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2004年12月01日 | 【 3.月刊『お前だえよ!』 】 |
2003年11月号 バンザイ!ホークス優勝~博多へ行っても浪速のホークス
今日は9月30日。実に気分がいい。・・というのも僕の大好きな福岡ダイエーホークスがパリーグ優勝が決まったからである。
今年でファン歴25年という筋金入りのファンの僕は、小学4年の時に友達のお父さんに大阪球場へ南海ホークスの試合を観に連れて行ってもらったのが始まり。南海はすでに黄金期も過ぎ、万年Bクラスのお荷物球団。さらに今ほどパリーグもメジャーじゃないためお客さんも少ない。この初試合も1500人ぐらいやったかな~。しかしこの少ない観客の中、汗を流し一心不乱にボールを追う大人達がとても格好よく思えた。
そして何よりも楽しかったのが応援団のヤジ。相手チームのみならず応援チームも平気でヤジるのである。
それが、けなすセリフが面白い。球場がガラガラだからそれがすごく声とおり、相手チームのエラーを誘うシーンもチラホラ。それが大阪らしく、大人の世界を覗くみたいでいっきに南海のとりこになってたのである。
小学校行く時でも、他の友達は巨人や阪神の帽子をかぶっているのに、一人だけ南海の緑の帽子をかぶり、バカにされた事もあった。しかし悔しくなかった。「あの球場の感動はお前らみたいな田舎者のはわかるかい!」と自分も田舎者と省みず思っていたから。
ホークスへの思いは落語家になっても益々加速して行った。師匠・文枝(当時、小文枝)に入門したのが昭和62年。それから間もなく、南海がホークスの身売りを発表。さよなら試合に駆けつけたかったが、悲しいかな落語家は入門してから三年間の修行期間があり、自由な行動が少ない。当日は勿論球場に行くことが出来ず、師匠の着物をたたみながらボーとしてましたわ。
翌年、ホークスは大阪を離れ本拠地を福岡に移し、福岡ダイエーホークスと生まれ変わった。当時、親会社ダイエーは正にイケイケ!貧乏球団から一瞬に金持ち球団になった。南海を愛した僕にとっては寂しさは確かにあったが、ホークスを大事に育ててもらえると思うと気持ちも福岡へと自然に移った。
身売りしたその年に近鉄が大阪球場を主催ゲームとしてダイエーと戦うという知らせ。「ホークスが大阪球場に帰ってくる!」胸を躍らせていたが、僕はまだ修行期間の身、あきらめかけている時に師匠からその試合を観に行こう言う。飛んで喜んだが悲劇はすぐやって来た。球場に着くまで知らなかったが、ナント師匠は近鉄ファンだった!当たり前のように近鉄ファンの居る一塁側へと進もうとした途端、僕は破門覚悟で申し出た。「すいません!僕ダイエーファンなんです。師匠と一緒には座れません!」必死の訴えに圧倒させたのか「好きにしたらええがな~」と師匠。別々に座ることを許された。、、僕にとったらこの前まで我が家だった一塁側に、「なんでお邪魔します。いうて敵の中で居てなあかんねん。これ程の屈辱はない」と思ったとっさの行動だった。この日は、いつも以上に僕はヤジにも熱が入った。
1999年、ホークスは福岡へ移っての初優勝を成し遂げた。福岡市民とホークスが一つになった瞬間、僕は始めて大阪球場へ行った友達の家でTVを見ながら涙した。
その翌年も優勝。Aクラスが当たり前になった現在、強くて嬉しい気持ちと裏腹に寂しくも思う。福岡に移っても万年Bクラスだった頃、藤井寺球場などに足を運んでは負けてるホークスを見ながら落語をやってもやってもお客さんにウケない自分を重ねてみているみたいだった。試合をみながら本気で悔しがり、精一杯声援を送ってた。本当に身近で、ほっとけないそれがホークスだった。それが今では常勝ホークス。今の自分は常勝かい?
ひとつ考えさせられた今回の優勝だった。
Posted by sisomaru at 2004年12月01日 18:53