の見学と交流は、病院と老人ホームだ。肩のこるところは終わったという
ので、昼食でビールを飲む。
  見学した病院は、オークランド・ヘルスケアー・リミティドという576床、
年間入院数24911人、スタッフ1871人というニュージランド第一の病院
である。企業化されているというが、株主は大蔵省である。
  エイボン・アダムスという女性と「企業と労働者の間にはいるのが仕事です
(労務担当)」というジェームス・ウィルソンが対応してくれた。
  申し訳ないが、ここで私は、満腹とビールの効果から、睡魔に襲われたのであ
った。
  まじめに話を聞いた皆さんによると「現場の話は、すごく面白かった」とのこ
と。というのは、ニュージランドれ民営化のようにいわれていることも、「採算
ベースを重視する」という企業化なのであって、公共事業を民間に売り渡してし
まう日本の民営化の話をすると「そんなことはニュージランドではやらせない」
という答えが返ってきたというようなことなどである。

3、美しい老婦人に案内された老人ホーム

  次に、老人ホームを訪問する。老人ホームというと身寄りのない老人が寂しく
暮らしているというイメージで、写真をとるのはどうかと思いながら訪問した。
案内にでたのは、かなりの年輩だが美しい女性である。写真については「どう
ぞ」と言われる。
  おむつをあてている老人の部屋まで含めて回ったが、老人たちは明るい。数カ
月前に老人・看護婦まで居抜きで新しい経営者が買い取ったと言う。それまでは、
キリスト教団体が所有していて、経営に力をいれていなかったという。
・120人の収容能力をもち、いま入っているのは、100人である。
・看護婦は、32人。経営者が代わったときに、26人やめてもらった。
・個室には、バス・トイレをつけるために改造中である。
  (入るには15万ドル(1200万円)の権利金。3年以上はいれば25%減で、出
 るとか死んだとかすれば返される。3年以内なら、減額がもっと少ない。25
 %減が上限ということ。)
・独立家屋になったコテッジがある。55才以上、夫婦で入ってもいい。ここか
 ら働きにいってもいい。(14万ドル+共益費98$/W)

  建物も老人たちも明るい。広い、ソファーの置かれた団らん室があり、その一
隅で老人たちが会合をしている。自治委員会を開いているのであった。私たちが
紹介してもらうと、みなさんも会議を中断して対応してくれる。「近く、船に乗
って日本に行きます」という元気なおばあさんまでいる。
  多分、かなり恵まれた人でなければ入れない、高級養護老人ホームというとこ
ろだろう。

  ジュースをご馳走になりながら、話を聞く。老婦人は由緒正しい英語で話され
る。(わからないがそんな気がする)
  ニュージランドでは、老人ホームに無料で入るには、持ち金が6800ドル以
下でなくてはならない。そのことを3年前までさかのぼって証明できなくてはな
らない。以前には、3万ドル、一年前までの証明でよかったのだから改悪である。
それでも、老人ホームに無料ではいって、500ドル(年か月か週か?)は政府
からもらえる。ただし、国民年金との併給にはならない。


               (五)

  外国で起こっていることを私たちが理解したり、評価したりする場合、いくつ
かの壁がある。歴史・文化・言語の壁と言ってしまえば簡単だが、相手国の人は
お互いが当然知っているつもりで話していることが、こちらにはわかっていない
ために、正しい評価ができないという場合がある。
  また、そのことを利用した意識的な宣伝やねじまげも起こりかねない。

1、ニュージランドとは、どんな国なのか

(1)ニュージランドでは、学校を卒業すして仕事をしていないと失業手当がもらえ
る。子どもがいて離婚すれば、それより有利な母子手当がもらえる。結婚してい
なくてもかまわない。子どもが大きくなるともらえないから、その前に、また子
どもを生んだらいい。一生そんなふうで、税金を納めなくても、年金はみんない
っしょなのです。これでいいのだろうかと思ってしまう。私も離婚したんですけ
ど、プライドもありますからこうして働いています。働いて収入があると、そう
いう手当はもらえないのです。(道子さんの話)
(2)郵便とともに大きく変わったのが教育です。一学級は30人から25人です。
政府からは、生徒一人当りいくらという予算はおりるのですが、あとは、学校に
まかされます。学校には、保護者から選出される運営委員会がおかれています。
運営委員には保護者であってもなくても選出される権利はあります。運営委員会
が校長を連れてきたり、先生をやとったりするのです。
  評判が悪いと生徒が転校してしまうので、校長は大変だそうです。朝8時から
学校にいって、夜8時まで帰れないと言っています。(智恵子さん)
  小学校への入学は、5才の誕生日です。誕生日に卒業するのです。まもなく、
高校まで義務教育になります。教科書というものは学校に備えられていて、家に
持ってかえることはありません。学校で教えることは、教え込むということより、
一人一人がテーマを持って、問題を解決する力をつけることにおかれているよう
です。私学もありますが、お金がかかるので、みんな公立にいきたがります。大
学は、すべて国立で、7つの大学がありますが、大学までいくのは、2%しかい
ません。(道子さん)
(3)キャッシュレス社会で、だれもが カードと個人小切手をもっている。5ドル
の買物をするのも小切手をきるそうだ。(智恵子さん・道子さん)
(4)イギリスの植民地だが、となりのオーストラリアとは成立ちが違う。オースト
ラリアは、囚人が送り込まれた国だが、ニュージランドには、福祉の国をつくろ
うと善意の人たちが入ってきた。イギリスの農園として保護されてきた。その関
係が、ワイタギン条約となって、マオリとの比較的いい関係をつくっている。
   (牛久保弁護士から聞いた話)

2、企業化、民営化、改革、リストラなどをめぐって
  牛久保弁護士は、当初から訳語のこだわっていた。私も英語教師くずれだ。ち
ょっと整理してみよう。

☆corporatisation  (この単語は、研究社の「新英和大辞典」にも出ない)
 類語
  corporation  (法)法人、企業体 (米話)株式会社
  corporate     法人組織の、団体の
☆privatisation (この単語も、研究社の「新英和大辞典」にも出ない)
 類語  private  個人の、秘密の、私有の
 反意語 public   公衆の、公共の、公然の、公開の
☆restruchure    (この単語も、研究社の「新英和大辞典」にも出ない)
 類語 struchure  構造、構成、組織、構造物
☆reform          Form again,
☆share            分け前、株式
                   共にする、分配する

                              (六)

 ニュージランド最後の一日がきた。

1、朝からは、農村へのオプショナルツアーである。
  町からバスで30分も走ると、緑の牧場が広がっている。和歌山のゴルフ好き
の皆さんなら、ゴルフの練習をしたくなるところだろう。広い広い牧場に、点々
と羊がいる、牛がいる、馬がいる。みんな広々したところで悠々としている。牧
羊犬が羊を追うところ、羊の毛を刈る実演などみる。
  「馬にのりますか」と言われて、こわごわ乗る。10数頭の馬が、数人の案内
人の馬とともに草原をいく。丘に登ってまた下る。壮観である。
  突然、私が乗った馬が駆けだした。手綱を引こうとしたが、うまく力が入らな
い。次の瞬間、私は、馬の首にしがみついて、草原に投げ出されていた。足首が
痛い。捻挫かなともおもう。投げ出されるまでの一瞬に、中学生の時、先生の原
動機付き自転車に乗らせてもらって、校庭の立木にぶつかったことが頭をよぎっ
た。そんなことを思い出すひまがあれば、思いきり手綱を引けばよかったのだが。
  みなさん心配してくれた。添乗員は「落ち方が上手だった。スローモーション
みたいだった。」と変なところでほめて慰めてくれる。
  美人の案内人が「私のうまに乗りますか」と馬を替えてくれたので、それにの
って帰ってきたが、こわかったこと。不器用で恥をかくのにはなれているが、誰
も落馬しないのに、一人で二度も落馬したりしたら、いかにもだと思ったものだ
から、慎重の上にも慎重になる。
  やっと戻ってきて馬から下りるところで、機関紙協会事務局長の桜井さんが止
まっている馬から落ちて尻餅をついたのは、私一人に恥をかかさないための配慮
であったのか?ただ、太った桜井さんが馬から垂直に落ちて尻餅をつくのは、私
よりも痛そうにおもわれた。
  やっと戻ってきてのバーベキューはおいしかった。

  午後は、みなさん市場への聞き取り調査をかねた買物に出かけたのだが、足の
いたい私は、ホテルに戻って、この旅行記をかくことにした。ところで、この旅
行記を、前のインドネシア紀行とおなじパソコンでかいている。ニュージランド
は230ボルトだからと、変圧器を購入したのが役に立っているのである。

  その夜のこと、夕食後、私はみなさんと行動をともにした。あるゲーム機にい
れた私の100ドルは、ボタンをおすごとに減っていったが、突如、490ドル
を示しているではないか。そこで切り上げて宿に戻った私は、いい旅だったなあ、
馬に蹴られなかったのは幸せだったなあと、好運を噛みしめていた。
  ポストマンの広岡さんは、「あんたは馬から落ちても、いい経験をしたなど言
っているから好運を呼ぶんだよ」と言ってくださった。                   
                                
                                  1997年7月21日 メモ完
                                                22日  多少手直し
                                  S光夫


エンゲルス・強制収容所・ドイツの畑と自然・歴史
Y・Sドイツへの旅

 1998年夏、Y・Sの二夫婦(Y広紀・由紀子、S光夫・康子、由紀
子は光夫の姉)は、ドイツに向かうことになった。Sの長男・耕司の結婚式以来
の海外旅行である。Yの長男・Mがドイツで絵の修行をしている。昨年は、な
んとかいう新人賞をとって賞金をもらい、上野で展覧会までやったという、隔世遺
伝の才能をみせている。ただし、じいさんのS紀光とは、まったく画風が異なる
のではあるが………。YMと妻・Y子さんの間には、既に二人の娘がいる。時
生子(4才)と日納子(6ヶ月)である。Y由紀子は、孫の顔を見にドイツ訪問
をしたことがあり、物好きなわが妻・康子は、それに便乗して(むしろそれをけし
かけて)ドイツについていったことがある。この度も、この両家を知っているもの
は想像がつくように、両家の夫人同士がさきに訪問計画をたて、尻の重い両夫を連
れだしたというわけである。

ドイツ人親子に折り紙を

8月5日、正午前に、四人は機上の人になる。D席二すわった光夫の隣は、かわ いい男の子を連れた外人女性である。 席から出入りするたびに”Excuse me”を連発するから口を利きやすく なったので”Where are you from?” ”Where did you visit in Japan?””How old?”(もちろんこれ は子どもの歳)など聞いてみる。ドイツ人母子は、奈良に身内がいて、奈良・京都 など回ってきたことがわかった。子どもは10才である。こちらも、「甥がドイツ にいて」というつもりだったが甥(nephew)という単語は今、手元の和英辞典で知 ったところだから、機内で思い出したはずはなく、cousin(従兄弟)と間違 えてしゃべったに違いないと思う。uncle(叔父)の関連語などは、叔母(a unt)か従兄弟ぐらいしか思い浮かばなかった。またも「元英語の先生」という 旧歴を隠す羽目になるが、通路を隔てたシートにいたわが妻は、英語で外人と話し ているわが夫に、久しぶりに尊敬の目を向けている。  そのうちに、わが姉が、退屈しのぎにもってきた折り紙をはじめた。県医労連の 元委員長・高木潔氏に教わったものである。高木夫妻は、最近、外国旅行を楽しん でおられるが、潔氏はどこへ行っても「折り紙」で子どもたちと仲良しになるとい う。風車を爪楊枝の先につけたものをつくって、こっちに回してくる。子どもにプ レゼントしろというのだ。プッと吹いて回して子どもにあげた。子どもは、はじめ は「前から吹くと回る」ということが分からず、横から吹いていたが、すぐに吹き 方を理解してよろこんだ。そのとき、わが妻は私の席と代われと要求してくる。子 どもに折り紙を教え始める。わが姉は「康子ちゃんは、言葉が分からなくてもあん なことできるから大したものだ。」と変な感心をしている。広紀氏は、にやにや笑 っている。

ビジネスホテル並ですてきな一夜

ドイツについたのは、現地時間で5日の夕刻である。フランクフルト空港には、 在ドイツY一家4人が出迎える。レンタカーを借りてくれていて、8人(大人6 人、子ども二人の旅がはじまった。)その日は、フランクフルト近郊のハーナウの ホテルにとまる。立派な庭のあるホテルの離れのツイン3室をとってくれていた。 ビジネスホテルではない。 機内食が遅かったので夕食は軽くということで、各人にスープとみんなでつつく のにチーズ・ハム・ソーセージなどの盛り合わせ一皿をたのみ、ビールとワインを とる。ウインナソーセージ入りのじゃがいもスープは分量もたっぷり、そこにパン、 バターがついてくる。おいしい。「軽く」といいながら、普段の夕食よりたっぷり 堪能する。これで支払いは1万円余りだから安い。 朝食がまたすごい。パンにつけるものが、山盛りになって篭にいれて出る。バタ ー、チーズ類、肉類を柔らかくしてパンにつけるようにしたもの各種。それに果物、 ヨーグルト、ゆで卵、ハム・チーズ・ソーセージの盛り合わせ、そしてコーヒ。朝 食付きでホテルの払いは4万円あまりである。一家族一万四千円検討だからこれな らいい。「母親大会は、一人一万二千円でひどい宿だったのに」と康子は思い出さ なくてもいいことを言い出す。 「観光地ならもっと高いよ。とくに、今夜泊まるところは、僕らだけじゃ泊まれ ない高いホテルをとったから。」とMがいう。三ツ星だそうだ。それでも一人一 万円程度だから、東京のビジネスホテルに毛が生えた程度か。

アウトバーンを車は走る

翌日6日は、アウトバーンにのって、南ドイツに向かった。アウトバーンという のは、外(0UT)周りの道路かとおもっていたら、自動車(AUTO)道路とい う意味だそううだ。制限速度はないが、時速130キロ程度が奨励速度だときいた。  信号は全くない。地図で直角に道が曲がっているからそこには信号があって停止 するんだろうと思っていると、道路は左右に分かれるだけなのだ。右に曲がった道 路は、緩やかなカーブをつづけ、数キロ走って90度カーブすることになる。  《日本でも高速道路はそうなっているから驚くこともないが、通行料を払わなく てもこんな道を走れるからおどろく。料金所がないから停滞しない。人間というも は、本来感動したり驚いたりしたりしなくてはならないことに感動せず、別のとこ ろで感心した気にさせられるときがある。文章にしてみるとそれがよく分かる。… ……以上は、後からのこじつけ》 アウトバーンの周りは、丘陵地帯になっている。ああ、南の方は、緩やかだが山 地になるんだなとおもって「高地ドイツ語ということばがあるが、山地の言葉なの か」とMにたずねると「そうじゃない。高地というのは、北部のことで、そこで つかわれる標準語のことを高地ドイツ語というんだ」と教えてくれた。………聞く は一時の恥。 アウトバーンを我が三家族は、時速150キロぐらいで突っ走る。それにしても、 立体交差もしていないアウトバーンの両側の行き来はどうするんだろうと疑問をな げかけてみる。「基本的には、行き来をしないんだそうです」とY子さんが応えて くれる。ときどき、陸橋があってアウトバーンを横切ることができるようになって いる。しかし、南ドイツでいえば、50キロはしってひとつというところだろうか。 フランクフルトやデュッセルドルフなどの都会の周辺になると陸橋もしばしば見ら れるのだが………。 途中で昼食をかねてローテンベルグによる。城壁に囲まれた中世の都市。ロマン ティック街道の途中にある。

フリードリヒ二世は、馬鹿かロマンか

 第二泊目の地、フュッセンにつく。ノイシュヴァンシュタイン城が見えるホテル である。翌7日には、おきまりの観光でノイシュヴァンシュタイン城を見る。ロマ ンチック街道の代表的な観光名所であるこの城については、日本で言えば明治に入 ってから時代に中世の夢を追って建設にかかったが完成せず、フリードリヒ2世は 破産して、湖で怪死をとげるというロマンティックならぬ話がまつわっている。観 光案内はそのことをロマンティックであるかのようにかき立てている。 アルプスのふもとを走って、オーバーアマガウにつく。オーバーアマガウのホテ ルは、簡単なホテルである。  ここにつくまで、私は、ホテルにスリッパがないのに閉口していた。ホテルの売 店やみやげ物やで ”Can I get a スリッパ or a sandal- shoes ?”と聞いてみるが置いていない。これだけ日本人客相手の表示まで ある観光地だから、スリッパぐらい用意すれば売れるのにと思う。オーバーアマガ ウの町で、私は、サンダルを捜しに町に出た。適当に店に入って聞いてみると、 「この先をいって右に曲がるとshoe storeがある」と教えてくれたので、 そこで19マルクのサンダルを手にいれたのだった。

妥協の町、ビールの町、ミュンヘン

8日。次のダッハウに向かう。その途中のミュンヘンは、第二次世界大戦で占領 軍がヒトラーに譲歩をしてヒトラーをつけあがらせた「ミュンヘン会談」でも知ら れているが、ビールでも有名な町である。 * 帰ってから「世界史小辞典」で確かめる。ヒトラーはオーストリア占領につ づき、ハンガリーからスデーテン地方割譲を要求した。連合国は、イギリス首相チ ェンバレン主導で、ハンガリーやソビエト連邦を抜きにして、ヒトラーと妥協した。 「イギリス・フランスの宥和政策の頂点としてしられる」と「小辞典」は結んでい る。ぼくは、チャーチルがヒトラーと妥協したのだと思っていたが、これも間違い。 密かに恥かくこと多し。  ビヤホールにはいってみる。実にやかましい。大声を上げながらビールを飲んで いる。途中で音楽がはいったときのほうが静かになるくらいだ。最近読んでいるゲ ーテのファウストに出てくる酒場の場面を思い出す。「バイエルンの酒場」だった かなと思う。確かあれは、ビヤホールではなくて、いろんなワインを飲んでいた。 ファウストとメフィストテレスが、魔法を使って机に開けたきりの穴からワインを 出してみせる場面だ。このビヤホールのテーブルも、きりで開けた穴があってもよ さそうな、昔の中学校の机みたいに落書きだらけだ。M君に「ファウストを読ん だことがあるか」と聞いてみたら読んだことがなさそうなので話題にするのをやめ た。ところが、観光案内「地球の歩き方」を見ていると、ライプティヒのところに、 ファウストで有名になった酒場が紹介されている。 「ああそうだ、『ライプティチの酒場』の場面だった。M君が読んでいたら、ま た、恥をかくところだった。」と冷汗をかく。

若者が訪れる強制収容所跡

  ダッハウには、強制収容所跡がある。9日は、その見学からはじまる。入口には
監視塔、周囲は有刺鉄線。広い収容所の土地がそのまま残されている。管理棟が博
物館になって、ナチスの興亡、収容所の記録写真が展示されている。最初の展示で、
ドイツ周辺につくられていた大小の収容所の数の多さにびっくり。ダッハウは、ア
イシュビッツとともに大きい収容所であったことを知る。「8才未満はご遠慮下さ
い」とある。入場は無料。若いグループも年輩の人たちも次々に訪れるが、この日
は、我々以外に日本人の姿はない。数十棟もあった収容棟は、最前列だけを立て直
して展示しているが、あとは土台石がのこされているだけだ。土台石がならぶだけ
の広い面積を、収容所跡としてそのまま保存するところに、ドイツの戦争犯罪への
姿勢がうかがえる。
  ダッハウからヴッパタールへの途中で「ソーセージのおいしいニュルンベルグか
ワインのおいしいヴェルツブルグ泊」と計画書は来ていた。「ソーセージよりもワ
イン」ということもあるが、早くヴェッバタールに近づいた方が運転手(雅樹君)
も楽だろうと、ヴェルツブルグを選んだ。
 ニュルンベルグも歴史を振り返るとナチ発祥の地であり(今度はじめて知っ
た)、ナチの戦争犯罪を裁いたニュルンベルグ裁判の地でもある。捨てがたい気
持ちもあったが、限られた日程ではやむおえない。「ニュルンベルグ裁判」は、
いま「プライド」という映画がねじ曲げている「東京国際法廷」のナチ版である。

 余談になるがイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが呼びかけ、フランスの
サルトルが裁判長をつとめてアメリカのベトナムでの戦争犯罪を告発した「ベトナ
ム国際法廷」がモデルにしたのは「ニュルンベルグ裁判」である。「ベトナム法
廷」は、世界の知性が戦争犯罪の告発に動いた世界史上最大の「知性の共同行動」
といえるものだったと思っている。私には、「ベトナム国際法廷」を呼びかけたB
・ラッセルの呼びかけが何よりも印象に残っている。英語の文章が読めることがこ
れほどうれしかったことは、ほかにない。

エンゲルスが泣いている

エンゲルス博物館にて・光夫 最後の宿泊場所、ヴッパタールは、M君たちがすんでいる町である。Y子さ んと話をしていると、「家から駅までの間に、フリドリヒ・エンゲルスの家があ る」というではないか。ヴッパタールは、F・エンゲルスゆかりの地である。エ ンゲルスは、バルメンで生まれたと知られているが、そのバルメンは、その後の町 村合併でヴッパタールとなったのだ。M君のアトリエから3分歩くと、フリー ドリヒ・エンゲルス大通りにでる。通りをしばらくいくとエンゲルス通りと交差す るところに、エンゲルスの生家があり、エンゲルス博物館となっている。 朝の10時の会館時間をまちかねて、エンゲルス博物館をたずねた。10時を過 ぎているのに、鍵がかかっている。呼び鈴をおしたら、女性が対応してドアを開け てくれた。エンゲルス博物館は、2階のワンフロアだけだという説明を聞いて二階 にあがる。きわめて粗末な展示である。「イギリスにおける労働者階級の状態」が 漫画で示されたパネルがある。エンゲルスが若い頃から老年までの等身大の肖像が ある。マルクス・エンゲルス全集(MEGA)は、その一部がドイツ語版と中国語 版で小さいガラスケースにはいっているばかりだ。 訪問者のノートをみると、ドイツ語らしいものの間に漢字がまじっているから、 ときどき、中国からの訪問者があることがわかる。日本語の記帳はない。私は 「S光夫、1998、8、11。 エンゲルスは、日本でよく読まれています。最近、日本共産党の不破委員長の 『エンゲルスと資本論』という論文で、エンゲルスは、この分野でも単なる第二バ イオリンでなく、大きな役割を果たしていることが明らかにされました。」という ような意味の記帳をしておいた。 受付の女性に「Engels is respected in Japan.」と言ってみたが、「それは結 構ですね」という事務的な返事が返ってきたので、手持ちの岩波文庫の「ドイツ農 民戦争」を寄贈してもいいという気持ちもなえてエンゲルス博物館を辞したのであ った。 受付に置いている印刷物の内容がよくわからないので、とろうかどうか迷ってい ると、その女性は、親切にもとって渡してくれたのだが、M君の家に帰ってチェ ックしてみると、市内で開かれる音楽会の案内など、エンゲルスとは無縁なものば かりだった。M君にきくと、ヴッパタール市が博物館を運営しているのだろう という。事務的に扱われてはエンゲルスが泣いている。

多様な国際的民主運動を老後の仕事に………これは冗談

 最後の夜、M君のアトリエ兼宿舎でY子さんの手料理で語り合った。「ドイツ には日本人クラブはないのか」と聞いてみた。「あるにはあるが、ある企業のきも いりだ」という。「ドイツには赤旗支局があるだろう。支局がなぜそういう役割を 果たさないのか?」とぶっかけてみた。Y子さんは、「赤旗支局にいた人?が日本 に帰ってから書いた記事を送ってくれたが見あたらない」と言っていた。これで、 赤旗支局の記者は幅広く活動して頂いていることを知ってうれしかった。 その時、今日の旅行で買い入れた白ワインが底をつき、赤ワインがでてきた。 「ドイツで赤ワインとは?」とけげんに思っていると、「イタリアの友人が60リ ットルの瓶で送ってきたのを、ありあわせの瓶につめたのだ」という。「産直」と ういやつだ。すぐにアイデアが浮かんだ。わが家は、長男の嫁はインドネシアから 来ている。甥っこは、7年間もドイツに住んでいる。私たち夫婦も姉夫婦も数年た てば定年退職になる。この有利な立場を利用して、物品と民主主義運動の「産直」 をできないものだろうか。そのために、夏はドイツ、冬はインドネシアに産直のた めの買い出し旅行をすることにしたらどうだろうか。それは、民主運動にも大いに 役立つのではないか。マルクスをささえていやな商売に励んだエンゲルスにならっ てといえば、エンゲルスは怒るだろうか。                      1998年8月20日                      8月25日、一部訂正