雑賀の実験室

さいかの精神の遍歴から




         
         
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デジタルから生まれたヒューマンライン 高村光太郎の戦争協力への反省 海南・日東紡闘争と和教組とわたし
河上肇と私  鶴見俊輔さんと「現代日本の思想」
梅原猛と瀬戸内寂聴

デジタルラインから生まれたヒューマンラインのトライアングル

 


  最近、ひまさえあればインターネットの自分のホームページの手入れをしている。
  今年の4月から、和教組がホームページを開くというので検討委員になり、自分で簡単なホームペ
ージをつくってみた。薄っぺらな説明書を一冊買ってきた。他人のホームページを自分のパソコンに
とりこみ、手探りで作り替えると、簡単にホームページはできる。(ここらは、分からない人には分
からないのでこれ以上はかかない。)
  幸いなことに、発信するデーターはどっさりある。「学習新聞」に載せてもらったもの、書きため
てどこにも発表していない文章もある。全教がだした決議や見解をパソコン通信で取り出したものが
ある。民研「月報」の編集長・吉川先生の了解を得て、「月報」掲載記事をいれる「民研の部屋」も
つくった。故岩尾靖弘先生の遺稿「スタンダールの赤と黒について」というものまで、僕のフロッピ
ーに入っているので入れさせてもらった。アイドル女優の写真を引き回してきたら、すこし潤いもで
てきた。
  時々、知り合いの先生からメールが入ってくる。「教育関係のホームページをネットサーフィンし
ていたら、先生のホームページに出会いました。」など。
  数ヶ月前、「日本大学でフランス唯物論の研究をしている石川です。」というメールが飛び込んで
きた。
 「私はこのごろ今の哲学(といっても大学でやられている「講談哲学」ということですが)多くの
場合そして残念ながらマルクス主義哲学も含めて次第に哲学では無いのではないかという気がしてき
ています.………………かつてディドロは「哲学を民衆のものとすることを急がなければならない」
と言いました.それから200年以上たちますが,そのことの重要性は21世紀人々が真に自分の力
で自分の人生を切り開かなければならない時代に向けてますます大きくなっているように思います.
 勝手なことを書きました.雑賀さんのホームページを見て,そうした力を感じましたので書かせて
いただきました.」
  まことに恐縮の至りである。早速、お返事した。なんとその先生は、ゼミナールで関西勤労協の中
田進さんの本をテキストにして、生活に密着した哲学を追究しておられる。太田堯先生の講演をホー
ムページに紹介したら、「そのテープを送ってほしい」といわれるのでお送りした。
  ひょんなことから、民間企業を退職してスケッチと読書の生活を楽しんでおられるN氏とも知り合
いになった。N氏と石川先生を引き合わせた。お二人から毎日のようにメールがくる。
 最近、お二人に「ヒューマンラインのトライアングル」という表題のメールを送った。太田堯先生
は「子育てには、マネーラインではなく生きた人間のライフラインこそ必要だ」とおっしゃった。パ
ソコン・インターネットというデジタルラインから、ヒューマンラインができたことが大変うれしか
ったのである。



         

高村光太郎の戦争協力への反省

 

                            一
  私は、高村光太郎という詩人についてよく知らない。詩人であるとともに彫刻家であるというこ
とぐらいは知っている。高村光雲という有名な彫刻家が父親なのだが、それを光太郎の彫刻家名か
と思っていたこともあった程度だ。智恵子という女性を彼女が狂気になって死ぬまで愛しつづけた
ということなら誰でも知っている。戦争中、戦争協力したということもうろ覚えで聞いていた。
  この詩人の「道程」という代表的な詩だけは覚えている。中学校の卒業式での先生がつくってく
れた「答辞」に入っていたからだ。
    僕の前に道はない
    僕の後ろに道はできる
    自然よ、父よ                                                         
    僕を一人立ちにさせた広大な父よ
    ………………
  高村光太郎とはこの程度のおつきあいの僕が、「日本文学全集」(筑摩書房)の第15巻「北原
白秋・高村光太郎・宮沢賢治集」をとりだした。NHK芸術劇場で「光る時間(とき)」というの
を観ていたら、戦時中、高村光太郎の詩を朗唱して気持ちをたかめる若者が登場したからである。
「先生が勧めてくれた宮沢賢治のアメニモマケズよりも、この詩の方がいい」というせりふもあっ
た。
  あの「道程」の光太郎が、どいう経緯で戦争協力のみちを転がったのだろうか。
                              二
  僕が持っている「日本文学全集」では、一巻に3人の詩人を集録しているから、光太郎の作品が
そう多く収録されているわけではない。「目次」は、「道程」、「道程」以後、「典型」の三項目
になっている。戦争協力の詩を捜すが見つからない。「解説」(人と文学・野村四郎)には、「昭
和16年の太平洋戦争勃発とともに『天皇あやうし』と叫んで、まっしぐらに、その斜面を駆け下
りていったのである。」とある。それなら、その代表作は収録してほしいものだと思った。「自薦
集」でなく、第三者が編集する文学全集は、その作家の全人生を編集すべきではないだろうか。
  ページをくっているうちに、思いがけない書き込みが見つかった。「道程」の中の「秋の祈」と
いう詩に<三上満が教研準備会(1989,11,24)あいさつに引用>とある。どういう意味
で引用したのかは、思い出せない。これは余談。
  戦争協力の詩が見つからなかったが、戦争協力反省の「暗愚小伝」を読んだ。ここに光太郎の精
神史が綴られている。おもしろいと思ったのが、私自身が、色濃く皇国史観に毒されてきたという
告白を、渡辺治氏の天皇制論の書評にかいたことに関わっている。
                              三
  大きな大段落があるが、小段落は次のようになる。
土下座
  帝国憲法発布の日、幼い光太郎がだれかにおぶわれて、上野で天皇の馬車と騎兵隊を迎える列に
 あり、土下座した体験がかたられる。
ちょんまげ
  禁廷さま(天皇)が日本の総元締めで、その禁廷さまがいうからちょんまげを切るんだというお
 じいさん。
郡司大尉
  郡司大尉の遭難の話を、担任の先生は泣きながら話した。「身を捧げる」ということの崇高な意
 味を。
日清戦争
御前彫刻
建艦費
楠公銅像
  父・光太郎がつくりかけの楠公像を天皇がみたいという………
彫刻一途
  「私と話すつもりできた啄木も
    彫刻一途のお坊っちゃんの世間見ずに
    すっかりあきらめて帰っていった。」
パリ
親不孝
デカダン
美に生きる                                               
  「一人の女性のあいに清められ
    私はやっと自己を得た………」
おそろしい空虚
  智恵子の死による空虚である。
協力会員
  「結局私は委員になった。
    一旦まはりはじめると
    歯車全部はいやでも動く。
    ……………………
    霊廟のような議事堂と書いた詩は
    赤く消されて新聞社からかへってきた。」
真珠湾の日
  「遠い昔が今となった。
  天皇あやうし。
    ただこの一語が
    私の一切を決定した。」
ロマン・ロラン
    フランスにいた光太郎は、ロマン・ロラン友の会にもでている。
    「それは人間の愛と尊重と
      魂の自由と高さとを学ぶ
      友だち同志の集まりだった」
暗愚
  末場の酒屋で酒を飲み、「日本は勝てますの」ときかれて「勝つさ」と答えて、電柱にぶ
 つかりながら帰る日                                    
終戦
報告(智恵子に)
  「日本はすっかりかわりました。
    あなたの身ぶるいする程いやがっていた
    あの傍若無人のがさつな階級が
    とにかく存在しないことになりました」
山林

                                四
  ぼくは、一九三〇年代に良心的に生きた知識人が好きで、「君たちはどう生きるか」の吉野
源三郎や「歴史の審判ほど公正で快活なものはない」と喝破した羽仁五郎、宮本顕治・百合子
の「12年の手紙」など読み返すが、戦争協力した知識人の反省も学ぶべきものをもっている
と痛感したのだった。

 


         

海南・日東紡闘争と和教組とわたし

「人権侵害の会社には、卒業生は送れない」
   ………海南・日東紡闘争と和教組とわたし

 海南市のいまはジャスコ、ココなどという新商店街になっている一帯、ここに日東紡績海南工
場があった。私が高校生だった一九六一年、女工さん達のサークル活動への弾圧があり、いわゆ
る日東紡闘争がたたかわれた。
  私は、海南高校どんぐり会(部落研)に所属する高校生だった。社会問題・人権問題に目を開
いたばかりのころ、「海南新聞」の紙面に毎日とりあげられた記事を、自分でつくったスクラッ
プブックにはりつけた。その貴重な資料を高校の部室に置いていたのでは紛失すると怖れて、自
宅に持ち帰ったものが、私の手許にある。それを元にしてつくった年表がある。一部を抜き出し
てみよう。
一九五八年ごろ    二人の労働者、人生手帳「みどりの会」へ
一九六〇年三月    会社は「みどりの会」へ圧迫(一人ひとり呼んでやめさす)
一九六一年四月    ナロード合唱団できる
          七月    日東紡からナロードへ参加し始める
          十月    会社は「青年学級」つくる
          十一月  ナロードに参加のメンバーに、配転、呼び出し、自宅訪問、
                  「ハハビョウキ」の電報、「父入院」の速達など
          十二月  「みなさんに訴えます」のビラ配布。
                  退職強要などつづく。
                  地区労が支援。職安が調査。前中県会議員が質問。
                  和教組全国へ訴え。民青同盟声明発表。
                  共闘会議結成。市民報告大会(海南駅前)
                  社会・革新クラブ(県会)が調査団(前中・松本・中谷)
一九六二年三月    地裁へ訴え
          七月    和解
  海南駅前広場で開かれた女工さんたちをはげます市民報告集会。高校生の私は自転車にのってで
かけた。集会に参加するのでなくて、横から見ていたのである。司会者が「次は、共産党の岸裏さ
ん」と紹介すると、ガタガタと下駄の足音高く岸裏氏が走り出てきて挨拶に立ったのを今でも覚え
ている。集会の最後に歌われた「おれたちゃ若者」の歌がなんと力強かったことか。
 ♪♪ おれたちゃ若者、元気を出そう。幸せつくる力、それが若者。オイ、どうしたい。それがな
んだ。そうだ、前をみよう。そうすりゃ、道は近い。ころんでおきる。♪♪
  そんなこともあって青年時代の一九七〇年頃、「日東紡闘争の話を聞く座談会」というのを開い
た。参加者は、岩尾靖弘さん(故人・当時和教組海草支部書記長)と奥さんの富子さん、中山豊さ
ん(現県議会議員、当時の海南地区労議長)、板東旦舒さん(当時海南市職書記長)、岸裏俊二さ
ん(当時日本共産党市会議員)、当時の女工さんだった三人の女性などである。
 *「当時」とは、「一九六一年当時」のこと
 日東紡績は、海南市における中心的企業だった。日東紡績では、戦後すぐ女工さんがストライキ
をしたという歴史があり、それを私たちは第一次日東紡闘争と呼んでいる。この記録も、海南堂書
店のご主人・田中正美さんらからの聞き取りをまとめたものも、わたしの手許にはある。だから、
一九六〇年代の闘争は、第二次日東紡闘争である。どちらの記録も、自分でガリ切りして「橋」
(海南海草部落問題研究会機関誌)にのせている。
  さて一九六〇年頃、日東紡績の女工さん達は、北山村、本宮町など遠隔の地からあつまってきて
いた。その女工さん達が、会社がすすめる生け花など花嫁修業だけではあきたらず、当時の若者に
読まれていた「人生手帳」という雑誌をよみ「みどりの会」にはいった。そこから、海南の歌声サ
ークル「ナロード合唱団」にも参加。その先進層が、民主青年同盟とであう。
  当時の様子が、座談会では次のように語られている。
  「不満は、門限がはやいこと。ごはんは外米で蒸気でたく。おかずは一品。布おる機械を六〇台。
とめそこねたら一〇〇本の糸がとまる。不良の反物をつくると呼び出される。ご飯を食べるのがす
ごく早くて二・三分。虫、カタツムリがはいっていたこともある。みそ汁は大きなカマでたいてバ
ケツで汲む。長靴でふんだところにおいたバケツで……。月給を見せ合うことはしない。仲間より
十円でもよけいに欲しい。当時、九百人ぐらいいた。」
  女子青年達の自覚のたかまりをおそれた会社側は、北山村などから親をよびだすなどして、娘達
をつれて帰らそうとするのである。岩尾靖弘さんは、郷里の親の説得に北山村にまで出向いたとい
う。自家用車などなかった時代のことだ。
  たたかう女子青年たちをはげますために海南地区労はたちあがった。和教組は「中学校卒業生を
日東紡海南工場へは送らない」(一二月二二日、海南日々新聞による)と声明する。しかし、企業
内の組合は、会社と一体である。
  こうした中、たたかった女子青年たちは、最後は地裁の斡旋で和解するのだが、「和解に応じる
かどうか、本心を言わせようとおもって、どぶろくをのませにいったこともあったね」というひと
ことに当時の苦悩がしのばれたものである。それを支えたのは、地区労の労働者、教職員、和歌山
からも応援に行った青年・学生たち、それに岩尾夫妻や教育会館に住み込んでいた和教組海草支部
書記の西川のおばちゃんなどであった。
  座談会のおわりごろ、日東紡闘争のころから歌声にかかわっていた岡宏先生(故人・のち和同教
会長)が、そのころ海南ではじめた歌声サークルの女性たちをつれて入ってきた。座談会の後半を
聞いて、女性の一人が言った。「私たち、あたらしいサークルの名前をどうしようかと迷っていた
んです。いま岡先生と相談したんだけど『なろうど』の名前を受け継ごうとおもうの」と。
  「日東紡闘争の話を聞く会」の座談会は、「たたかってよかった」という女性たち言葉と岩尾富
子さんの「それにいいダンナさんを見つけたしね」という言葉で結ばれている。ちなみにその女性
たちは、日本共産党の役員や県会議員の奥さん、和教組支部の書記として奮闘しておられる。
  和歌山の百年のひとこまを私の青春のひとこまと重ねあわせて、そのひとこまをつくられた仲間
と先輩を偲びながら書かせていただいた。


         


河上肇と私

「学習新聞」第一一一号を読ませていただいた。私の私的な、父・紀光についての雑文に三頁も割い
ていただいた関係もある。その部分は、妻に音読させて、六年生になる下の息子に聞かせた。妻は、
「あんたの書いた文にしては、めずらしく良くできている。」とほめてくれた。
  ところで私は、自分の文章を読むとともに、河合先生の送別会や京都への学習の旅の記事にも目を
走らせた。そこに、河上肇についての島さんの力作がである。
こんな深みのある文をかける島さんというのは、どんな人なのだろうかと思いつつ、最後まで読んだ。
私は、難波さんの書いたものを読んでいないので、島さんがお書きになったものについて論評しよう
がない。
  それはさておき、河上肇への我が思いを書きたいのである。私が河上肇にふれたのは、高校三年生
の時であった。「どんぐり」という海南高校部落研のメンバーであった私は、天皇崇拝の小島渡校長
にかみつく跳ね上がり生徒であった。その私に、どんぐり顧問のS先生は、「雑賀、はねんなよ」
(いま、ある和教組幹部の先輩が、同じ助言をしてくれる。あれあれ、私は、四〇年間、成長してい
ないのか。陰の声……そうではない、人間はラセン状に発展するのだ)
  その先生が貸してくれた本は、ぼろぼろの「第二貧乏物語」である。小泉信三などを相手に「どこ
からでもかかってこい」と論陣を張っていたのが印象的であった。その中に、山宣(山本宣治)の葬
儀の場面があったという記憶がある。
 「君の遺体は、君が熱愛せし深紅の赤旗につつまれ……というところで『弁士・中止』にあった。
そのあと、私がいいたかったのは……。」という文章である。ところが、その後、その部分は「自叙
伝」の文章であることがわかり、人間の記憶の曖昧さに認識を新たにした思い出がある。(あるいは
逆かも知れない。私は、いま、四月二二日、午後十一時ちょうど、日本酒のグラス片手にパソコンを
打っているから、細部には責任を持てない。)
  河上肇となると、私も黙っていられない。高校三年生で、河上肇におあいした私は、それから三年
後、京都大学河上祭実行委員長になっていた。その年の大学祭のテーマは「噛むときには言葉を考え
るな」という訳の分からないものであった。(大学自治会を握ぎっていたのはトロツキスト)私たち
民主的学生を中心にした学生は、テーマで大論争をした。そして、まとめたテーマは、「未来をつく
る私たちの学問」。
  「河上祭」のために、さまざまな河上先生ゆかりの皆さんにおあいし、カンパを頂にまわった。松
本清張のお宅に、「ぜひ記念講演を」とお願いに行ったが、「ぼくはそのころアラブに行ってるんだ。」
と断わられた。それで帰ろうと思ったら、相棒の友人が、「では、カンパを」と切り出したら、5000
円出してくれた。京都から東京まで三〇〇〇円で行けた頃だったから、うれしかったのを覚えている。
  大阪では、大塚有章さんにお目にかかった。河上肇の親戚であり、警察に河上を売った人物である。
しかし、河上は、『自分のために大塚は警察に通報してくれた』という意味のことを自叙伝に書いて
いたと思う。後に毛沢東盲従分子になった人であるが、戦後の一時期、和歌山県にいたらしい。
  そんなつきあいの河上肇であるから、島さんの力作を興味深く読んだ訳である


         

鶴見俊輔さんと「現代日本の思想」

 

 昨年読んだ文章で一番印象にのこった文を挙げろといわれれば、躊躇せずに、赤旗に掲載された鶴見
俊輔さんの短い文章をあげる。
  「私は、日本共産党から批判され、その批判があたっていないと思っているときも、選挙では、日本
共産党に投票してきました」
  手元に原文がないので、不正確かもしれないが、おおよそそういう趣旨が含まれた文だった。私だっ
たら、ある政党から批判され、その批判が納得できないものだったら、げんくそ悪くてその政党に投票
しないだろう。でも、意見がちがっても、政治情勢を客観的に見れば、日本共産党が少しでも伸びるこ
とが日本の政治にはいいことだから、「日本共産党に投票した」と鶴見さんはおっしゃるのである。こ
こに民主主義者の奥深さを見た思いがした。
  鶴見さんはなくなった久野収さんと共著で「現代日本の思想」(岩波新書)をかいておられる。読ん
でいない人でも、この中で、日本共産党を「かわらぬ座標・北斗七星」と呼び、「この党の誠実さに学
びたい」とかいていることだけは知っているかもしれない。どこに誰が書いているかをしらなくても、
「そんな言葉をどこかで聞いたな」という方は多かろう。偉そうには言えない。私も、その本を通して
読んだのは数年前のことだ。
  鶴見さんたちは、そこで「日本の唯物論」という章をたて、「北斗七星」というのは、その章の結び
にでてくる。けれどもその「日本の唯物論」で紹介されるのは、徳田球一に代表される主観主義である。
「革命的情勢だ」といってアジりまくる。しかし、あとから振り返ってみると、革命的情勢でもなんでも
ない。それを「あてずっぽうにでもアジりまくったほうが、いいじゃないか」と平然として言う徳田球一
が紹介される。
 「日本の唯物論」と章だてするからには、戦前の唯物論研究会の戸坂潤など紹介して欲しいと思うが、
鶴見さんたちの「あとがき」では、戸坂潤は、この本では取り上げられなかった啓蒙思想か何かの潮流に
分類されている。
  もうひとつ、「プラグマティズム」という章立てがある。鶴見さんたちは、自分の思想を分類すれば、
「プラグマティズム」に属していると考えておられる。かつて、上田耕一郎氏が「日本型プラグマティズ
ム」とよび「プラグマティズム変質の限界」という見事な「肯定的批判」論文を書いたことがある
(「マルクス主義と現代イデオロギー」所収)。
ところで、この本(「現代日本の思想」)のなかで、鶴見さんが「プラグマティズム」として紹介している
のは、「やまびこ学校」に代表される「生活綴り方運動」なのである。たしかに鶴見さんが中心になった
「思想の科学」というのは、大人の生活綴り方であろう。
しかし徳田球一の主観主義よりも「生活綴り方」の方が、はるかに唯物論的だとおもうが、どうだろうか。
  ここらで、もう一度、鶴見さんの思想と科学的社会主義の立場の一致点と違いを整理しなおしたらどうだ
ろうか。鶴見さんが「批判されても投票はしました」とまで言われたいま、その批判のなかで今日的に見て
も正しかったことと、不当な批判だったこととを整理することこそが、「誠実さに学びたい」といわれたも
のの誠実の証になると思うが、どうだろうか。


あす党創立記念日/完全に脱帽 戦争反対つらぬいた党/評論家 鶴見俊輔さん
2001.07.14 「赤旗」日刊紙 03頁 総合 (全839字) 
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 私は日本共産党と同じ一九二二年の生まれで、私の方が二十日早いんです。いとこに戦前のプロレタリア
演劇運動で活躍した佐野碩(せき)がいましたから、彼を通じて小さいときから共産党はいいものだという
印象を持っていました。
 戦前の日本共産党はものすごくよくたたかった。完全な脱帽です。私自身はそれだけ見事に生きなかった
という悔恨があるだけに、完全な脱帽。だから、戦前の共産党のことを「北斗七星」と書きました。
 戦後はいろいろありましたが、五十六年間、選挙ごとに共産党に投票してきました。共産党から批判され
てそれが不当だと思っても、別の党に入れるということはなかった。
 私の信条は「反・反共」なんです。それは変わりません。反共に固まることがファシズムの極意であり、
ファシズムにいくとすればそこからです。
 小泉首相の人気は、森前首相とセットだと思いますよ。森さんはこの次何を言うか予想もつかなかったで
しょう。まるで狂ったコミックダンスでした。その森、小泉のリレーで爆発的な人気が出た。
 小泉首相が「改革」を何もしていないとは私は思いません。しかし、これから何をするか、これはあぶな
いですよ。彼はあの戦争について、しっかりした批判を持っていないんだ。だから九条の重さがわかっていない。
 日本の国家は、長い間続けた戦争のことを、戦後、まっすぐに考える道をとらないできているんです。この
ままいくと、日本は過去の戦争の問題をいいかげんにしたままアメリカにすり寄って、アメリカの世界支配の
片棒を担ぐ方向に行くでしょう。
 この七十九年、日本共産党は日本を戦争に向けて引っ張ったことはありません。その過去の努力を忘れるこ
とはできません。今のさまざまの政党のなかで偉大なものと思います。
 その道を全うしてほしい。それが同い年の私の期待です。(談) 

つるみ・しゅんすけ 一九二二年生まれ。十五歳でアメリカに留学し、日米開戦後に交換船で帰国。戦後は
『思想の科学』を中心におう盛な評論活動を展開。長く京都に住む。


                     
         



         

梅原猛と瀬戸内寂聴

「9条の会」の関係で、お寺や神社をまわることになりました。
その関係で、梅原猛さんにものを読むようになりました。「9条の会」のパンフレットの梅原
さんの文も、味わいがあります。
 私が持っていて読んだのは、「空海の思想」(講談社学術文庫)です。10年前に「無名の
会」という憲法を守る会をつくって、高野山のえらいお坊さんにお会いしに行くために手にした
のです。
 このたび、黒江の漆器組合関係者とお話していて、「仏のこころ、母のこころ」という本を貸
していただきました。
 気に入った部分を紹介しても、このくらいなら「著作権」をいわれることもないでしょう。



菩薩になった寂聴さん

 今、仏教のことをいちばん一所懸命、日本の人に説いているのは、瀬戸内寂聴さんですね。
寂聴さんは私と義兄弟の間柄にあるんです。寂聴さん、故遠藤周作氏とともに義兄弟の盃を
交わした。瀬戸内さんが長姉、遠藤氏が長兄、私が末弟というわけです。それでよく人から
「義兄弟というのはどういうことか」と尋ねられるのですが、「それは男女の関係にならな
い親友という意味だ」と答えることにしています。この三人に共通していることは宗教にひ
じょうに強い関心をもっていることです。遠藤さんはもともとキリスト教徒ですが、晩年、
亡くなる前には仏教徒に近くなっていたんじゃないか。キリスト教のような怖い神様はかな
わん、仏教のような優しい神さんがいいと思われていたような気がします。
 寂聴さんは、もともと仏教に関心があったわけではないのです。彼女はずっと愛欲の海で
悶え苦しんできました。それでなんとかして愛欲を断ちたいと思って苦しんでいるときに、
偶然、仏教と出会ったという。そして、仏教の勉強をして、修行を積んで剃髪し得度した。
最近では、ますます仏教が身についてきたように思います。寂聴さんは仏教の究極の精神で
ある自利利他行をまさに実践されています。つまり、菩薩行をやっているんです。一方で、
尼になって以降『髪』など、鮮烈なエロティシズムを発散する小説を書いていますが、それ
はむしろ、厳しい禁欲がそのような小説を書かせているといえるのではないでしょうか。
そうして今、彼女はさまざまな煩悩を超えて、ほとんど菩薩の領域に達していると思う。
 寂聴さんは京都で寂庵を開いて説法をしながら、困っている人たちの話を聞いて親身になっ
てその人たちの世話をしたり、あるいは環境問題についてもいろいろ発言されたりしています。
また、岩手県浄法寺町の天台寺の住職を引き受けて、私財を投じて寺を復興させ、そこでまた
大勢の人々を前に説法をしています。そういう行為は、まさに菩薩行としかいいようがありま
せん。天台寺でやる月一回の法話には、多いときは一万人の人が集まるといいます。
一九八七年でしたか、寂聴さんが天台寺の住職になったとき、私は次のような歌を祝電で贈り
ました。

  瀬戸内の光に会いて古寺の仏輝く見るが楽しさ

 今、まさに天台寺の仏様たちは、寂聴さんのおかげでピカピカ輝いている
のです。
 菩薩というのは仏さんの一歩手前の段階ですから、寂聴さんはかなり仏に近づいていると思
われます。まして大乗仏教の教えでは、愛欲の強い人間ほど菩薩になれるというわけですから。
私はまだ菩薩の一歩手前ですから、とても寂聴さんには及びませんが。


 近代化によって失われたもの

 日本が近代国家になったのは、明治維新によってです。明治維新は二百六十年続いた江戸幕
府を倒して、新しい国家をつくりました。近代的な国家をつくるには、封建的な幕藩体制を倒
すことがどうしても必要であり、その第一歩が明治維新であった。ここから文明開化の時代が
始まったのです。幕末の心ある人たちは、日本がこのままでいたら外国の植民地になつてしま
うという強い危機感をもっていました。早く国の体制を変えて、西欧の文化を取り入れなけれ
ばならない、そして、西欧諸国の圧力をはね返すことができる強くて豊かな国家をつくらなけ
ればならない、と考えました。したがって、富国強兵が明治以降の日本の政策の中心になった
のです。
 このような政策を実現するために国学者たちの意見を取り入れて、廃仏毀釈と神仏分離が行
われた。すなわち仏教を廃し、お釈迦さんを捨てた。そして、今まで仲良くしていた日本の神
と仏を分けてしまった。それが明治政府の政策です。その結果、お寺や仏像がたくさん破壊さ
れ、今だつたら国宝級の仏像も多く焼かれてしまったといいます。また、昔から天皇になれな
い皇子の多くは坊さんになったのですが、そういう皇族の子弟が住職を務めるお寺を門跡寺院
といいます。京都の青蓮院や大原三千院がそうですね。この廃仏毀釈の運動の中で、僧籍にあ
った皇子たちは還俗させられ、つまり世俗の人に戻され、その多くは軍人になりました。僧侶
が軍人に変身するなどという、はなはだおかしなことが行われた。それ以来、天皇家は仏教と
絶縁したわけです。
 廃仏毀釈によって仏教が排斥されたわけですが、同時に日本古来の神道も否定されたのです。
そして、天皇の祖先と天皇自身を崇拝することのみが神道とされた。日本にはいろんな神を祀
っている神社がありますが、天皇の祖先を祀っているのは伊勢神宮です。伊勢神宮には外宮と
内宮があって、古くから外宮が信仰の中心になつていましたが、明治以降、天皇家の祖先であ
る天照大神を祀っている内宮が信仰の中心になりました。また、東京には明治神宮がつくられ、
明治天皇という神を祀りました。天皇が神様になったわけです。
 明治以前、日本で教育の中心となったのは寺子屋と塾でした。寺子屋では坊さんが先生とし
て、とくに初等教育では仏教を教えていました。そのうえで読み、書き、そろばんという実用
の勉強をさせた。このように日本では寺子屋教育がかなり浸透していたので、十八世紀におい
て世界の国々と比べて日本の知的水準ははなはだ高く、識字率は七〇パーセントを超えていた
といわれます。また、庶民は寺子屋で仏教を学び、仏教の徳を身につけていたのです。武士は
塾で儒教を学び、儒教は厳しい道徳を説きますから、その徳を身につけていた。
 ところが、明治になって教育の場においても廃仏敦釈が行われた。つまり教育の場から仏教
の徳が失われたのです。それに代わって修身の教育が行われた。そして教育勅語というものが
つくられました。教育勅語に盛られた考え方の中心は、簡単にいうと、天皇は神の子孫であり、
日本はその神の子孫が統治してきた立派な国だから、日本の臣民は天皇を尊敬して、いったん
戦争が起これば自分の身を犠牲にして、命を捨ててでも日本を守れということです。この教育
勅語の内容には、それまで日本に根強くあった仏教の思想はほとんど取り入れられていないし、
また古来からの神道思想も取り入れられていません。また、儒教の思想にしても、主に「忠」
の思想が取り入れられているだけです。
 この教育勅語によって戟前のわれわれは、天皇を神として敬い、いったん戦争が起これば命
を投げ出すということを、最高の道徳として教えられてきたのです。そしてその道徳にいっさ
いの道徳が従属させられてきた。また、天皇と天皇の祖先以外の神様を否定して、すべての神
様を天皇と天皇の祖先に従属させたのです。こういう精神教育が明治以降、昭和二十(一九四
五)年の敗戦まで続けられました。
 また一方、福沢諭吉の啓蒙主義が明治以降の日本に大きな影響を与えているのです。福沢諭
吉という人は宗教にあまり関心がなかったようで、日本が近代化すれば独立自尊の人間ができ
ると主張した。しかし、それはまちがっていたのではないか。日本が近代化することによって、
はたして独立自尊の人間が増えただろうか。私はむしろ減ったのではないかと思っています。
それも著しく減った。福沢諭吉をはじめ、ざっとあげただけでも、夏目淑石、新渡戸稲造、森
鴎外、幸田露伴といった独立自尊の人はその後、日本にはあまり出ていない。今の作家にして
も漱石や鴎外と比べてみると、何か精神の高さが少し劣るような気がします。それは作家だけ
ではない。日本人そのものの精神性が衰えたのです。


         


 


         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



         



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